四つの犠牲

鈴木 了馬

文字の大きさ
上 下
8 / 19

しおりを挟む
 圧死。
 人は本来そんな死に方はしない。
 最後は意識はあったのだろうか。
 発見されたままの遺体を見て、洋子が最初に想ったことだ。
 一人息子のヒカルは、洋子の父に抱かれるように死んだ。
 もちろん、洋子の父も息絶えていた。
 実父は、ヒカルを抱き寄せたのだから、目を覚ましたのだろう。
 普段は、人に抱かれて寝るのを嫌がったヒカルだ。
 問題は、その時、ヒカルも目を覚ましたかどうかだ。
 もし、起きてしまったのなら、何かを思っただろう。
 何を思ったのか。
 避難所に座りながら、洋子は繰り返しそんなことを想った。
 一九九五年、一月十七日、午前五時四十六分五十二秒。
 地震発生時刻。
 その時点から様々な死が始まった。
 一瞬で亡くなった命は、実は少なかった。
 その中に、ヒカルは居た。父がいた。
 これから、いろいろな幸せを育んでいくはずだった命たち。
 その中の一つの小さな命。
 ヒカルの命。
 自分は、この悲しみからは這い上がれない。
 もう、すべて終わったのだ。
 まだ、手にヒカルの感触が残っていた。
 温度もだ。
 前の晩、父の寝室まで運んで行って、布団に預けた。
 おお来たか、と父はヒカルを抱き寄せた。
 おやすみなさい、ママ。
 それが最後の言葉だった。
 こんな生々しい記憶や感触を抱いたまま、生き続けることなどできはしない。
 ましてや、記憶が薄れていくことなどに耐えられるはずがない。
 自分は死ぬのだ。
 そう思っても、洋子の心は静まらなかった。
 母の手が、いつも洋子の肩に手を添えられていた。
 手はくっついてしまったようだった。
 自分も辛かっただろうに。
 自分とともに生き残った母は、変わらず母だった。
 しかし自分は、もはや誰の母でもない。
 罰があたったのだろう。
 ただ母であることの幸せを忘れた罰だ。
 誰かの泣き声が聞こえてくる。
 心痛が繰り返しやってきては去っていく。
 洋子にとって、もはやそれは鼓動のようだ。
 涙は涸れることはなかった。
 日にちの感覚はなくなっていた。
 何日経っただろうか。
 誰かが自分を避難所から運び出そうとしていて、洋子はそれに必死に抗っていた。
 避難所からは一歩も出たくない。
 そこを離れることは、ヒカルの心から離れることなのだ。
 嫌だ。
 手を離せ。
 触るな。
 洋子は叫び泣いた。
 そして、そのまま、気を失った。

