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第二話・食事
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宿の主であるニケはかまどの前に立つと、炊き立てのご飯をよそっていく。
あの人族には馬車馬のように働いてもらう予定だが、燃料を入れなくては、生き物は動かない。
箱膳(はこぜん)に飯を乗せるとひとつは両手で持ち、もうひとつは頭の上に乗せて運んだ。
これでは戸を開けられないので声をかける。足で開けてもいいが、姉に叱られたのを思い出す。
「おおい。フリーちゃん。開けとくれ」
「はい」
すぐに障子戸を開けたフロリアこと、フリーはぎょっとした。
「言ってくれたら運ぶのに」
「風呂場で転んだ者に飯を運ばせるほど、僕の心臓は強くない」
ばっさり切り捨てるとフリーはなにも言い返せずに項垂れ、なんとも言えない顔で座布団の上で胡坐をかいた。
膳を前に置いてやると珍獣を見るような目をしたので、多分ろくなものを食ってこなかったんだろうなと推量する。
「かまどのおこげを握った握り飯に、漬物、味噌汁。んで、これが川魚の塩焼きだ」
一つずつ指を差して説明していく。
魚は好物なので、つい尻尾が揺れてしまう。そちらにフリーの金緑石(きんりょくせき)じみた目が、野良猫のごとき速度で動いたのを感じ、ぶわっと毛が逆立った。
「え?」
「ん?」
咄嗟に尾を隠してフリーを睨むも、自覚がないのか本人はきょとんとしている。
動くものを見ると目が追ってしまうのだろうか。猫妖精みたいだなと思いつつ、ささっと離れて二枚重ねた座布団に正座する。
向き合う形で座る二人。
使用人と飯を食うなど馬鹿馬鹿しいが、ニケもまだ朝食を食べていなかったし、人族がどんなふうに飯を食うのか興味もある。
――ひとりで食べても味気ないし、な。しょうがないから一緒に食べてやらんでもない。
心の中で言い訳を並べていると、正面の生き物が「待て」をされた犬のようにぼたぼたと涎を垂らしていた。吹き出すかと思った。
これはのんびりしていたら可哀そうだな。
笑いそうになるのを堪え、ニケは静かに手を合わせる。
「いただきます」
「い、いただきます」
食前に手を合わせるのは共通らしい。
お椀を手に取り、汁を一口飲みながら、フリーがどうするのか盗み見ることにする。
フリーはどれから食べようか迷いを見せ、やがて決まったのか焼き魚に手を伸ばした。
文字通り手で掴んで、頭からかじりつく。
――はいはいはい。なるほど。そこからね!
半ば予想していたニケは落ち着いてお椀を膳に戻し、ぱんぱんと手を叩く。
「まったく。僕より野性的(ワイルド)に飯を食うんじゃない。お前さん。箸の使い方を知らないのかい?」
「はし?」
魚の尾もきれいに口の中へ消えていく。えっと。骨は?
