四つの犠牲

鈴木 了馬

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 圧死。
 人は本来そんな死に方はしない。
 最後は意識はあったのだろうか。
 発見されたままの遺体を見て、洋子が最初に想ったことだ。
 一人息子のヒカルは、洋子の父に抱かれるように死んだ。
 もちろん、洋子の父も息絶えていた。
 実父は、ヒカルを抱き寄せたのだから、目を覚ましたのだろう。
 普段は、人に抱かれて寝るのを嫌がったヒカルだ。
 問題は、その時、ヒカルも目を覚ましたかどうかだ。
 もし、起きてしまったのなら、何かを思っただろう。
 何を思ったのか。
 避難所に座りながら、洋子は繰り返しそんなことを想った。
 一九九五年、一月十七日、午前五時四十六分五十二秒。
 地震発生時刻。
 その時点から様々な死が始まった。
 一瞬で亡くなった命は、実は少なかった。
 その中に、ヒカルは居た。父がいた。
 これから、いろいろな幸せを育んでいくはずだった命たち。
 その中の一つの小さな命。
 ヒカルの命。
 自分は、この悲しみからは這い上がれない。
 もう、すべて終わったのだ。
 まだ、手にヒカルの感触が残っていた。
 温度もだ。
 前の晩、父の寝室まで運んで行って、布団に預けた。
 おお来たか、と父はヒカルを抱き寄せた。
 おやすみなさい、ママ。
 それが最後の言葉だった。
 こんな生々しい記憶や感触を抱いたまま、生き続けることなどできはしない。
 ましてや、記憶が薄れていくことなどに耐えられるはずがない。
 自分は死ぬのだ。
 そう思っても、洋子の心は静まらなかった。
 母の手が、いつも洋子の肩に手を添えられていた。
 手はくっついてしまったようだった。
 自分も辛かっただろうに。
 自分とともに生き残った母は、変わらず母だった。
 しかし自分は、もはや誰の母でもない。
 罰があたったのだろう。
 ただ母であることの幸せを忘れた罰だ。
 誰かの泣き声が聞こえてくる。
 心痛が繰り返しやってきては去っていく。
 洋子にとって、もはやそれは鼓動のようだ。
 涙は涸れることはなかった。
 日にちの感覚はなくなっていた。
 何日経っただろうか。
 誰かが自分を避難所から運び出そうとしていて、洋子はそれに必死に抗っていた。
 避難所からは一歩も出たくない。
 そこを離れることは、ヒカルの心から離れることなのだ。
 嫌だ。
 手を離せ。
 触るな。
 洋子は叫び泣いた。
 そして、そのまま、気を失った。

 変わらず、病室の白い天井が見えた。
 立ち働いているのは、母だろう。
 まどろみの中で、思考だけは働いていた。
 Kは、あの時点ですでに疑っていたのかもしれない。
 意識を感じる前から、その自問がリピートされていた。
 洋子の妊娠が分かった時のことだ。
 その報告をした時、反応が少し遅かったのだ。
 初めて子を授かる男親の一般的な反応か、と最初は思った。
 でも、違ったのだ。
 頭が良い人なのだ。
 気付かないはずがない。
 洋子自身は、その時点では正直、半々だと思っていた。
 それが数日後、看護師はあり得ない血液型を知らせた。
 洋子が聞き返すと、看護師もその不安を察したようだった。
 「これは念のために調べたもので、確定ではないので」
 その後、洋子は物の本で色々調べた。
 一年後に正式に血液検査をすることにした。
 しかし、結果は同じだった。
 Kには、その検査結果を知らせていない。
 要は直感だったのだ。
 結婚前に隆史とのやりとりがあったから。
 隆史は、カナダから戻って一週間のうちに、神戸を訪れた。
 早い方がいいと思ったからだ。
 洋子はKに隆史を引き合わせた。
 隆史は、その時知った。
 Kと洋子の結婚の環境は、全て整っている。
 いまさら、それを覆して、果たして洋子は幸せになれるか。
 Kは余裕があった。
 あとは洋子が決めるだけ、といった態度だった。
 結果として、隆史は引いた。
 それが自然の成り行きだっただろう。
 しかし、あの時すでに、命は動き始めてしまっていたのだ。
 洋子が大きなため息をついたから、母が気がついた。
 「あら、目が覚めたか」
 「うん」「誰か来たん」
 「そう」「私の友達が」
 洋子は、Kや義母が来たことを少し期待しただが、そうではなかったのだ。
 選挙のからみで忙しいのだろう。
 あるいは、静かにしておいたほうがいい、という気遣いかもしれない。
 一度も見舞いに来ていないはずだった。
 自分はそれでも一向に構わないが、母親の気持ちを推し量った。
 「お母さん」
 「うん、なに」
 「のど乾いた」
 洋子の母は、当たり障りのない話しかしなくなった。
 自分も想い出したくないと思ってのことだろう。
 不自然なことだが、洋子にはありがたかった。
 Kや義母が来ないことも、そのほうが良いのかもしれない。
 もともと、物事をさばさば考える人たちだ、と洋子は常日頃から思っていた。
 お金や権力がある人たち。
 決して悪い人たちではないが、自分とは違った環境で育った人たち。
 振り返る余裕もなく、必死に慣れようとしてきた洋子だった。
 でも、この先、どうなるのだろうか。
 選挙が近づくにつれて、Kは以前にも増して家に居ないことが多くなった。
 夫婦の会話はない。
 もちろん、Kはヒカルとの触れ合いも少なかった。
 それは、もともとの性分とか多忙とは関係ないところで、ぷっつり切れている感じだった。
 やはり、あの時点で、Kは分かったのだ。
 確かに、ヒカルは見た目にも、Kとは似ていない。
 洋子には少し似ているところもある。
 でも、それが大きな問題とは思わない。
 全ては、Kの直感だろう。
 残念ながら、その直感は当たっていた。
 そういうことがあっても、結婚は成り立っていた。
 義母は、確かに厳しい人ではあったし、くじけそうな時もあった。
 しかし、それは、外に出ることが多い嫁として恥ずかしくないように、との思いやりであろう。
 今思えば、それらは幸せだったのだ。
 それが、洋子が選んだ結婚生活なのだ。
 実際、それまでの三年ほどの結婚生活で、洋子も人間として成長してきたと思う。
 強くなったと思う。
 嫁として、母親として。
 Kの秘書が愛人を兼ねていることを知ったときも、それほど驚かなかった。
 自分とはないことを、他で済ませているだけだ。
 義父は、ほとんど、洋子とは私的な会話はしない人だった。
 それでも、ヒカルのことは大変にかわいがってくれた。
 義母にしても同じだ。
 祝福されてした結婚だし、祝福されてヒカルは生を受けた。
 そういう家族の形で、不幸せな事などなかった。
 ヒカルさえ、死ななかったら。
 自覚のないまま、積み上げてきたものはそれなりにあったのだ。
 それをこれからはどうしていこうか。
 空虚だった。
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