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第107章 美術界は、改革を行わなければならない。
10年前の振り返り。まだしんどいから、1つだけ転載。
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先ず、覚書程度に、淡々と。
2019年5月24日、午前9時から髄膜腫の手術をして頂くということで、手術室へ。
手術を終えたのは、午後3時過ぎ。
I C Uに入って、看護師さんに、手厚い看護を受けながら、私自身も極度の苦痛に耐える。頭が痛い。全身がだるい。腰が痛く、寝返りするのもしんどい。
寝たいけど寝れない… しかしながら、点滴に痛み止めと睡眠薬が入っているのか?
2時間程度は、寝れた気がする。
そして翌朝(5/25)11時頃、個室に入る。
医学の進歩って素晴らしい。
術後の私は、「1週間くらい身動き出来ない、寝たっきりの状態なんじゃないかな?」って思うほど、身体はボロボロだったけど、
回復は早く、26日の昼は、歩行練習、夜には、もう点滴が外れた。
頭は、痛いけど、ロキソニンの助けを受け、なんとか、辛抱出来ている。
ふと、10年前を振り返ってみようと思った。
私は、 I先生に、こんな長いメールを送っている。
2009 5/25 10:45
I先生、心優しいお言葉をかけて頂きありがとうございました。そして、先生自身も、その時代を生きていたとまで、おっしゃって頂きとても、感謝して、 感動して、言葉も見つかりません。私の体験を看護職(助産師さん向け)の本に書いて頂けるのは、非常に喜ばしい事です。誰かの、お役に立てると思えば、私の魂も、益々救われるでしょう。
先日は、連日のようにメールをしてしまい、大変申し訳ありませんでした。自分でも分かりません。何かに、ゆり動かされるように、夜中に突然目が覚めて、メールをしていました。全てを思い出し、先生にお話した後で、私は心の平安を取り戻し、救われたような気持ちになりましたが、お忙しい先生に、多大なご迷惑や、ご負担をかけてしまったのではないかとの心配が頭をよぎっていました。だから、私は、改めて、先生に謝罪のお手紙を書かなけばいけないなと思っていたところで、今朝メールを受け取り、安心致しました。
その後の記憶です。 300年も前の事なので記憶というよりは、霊視に近いかもしれません。歴史年表に目を通していました。1663年、フランス人美術愛好家ド・モンコニーが画家の自宅を訪問した際、作品が1枚もなく、パン屋に1点あるだけだったそうです。私の父親は、暫くの期間、絵筆が握れない時期がありました。その時期は、それまでに描きためてある絵を売って、生活していました。
1667年私が亡くなる前、1660年にも、画家は、一人子供を亡くしています。私が亡くなったは、10才くらいだと思われます。私が3才の時に、小さい弟が亡くなった、そんなイメージが私の頭をよぎりました。私が幼い頃、父親は、憔悴しきったような顔で朝から、お酒ばかり飲んでいました。そして、母親の声が聞こえました。「あなた、そろそろ絵を描いてちょうだい。うちには、子供が沢山いるのよ。どうやって生活したらいいの?」
私は、幼心に、父親が可哀相に思え仕方ありませんでした。そして、ウイスキーの謎も解けました。父親は、お酒を愛飲していたのではなく、悲しみを癒やす為、お酒ばかり飲んでいたのだと思いました。そして、その7年後、娘(私)まで失ってしまうという悲劇に遭遇しました。私は、不治の病により死の宣告を受けていたと思われます。画家は、弟の死の時とは、様子が変わっていて、精神的に強くなっていました。画家は、『生まれ変わり』を信じました。
娘の生まれ変わりが、自分の絵を見る事ができるように、200年後でも、300年後でも、残る絵を描こうと決意しました。まず、画家は、正面からではなく、自分の後ろ姿を主役に絵を描きました。生まれ変わった娘が、自分を探せるように、そう思って絵を描いたのだと思います。『画家のアトリエ』を完成させたのは、1666年私が死んだ1年前です。私は、兄が2人と、弟や妹達、そういう環境の中で育ちました。