「この二本の棒のことだよ。見たこともないんか?」
「むしゃむしゃ……。誰かが使っているのは見たことあるよ?」
膝歩きでフリーの元へ行き、長身を押しのけて箱膳の引き出しを開ける。そこには黄色い花模様の箸が収納されていた。
「へぇー。きれいだな。こんなきれいなものを使っていいのか?」
「使い方は分かるか?」
試しに渡してやると、フリーは初めて箸を持った幼児のように箸を二本纏めて握った。
お手本のような握り箸に、目まいのする思いだった。
ニケはフリーの背後に回ると、箸を正しく持たせてやる。
「んもう。いいか? まず一本は鉛筆のように持つんだ。……そう。そして二本目は親指の付け根と薬指の側面で支えるんだ。そうそう。うまいぞ。ん? コレ。僕の顔をガン見してないで手元を見ろ」
ぺんっと白い毛の生えた頭を叩く。
「は、はい」
「よし。……で、動かすのは鉛筆のように持った上側一本だけだ。これを上下に動かしてみろ」
「ぐぎぎぎぎ……」
まるで箸が鉄の棒かのように歯を喰いしばっている。まあ、初めはこんなもんだろう。
自分の席に戻り、お手本を見せるようにゆっくり魚を食べていく。
「今日は手掴みで食べてもええわ。んなことだろうと握り飯にしておいたし。でも、寝る前や暇なときに、箸の練習をしておけよ? 箸も使えない従業員を、お客様の前に出せない」
「ふんっ。はあ! くそう。うまく動かない」
「うっさいわ。聞いとんのか」
「……へ?」
すでに息が上がっているフリーに、ため息をつきなくなるのをぐっと堪える。
「な、なんでこんな難しいものを使っているんだ? 修行?」
「違うわ。最初のハードルこそ高いかもしれんが、箸って慣れたらめちゃくちゃ便利なんだぞ?」
きりわける・はさむ・つまむ・すくう・はがす・さく・はがす・はこぶ・まきつける・まぜる・ほぐす。ざっとわけても、二本の棒でこれだけのことが出来る。
「あと、魚をよく食べるから。骨が取りやすいぞ」
「骨……?」
愕然とするフリーに構わず、小さな口に漬物を運ぶ。その際、犬歯がちらりと覗く。
そりゃ、箸を持てたばかりの奴が細かな魚の骨を取る想像なんてしたら、こういう顔になるわな。
一日二日で習得しろと言っているわけじゃないから、そんな顔をするな。
フリーは箸をそっと置いて、握り飯を頬張っていく。
「美味しい……。持ち方って重要なの? 握って刺して食べたらダメなの?」
「うむ。持ち方は重要だ。まず、食人作法が美しく見える」
ニケは人差し指を立てる。
「食人……?」
「人肉食べるって意味じゃないからそんな目でこっち見んな。で、その二は共に食事をする方を不快にさせてしまうんだ。間違った使い方をしているとな」
米粒を口周りにつけたまま、フリーはきょとんとする。
「一緒にご飯食べてくれるだけで嬉しいのに、そんなことで不快になる人がいるのか?」
「うっさい黙れ。その三・正しく使うことで、自分の子どもに引き継がれる」
細かい説明は省くが、和食の礼儀は「箸に始まり箸に終わる」と言われるように箸を使うことは、いや、正しく箸を使えるだけで自慢できるし、食べやすさや対人関係においても利点しかない。
まあ、箸歴ゼロ年の人にあまり細かく注意して、箸が嫌いになられても困る。ニケはこの辺で口を閉じた。
「それはそうとこのご飯、美味しいな! かりかりしていて、なんか、止まらないぞ」
「あ、そう。おこげが気に入ったようでなによりさ」
子どもがいないようなので、その三には反応しなかった。ニケもまだ子を持つ年齢ではない、というか子どもなので、その三はピンとこないでいる。
偉そうに言ってはいるが全部、姉からの受け売りを話しているだけだ。
それでも、ニケはどこか気分が良かった。
