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鏡子 (きょうこ)

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第169章 お釈迦様のお導き

西脇 与作 物語の形而上学:因果性こそ物語の本性

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Facebookでは、嫌な経験ばかりさせられた。


しかしながら、本日、興味深いと思った記事は、ある方のFacebookからの引用だった。


Facebookをはじめ、様々なSNSがあるからこそ、世の人は、自らのアイデンティティを探求したり、興味の種や、創造したもの、日々のキラキラ等を情報発信し、他者と共感し合うことが出来る。


Facebookには、嫌な思いばかりさせられたが、
それは、たまたま…私が組織にとって、目の上のたんこぶだったからだろう。



多くの人は、そういったSNSを友好的に活用している。



私も、今日みたいに、素晴らしい記事に巡り合える。




そして、私は、Facebookが、嫌いだと言えなくなる。





長い歴史も、国々に対しても、人物に対しても


同じことが言えるかもしれない。




何もかもが、無限ループのように


好きと嫌いが、繰り返されることを知る。








西脇 与作


物語の形而上学:因果性こそ物語の本性


2016年5月23日 ·     Facebook公開




 ギリシャ神話、聖書、千夜一夜物語、古事記、源氏物語、平家物語等々、私たちは大昔から物語を通じて世界と社会、そして何より人間を学び、理解してきました。

私たちが学び、理解してきたのはほぼ例外なく物語のワクワクする内容であり、物語という形式などではありません。

それは物語の作者が関心をもつことで、叙事詩や小説、戯曲など異なる形式が次々と生み出され、文学が市民権を得るようになってきました。荒唐無稽な神話から、神の物語、民族の歴史、さらには人間の数奇な運命や悲恋まで、実に様々な物語が飽くことなく創作され、波乱万丈の世界、謎と神秘に満ちた世界が述べられ、描かれてきました。

 物語の形而上学などと体裁をつけるなら、物語は因果関係の描写から成り立っています。因果関係と言えば、まず目につく代表格は「歴史」。ですから、歴史は基本的に物語なのです。歴史に登場する因果関係の範囲は曖昧で広く、単なる時系列から原因と結果まで、物理的な変化から心理的な変化まで何でも含みます。私たちの経験はまずは因果的な経験で、それを言葉を使って捉え直すのが物語です。その上、心身の二元論が前提されると、英雄や政治家の思惑が国の運命を決めるようなことが起こり、因果関係はあらゆる領域、あらゆる対象に対して成り立つことになります。

 ところで、「解釈(interpretation)」は量子力学の研究者には敬遠される単語。解釈は哲学者に任せておこう、触らぬ神に祟りなしというのが通常の物理学者の取る態度です。とはいえ、量子力学の解釈はアインシュタインの量子力学批判以来それなりに有名になりました。「解釈」と言えば量子力学ということになっています
が、普通の古典物理学の理論も当然ながら解釈をもっています。特別に悩み、工夫しなくても、古典的な理論は普通に解釈すれば、私たちの世界に簡単に適用できるのです。つまり、解釈は自然に素直にできてしまい、理論は既に解釈されている、と言っても構わないほどなのです。物理世界での「因果関係」は形而上学的な関係で、そんなことに関わるのは厄介ということで、物理学はこれを関数関係に変えてしまいました。形而上学的な因果関係を数学的な関数関係に翻訳するというのは実にクレバーなやり方です。数学的世界の関係は純粋に論理関係からなっています。普通の因果的な世界では見えにくくなっていても、しっかり存在しているのが論理的な関係で、自然法則とその関数的表現を巧みに使うことによって因果関係を数学的に表現することができ、形而上学的な因果関係を明晰・判明に考え、理解できるのです。

 数学的な関数関係は「言語表現」ですが、言語を駆使して因果関係を表現するのが文学であり、私たちの日常生活も因果関係から成り立っています。特に、「生活する」という概念は因果的であり、生活の中の喜び、悲しみ、苦しみ等はすべて時間的な変化、無常の事柄から成っています。
 純粋に物理的な時間変化ではないようなことが物語が入り込んできます。原因と結果は物語の基本構造ですが、関数的な因果関係の表現では「原因と結果」がなくても構いません。力学法則は関数的に表現され、システムの状態変化として力学的な変化が表現できます。原因と結果という二つの異なる出来事ではなく、システムの状態が時間的に変化することが因果関係の物理学的解釈だと考えても構いません。因果関係を物理学から追放したと言い放っても構わないのですが、それはやはり傲慢というもので、因果関係の物理学的な理解、解釈がシステムの時間的な状態変化としての関数表現なのです。

 ところで、私たちには記憶があり、それによって過去がどのようなものかわかり、それが現在や未来の事柄ではないことも確認できます。では、記憶のない理論はどうするのでしょうか。理論がとる方法は4次元連続体、あるいはブロック宇宙(block universe)モデルの採用です。簡単に言えば、絵巻物やパノラマのように記憶された歴史を理解しようというのです。

 時間という次元が付加されることによって、私たちの経験は記憶としてではなく、連続的な世界変化として、永遠の相のもとに連続体として表現されます。記憶された過去の状態と知覚される現在の状態の両方が一挙に表現されれば、記憶は必要なく、因果性もいらないことになります。これは実に見事な発見でした。それがアリストテレスとニュートンの違いと言っても過言ではありません。関数は軌跡として表現され、それがシステムの歴史、因果的変化の空間的な表現となっているのです。

 「人生」は私たちがそれぞれに解釈し、解釈された知識と自意識の融合として重要な意義をもっています。人生は徹底して因果的だと私たちは勝手に思い込んでいます。そう思い込まなければ仏教のような宗教は生まれませんでした。運命や生死は因果的世界の特徴で、4次元のブロック宇宙にはそれらはありません。ですから、私たちはブロック宇宙を一生懸命私たちの生活世界に翻訳して因果化する、つまり物語化するのです。
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