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第五話・舞
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たすきで腕をまくり裾をたくし上げると、入念に準備運動をしておく。
最後に手首足首をほぐすようにばたばた振ると、「さて」と意気込んで川に入る。
水はどこまでも冷たく、ニケの足首をさらさらと流れていく。
(できれば大物を獲りたいな)
姉は泳ぎも魚とりの腕前も見事の一言だったが、教えるのが強烈に下手だった。何度か真面目に沈められたものである。もちろん姉に悪意がなかったことは理解している。
川底で光る鱗。
「せいやぁ!」
見つけた川魚の横っ腹を殴りつけ、宙へと放り投げる。それはまるで熊が鮭を取っている姿と重なる手法であった。
水から放り出された鱗がきらきらと青色に太陽の光を反射し――べとっと岸に落下する。
びちびち跳ねる魚が四尾になった頃、フリーが戻ってきた。
「遅いぞ。迷子か?」
「味噌がどこにあるか分からなかったんだよ~。探しまくったよ。聞いてから行けばよかった」
「宿を荒らしてないだろうな?」
「ぎくっ! え、えっと……多分?」
しどろもどろに目を逸らすフリーにため息しか出ない。まあ、これは味噌の場所を教えておかなかった自分が悪いだろう。
「そう思うならお尻をつねるのやめてもらえません?」
「おっと」
無意識に手が動いていたようだ。
尻を摩るフリーを尻目に、大きなお椀に味噌を入れ、大量の砂糖を投入する。
「す、すごく甘そうだね……」
顔を引きつらせるフリーにそのお椀と、ごますりの棒を渡す。
「ほれ。これで味噌と砂糖を混ぜ合わせろ」
「え? はい」
ねちょねちょという音を聞きながら、ニケはさっき獲った魚の内臓を取り除いていく。
「それはなんていう魚?」
覗き込んでくるフリーに惜しいなと思う。この魚は水からあげたときは美しい青色をしているのだ。それを見せてやればさぞはしゃいだだろうに……
(って! なんで僕がこやつに気を遣ってやらにゃならんのだ!)
自分自身に内心ツッコミを入れ、すっかりくすんだ色に変色した魚を見下ろす。
「これはアオムツ。鯉の仲間さ」
「コイ? 恋?」
「ん? 鯉を見たことないか? 一部の地域や種族間では「神の使い」とも呼ばれ神聖視されているんだぞ」
手を止めずに、真剣な顔で隣にしゃがんでくる。
「すぐに川に戻した方がいいんじゃないか? 神様の使いなんだろ? 食っていいのか?」
「もう捌いたわ。それに僕らが信仰している神ではないから気にすんな」
そういうものなのだろうか。
口をへの字にしているとニケが手元を覗いてきた。
「そのくらいでいい。ではそれを……あっ!」
大声をあげたニケにギョッとする。
「や、やっちまった……。失敗した」
「え? どうしたんだ。ニケ」
ニケはすっと石造りのかまどを指差す。さっき造ったやつだ。
「食材を乗せてから火をつけなきゃならんのに、先に火を点けちった」
下から火であぶられ続けている石は乾いており、水を垂らすと一瞬で蒸発させそうだ。
「駄目なのか?」
「石が熱くなりすぎている。あれでは乗せた食材があっという間に焦げてしまう。はあ~」
がっくしと項垂れる。見ると力なく尻尾も垂れ下がっていた。
たまにしかしない調理法とはいえ、よりによってこやつ(フリー)の前でやらかしてしまうなんて。
しかもかっこつけた時に限っての失敗。これは、精神的に来る。
フリーは呆れているか嗤っているかだろう。様子を見ようとちらりと目を開けると、お椀が差し出されていた。
「へ?」
「じゃあ別の石に変えればいいだろう。向こうにまだあったから持ってくるよ」
「え?」