何故気分がいいのかは分からない。きっと魚がうまく焼けたからだろうと、勝手に納得しておいた。
♦
食事を終えたニケは、衣類箱である葛籠(つづら)のふたを開ける。
竹製の葛籠は軽く、通気性が良く渋柿と漆の効果で湿度を保ち、防虫と抗菌までしてくれる優れモノだ。
中身の着物を引っ張り出し、突っ立っているフリーに合わせてみる。
「ううん。姉ちゃんの着物だけど、お前さんには似合わねぇな。白髪用に選んだ色じゃないからしょうがないとはいえ。お前さん専用の着物も必要だな」
フリーは姉より身長があるからつんつるてんになると思うが、いつまでも寝間着でいるよりはいいだろう。
何枚も着物を引っ張り出しては散らかしていくニケに、少し驚いたようにフリーは口を開く。
「お姉さん、いるの?」
「ン? ああ。今はいないがな。ちなみにこれ姉ちゃんのだから。粗末に扱ったら尻、ひっぱたくぞ」
「えっと。女物、の着物……だよね? これ」
姉は黄色い花柄を好んで着ていた。
ニケは手を止めて眉をひそめる。
「ああん? 人が着ていたものに袖を通したくない、とか言うんじゃないだろうな?」
そんなぜいたくを言うものなら、さっき捨てた襤褸(ぼろ)を拾って着せてやるぞ。
にらみつけると、フリーはそうじゃないと言わんばかりに手を振った。
「ち、違う違う。こんなきれいな着物を貸してくれるだけで、俺は嬉しいよ! ただ、その……」
言いづらそうに視線をさ迷わせる。
「なんだ? 尻尾穴が開いているのが気になるんか? そんなもん、帯を巻いてしまえば隠れるようになっているぞ」
首を傾げるニケに、フリーは笑顔のまま口元を引きつらせて言った。
「俺、男なんだけど……」
ニケの私室を、静寂の静霊(せいれい)が横切った。
目を見開いて固まっているニケからすっと視線を外す。
秒針の張りが一周するほどそうしていただろうか、ニケはびしっと指差す。
「え? フロリアってどちらかというと女名やろ? だからお前さんは女だ」
決めつけられた。
「ちょっと待って! え? ど、どう見ても俺、男じゃん?」
自身の身体――胸や太もも――をぱんぱん叩いて抗議してくるが、異種族の性差など分からん。
これはニケがどうこうというのではなく、人間がその辺の犬や蝉を見てもオスかメスか判断できないのと同じである。
ぱっと見で分かるくらい、カブトムシくらい性差に差があり知名度があるならともかく、マイナーな生き物に「どう見ても~」とか言われても、「は?」以外の感想は出ないだろう。
腰まである白髪に金緑石の瞳。未踏雪を思わせる白い肌。すらりとした長身。顔立ちも端正なもので、同族から見ればフリーはさぞ人目を惹いただろう。
だが人間に「この牛さん、イケメンなんですよ~」と紹介しても真顔になるだけだ。美的感覚の違いなど責められるものではないし、異種族の美醜など分からなくて当然だ。
「何言ってんだこいつ」みたいな表情になるニケに、慌てて言い募る。このままだと完全に女認定されそうだ。
「この浴衣に着替えさせてくれた時、身体拭いてくれたんだろ? そ、そのとき、だ、男性器あっただろ? え? 見なかった?」
ニケは実にしれっと言う。
「見たけどキン〇マついてるメスの猿もいるし。お前さんもそれやろ?」
「ほがっ?」
変な声を上げて、フリーは膝から崩れ落ちる。なんか面白いなぁこやつ。
「これでええやろ。ほれ、着替えろ」
項垂れる白髪の上にぽいと着物を投げる。流石に着物の着方くらい知っているだろう……知っているよな?
「お前さん。着物の着方は分かるか?」
「着たこと……ないっす」
頭から布を被ったまま、立ち上がろうとしない。
ニケは「まったく」と呟き、がりがりと髪を掻いた。
