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第45章 白昼夢
人は、夢を見て、時空の歪みを経験する?
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画像は、ダリの絵
タイトル 『記憶の固執』
世の中には、様々な概念があり、それが、支柱となって、成り立ってはいるのだが、果たしてその概念は、絶対的に、信用出来るものであるのか?
皆さんは、このような疑問を持った経験はないだろうか?
例えば、時の概念について考えてみる。
過去があり、現在があり、未来があるというような
時系列に沿った時間の流れが存在するのが、当たり前の考え方ではあるが、もしも、この概念が崩れたとしたらどうであろう?
あくまでも、私個人のイメージであるが、本来、人間の魂は、自由に、過去や未来に行くことが出来る。
しかしながら、肉体が邪魔をして、現実に止まざるを得ない。
つまり“今の空間”にしか、この身を置くことが出来ないのだ。
時間は、本来、ダリの絵の中の時計のように
ぐにゃぐにゃとしたものであるのかもしれない。
(自分の空想で作り出されもので、現実離れしたものであるのが夢であるというのを前提とする。しかしながら、そうでない場合、例えば、予知夢のような現実と結びついている場合を考えてみる。)
夢の中で、私達の魂は、
あらゆる時代や、あらゆる空間に行くことが出来る。
夢の中で見た景色だからと、その景色を侮るなかれ。
それは、前世で見た景色かもしれないし、
現実に存在する、遠い国で繰り広げられているストーリーの一場面かもしれない。
はたまた、未来のいつか起きるであろう、ある時ある瞬間の出来事を見たのかもしれない。
やはり、時間の概念は、時系列に沿ってはいない。
ダリの絵のように、、、
※ 下記の文章は、山田視覚芸術研究室 より転写
「記憶の固執」は1931年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作。
初めて展示されたのは1932年。場所はニューヨークのシュルレアリスム専門のジュリアン・レヴィ・ギャラリー。1934年からニューヨーク近代美術館(MoMA)が匿名の寄贈者から譲り受けて所蔵している。「記憶の固執」は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもある。
ダリの哲学には、ダリ自身が何度も主張するように「柔らかいもの」と「硬いもの」という両極への執着がある。ダリによれば「柔らかい時計」は時空の関係の象徴であり、それは「固定化した宇宙秩序の解体に基づいたシュルレアリストの思想を表現したものである」と話している。
ダリの固定化したもの(硬いもの)の解体(柔らかいもの)という同時表現は、ほかに「宇宙象」や「カタツムリと天使」など、さまざまな作品で現れる。
澁澤龍彦のダリについてこう批評している。
「ダリのなかには、おそらく、形のはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形のさだまらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビバレンツ(両極性反応)が潜在しているのにちがいない(澁澤龍彦)」
時空の歪み
ダリはアインシュタインの「一般相対性理論」の理論を作品に取り入れていると多くの批評家が指摘されている。美術史家ドーン・エイズによれば、「記憶の固執」は時空のひずみを象徴しており、さまざまな停止した状態の時間(現在の時間、過去の時間)を同時に描いているという。
そのため、描かれている3つの時計の時間は異なっている。絵のの中の世界は、現在の記憶と過去の記憶が入り乱れる夢の時間の状態となり、無時間であるという。そのためダリの自画像である白い生物(大自慰者)は目を閉じて眠っている。
ただ、物理学者のイリヤ・プリゴジンが、実際にダリに問いただしたところ、ダリ自身は相対性理論には影響を受けていないと話している。「記憶の固執」の中で描かれている「溶けている時計」は、ダリによれば、キッチンでガラが食べている溶けるカマンベールチーズからインスピレーションを得て描こうと思ったのがきっかけだという。
※ 転写ここまで
「記憶の固執」を観ながら感じること。
私達が日々もちあわせている、固定化された観念、
それら全ては、形の軟らかな、曖昧なものであるのかもしれない。
人は、(毎回ではないが)眠っている間、夢を見る。
機械的な時計(固い時計)のように、きちっとした時の流れとは別の、
規則性など、どこかに忘れてしまった、枠組みに入っていない時の流れを経験する。
人は、夢の中で
意識する意識せざるに、関わらず
「時間の歪み」を経験するのではないだろうか?
過去も、現在も、未来もない、変幻自在な
自由な時空の流れ、、、
それは、全てが交錯したような、時間。
ダリの描いた、ぐにゃぐにゃした時計を観ていると、
絵画というなかにおいて、現実として
時間の歪みを経験出来そうだ。
タイトル 『記憶の固執』
世の中には、様々な概念があり、それが、支柱となって、成り立ってはいるのだが、果たしてその概念は、絶対的に、信用出来るものであるのか?