呆然としている間にフリーは駆けていく。
確かに彼の言う通りなので、お椀を持ったままうろうろしていると、白髪が戻ってきた。
「ひぃひぃ。重い! でもこれ、さっきの石より平らだし、いいと思うぞ」
ずんっと地面に置くと、腰をそらす。
「んあ~。腰にくる。で、問題はどうやって上の石を取り換えるかだな」
熱せられた石を触ろうものなら、火傷どころでは済まないだろう。手の皮膚とお別れしなくてないけない。
頭をひねっていると、ニケが引きずるように流木を拾ってきた。己の背丈と同じほどの長さのそれを両手で持ち、片足を上げ、一本足打法の構えを取る。
「に、ニケ?」
「はあっ!」
流木バットを石目掛けて振るい、上に乗っかっている石だけをきれいに吹っ飛ばした。カキーンという幻聴が聞こえた気がする。石は少し離れたところに、どすんと落ちて転がった。
高速の振り。
口をあんぐり開けたまま固まる。
「ふむ。よし」
ストレス発散出来たようなさわやかな顔つきで、砂糖と混ぜた味噌を石の表面に塗りたくっていく。
「え。味噌を塗ってどうするの? 石食べないよね?」
「アホ言ってないで、捌いた魚と野菜をこっち持ってこい」
「あ、はい」
言われた通りにすると、石にカタカナの「ロ」の字が描かれていた。味噌で。
「この味噌の中に野菜や魚を並べてくれ」
「ふむ?」
よくわからないが考えてもしょうがない。持ってきた人参や空芋を魚の横に置いていく。
並べ終えると、これまたひょいとニケが石を炎の上に被せる。
瞬く間に炎の舌が一瞬で具材を包み込んだ。特に、砂糖を取り込んだ味噌はみるみる焦げ付いていく。
「おおっ。すごい火力だな。離れていても熱が……。あの、味噌が焦げてるように見えるけど、い、いいの?」
「これで味噌の味が魚や野菜に移るんだよ……。まったく。いちいち動揺しおって。どんと構えていろ。どんと。気障りだからその辺で踊っていろ」
「う……。そ、そうだな。ニケは落ち着いているよな。見習わなくちゃ」
こういう素直なところは気に入っている。のだが、何を思ったのかフリーは本当に踊りだした。
「え……」
ぽかんとしながら白い人族を見つめる。
どれほどそうしていたのか、石のかまどからいい香りが漂ってきた。ニケの鼻がひくひくと動く。
「おっと。火を消さねば」
お椀に川の水を汲んで、かまどの火の根元に水をかける。ジュッと消えた火を見て、ニケは呆然とする。
――え? もうこんなに時間が経っていたのか?
食材に火が通るまで、川を眺めてぼーっとして暇を潰すのが常だったというのに。
一瞬で過ぎ去った時間を探すように、ニケは顔を上げる。
踊り終えて満足したのか、フリーが焼けた魚を見てそわそわと浮き立っている。
けっして、速いわけでも激しい動きでもなかった。
それなのに、見入ってしまった。
こんな、残念さを詰めて煮込んだような奴の踊りだ。さぞ滑稽だろう。鼻で笑ってやろうとさえ思っていたのに。全身を使った動きは水面を流れる笹船のように静かで――
そこまで考え、ニケは自分の顔をぶん殴った。すごい音が鳴り、「ほがあっ! どうしたの?」と悲鳴が聞こえた気がしたが、構っている余裕はなかった。
(み、認めない! 認めないぞ! この僕が! こんなあんぽんたんの舞を、口を開けて見ていたなんてっ)
頭を抱えたまま悶絶するニケの周りで、おろおろするしかなかった。
川周辺をなんとも食欲をそそる味噌の香りが広がるが、風に流され香りが留まることはない。
「……」
「……」
ぼうっと虚空を見つめるニケの晴れた頬に、濡らしてきた手ぬぐいをそっと当てる。あれからニケは受け入れられない現実を突きつけられたように、一言も発しなくなり口だけ動かし晩飯を齧っている。
フリーも初めて食べる料理を口にするが、ニケが気になり味が入ってこない。