「姉ちゃんの着替えを見ていたから、女性の着物の着せ方くらい分かるぞ。僕が着せてやろう、お嬢さん」
「だから男だってば!」
涙目で抗議するも、ニケの心には届かなかった。というか、関心が薄かった。異種族の性別など、お子様にとっては道端の雑草くらいどうでもいい。
ニケが選んだのは、緋色の着物。桃色や薄紫色の朝顔が咲いており、この季節に似合っている。常に雪に閉ざされていようと、今の季節は夏だ。
「髪が白いから、紅白で縁起が良さそうだぞ。うん!」
ふふんと胸を張るニケに、素直に礼を言った。
「うん。ありがとう」
目が死んだ魚のようであったが、礼を言ったのだから気に入ったのだろう。
涙を拭いながらフリーは訊いてくる。
「さらっと年下扱いされたけど、ぐしゅ、ニケの方が年下じゃないのか?」
「なに泣いてるねん。お前さんの年齢など知らん。ちなみに僕は八だ」
「えっ! そうなの? 随分しっかりしてるから、もうちょい上かと……!」
うるさそうに片耳を手で押さえつける。
「大声出すな、ど突き回すぞ。それと僕も男や、一応言っとく」
「えええっ!」
受け入れられない現実を連続で突きつけられたかのように叫ぶ。本当にうるさい。
そんなに年齢や性別にこだわるものなのか。人族って変わっとんな。
「それよりお前さんに与える部屋やけど。どうすっかな」
自分の部屋はそれほど広くない上に、いきなり得体のしれない生物と同じ屋根の下はともかく、同じ部屋はちょっと抵抗がある。
客室は――こやつは客じゃないしな。
父たちの部屋は物置と化しているし、残るは姉の部屋だけだが、勝手に部屋を貸していいものだろうか。
悩んでいると、フリーが片手を挙げた。
「軒下でも構わないよ?」
「よし。姉ちゃんの部屋貸したるわ。あまり物色するんじゃないぞ?」
自分の部屋を貸して、ニケが姉の部屋でという選択肢もあるが、いちいち物を取りに行くのが面倒だ。それに姉は困っている人をほっとけない性質だから、怒りはしないだろう。むしろよくやったと褒めてくれるかもしれない。
案内のために廊下を先導するニケの後ろを、ガン無視され目を点にしたフリーがついてくる。
とはいえ隣なので、すぐについた。
掃除以外で滅多に入らなくなった姉の部屋の障子戸を開ける。
日に焼けた調度品と、色褪せた畳。今は障子で閉ざされているが、丸窓を開ければ裏の畑が見える。部屋の隅にはきちんと畳まれた布団と小豆枕。
窓を開けて換気する。
「布団は好きに使ってくれ。ちゃんと干しているから問題ない。鏡と櫛は姉ちゃんのだから割ったり折ったり齧ったりするなよ? 障子も破かないでくれよ。壁にも穴開けないで。いいな?」
「そんな暴れたりしないよ?」
いーや。人族がどんな生き物なのかまだよく知らないので、言わせてもらう。
「でもいいの? お姉さんが帰ってきたら」
「そん時はお前さんを外に蹴りだすから問題ない」
「は、はい」
フリーはニケに向き直ると、ぺこりと頭を下げた。下げても頭は犬耳より上にあったが。
「では、この部屋を使わせてもらいます。ありがとう、ニケ」
「……」
やわらかくほほ笑むフリーに、口をへの字に曲げる。
フリーはどうしたと首を傾げた。
「ニケ?」
「ああいや。なんでもない」
伝承と違いすぎて心がもぞもぞする。本当に人族なのだろうかこのエノキモヤシ。
照れたように頬を掻いていると、突然フリーが震え出した。
隙間風に身を震わせるようなちょっとしたものではなく、残像が見えそうなほどの震えっぷりだ。おまけに顔色も悪く、額には汗を浮かべている。
身の危険を感じて、ニケは一歩下がった。
「ど、どうした?」
「うっ……」
フリーは腹部を手で押さえる。