父親のアトリエは、広場を挟んで向かいのお婆ちゃんの家にあります。子供達は、父親の仕事の邪魔にならないように、決してアトリエに行ってはならない事になっていました。しかし、私だけは、アトリエに行く事を許されていました。何故なら、私は、絵の具作りをする方法を教わっており、実に手際よく、父親のお手伝いができるからです。そして、手伝いを終えた後、私は、父親の背中を独占できるのです。ビロードの服を触り、父親の洋服の隙間に指を通して、遊ぶ事、それが私の、たまらなく至福の一時でした。画家は、私が不治の病と宣告
を受けると同時期に、『画家のアトリエ』を描く事を決意したのでしょう。この絵は、1665~1666年頃に、描かれた絵でした。娘の生まれ変わりが、自分の後ろ姿を覚えていてくれるかもしれないと思いつきました。
200年先、300年先にも残る、後世でも、素晴らしいと評価されるようにと願いを込めて、120×100cmの大作に完成させたのです。
その絵を完成させて、父親は、私に言ったのかもしれません。「お前が、好きだった、お父さんの後ろ姿を覚えておいてくれよ。」と。その後に、私(前々世)の絵を描いてくれました。画家は、女性に一瞬の美を追求していた為、常に『女優』である事を求めていました。
しかし、さすがに、娘にそれを求めることはできません。娘は娘であり、実に淡々とした、まるで肖像画のような絵に仕上がりました。多分この絵は、売る為に描かれたのではなく、『遺影』として描かれた物だと思われます。
私は、記憶の引き出しが沢山あるようです。小学校の低学年の頃、朝、布団から起き上がって、何か独り言をつぶやいていました。「そうよ。眠る女が眠っていない事を知っているのは少女だけよ。」全く意味を解せない言葉でしたが、今、やっと納得できました。そして、その頃、私は、「頬杖をつく女を探す、頬杖をつく女を探す。」と呪文のように唱えていたのです。実は、フェルメールの作品『眠る女 』と『少女』は、同じメトロポリタン美術館に展示されてあります。
私は、新婚旅行後に、フェルメールに興味を持ったので、美術館で『少女』の絵は見ていません。ガイドさんは、その絵は、まるで肖像画のようだったから紹介するのを省略したのだと思います。別の言い方をすれば、私は、その絵は、前世に見たので見る必要がなかったのかもしれません。その『少女』こそが、私が夢で体感した『木靴を探していた少女』だと思われます。
『少女』は、客観的に見ても、可愛い顔ではありません。目は、二重になりかけの一重瞼です。私は日本での輪廻転生が多かったので、そういう顔立ちになったのだと思います。美術の解説書にもありました。『幅広く突き出た額や離れた両目、大きめの顎など、ずいぶん個性的な顔立ちをしている』とありました。この『少女』の完成時期は、1666~1667年です。私の前々世が、1667年7月10日に亡くなったとしたら、やはり私(前々世)のような気がします。歴史的な事実を踏まえてこの絵を見ていると、この少女は、病弱そうな血色悪いの肌をしています。
私は、先生に1回目のFAXを送らせて頂いた時は、まさか、こんなに昔(300年前)の事を思い出すとは、考えもしていませんでした。私は、普通の人よりは、魂の世界の事が分かっているので、もしかして、先生のお役に立てる事があるかもしれない…本当に、純粋にそう思っていただけだったのです。しかし、同時に何か大切な忘れ物を探さなければいけないという、自分の魂にも、だんだん気付かされるようになったのだと思われます。先生との、ありがたい巡り合わせに感謝しながら、今後の人生を前向きに考えている自分がいます。また、何か思い出すかもしれません。今後共よろしくお願い致します。
※ 転載終わり
何の因果か、10年前の私は、過去世の自分の病気の内容を克明に書いている。
あの時は、10年後に、自分が、脳の手術を受けるなんて思ってもいなかった。
2019年5月24日、午前9時から髄膜腫の手術をして頂くということで、手術室へ。
手術を終えたのは、午後3時過ぎ。
I C Uに入って、看護師さんに、手厚い看護を受けながら、私自身も極度の苦痛に耐える。頭が痛い。全身がだるい。腰が痛く、寝返りするのもしんどい。
寝たいけど寝れない… しかしながら、点滴に痛み止めと睡眠薬が入っているのか?