二人並んで丸太椅子に腰かけ、聞こえるのは水が流れる音だけ。
山の中というのは存外、静かなものなのだ。どこかで虫の音が響く程度だ。
汗ばむ暑さはなりを潜め、涼やかな風が黒と白の髪を撫でていく。こんな静かな時間はずいぶん久しぶりで、フリーは存分に堪能する。
(そういえば)
肌寒くないかと言いかけ、ニケは平気なのだと思い出す。
「……の、か?」
「え?」
ニケの口が動いた気がする。耳を近づけると、ぼそぼそと声が聞こえた。
「舞が、得意なのか……?」
ニケが再起動してくれたのかと嬉しくなり、笑みを作る。
「得意って言うか、なにをやっても否定されて駄目出しされたけど、舞だけはなにも言われたことはないから。単純に好き、かな」
なんか悲しいことを聞いた気がするが、ニケは「へ、へえ」と震える声で頷く。
「な、なかなか、良かった……ぞ?」
言った瞬間、負けを認めた気がしてニケは激しく落ち込んだ。屈辱だった。こんな奴隷に、一つでも劣っているところがあるなんて。それを認めざるを得ないなんて。悔しくて仕方がない。
だからニケは気づかなかった。
フリーがどんな顔で自分を見ていたか、なんて。
砂糖味噌の染み込んだ空芋はほくほく甘くて香ばしくて、焦げた部分がちょっぴり苦かった。人参は甘み強くなり、魚はご飯を渇望させる味だった。当分忘れられそうにない。この思い出だけで白米三杯は食える。
それらは竹串で刺して、ぱくぱく食べた。ニケは箸を使っていた。
味噌がべったりついた石は川の水で洗い、かまどは崩して石はその辺に投げておく。
「組み立てたままにしといたら駄目なの? 毎回作るの、面倒臭くない?」
「この山は僕の物ってわけじゃない。なるべく元の形に戻すべきだ」
って、姉ちゃんが言っていた。
「ええ? じゃあまた重い石運んだり重い味噌や、野菜持ってきたりしなくちゃいけないってことぉ?」
「おう。文句あんのか?」
ドスの利いた声を出すと、フリーはブンブンと首を振る。
「ありません。喜んで働かせていただきます」
あの高速スイングを見た後では、到底逆らう気になれない。
汚れたお椀や食器は川の水で洗い、風呂敷に詰める。そしてフリーの背に括り付ける。
「あ、俺が持つんですね?」
「嫌なんか?」
「喜んで持ちます」
フリーの手を掴んで、宿への坂道を上っていく。
出来の悪い家畜でも率いている気分だった。
まだまだ明るい夕方の空を見上げ、ニケは耳と鼻をすんすんと動かす。
「こりゃ、明日は雨だな」
「え?」
「雨のにおいがする」
つられてフリーも空を仰ぐ。青く晴れた夕方の空には、薄い雲がいくつか浮かんでいる。
「味噌のにおいしかしないけど」
ポツリと呟くと、ニケはジトッとした目つきで振り返った。
「お前さん……。天気読み出来ないのか?」
「天気、読み? なんだそれ」
フリーにため息をつこうとして堪える。
「なるほど。人族は空気も読めないし天気も読めない、と。理解した。覚えておく」
「待って? 何の話?」
背後からの慌てた声を聞き流す。そんなことより明日、洗濯物が干せないことの方が重要だ。
二人とも味噌を焼いたにおいが髪や着物に染みついているはずだ。いや、絶対染みついている。
ならば風呂は当然として、洗濯もしなければならない。鼻が利く種族なので、余計そう思う。というか匂いは絶対に取るという、使命感じみた炎が燃え上がっていた。
「一番風呂は譲ってやるから、帰ったら真っ先に入れよ」
「え? 一緒に入ろうよ」
何気なく言ったであろう言葉に、ニケはやれやれと首を振る。
「慎みを持て、お嬢さん。異種族とはいえ男と風呂に入るなんて。嘆かわしいぞ」
「すぅー」
フリーは大きく息を吸った。
「だから男だってばああぁ!」
フリーの渾身の魂の叫び――ただし相手の心には届かない――が、凍光山(とうこうざん)に響いた。