「は、腹が……。ひ、久しぶりに、がっつり飯を食べた……から、かも」
ニケにまで聞こえるほど、ぐぎゅるるると腹が鳴った。あまり飯を与えられずサボりがちだった小腸大腸が大暴れしているのを感じ、額から滝のように汗が流れ伝う。
「あっ、駄目かも。も、漏らして良い?」
フリーの帯を掴んで叫ぶ。
「いいわけないだろ! 逆になんでいいと思った? 厠はこっちだ走れェ。姉ちゃんの着物汚したら干し柿にするぞ!」
「ほ、干し柿って、なに……?」
ばたばたと廊下を走り、厠に押し込め扉を閉めた。
客室の窓を開けて風を通していると、フリーが戻ってきた。二キロほど痩せた顔つきで、ふらふら歩いている。
「た、ただいま……」
「うわぁ」
素の声が出た。
こんなにしなびた生き物は初めて見る。
「顔色悪いぞ。今日はもういいから、部屋で休んでいろ」
「はひ……」
死にかけていたなど関係ない。初日から容赦なくこき使ってやるつもりだったが、こんな乾燥キノコみたいになっている奴が役に立つはずもない。
ため息をついて見送ったが、フリーはすぐに引き返してきた。
「あの……部屋の場所、どこだっけ?」
「こんな小さな宿で迷うな」
あの人族には馬車馬のように働いてもらう予定だが、燃料を入れなくては、生き物は動かない。
箱膳(はこぜん)に飯を乗せるとひとつは両手で持ち、もうひとつは頭の上に乗せて運んだ。
これでは戸を開けられないので声をかける。足で開けてもいいが、姉に叱られたのを思い出す。
「おおい。フリーちゃん。開けとくれ」
「はい」
すぐに障子戸を開けたフロリアこと、フリーはぎょっとした。
「言ってくれたら運ぶのに」
「風呂場で転んだ者に飯を運ばせるほど、僕の心臓は強くない」
ばっさり切り捨てるとフリーはなにも言い返せずに項垂れ、なんとも言えない顔で座布団の上で胡坐をかいた。
膳を前に置いてやると珍獣を見るような目をしたので、多分ろくなものを食ってこなかったんだろうなと推量する。
「かまどのおこげを握った握り飯に、漬物、味噌汁。んで、これが川魚の塩焼きだ」
一つずつ指を差して説明していく。
魚は好物なので、つい尻尾が揺れてしまう。そちらにフリーの金緑石(きんりょくせき)じみた目が、野良猫のごとき速度で動いたのを感じ、ぶわっと毛が逆立った。
「え?」
「ん?」
咄嗟に尾を隠してフリーを睨むも、自覚がないのか本人はきょとんとしている。
動くものを見ると目が追ってしまうのだろうか。猫妖精みたいだなと思いつつ、ささっと離れて二枚重ねた座布団に正座する。
向き合う形で座る二人。
使用人と飯を食うなど馬鹿馬鹿しいが、ニケもまだ朝食を食べていなかったし、人族がどんなふうに飯を食うのか興味もある。
――ひとりで食べても味気ないし、な。しょうがないから一緒に食べてやらんでもない。
心の中で言い訳を並べていると、正面の生き物が「待て」をされた犬のようにぼたぼたと涎を垂らしていた。吹き出すかと思った。
これはのんびりしていたら可哀そうだな。
笑いそうになるのを堪え、ニケは静かに手を合わせる。
「いただきます」
「い、いただきます」
食前に手を合わせるのは共通らしい。
お椀を手に取り、汁を一口飲みながら、フリーがどうするのか盗み見ることにする。
フリーはどれから食べようか迷いを見せ、やがて決まったのか焼き魚に手を伸ばした。
文字通り手で掴んで、頭からかじりつく。
――はいはいはい。なるほど。そこからね!
半ば予想していたニケは落ち着いてお椀を膳に戻し、ぱんぱんと手を叩く。
「まったく。僕より野性的(ワイルド)に飯を食うんじゃない。お前さん。箸の使い方を知らないのかい?」
「はし?」
魚の尾もきれいに口の中へ消えていく。えっと。骨は?
