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第167章 審判
レオナルドの手記、手稿は、三分の一くらいしか残っていない。
しおりを挟むレオナルドの手記手稿は、三分の一くらいしか現存していないと、何かの本で読んだ。
理由は、レオナルドの手記手稿を大事に保管していた弟子のメルツィが亡くなり、メルツィの子孫がその価値に気付かず、紛失してしまったとか…。
しかし、真実は、そうではなかったのでは?という思いは、日に日に強くなった。
恐らく、そこには、権力者にとって都合の悪いことや、宗教的にタブー視されていることが書かれていたのではないか?と推察する。
ある日、ネットで下記の内容を発見した。
※以下転載文
白百合は、このレオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」に限らず、聖母マリアが描かれる他の画家による絵画作品にも数多く描写され、
聖母マリアの純潔・貞操を象徴する持ち物(アトリビュート)として、ある種の約束事のように絵画の中に登場する。
聖母マリアのアトリビュートとして白い百合の花が宗教画に描写される場合、男性を象徴する雄蕊(おしべ)は描かれないことが多いようだが、レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」に描かれた白百合をよく見ると、しっかりおしべが描かれていることがわかる。
このダヴィンチの白百合については、「教会への反発心・反抗心の表れ」として説明されることがあるようだが、実際のところはどうなのだろうか?
※ 転載終わり
解説をされていた方は、はっきりと明言することは避けていたようだが、
ダ・ヴィンチは、「岩窟の聖母」を描く際、イエス(ルーブル版)に光輪を描かなかったり、他にも色々と、教会の体制に、ちょっとした反抗心を垣間見ることが出来る。
ダ・ヴィンチは、科学者としての目で、世の中を見ていたから、
既成の宗教観と違う目線で、キリスト教を見ていたのだろうか?
レオナルド及び、レオナルド派の様々な絵画を観ていて、そう感じる。
もしかすると、失われた手記等には、
例えば、マリアの処女懐胎は、科学的な目から見て、理論上おかしいとか?
権力者たちの、これこれ、こういう行いが、良くないとか…そういう類の疑問を書いていたので、後世に残すには都合が悪いという理由で、焼きはらわれたのではないかな?と想像したりした。
現存する手記、手稿ですら、レオナルドの正直さを読み取れるものがあるから、失われたものには、どんなことが書かれていたのか?察すりに余りある。
(聖職者への言葉)
「私には、彼らのように他人の著作に頼るということはできない。その代わり、私は経験というものに頼る。
経験は他人の著作などよりはるかに偉大で、そして価値のあるものだ。経験は、著作を書いた大家たちをも支配する女王である。
聖職者たちは、うぬぼれていて、尊大で、他人の産物で身を飾っている。
自分では何の苦労もせずに、他人の苦労を利用して身を飾っているのだ。
その癖、私が自分の苦労の産物を利用するのは許さず、でっち上げだと言って避難する。
しかし、避難されるべきは彼らだ。
自分の手では何も生まれず、自慢と他人の批判ばかりしている彼らこそ、避難されるべきなのだ」
レオナルドが生きていた時代、聖職者(権力者)は
自慢と他人の批判ばかりしていたらしい。
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