♦
「ふぅ……」
フリーはひとり、ヒノキ風呂に浸かっていた。
大声を出したせいでニケに肘打ちをもらったが、あれは果たして俺だけが悪いのだろうか。ニケ的には鳩尾に肘を入れたかったのだが、身長的に届かず、太ももに打ち込む羽目になった。
明日絶対にあざになっていると、遠い目をする。
ここまでされて、ニケに文句の一つも言わないのは、追い出されたら生きていけないのと、彼の方が強いということもあるが……
(……)
ちゃぷっとお湯から出し、自分の手のひらに視線を落とす。
小さい手が、ずっとフリーの指を掴んでいたせいだろうか。
ふとした何気ない拍子に、ニケは酷く寂しそうな顔をする。迷子になった子どものように。
しっかりしているが見た目はどこからどう見ても幼児だ。子ども嫌いなら別だが、大抵の大人は子どもが泣きそうな顔をしていたら、なんとかしなくてはと思ってしまう。
「はあ」
多分、その姉とやらが帰ってくれば解決するのだろう。でも、自分にはどうしてやることも出来ない。
ため息をもらし、浴槽にもたれる。溺れた記憶が鮮明なため、右手はがっちりと縁を掴む。
充満する白い湯気。ヒノキ独特の香りは胸いっぱいに吸い込む。
「ふう」
束ねた髪の先から水滴が落ちる。束ねるのに使った紐も姉のものらしい。
『引き千切ったり噛み千切ったりしたら、許さんぞ』
ニケの中で自分はいったいどんな生物になっているのだろうか。
白と黄色の糸が編み込まれた美しい紐で、恐らくフリー程度の腕力で引っ張ってもビクともしないだろう。
ちなみに、風呂に入る時は髪を束ねるというのは、ニケから教わった。
そのまま入ろうとしたら注意されたのだ。
「あー。気持ちいいー」
働いた後だからか、余計にそう思う。
両足を投げ出す。少し熱めのお湯に肌がチリチリする。
開け放たれた窓から夜風が忍び込んでくる。火照った頬に心地よい。
幸せすぎてこれは夢なんじゃないかと、嫌な気持ちが沸き上がる。目が覚めたら、自分はまた冷たい檻の中にいて、これはそんな自分が見ている哀しい夢なのでは――と。
「まあ、別にいいか」
夢だったのなら、現実にすればいいだけの話だ。お風呂という幸せを知ったからには、自分はもう今までのように檻の中で大人しくは出来ないだろう。何が何でも出ようとするはずだ。
「あ」
そういえば、「名と共に種族を答えるのが礼儀」と言われたから名乗ろうとしたのに、裏拳もらった理由をまだ聞かされていなかった。
(風呂から出たら聞いてみるか……)
考えたいことは色々あったが、今は頭空っぽにして、口元まで浸かるのだった。
ブクブク。
「ばびぼ~(サイコー)」
初日は布団を敷くと気絶するように眠ってしまった。初めての布団だったのに勿体ないことをした。
「今日は布団の上でごろごろ転がってやるぞ。こんな柔らかいものの上で眠れるなんて、夢みたいだ」
下手な鼻歌を歌いながら布団を畳の上に敷いていく。
風呂上がりの彼は寝間着の浴衣姿。それはいいが、髪は乾かさずに束ねたままである。
おかげで、フリーの歩いた廊下に点々と染みが出来てしまっている。
宿の主に見つかればまた小言をもらうだろうが、そもそも風呂初心者の彼は分からないことだらけだ。
しかも初回はニケがいつの間にか髪を拭いてくれたため、フリーは「寝たら髪も乾く」と、勘違いしていた。
このまま眠れば浴衣も布団も枕もびしょ濡れになるだろう。
だが、注意してくれるヒトが風呂から出てくる前に、布団は敷き終わってしまった。
「とうっ」
両手を伸ばし、黄色い花柄の布団に飛び込む。
ぼふっと身体が沈み込んだ。
大の字になると、それはもう雲に寝そべっているような素晴らしい心地。視界に広がる天井が、しだいにぼやけてくる。
「……すやぁ」