「この二本の棒のことだよ。見たこともないんか?」
「むしゃむしゃ……。誰かが使っているのは見たことあるよ?」
膝歩きでフリーの元へ行き、長身を押しのけて箱膳の引き出しを開ける。そこには黄色い花模様の箸が収納されていた。
「へぇー。きれいだな。こんなきれいなものを使っていいのか?」
「使い方は分かるか?」
試しに渡してやると、フリーは初めて箸を持った幼児のように箸を二本纏めて握った。
お手本のような握り箸に、目まいのする思いだった。
ニケはフリーの背後に回ると、箸を正しく持たせてやる。
「んもう。いいか? まず一本は鉛筆のように持つんだ。……そう。そして二本目は親指の付け根と薬指の側面で支えるんだ。そうそう。うまいぞ。ん? コレ。僕の顔をガン見してないで手元を見ろ」
ぺんっと白い毛の生えた頭を叩く。
「は、はい」
「よし。……で、動かすのは鉛筆のように持った上側一本だけだ。これを上下に動かしてみろ」
「ぐぎぎぎぎ……」
まるで箸が鉄の棒かのように歯を喰いしばっている。まあ、初めはこんなもんだろう。
自分の席に戻り、お手本を見せるようにゆっくり魚を食べていく。
「今日は手掴みで食べてもええわ。んなことだろうと握り飯にしておいたし。でも、寝る前や暇なときに、箸の練習をしておけよ? 箸も使えない従業員を、お客様の前に出せない」
「ふんっ。はあ! くそう。うまく動かない」
「うっさいわ。聞いとんのか」
「……へ?」
すでに息が上がっているフリーに、ため息をつきなくなるのをぐっと堪える。
「な、なんでこんな難しいものを使っているんだ? 修行?」
「違うわ。最初のハードルこそ高いかもしれんが、箸って慣れたらめちゃくちゃ便利なんだぞ?」
きりわける・はさむ・つまむ・すくう・はがす・さく・はがす・はこぶ・まきつける・まぜる・ほぐす。ざっとわけても、二本の棒でこれだけのことが出来る。
「あと、魚をよく食べるから。骨が取りやすいぞ」
「骨……?」
愕然とするフリーに構わず、小さな口に漬物を運ぶ。その際、犬歯がちらりと覗く。
そりゃ、箸を持てたばかりの奴が細かな魚の骨を取る想像なんてしたら、こういう顔になるわな。
一日二日で習得しろと言っているわけじゃないから、そんな顔をするな。
フリーは箸をそっと置いて、握り飯を頬張っていく。
「美味しい……。持ち方って重要なの? 握って刺して食べたらダメなの?」
「うむ。持ち方は重要だ。まず、食人作法が美しく見える」
ニケは人差し指を立てる。
「食人……?」
「人肉食べるって意味じゃないからそんな目でこっち見んな。で、その二は共に食事をする方を不快にさせてしまうんだ。間違った使い方をしているとな」
米粒を口周りにつけたまま、フリーはきょとんとする。
「一緒にご飯食べてくれるだけで嬉しいのに、そんなことで不快になる人がいるのか?」
「うっさい黙れ。その三・正しく使うことで、自分の子どもに引き継がれる」
細かい説明は省くが、和食の礼儀は「箸に始まり箸に終わる」と言われるように箸を使うことは、いや、正しく箸を使えるだけで自慢できるし、食べやすさや対人関係においても利点しかない。
まあ、箸歴ゼロ年の人にあまり細かく注意して、箸が嫌いになられても困る。ニケはこの辺で口を閉じた。
「それはそうとこのご飯、美味しいな! かりかりしていて、なんか、止まらないぞ」
「あ、そう。おこげが気に入ったようでなによりさ」
子どもがいないようなので、その三には反応しなかった。ニケもまだ子を持つ年齢ではない、というか子どもなので、その三はピンとこないでいる。
偉そうに言ってはいるが全部、姉からの受け売りを話しているだけだ。
それでも、ニケはどこか気分が良かった。
何故気分がいいのかは分からない。きっと魚がうまく焼けたからだろうと、勝手に納得しておいた。
♦
食事を終えたニケは、衣類箱である葛籠(つづら)のふたを開ける。
竹製の葛籠は軽く、通気性が良く渋柿と漆の効果で湿度を保ち、防虫と抗菌までしてくれる優れモノだ。
中身の着物を引っ張り出し、突っ立っているフリーに合わせてみる。
