裸の王様社会🌟

鏡子 (きょうこ)

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外国から見た日本

検事が「お前が研究していた原爆とはこれのことか?」と言って新聞を示したので「そうだ」と答えると「検事を集めるから原爆の話を聞かせてくれ」…

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◆ウラン235分離方法の選択

原子爆弾を作るには天然ウランの中に0.7%しか含まれていないウラン235を取り出さなければならない。ウラン235の原子核に中性子を当てると核分裂が起こり、大きなエネルギーが放出される。天然のウランは大部分がウラン238でこれは核分裂しない (正しくは核分裂しにくい)。ウラン238とウラン235は同位体であって化学的にはまったく同じなので化学的な方法では分離できない。分離するにはわずかな質量差を利用して物理的な方法で分離しなければならない。ウランは金属で、そのままでは分離できないので六フッ化ウランという揮発性の化合物に変えて分離に供する。

当時知られていた分離法には

●熱拡散法

●気体拡散法

●電磁法

●超遠心法

があった。本来なら全部試して一番適した方法を選ぶべきだが、当時の日本では時間も資材もなく、理研は一番手っ取り早い熱拡散法を採用することに決めた。

マンハッタン計画ではすべての方法が試みられた。

ウラン235を爆弾に必要な高濃度まで濃縮できるのは電磁法だけであった。実際には気体拡散法でウラン235の濃度をある程度まで高めてから電磁法に掛ける方法が採られた[15]。

詳細は「カルトロン」を参照


◆熱拡散分離筒の製作


竹内柾が作った分離筒の概要は、直径約5センチメートル、高さ約5メートルの銅製の二重の筒である。

外筒と内筒の間には2ミリメートルの隙間がある。この隙間に六フッ化ウランのガスを入れ、内筒の中のニクロム線に電流を流して240 - 250度に加熱し、外筒の周りは約60度の温水を入れたウォータージャケットで囲んである。外筒と内筒の温度差で六フッ化ウランガスが対流を起こし、重いウラン238は塔の下部へ、軽いウラン235は上部に溜まる。塔の材質、寸法などは理論的な裏付けがあるわけでなく、適当に見当で決めたものである。

当時、物資を入手するには原則として軍需省に申請して割り当てを受けなければならなかったが、必要な物がすぐに手に入るわけではなかった。
幸い分離筒に使う銅パイプは、仁科研究室の矢崎為一の知り合いが日光の古河鉱業所に居たため、容易に入手できた。銅パイプを日光から理研に輸送する際、悪路のためトラックの荷台からはみ出した部分が曲がってしまった。そのままでは分離筒を作れないので、パイプを49号館に運び込んで両端に重りを下げてスペーサーで測りながら歪みをとり、熱でなましてやっと真っすぐににした。

分離筒を作るには他にもニクロム線、モーター、圧力計などの部品が必要だが、軍需省経由のルートではなかなか入手できなかった。そこで、航空本部から派遣されていた技術将校の佐治淑夫中尉が軍服を着用して製造メーカーに直接出向き、なかば強引に買い上げるということもやっていた。佐治はこれを「ふんだくってくる」と称していた。竹内柾は研究そのものより、資材集めに精力を費やしたと述べている。

分離筒は理研49号館1階の竹内研究室に設置された。高さが5メートルもあるので、天井と2階の床を抜いて2階の木越研究室に頭頂部が突き出る形になった。1943年11月23日に一応組み立てが終わったが、熱が均等に伝わらなかったので改修を行い、1944年3月12日にやっと完成した[1]。


◆六フッ化ウランの製造

理研ではもちろん六フッ化ウランを製造した経験は無かった。六フッ化ウランは、フッ素とウランを反応させて作るが、まずフッ素を作らなければならなかった。フッ素は反応性が激しくガラスさえ腐食されるので、作るのは大変むずかしかった。フッ素は、酸性フッ化カリウムを電解槽に入れて230 - 240度で加熱融解し、炭素電極を入れて電気分解すると一方の電極から出てくる、という原理はわかっていた。まず、銅板を溶接して作った電解槽で試みたところ、溶接部分が腐食されてしまった。次に、マグネシウムで作ろうとしたが、希望する純度のマグネシウムが手に入らなかった。専門の工場で高純度のマグネシウムを作ってもらい、これでツボ状の電解槽を作った。しかし、これを使ってもフッ素が出てこなかった。そこで、教えを請うため東北帝国大学の著名なフッ素研究者・石井総雄の研究室を訪ねた。その結果わかったのは、電気分解の初期には原料に含まれている微量の水分だけが分解され、完全に無水の状態になってからでないとフッ素は出てこない、ということである。木越らは夕方帰宅する際、電源を切っていたので、せっかく無水になった原料が夜の間に空気中から水分を吸ってしまうので、いつまでたってもフッ素が出てこなかったのである。原因がわかったので、夜間も通電を続けたところ、やっとフッ素が出るようになった。結局フッ素を作れるようになるまで約1年かかった。さらに六フッ化ウランを作れるようになるのに約1年を要し、分離実験に取り掛かったのは戦争末期であった[1][16]。