そのため、今宵もフリーは布団を堪能する間もなく……即寝してしまった。
翌朝。ニケに叱られたのは言うまでもない。
最後に手首足首をほぐすようにばたばた振ると、「さて」と意気込んで川に入る。
水はどこまでも冷たく、ニケの足首をさらさらと流れていく。
(できれば大物を獲りたいな)
姉は泳ぎも魚とりの腕前も見事の一言だったが、教えるのが強烈に下手だった。何度か真面目に沈められたものである。もちろん姉に悪意がなかったことは理解している。
川底で光る鱗。
「せいやぁ!」
見つけた川魚の横っ腹を殴りつけ、宙へと放り投げる。それはまるで熊が鮭を取っている姿と重なる手法であった。
水から放り出された鱗がきらきらと青色に太陽の光を反射し――べとっと岸に落下する。
びちびち跳ねる魚が四尾になった頃、フリーが戻ってきた。
「遅いぞ。迷子か?」
「味噌がどこにあるか分からなかったんだよ~。探しまくったよ。聞いてから行けばよかった」
「宿を荒らしてないだろうな?」
「ぎくっ! え、えっと……多分?」
しどろもどろに目を逸らすフリーにため息しか出ない。まあ、これは味噌の場所を教えておかなかった自分が悪いだろう。
「そう思うならお尻をつねるのやめてもらえません?」
「おっと」
無意識に手が動いていたようだ。
尻を摩るフリーを尻目に、大きなお椀に味噌を入れ、大量の砂糖を投入する。
「す、すごく甘そうだね……」
顔を引きつらせるフリーにそのお椀と、ごますりの棒を渡す。
「ほれ。これで味噌と砂糖を混ぜ合わせろ」
「え? はい」
ねちょねちょという音を聞きながら、ニケはさっき獲った魚の内臓を取り除いていく。
「それはなんていう魚?」
覗き込んでくるフリーに惜しいなと思う。この魚は水からあげたときは美しい青色をしているのだ。それを見せてやればさぞはしゃいだだろうに……
(って! なんで僕がこやつに気を遣ってやらにゃならんのだ!)
自分自身に内心ツッコミを入れ、すっかりくすんだ色に変色した魚を見下ろす。
「これはアオムツ。鯉の仲間さ」
「コイ? 恋?」
「ん? 鯉を見たことないか? 一部の地域や種族間では「神の使い」とも呼ばれ神聖視されているんだぞ」
手を止めずに、真剣な顔で隣にしゃがんでくる。
「すぐに川に戻した方がいいんじゃないか? 神様の使いなんだろ? 食っていいのか?」
「もう捌いたわ。それに僕らが信仰している神ではないから気にすんな」
そういうものなのだろうか。
口をへの字にしているとニケが手元を覗いてきた。
「そのくらいでいい。ではそれを……あっ!」
大声をあげたニケにギョッとする。
「や、やっちまった……。失敗した」
「え? どうしたんだ。ニケ」
ニケはすっと石造りのかまどを指差す。さっき造ったやつだ。
「食材を乗せてから火をつけなきゃならんのに、先に火を点けちった」
下から火であぶられ続けている石は乾いており、水を垂らすと一瞬で蒸発させそうだ。
「駄目なのか?」
「石が熱くなりすぎている。あれでは乗せた食材があっという間に焦げてしまう。はあ~」
がっくしと項垂れる。見ると力なく尻尾も垂れ下がっていた。
たまにしかしない調理法とはいえ、よりによってこやつ(フリー)の前でやらかしてしまうなんて。
しかもかっこつけた時に限っての失敗。これは、精神的に来る。
フリーは呆れているか嗤っているかだろう。様子を見ようとちらりと目を開けると、お椀が差し出されていた。
「へ?」
「じゃあ別の石に変えればいいだろう。向こうにまだあったから持ってくるよ」
「え?」
呆然としている間にフリーは駆けていく。
確かに彼の言う通りなので、お椀を持ったままうろうろしていると、白髪が戻ってきた。
「ひぃひぃ。重い! でもこれ、さっきの石より平らだし、いいと思うぞ」
ずんっと地面に置くと、腰をそらす。
