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2019.3 メッセージ覚え書き
八咫の鏡
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気になった物、覚書
八咫の鏡
『八咫の鏡』
※ 以下の解説は、wikipediaより
『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。
『日本書紀』には、別の名を真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されている。単に神鏡(しんきょう)または宝鏡(ほうきょう)とよばれることも多いが「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。
一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する。
後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)
とあり、戦国~後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。
平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった(考古遺物の節を参照)が、現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから推察される神器の鏡はもっと小さい。
いずれにせよ、その特大の大きさから、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。
伊勢神宮の八咫鏡
編集
天照大神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮の内宮に変わらず奉安されている。神道五部書等(神道五部書そのものは「偽書」との指摘もある)によればこの「八咫鏡」は「八葉」という。この「八咫鏡」は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。
この「神宮の八咫鏡」の「最初の姿と大きさ」は、考古学者原田大六によれば、福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)と、同じ形状で同じ大きさのものではなかったか」と考察して、それを著書に記している。原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。また、「図象も実際に見て模写するべくもないであろうから、これも変化しているだろう」という[要出典]。
宮中賢所の八咫鏡
編集
皇居の八咫鏡は、賢所に奉置されていたことから、その鏡を指して賢所(かしこどころ)ともいう。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」と呼ぶか、またはその通称である「内侍所」といって、これを言い分けたという。しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。
内侍所の神鏡は天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
平安時代末期、平家の都落ちとともに西遷し、寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。
室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変で、後南朝勢力が宮中を襲撃した際、三種の神器をのうち宝剣と神璽は奪われたが、神鏡のみは難を逃れ、翌日近衛殿に移された。
宗像大社邊津宮の八咫鏡
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筑前国風土記は現存しないが、逸文に明確に記述される。古代の記録では八咫鏡を依代とするのは、神社では伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけであるとされる。
《神話》
記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。
気付き。
八咫の鏡にも、「末広がりのハチ」が入っている。
八咫の鏡
『八咫の鏡』
※ 以下の解説は、wikipediaより
『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。
『日本書紀』には、別の名を真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されている。単に神鏡(しんきょう)または宝鏡(ほうきょう)とよばれることも多いが「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。
一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する。
後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)
とあり、戦国~後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。
平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった(考古遺物の節を参照)が、現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから推察される神器の鏡はもっと小さい。
いずれにせよ、その特大の大きさから、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。
伊勢神宮の八咫鏡
編集
天照大神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮の内宮に変わらず奉安されている。神道五部書等(神道五部書そのものは「偽書」との指摘もある)によればこの「八咫鏡」は「八葉」という。この「八咫鏡」は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。
この「神宮の八咫鏡」の「最初の姿と大きさ」は、考古学者原田大六によれば、福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)と、同じ形状で同じ大きさのものではなかったか」と考察して、それを著書に記している。原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。また、「図象も実際に見て模写するべくもないであろうから、これも変化しているだろう」という[要出典]。
宮中賢所の八咫鏡
編集
皇居の八咫鏡は、賢所に奉置されていたことから、その鏡を指して賢所(かしこどころ)ともいう。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」と呼ぶか、またはその通称である「内侍所」といって、これを言い分けたという。しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。
内侍所の神鏡は天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
平安時代末期、平家の都落ちとともに西遷し、寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。
室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変で、後南朝勢力が宮中を襲撃した際、三種の神器をのうち宝剣と神璽は奪われたが、神鏡のみは難を逃れ、翌日近衛殿に移された。
宗像大社邊津宮の八咫鏡
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筑前国風土記は現存しないが、逸文に明確に記述される。古代の記録では八咫鏡を依代とするのは、神社では伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけであるとされる。
《神話》
記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。
気付き。
八咫の鏡にも、「末広がりのハチ」が入っている。
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