「ううん。姉ちゃんの着物だけど、お前さんには似合わねぇな。白髪用に選んだ色じゃないからしょうがないとはいえ。お前さん専用の着物も必要だな」
フリーは姉より身長があるからつんつるてんになると思うが、いつまでも寝間着でいるよりはいいだろう。
何枚も着物を引っ張り出しては散らかしていくニケに、少し驚いたようにフリーは口を開く。
「お姉さん、いるの?」
「ン? ああ。今はいないがな。ちなみにこれ姉ちゃんのだから。粗末に扱ったら尻、ひっぱたくぞ」
「えっと。女物、の着物……だよね? これ」
姉は黄色い花柄を好んで着ていた。
ニケは手を止めて眉をひそめる。
「ああん? 人が着ていたものに袖を通したくない、とか言うんじゃないだろうな?」
そんなぜいたくを言うものなら、さっき捨てた襤褸(ぼろ)を拾って着せてやるぞ。
にらみつけると、フリーはそうじゃないと言わんばかりに手を振った。
「ち、違う違う。こんなきれいな着物を貸してくれるだけで、俺は嬉しいよ! ただ、その……」
言いづらそうに視線をさ迷わせる。
「なんだ? 尻尾穴が開いているのが気になるんか? そんなもん、帯を巻いてしまえば隠れるようになっているぞ」
首を傾げるニケに、フリーは笑顔のまま口元を引きつらせて言った。
「俺、男なんだけど……」
ニケの私室を、静寂の静霊(せいれい)が横切った。
目を見開いて固まっているニケからすっと視線を外す。
秒針の張りが一周するほどそうしていただろうか、ニケはびしっと指差す。
「え? フロリアってどちらかというと女名やろ? だからお前さんは女だ」
決めつけられた。
「ちょっと待って! え? ど、どう見ても俺、男じゃん?」
自身の身体――胸や太もも――をぱんぱん叩いて抗議してくるが、異種族の性差など分からん。
これはニケがどうこうというのではなく、人間がその辺の犬や蝉を見てもオスかメスか判断できないのと同じである。
ぱっと見で分かるくらい、カブトムシくらい性差に差があり知名度があるならともかく、マイナーな生き物に「どう見ても~」とか言われても、「は?」以外の感想は出ないだろう。
腰まである白髪に金緑石の瞳。未踏雪を思わせる白い肌。すらりとした長身。顔立ちも端正なもので、同族から見ればフリーはさぞ人目を惹いただろう。
だが人間に「この牛さん、イケメンなんですよ~」と紹介しても真顔になるだけだ。美的感覚の違いなど責められるものではないし、異種族の美醜など分からなくて当然だ。
「何言ってんだこいつ」みたいな表情になるニケに、慌てて言い募る。このままだと完全に女認定されそうだ。
「この浴衣に着替えさせてくれた時、身体拭いてくれたんだろ? そ、そのとき、だ、男性器あっただろ? え? 見なかった?」
ニケは実にしれっと言う。
「見たけどキン〇マついてるメスの猿もいるし。お前さんもそれやろ?」
「ほがっ?」
変な声を上げて、フリーは膝から崩れ落ちる。なんか面白いなぁこやつ。
「これでええやろ。ほれ、着替えろ」
項垂れる白髪の上にぽいと着物を投げる。流石に着物の着方くらい知っているだろう……知っているよな?
「お前さん。着物の着方は分かるか?」
「着たこと……ないっす」
頭から布を被ったまま、立ち上がろうとしない。
ニケは「まったく」と呟き、がりがりと髪を掻いた。
「姉ちゃんの着替えを見ていたから、女性の着物の着せ方くらい分かるぞ。僕が着せてやろう、お嬢さん」
「だから男だってば!」
涙目で抗議するも、ニケの心には届かなかった。というか、関心が薄かった。異種族の性別など、お子様にとっては道端の雑草くらいどうでもいい。
ニケが選んだのは、緋色の着物。桃色や薄紫色の朝顔が咲いており、この季節に似合っている。常に雪に閉ざされていようと、今の季節は夏だ。
「髪が白いから、紅白で縁起が良さそうだぞ。うん!」
ふふんと胸を張るニケに、素直に礼を言った。
「うん。ありがとう」
目が死んだ魚のようであったが、礼を言ったのだから気に入ったのだろう。
涙を拭いながらフリーは訊いてくる。
「さらっと年下扱いされたけど、ぐしゅ、ニケの方が年下じゃないのか?」