「んあ~。腰にくる。で、問題はどうやって上の石を取り換えるかだな」
熱せられた石を触ろうものなら、火傷どころでは済まないだろう。手の皮膚とお別れしなくてないけない。
頭をひねっていると、ニケが引きずるように流木を拾ってきた。己の背丈と同じほどの長さのそれを両手で持ち、片足を上げ、一本足打法の構えを取る。
「に、ニケ?」
「はあっ!」
流木バットを石目掛けて振るい、上に乗っかっている石だけをきれいに吹っ飛ばした。カキーンという幻聴が聞こえた気がする。石は少し離れたところに、どすんと落ちて転がった。
高速の振り。
口をあんぐり開けたまま固まる。
「ふむ。よし」
ストレス発散出来たようなさわやかな顔つきで、砂糖と混ぜた味噌を石の表面に塗りたくっていく。
「え。味噌を塗ってどうするの? 石食べないよね?」
「アホ言ってないで、捌いた魚と野菜をこっち持ってこい」
「あ、はい」
言われた通りにすると、石にカタカナの「ロ」の字が描かれていた。味噌で。
「この味噌の中に野菜や魚を並べてくれ」
「ふむ?」
よくわからないが考えてもしょうがない。持ってきた人参や空芋を魚の横に置いていく。
並べ終えると、これまたひょいとニケが石を炎の上に被せる。
瞬く間に炎の舌が一瞬で具材を包み込んだ。特に、砂糖を取り込んだ味噌はみるみる焦げ付いていく。
「おおっ。すごい火力だな。離れていても熱が……。あの、味噌が焦げてるように見えるけど、い、いいの?」
「これで味噌の味が魚や野菜に移るんだよ……。まったく。いちいち動揺しおって。どんと構えていろ。どんと。気障りだからその辺で踊っていろ」
「う……。そ、そうだな。ニケは落ち着いているよな。見習わなくちゃ」
こういう素直なところは気に入っている。のだが、何を思ったのかフリーは本当に踊りだした。
「え……」
ぽかんとしながら白い人族を見つめる。
どれほどそうしていたのか、石のかまどからいい香りが漂ってきた。ニケの鼻がひくひくと動く。
「おっと。火を消さねば」
お椀に川の水を汲んで、かまどの火の根元に水をかける。ジュッと消えた火を見て、ニケは呆然とする。
――え? もうこんなに時間が経っていたのか?
食材に火が通るまで、川を眺めてぼーっとして暇を潰すのが常だったというのに。
一瞬で過ぎ去った時間を探すように、ニケは顔を上げる。
踊り終えて満足したのか、フリーが焼けた魚を見てそわそわと浮き立っている。
けっして、速いわけでも激しい動きでもなかった。
それなのに、見入ってしまった。
こんな、残念さを詰めて煮込んだような奴の踊りだ。さぞ滑稽だろう。鼻で笑ってやろうとさえ思っていたのに。全身を使った動きは水面を流れる笹船のように静かで――
そこまで考え、ニケは自分の顔をぶん殴った。すごい音が鳴り、「ほがあっ! どうしたの?」と悲鳴が聞こえた気がしたが、構っている余裕はなかった。
(み、認めない! 認めないぞ! この僕が! こんなあんぽんたんの舞を、口を開けて見ていたなんてっ)
頭を抱えたまま悶絶するニケの周りで、おろおろするしかなかった。
川周辺をなんとも食欲をそそる味噌の香りが広がるが、風に流され香りが留まることはない。
「……」
「……」
ぼうっと虚空を見つめるニケの晴れた頬に、濡らしてきた手ぬぐいをそっと当てる。あれからニケは受け入れられない現実を突きつけられたように、一言も発しなくなり口だけ動かし晩飯を齧っている。
フリーも初めて食べる料理を口にするが、ニケが気になり味が入ってこない。
二人並んで丸太椅子に腰かけ、聞こえるのは水が流れる音だけ。
山の中というのは存外、静かなものなのだ。どこかで虫の音が響く程度だ。
汗ばむ暑さはなりを潜め、涼やかな風が黒と白の髪を撫でていく。こんな静かな時間はずいぶん久しぶりで、フリーは存分に堪能する。