 変わらず、病室の白い天井が見えた。
 立ち働いているのは、母だろう。
 まどろみの中で、思考だけは働いていた。
 Kは、あの時点ですでに疑っていたのかもしれない。
 意識を感じる前から、その自問がリピートされていた。
 洋子の妊娠が分かった時のことだ。
 その報告をした時、反応が少し遅かったのだ。
 初めて子を授かる男親の一般的な反応か、と最初は思った。
 でも、違ったのだ。
 頭が良い人なのだ。
 気付かないはずがない。
 洋子自身は、その時点では正直、半々だと思っていた。
 それが数日後、看護師はあり得ない血液型を知らせた。
 洋子が聞き返すと、看護師もその不安を察したようだった。
 「これは念のために調べたもので、確定ではないので」
 その後、洋子は物の本で色々調べた。
 一年後に正式に血液検査をすることにした。
 しかし、結果は同じだった。
 Kには、その検査結果を知らせていない。
 要は直感だったのだ。
 結婚前に隆史とのやりとりがあったから。
 隆史は、カナダから戻って一週間のうちに、神戸を訪れた。
 早い方がいいと思ったからだ。
 洋子はKに隆史を引き合わせた。
 隆史は、その時知った。
 Kと洋子の結婚の環境は、全て整っている。
 いまさら、それを覆して、果たして洋子は幸せになれるか。
 Kは余裕があった。
 あとは洋子が決めるだけ、といった態度だった。
 結果として、隆史は引いた。
 それが自然の成り行きだっただろう。
 しかし、あの時すでに、命は動き始めてしまっていたのだ。
 洋子が大きなため息をついたから、母が気がついた。
 「あら、目が覚めたか」
 「うん」「誰か来たん」
 「そう」「私の友達が」
 洋子は、Kや義母が来たことを少し期待しただが、そうではなかったのだ。
 選挙のからみで忙しいのだろう。
 あるいは、静かにしておいたほうがいい、という気遣いかもしれない。
 一度も見舞いに来ていないはずだった。
 自分はそれでも一向に構わないが、母親の気持ちを推し量った。
 「お母さん」
 「うん、なに」
 「のど乾いた」
 洋子の母は、当たり障りのない話しかしなくなった。
 自分も想い出したくないと思ってのことだろう。
 不自然なことだが、洋子にはありがたかった。
 Kや義母が来ないことも、そのほうが良いのかもしれない。
 もともと、物事をさばさば考える人たちだ、と洋子は常日頃から思っていた。
 お金や権力がある人たち。
 決して悪い人たちではないが、自分とは違った環境で育った人たち。
 振り返る余裕もなく、必死に慣れようとしてきた洋子だった。
 でも、この先、どうなるのだろうか。
 選挙が近づくにつれて、Kは以前にも増して家に居ないことが多くなった。
 夫婦の会話はない。
 もちろん、Kはヒカルとの触れ合いも少なかった。
 それは、もともとの性分とか多忙とは関係ないところで、ぷっつり切れている感じだった。
 やはり、あの時点で、Kは分かったのだ。
 確かに、ヒカルは見た目にも、Kとは似ていない。
 洋子には少し似ているところもある。
 でも、それが大きな問題とは思わない。
 全ては、Kの直感だろう。
 残念ながら、その直感は当たっていた。
 そういうことがあっても、結婚は成り立っていた。
 義母は、確かに厳しい人ではあったし、くじけそうな時もあった。
 しかし、それは、外に出ることが多い嫁として恥ずかしくないように、との思いやりであろう。
 今思えば、それらは幸せだったのだ。
 それが、洋子が選んだ結婚生活なのだ。
 実際、それまでの三年ほどの結婚生活で、洋子も人間として成長してきたと思う。
 強くなったと思う。
 嫁として、母親として。
 Kの秘書が愛人を兼ねていることを知ったときも、それほど驚かなかった。
 自分とはないことを、他で済ませているだけだ。
 義父は、ほとんど、洋子とは私的な会話はしない人だった。
 それでも、ヒカルのことは大変にかわいがってくれた。
 義母にしても同じだ。
 祝福されてした結婚だし、祝福されてヒカルは生を受けた。
 そういう家族の形で、不幸せな事などなかった。
 ヒカルさえ、死ななかったら。
 自覚のないまま、積み上げてきたものはそれなりにあったのだ。
 それをこれからはどうしていこうか。
 空虚だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あの日、さようならと言って微笑んだ彼女を僕は一生忘れることはないだろう

まるまる⭐️
恋愛
僕に向かって微笑みながら「さようなら」と告げた彼女は、そのままゆっくりと自身の体重を後ろへと移動し、バルコニーから落ちていった‥ ***** 僕と彼女は幼い頃からの婚約者だった。 僕は彼女がずっと、僕を支えるために努力してくれていたのを知っていたのに‥

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~

志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。 政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。 社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。 ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。 ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。 一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。 リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。 ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。 そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。 王家までも巻き込んだその作戦とは……。 他サイトでも掲載中です。 コメントありがとうございます。 タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。 必ず完結させますので、よろしくお願いします。

妻を蔑ろにしていた結果。

下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。 主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。 小説家になろう様でも投稿しています。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

愚か者の話をしよう

鈴宮(すずみや)
恋愛
 シェイマスは、婚約者であるエーファを心から愛している。けれど、控えめな性格のエーファは、聖女ミランダがシェイマスにちょっかいを掛けても、穏やかに微笑むばかり。  そんな彼女の反応に物足りなさを感じつつも、シェイマスはエーファとの幸せな未来を夢見ていた。  けれどある日、シェイマスは父親である国王から「エーファとの婚約は破棄する」と告げられて――――?

処理中です...