「なに泣いてるねん。お前さんの年齢など知らん。ちなみに僕は八だ」
「えっ! そうなの? 随分しっかりしてるから、もうちょい上かと……!」
うるさそうに片耳を手で押さえつける。
「大声出すな、ど突き回すぞ。それと僕も男や、一応言っとく」
「えええっ!」
受け入れられない現実を連続で突きつけられたかのように叫ぶ。本当にうるさい。
そんなに年齢や性別にこだわるものなのか。人族って変わっとんな。
「それよりお前さんに与える部屋やけど。どうすっかな」
自分の部屋はそれほど広くない上に、いきなり得体のしれない生物と同じ屋根の下はともかく、同じ部屋はちょっと抵抗がある。
客室は――こやつは客じゃないしな。
父たちの部屋は物置と化しているし、残るは姉の部屋だけだが、勝手に部屋を貸していいものだろうか。
悩んでいると、フリーが片手を挙げた。
「軒下でも構わないよ?」
「よし。姉ちゃんの部屋貸したるわ。あまり物色するんじゃないぞ?」
自分の部屋を貸して、ニケが姉の部屋でという選択肢もあるが、いちいち物を取りに行くのが面倒だ。それに姉は困っている人をほっとけない性質だから、怒りはしないだろう。むしろよくやったと褒めてくれるかもしれない。
案内のために廊下を先導するニケの後ろを、ガン無視され目を点にしたフリーがついてくる。
とはいえ隣なので、すぐについた。
掃除以外で滅多に入らなくなった姉の部屋の障子戸を開ける。
日に焼けた調度品と、色褪せた畳。今は障子で閉ざされているが、丸窓を開ければ裏の畑が見える。部屋の隅にはきちんと畳まれた布団と小豆枕。
窓を開けて換気する。
「布団は好きに使ってくれ。ちゃんと干しているから問題ない。鏡と櫛は姉ちゃんのだから割ったり折ったり齧ったりするなよ? 障子も破かないでくれよ。壁にも穴開けないで。いいな?」
「そんな暴れたりしないよ?」
いーや。人族がどんな生き物なのかまだよく知らないので、言わせてもらう。
「でもいいの? お姉さんが帰ってきたら」
「そん時はお前さんを外に蹴りだすから問題ない」
「は、はい」
フリーはニケに向き直ると、ぺこりと頭を下げた。下げても頭は犬耳より上にあったが。
「では、この部屋を使わせてもらいます。ありがとう、ニケ」
「……」
やわらかくほほ笑むフリーに、口をへの字に曲げる。
フリーはどうしたと首を傾げた。
「ニケ?」
「ああいや。なんでもない」
伝承と違いすぎて心がもぞもぞする。本当に人族なのだろうかこのエノキモヤシ。
照れたように頬を掻いていると、突然フリーが震え出した。
隙間風に身を震わせるようなちょっとしたものではなく、残像が見えそうなほどの震えっぷりだ。おまけに顔色も悪く、額には汗を浮かべている。
身の危険を感じて、ニケは一歩下がった。
「ど、どうした?」
「うっ……」
フリーは腹部を手で押さえる。
「は、腹が……。ひ、久しぶりに、がっつり飯を食べた……から、かも」
ニケにまで聞こえるほど、ぐぎゅるるると腹が鳴った。あまり飯を与えられずサボりがちだった小腸大腸が大暴れしているのを感じ、額から滝のように汗が流れ伝う。
「あっ、駄目かも。も、漏らして良い?」
フリーの帯を掴んで叫ぶ。
「いいわけないだろ! 逆になんでいいと思った? 厠はこっちだ走れェ。姉ちゃんの着物汚したら干し柿にするぞ!」
「ほ、干し柿って、なに……?」
ばたばたと廊下を走り、厠に押し込め扉を閉めた。
客室の窓を開けて風を通していると、フリーが戻ってきた。二キロほど痩せた顔つきで、ふらふら歩いている。
「た、ただいま……」
「うわぁ」
素の声が出た。
こんなにしなびた生き物は初めて見る。
「顔色悪いぞ。今日はもういいから、部屋で休んでいろ」
「はひ……」
死にかけていたなど関係ない。初日から容赦なくこき使ってやるつもりだったが、こんな乾燥キノコみたいになっている奴が役に立つはずもない。
ため息をついて見送ったが、フリーはすぐに引き返してきた。
「あの……部屋の場所、どこだっけ?」
「こんな小さな宿で迷うな」
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