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2015.09.08 あっ、この記事が出たのは、マリア様のお誕生日だ。
事件のきっかけ
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では、なぜそのようなすさまじい事件が起こったのであろうか? 事件の直接の発端は、1965年9月30日から10月1日にかけての深夜、陸軍の7人のトップの将軍たちが大統領親衛隊に自宅で襲われ、そのうち6人が殺害されたというものである。
彼らは革命評議会と名乗り、この将軍たちが国家転覆の陰謀を図っていたので、それを事前に阻止したと発表したが、まもなくスハルト少将率いる部隊によって粉砕された。
そしてスハルトらは、この事件の背後にはインドネシア共産党がいたとして、これ以後大規模な共産党攻撃を開始した。関連施設の襲撃、焼き討ちに始まり、党関係者の逮捕、さらには殺害へとエスカレートしていったのである。
インドネシアの共産党は、合法政党で、公称で300万人の党員を擁し、青年団や婦人団体、労働組内、農民組合など傘下の組織のメンバーは1000万人を超える大勢力だった。1955年の国政選挙で第四位となり、国会議員はもちろんのこと、閣内にも大臣ポストを得ていた。
当時のインドネシアの大統領スカルノは、強烈な民族主義者で、反帝国主義、反新植民地主義を唱えていた。1955年にバンドゥンで29ケ国を集めてアジア・アフリカ会議を開催したことで知られるように、新興諸国、第三世界の盟主として世界的な名声を得ていた。
そのようなイデオロギーゆえに、共産主義とも共闘し、民族主義、宗教、共産主義が三位一体となってそのバランスの上に国家建設を進めるべきだという「ナサコム」体制を提唱し、実践していた。
1960年代中ごろになると、反新植民地主義の立場から、イギリス主導のマレーシア建国に対して粉砕をめざす闘争を挑んでいたスカルノ大統領は、中国など共産圏の国々や、新興独立国の支持を求めいっそう左傾化していった。欧米諸国とは疎遠になり、1965年1月には、最後は国連からも脱退した。
マレーシア問題でインドネシアの標的とされていたイギリスや、ドミノ理論に基づく東南アジアの共産化を恐れ、ヴェトナムにも介入していたアメリカなど西側諸国は、何とかこの勢いを止めなければならないと考えていた。9月30日の事件はそのような矢先に起こったのである。そのためにCIA陰謀説などもささやかれている。
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