(そういえば)
肌寒くないかと言いかけ、ニケは平気なのだと思い出す。
「……の、か?」
「え?」
ニケの口が動いた気がする。耳を近づけると、ぼそぼそと声が聞こえた。
「舞が、得意なのか……?」
ニケが再起動してくれたのかと嬉しくなり、笑みを作る。
「得意って言うか、なにをやっても否定されて駄目出しされたけど、舞だけはなにも言われたことはないから。単純に好き、かな」
なんか悲しいことを聞いた気がするが、ニケは「へ、へえ」と震える声で頷く。
「な、なかなか、良かった……ぞ?」
言った瞬間、負けを認めた気がしてニケは激しく落ち込んだ。屈辱だった。こんな奴隷に、一つでも劣っているところがあるなんて。それを認めざるを得ないなんて。悔しくて仕方がない。
だからニケは気づかなかった。
フリーがどんな顔で自分を見ていたか、なんて。
砂糖味噌の染み込んだ空芋はほくほく甘くて香ばしくて、焦げた部分がちょっぴり苦かった。人参は甘み強くなり、魚はご飯を渇望させる味だった。当分忘れられそうにない。この思い出だけで白米三杯は食える。
それらは竹串で刺して、ぱくぱく食べた。ニケは箸を使っていた。
味噌がべったりついた石は川の水で洗い、かまどは崩して石はその辺に投げておく。
「組み立てたままにしといたら駄目なの? 毎回作るの、面倒臭くない?」
「この山は僕の物ってわけじゃない。なるべく元の形に戻すべきだ」
って、姉ちゃんが言っていた。
「ええ? じゃあまた重い石運んだり重い味噌や、野菜持ってきたりしなくちゃいけないってことぉ?」
「おう。文句あんのか?」
ドスの利いた声を出すと、フリーはブンブンと首を振る。
「ありません。喜んで働かせていただきます」
あの高速スイングを見た後では、到底逆らう気になれない。
汚れたお椀や食器は川の水で洗い、風呂敷に詰める。そしてフリーの背に括り付ける。
「あ、俺が持つんですね?」
「嫌なんか?」
「喜んで持ちます」
フリーの手を掴んで、宿への坂道を上っていく。
出来の悪い家畜でも率いている気分だった。
まだまだ明るい夕方の空を見上げ、ニケは耳と鼻をすんすんと動かす。
「こりゃ、明日は雨だな」
「え?」
「雨のにおいがする」
つられてフリーも空を仰ぐ。青く晴れた夕方の空には、薄い雲がいくつか浮かんでいる。
「味噌のにおいしかしないけど」
ポツリと呟くと、ニケはジトッとした目つきで振り返った。
「お前さん……。天気読み出来ないのか?」
「天気、読み? なんだそれ」
フリーにため息をつこうとして堪える。
「なるほど。人族は空気も読めないし天気も読めない、と。理解した。覚えておく」
「待って? 何の話?」
背後からの慌てた声を聞き流す。そんなことより明日、洗濯物が干せないことの方が重要だ。
二人とも味噌を焼いたにおいが髪や着物に染みついているはずだ。いや、絶対染みついている。
ならば風呂は当然として、洗濯もしなければならない。鼻が利く種族なので、余計そう思う。というか匂いは絶対に取るという、使命感じみた炎が燃え上がっていた。
「一番風呂は譲ってやるから、帰ったら真っ先に入れよ」
「え? 一緒に入ろうよ」
何気なく言ったであろう言葉に、ニケはやれやれと首を振る。
「慎みを持て、お嬢さん。異種族とはいえ男と風呂に入るなんて。嘆かわしいぞ」
「すぅー」
フリーは大きく息を吸った。
「だから男だってばああぁ!」
フリーの渾身の魂の叫び――ただし相手の心には届かない――が、凍光山(とうこうざん)に響いた。
♦
「ふぅ……」
フリーはひとり、ヒノキ風呂に浸かっていた。
大声を出したせいでニケに肘打ちをもらったが、あれは果たして俺だけが悪いのだろうか。ニケ的には鳩尾に肘を入れたかったのだが、身長的に届かず、太ももに打ち込む羽目になった。