皆さんは、このような疑問を持った経験はないだろうか?
例えば、時の概念について考えてみる。
過去があり、現在があり、未来があるというような
時系列に沿った時間の流れが存在するのが、当たり前の考え方ではあるが、もしも、この概念が崩れたとしたらどうであろう?
あくまでも、私個人のイメージであるが、本来、人間の魂は、自由に、過去や未来に行くことが出来る。
しかしながら、肉体が邪魔をして、現実に止まざるを得ない。
つまり“今の空間”にしか、この身を置くことが出来ないのだ。
時間は、本来、ダリの絵の中の時計のように
ぐにゃぐにゃとしたものであるのかもしれない。
(自分の空想で作り出されもので、現実離れしたものであるのが夢であるというのを前提とする。しかしながら、そうでない場合、例えば、予知夢のような現実と結びついている場合を考えてみる。)
夢の中で、私達の魂は、
あらゆる時代や、あらゆる空間に行くことが出来る。
夢の中で見た景色だからと、その景色を侮るなかれ。
それは、前世で見た景色かもしれないし、
現実に存在する、遠い国で繰り広げられているストーリーの一場面かもしれない。
はたまた、未来のいつか起きるであろう、ある時ある瞬間の出来事を見たのかもしれない。
やはり、時間の概念は、時系列に沿ってはいない。
ダリの絵のように、、、
※ 下記の文章は、山田視覚芸術研究室 より転写
「記憶の固執」は1931年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作。
初めて展示されたのは1932年。場所はニューヨークのシュルレアリスム専門のジュリアン・レヴィ・ギャラリー。1934年からニューヨーク近代美術館(MoMA)が匿名の寄贈者から譲り受けて所蔵している。「記憶の固執」は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもある。
ダリの哲学には、ダリ自身が何度も主張するように「柔らかいもの」と「硬いもの」という両極への執着がある。ダリによれば「柔らかい時計」は時空の関係の象徴であり、それは「固定化した宇宙秩序の解体に基づいたシュルレアリストの思想を表現したものである」と話している。
ダリの固定化したもの(硬いもの)の解体(柔らかいもの)という同時表現は、ほかに「宇宙象」や「カタツムリと天使」など、さまざまな作品で現れる。
澁澤龍彦のダリについてこう批評している。
「ダリのなかには、おそらく、形のはっきりした堅固なものに対する知的な執着と、形のさだまらないぐにゃぐにゃしたものに対する無意識の執着との、奇妙なアンビバレンツ(両極性反応)が潜在しているのにちがいない(澁澤龍彦)」
時空の歪み
ダリはアインシュタインの「一般相対性理論」の理論を作品に取り入れていると多くの批評家が指摘されている。美術史家ドーン・エイズによれば、「記憶の固執」は時空のひずみを象徴しており、さまざまな停止した状態の時間(現在の時間、過去の時間)を同時に描いているという。
そのため、描かれている3つの時計の時間は異なっている。絵のの中の世界は、現在の記憶と過去の記憶が入り乱れる夢の時間の状態となり、無時間であるという。そのためダリの自画像である白い生物(大自慰者)は目を閉じて眠っている。
ただ、物理学者のイリヤ・プリゴジンが、実際にダリに問いただしたところ、ダリ自身は相対性理論には影響を受けていないと話している。「記憶の固執」の中で描かれている「溶けている時計」は、ダリによれば、キッチンでガラが食べている溶けるカマンベールチーズからインスピレーションを得て描こうと思ったのがきっかけだという。
※ 転写ここまで
「記憶の固執」を観ながら感じること。
私達が日々もちあわせている、固定化された観念、
それら全ては、形の軟らかな、曖昧なものであるのかもしれない。
人は、(毎回ではないが)眠っている間、夢を見る。
機械的な時計(固い時計)のように、きちっとした時の流れとは別の、
規則性など、どこかに忘れてしまった、枠組みに入っていない時の流れを経験する。
人は、夢の中で
意識する意識せざるに、関わらず
「時間の歪み」を経験するのではないだろうか?
過去も、現在も、未来もない、変幻自在な
自由な時空の流れ、、、
それは、全てが交錯したような、時間。
ダリの描いた、ぐにゃぐにゃした時計を観ていると、
絵画というなかにおいて、現実として
時間の歪みを経験出来そうだ。
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