仁科は研究室員から「親方」と呼ばれ親しまれていたが、しばしば雷を落とした。

研究室員でやられなかった者はいなかった。怒鳴ったあとはケロリとしているので、誰もそれを根に持つことはなかった。六フッ化ウランができなくて四苦八苦していた木越はある日仁科に呼び出されて「お前はいったいどんな気持ちでやっているんだ。
できるのかできないのか」と怒鳴られた。

木越は平然と「できません」と答えた。仁科は「そんなつもりでやっているんなら…」と言っていったん口をつぐんだ。木越は「やめちまえ」と言われると思ったが、仁科は語調を変えて「まあ、やってみろ」と言った。

その後、木越は文献を調べてウランを炭化物(ウランカーバイド)にしてからフッ素を作用させる方法を見つけた。自宅から配給の砂糖を持ってきて電気炉で加熱して炭素を作り、ウランと反応させてウランカーバイドを作った。

これにフッ素を作用させて米粒ほどの六フッ化ウランを作ることができた。深夜のことだったので、朝出勤してくる仁科に報告したくて待ち遠しかったという。実験を続けるには砂糖が必要だったので、軍に交渉したところ、配給用の砂糖に手をつけるわけにはいかないとして、わざわざ台湾に飛行機を飛ばして10キログラムほどを都合してくれた。理研では「木越のところに行くと砂糖がなめられるぞ」という話が広がり、多くの人が役得にあずかった。その後、砂糖の代わりにデンプンが使えることが判ったので、以後はデンプンを使うことになった[1]。


◆武谷三男が逮捕される

六フッ化ウランの熱拡散分離の理論を担当していた武谷三男は、京都帝国大学在学時代に左翼活動に係わっていた関係で、突然特高警察に逮捕された。仁科は警視庁の上層部に「武谷は重要な仕事をしているからしかるべく頼む」と言って善処を求めた結果、留置場に専門書などを持ち込んで研究を続ける事を許された。

そこから警視庁の取調室で刑事に監視されながらの珍妙な研究が始まった。

計算をしているうちに、理論的に熱拡散分離法ではウラン235を分離できない可能性が大きくなってきた。面会に来た渡辺慧に、熱拡散分離法はだめかも知れないから、他の方法 (遠心分離法) も並行して進めた方が良い、と仁科に伝えるよう口頭で頼んだ。この言葉を仁科がどう受け取ったかは定かでない。

その後、武谷は持病の喘息が悪化したため、4か月ほどで釈放され、自宅で監視付きの療養生活に入った。理研に行くことはできなかったが、研究仲間 (特に中村誠太郎) が度々連絡にやってきて理研の様子を知らせてくれた。彼らがもたらしてくれた情報によると、研究者の中に、ニ号研究はもうやめた方がよい、という考えを持つ者が出てきた、ということであった。

その根拠は、ウラン235をうまく分離できたとしても、実際に爆弾を作るとなると、莫大な資材と天文学的な電力が必要になる、しかも肝心なウラン鉱石が手に入らない、ということである(佐治淑夫中尉の概算では熱拡散分離筒数千本と、日本全国の年間電力消費量の約十分の一の電力が必要であった)。

しかし、仁科は原子爆弾は必ずできるという確信を持っているようだ、ということであった。

武谷に対する取り調べがすべて終わったのは、広島に原爆が投下された翌々日の8月8日であった。

武谷が調書に印を押すと、検事が「お前が研究していた原爆とはこれのことか?」と言って新聞を示したので「そうだ」と答えると「検事を集めるから原爆の話を聞かせてくれ」と言われ、原爆の初歩的な知識を話したが、検事たちは理解できずにポカンとした顔で聞いていた。

また「B-29が単機でやってきたときは危ないから深い穴にかくれなさい」というような話をした (B-29は通常編隊でやってくるが広島に原爆を投下したB-29は単機だった)。すると「お前はもういいから仁科研に戻って研究を続けてくれ」といわれた [1]。

武谷は、のちになって「原爆の仕事は軍をごまかすにはいい、原爆研究というものは、一つにはわたしたちの戦時中の逃れ途だった」と書いている。山崎正勝は、武谷は原爆の「盾」[17]で特高警察から逃れることが出来た、と述べている[11]。

◆分離実験

1944年7月14日から六フッ化ウランを分離筒に入れて分離実験を始めた。しかし、六フッ化ウランの強い腐食作用により、分離筒に穴が開く事故が頻発し、しばしば実験を中断しなければならなかった。修理に時間がかかるため実験は遅々として進まなかった。軍からは「どうなっている」という催促が度々あって仁科は大変困惑していた[1]。

理研が原爆研究を引き受ける際に航空本部に提出した報告書には、分離筒には腐食防止のために金メッキまたは白金メッキを施せばよい、と書いてあったが実際にはメッキはされなかった[8]。








ショックですが、現実を受け止めます。
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