明日絶対にあざになっていると、遠い目をする。
ここまでされて、ニケに文句の一つも言わないのは、追い出されたら生きていけないのと、彼の方が強いということもあるが……
(……)
ちゃぷっとお湯から出し、自分の手のひらに視線を落とす。
小さい手が、ずっとフリーの指を掴んでいたせいだろうか。
ふとした何気ない拍子に、ニケは酷く寂しそうな顔をする。迷子になった子どものように。
しっかりしているが見た目はどこからどう見ても幼児だ。子ども嫌いなら別だが、大抵の大人は子どもが泣きそうな顔をしていたら、なんとかしなくてはと思ってしまう。
「はあ」
多分、その姉とやらが帰ってくれば解決するのだろう。でも、自分にはどうしてやることも出来ない。
ため息をもらし、浴槽にもたれる。溺れた記憶が鮮明なため、右手はがっちりと縁を掴む。
充満する白い湯気。ヒノキ独特の香りは胸いっぱいに吸い込む。
「ふう」
束ねた髪の先から水滴が落ちる。束ねるのに使った紐も姉のものらしい。
『引き千切ったり噛み千切ったりしたら、許さんぞ』
ニケの中で自分はいったいどんな生物になっているのだろうか。
白と黄色の糸が編み込まれた美しい紐で、恐らくフリー程度の腕力で引っ張ってもビクともしないだろう。
ちなみに、風呂に入る時は髪を束ねるというのは、ニケから教わった。
そのまま入ろうとしたら注意されたのだ。
「あー。気持ちいいー」
働いた後だからか、余計にそう思う。
両足を投げ出す。少し熱めのお湯に肌がチリチリする。
開け放たれた窓から夜風が忍び込んでくる。火照った頬に心地よい。
幸せすぎてこれは夢なんじゃないかと、嫌な気持ちが沸き上がる。目が覚めたら、自分はまた冷たい檻の中にいて、これはそんな自分が見ている哀しい夢なのでは――と。
「まあ、別にいいか」
夢だったのなら、現実にすればいいだけの話だ。お風呂という幸せを知ったからには、自分はもう今までのように檻の中で大人しくは出来ないだろう。何が何でも出ようとするはずだ。
「あ」
そういえば、「名と共に種族を答えるのが礼儀」と言われたから名乗ろうとしたのに、裏拳もらった理由をまだ聞かされていなかった。
(風呂から出たら聞いてみるか……)
考えたいことは色々あったが、今は頭空っぽにして、口元まで浸かるのだった。
ブクブク。
「ばびぼ~(サイコー)」
初日は布団を敷くと気絶するように眠ってしまった。初めての布団だったのに勿体ないことをした。
「今日は布団の上でごろごろ転がってやるぞ。こんな柔らかいものの上で眠れるなんて、夢みたいだ」
下手な鼻歌を歌いながら布団を畳の上に敷いていく。
風呂上がりの彼は寝間着の浴衣姿。それはいいが、髪は乾かさずに束ねたままである。
おかげで、フリーの歩いた廊下に点々と染みが出来てしまっている。
宿の主に見つかればまた小言をもらうだろうが、そもそも風呂初心者の彼は分からないことだらけだ。
しかも初回はニケがいつの間にか髪を拭いてくれたため、フリーは「寝たら髪も乾く」と、勘違いしていた。
このまま眠れば浴衣も布団も枕もびしょ濡れになるだろう。
だが、注意してくれるヒトが風呂から出てくる前に、布団は敷き終わってしまった。
「とうっ」
両手を伸ばし、黄色い花柄の布団に飛び込む。
ぼふっと身体が沈み込んだ。
大の字になると、それはもう雲に寝そべっているような素晴らしい心地。視界に広がる天井が、しだいにぼやけてくる。
「……すやぁ」
そのため、今宵もフリーは布団を堪能する間もなく……即寝してしまった。
翌朝。ニケに叱られたのは言うまでもない。
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