2時間程度は、寝れた気がする。
そして翌朝(5/25)11時頃、個室に入る。
医学の進歩って素晴らしい。
術後の私は、「1週間くらい身動き出来ない、寝たっきりの状態なんじゃないかな?」って思うほど、身体はボロボロだったけど、
回復は早く、26日の昼は、歩行練習、夜には、もう点滴が外れた。
頭は、痛いけど、ロキソニンの助けを受け、なんとか、辛抱出来ている。
ふと、10年前を振り返ってみようと思った。
私は、 I先生に、こんな長いメールを送っている。
2009 5/25 10:45
I先生、心優しいお言葉をかけて頂きありがとうございました。そして、先生自身も、その時代を生きていたとまで、おっしゃって頂きとても、感謝して、 感動して、言葉も見つかりません。私の体験を看護職(助産師さん向け)の本に書いて頂けるのは、非常に喜ばしい事です。誰かの、お役に立てると思えば、私の魂も、益々救われるでしょう。
先日は、連日のようにメールをしてしまい、大変申し訳ありませんでした。自分でも分かりません。何かに、ゆり動かされるように、夜中に突然目が覚めて、メールをしていました。全てを思い出し、先生にお話した後で、私は心の平安を取り戻し、救われたような気持ちになりましたが、お忙しい先生に、多大なご迷惑や、ご負担をかけてしまったのではないかとの心配が頭をよぎっていました。だから、私は、改めて、先生に謝罪のお手紙を書かなけばいけないなと思っていたところで、今朝メールを受け取り、安心致しました。
その後の記憶です。 300年も前の事なので記憶というよりは、霊視に近いかもしれません。歴史年表に目を通していました。1663年、フランス人美術愛好家ド・モンコニーが画家の自宅を訪問した際、作品が1枚もなく、パン屋に1点あるだけだったそうです。私の父親は、暫くの期間、絵筆が握れない時期がありました。その時期は、それまでに描きためてある絵を売って、生活していました。
1667年私が亡くなる前、1660年にも、画家は、一人子供を亡くしています。私が亡くなったは、10才くらいだと思われます。私が3才の時に、小さい弟が亡くなった、そんなイメージが私の頭をよぎりました。私が幼い頃、父親は、憔悴しきったような顔で朝から、お酒ばかり飲んでいました。そして、母親の声が聞こえました。「あなた、そろそろ絵を描いてちょうだい。うちには、子供が沢山いるのよ。どうやって生活したらいいの?」
私は、幼心に、父親が可哀相に思え仕方ありませんでした。そして、ウイスキーの謎も解けました。父親は、お酒を愛飲していたのではなく、悲しみを癒やす為、お酒ばかり飲んでいたのだと思いました。そして、その7年後、娘(私)まで失ってしまうという悲劇に遭遇しました。私は、不治の病により死の宣告を受けていたと思われます。画家は、弟の死の時とは、様子が変わっていて、精神的に強くなっていました。画家は、『生まれ変わり』を信じました。
娘の生まれ変わりが、自分の絵を見る事ができるように、200年後でも、300年後でも、残る絵を描こうと決意しました。まず、画家は、正面からではなく、自分の後ろ姿を主役に絵を描きました。生まれ変わった娘が、自分を探せるように、そう思って絵を描いたのだと思います。『画家のアトリエ』を完成させたのは、1666年私が死んだ1年前です。私は、兄が2人と、弟や妹達、そういう環境の中で育ちました。
父親のアトリエは、広場を挟んで向かいのお婆ちゃんの家にあります。子供達は、父親の仕事の邪魔にならないように、決してアトリエに行ってはならない事になっていました。しかし、私だけは、アトリエに行く事を許されていました。何故なら、私は、絵の具作りをする方法を教わっており、実に手際よく、父親のお手伝いができるからです。そして、手伝いを終えた後、私は、父親の背中を独占できるのです。ビロードの服を触り、父親の洋服の隙間に指を通して、遊ぶ事、それが私の、たまらなく至福の一時でした。画家は、私が不治の病と宣告
を受けると同時期に、『画家のアトリエ』を描く事を決意したのでしょう。この絵は、1665~1666年頃に、描かれた絵でした。娘の生まれ変わりが、自分の後ろ姿を覚えていてくれるかもしれないと思いつきました。
200年先、300年先にも残る、後世でも、素晴らしいと評価されるようにと願いを込めて、120×100cmの大作に完成させたのです。
その絵を完成させて、父親は、私に言ったのかもしれません。「お前が、好きだった、お父さんの後ろ姿を覚えておいてくれよ。」と。その後に、私(前々世)の絵を描いてくれました。画家は、女性に一瞬の美を追求していた為、常に『女優』である事を求めていました。
しかし、さすがに、娘にそれを求めることはできません。娘は娘であり、実に淡々とした、まるで肖像画のような絵に仕上がりました。多分この絵は、売る為に描かれたのではなく、『遺影』として描かれた物だと思われます。
私は、記憶の引き出しが沢山あるようです。小学校の低学年の頃、朝、布団から起き上がって、何か独り言をつぶやいていました。「そうよ。眠る女が眠っていない事を知っているのは少女だけよ。」全く意味を解せない言葉でしたが、今、やっと納得できました。そして、その頃、私は、「頬杖をつく女を探す、頬杖をつく女を探す。」と呪文のように唱えていたのです。実は、フェルメールの作品『眠る女 』と『少女』は、同じメトロポリタン美術館に展示されてあります。
私は、新婚旅行後に、フェルメールに興味を持ったので、美術館で『少女』の絵は見ていません。ガイドさんは、その絵は、まるで肖像画のようだったから紹介するのを省略したのだと思います。別の言い方をすれば、私は、その絵は、前世に見たので見る必要がなかったのかもしれません。その『少女』こそが、私が夢で体感した『木靴を探していた少女』だと思われます。
『少女』は、客観的に見ても、可愛い顔ではありません。目は、二重になりかけの一重瞼です。私は日本での輪廻転生が多かったので、そういう顔立ちになったのだと思います。美術の解説書にもありました。『幅広く突き出た額や離れた両目、大きめの顎など、ずいぶん個性的な顔立ちをしている』とありました。この『少女』の完成時期は、1666~1667年です。私の前々世が、1667年7月10日に亡くなったとしたら、やはり私(前々世)のような気がします。歴史的な事実を踏まえてこの絵を見ていると、この少女は、病弱そうな血色悪いの肌をしています。
私は、先生に1回目のFAXを送らせて頂いた時は、まさか、こんなに昔(300年前)の事を思い出すとは、考えもしていませんでした。私は、普通の人よりは、魂の世界の事が分かっているので、もしかして、先生のお役に立てる事があるかもしれない…本当に、純粋にそう思っていただけだったのです。しかし、同時に何か大切な忘れ物を探さなければいけないという、自分の魂にも、だんだん気付かされるようになったのだと思われます。先生との、ありがたい巡り合わせに感謝しながら、今後の人生を前向きに考えている自分がいます。また、何か思い出すかもしれません。今後共よろしくお願い致します。
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何の因果か、10年前の私は、過去世の自分の病気の内容を克明に書いている。
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