上 下
1 / 2

あるヒンドゥー王(ラジャ)の愛猫

しおりを挟む
 アクバル(第三代ムガル皇帝)からの使者は、王の間を退室した。
 プラタープ(メーワール王二世)は、玉座を離れない。
 あるいは、アクバルの望み通り、帝国の従属国となれば、念願のチットールガル(メーワール王国の最初の首都)を取り戻せるのかもしれない。
「いや、それでは意味がない」
 プラタープは、呟いた。
 誇り高きメーワール王の嘆きであった。
 このラジャ(王)は、世界で最初に「ゲリラ戦」を実戦した君主かもしれなかった。
 そのゲリラ戦が功を奏し、一時、イスラム王朝ムガル帝国に占領されたメーワールの領土の大半を奪還したプラタープである。
 しかし、平地のチットールガルでは、ゲリラ戦が使えない。
 この膠着状態をどうにかしたいと思うのは、メーワール王だけではなかった。
 それゆえ、アクバルは交渉の使者を送ってきたのだ。
 正式な使者である。
 皇帝がへりくだって、歩み寄って来たことに、プラタープもあからさまに無下にはできない。
 また、少しは溜飲が下がる思いである。
 しかし、であった。
 チットールガル欲しさに、メーワール王朝そのものを明け渡してしまったのでは、元も子もないのである。
 これに応じれば、眼の前にぶら下がったエサに釣られて王国を売ったラジャであると、後世に汚名を残すことになろう。
 そう考え始めると、我は軽く見られているに過ぎない、としきりに思えてくる。
「ならば、同様の返答を返してやろう」
 プラタープは再びつぶやき、呼び鈴を鳴らした。
 直ちに従者が部屋の入口に現れて平伏した。
「大臣を呼んでくれ。お前は、狩りの準備を頼む」
「ははあ」
 プラタープが大臣に頼んだのは、自らの影武者の手配と、そのダミーのアクバル派遣であった。
 それは、その場しのぎのマヤカシなどではなかった。
 れっきとした、挑戦状であったのだ。

 偽プラタープ派遣の手はずを整えると、プラタープは、森に狩りに入った。
 ウダイプル(チットールガルが奪われた後の首都)の南東に広がる森だ。
 狩猟豹しゅりょうひょう(チーター)を使った狩りである。
 森には、何箇所か狩猟小屋があり、プラタープらとチーターはそこで待機し、そこから出動する。
 少ないが水辺もあり、そこには、飲水のみみずを求めて、鹿や鳥などの野生動物が集まる。
 それを獲物にするのである。
 チーターは、人間に良く懐く。
 そして、肉食獣の中では、珍しく人間を襲わない。
 故に、古代エジプトより、チーターによる狩猟が行われてきた。
 チーターの和名が「狩猟豹」というのはそこに由来するのだ。
 しかし、誰もがチーターを手にできるものではない。
 権力者、王のように、財力がある者の特権であるのだ。
 徳川家康が鷹狩りを奨励したように、ヒンドゥーの王たちは、チーター狩りを愛したのである。
 チーターは、食肉目ネコ科チーター属の肉食獣である。
 まさに、王の、王だけの大型野生猫である。
 その日は、三頭のチーターでの狩りであった。
 収穫は、鴨が八羽。
 何頭かの鹿を取り逃がした。
「この森の狩りのように、チットールガルでも、戦えるならば、我軍も勝利できるのだが」
 猟の後、プラタープは、そう呟いた。
 では、なぜ、チットールガルでは、これが出来ないか。
 それは、身を隠す場所がないからである。
 では、身を隠す場所を造るしか無い。
「そうか」
 平地でのゲリラ戦を着想したのは、この日の猟だったのである。
 一五八五年。
 プラタープ五〇歳。
 この年の初冬の頃、雌のチーターが生まれた。
 長年連れ添ったウクバス(雌のチーター)の子である。
 謁見したプラタープは、すぐに赤子のチーターを気に入った。
 そしてウクバスの檻を宮殿の、ラジャ(王)の居室の隣に新設し、自らの目の届くところで育てさせたのである。
 膝の上のチーターの子供は、まさに子猫である。
 幼チーターの特徴である背中のりゅう状体毛(たてがみ)は、黄金色がかっていた。
 草原の草のように。
「よしよし、お前に名を進呈しよう。そう、メダン(平原)が良い。そうしよう。メダン、メダンや。よしよし」
 まさに猫可愛がりであった。
 プラタープは、ウクバスの狩りにも、メダンを毎回連れて行った。
 狩りを覚えさせるためである。
 そして、三年が経った。

ジャーナ行け
 メダンは、塹壕からスロープを駆け上がり、走り出した。
 メダンが時速百キロに達するまでに掛かるタイムは、わずか三秒。
 もっとも、クロヅルが、メダンの姿を認めるのは、メダンが一○メートルほどの距離に近づいた時であろう。
 すでにトップスピード(百二十キロ)に近い。
 もはや、クロヅルは逃げるどころではない。
 慎重に駆け出したメダンは、左から回り込むように湿地の水際を駆けて行く。
 定めたクロヅルの背後に回るのであった。
 そこからが早かった。
 傍目はためには一瞬の出来事である。
 メダンは、クロヅルに乗るように背中に襲いかかる。
 噛みつかれたクロヅルは、気がつけば組み敷かれている。
 その他のクロヅルは、群れごと飛び去ろうと、助走を開始した。
 プラタープは塹壕を出て、歩いていった。
 すでに、クロヅルは動いていなかった。
 メダンは、狩猟豹として、見事に成長した。
 まさに、平原の狩人である。
「そもそも、お前たちのように我等が戦えるなら、都は取り戻せるのだが」
 狩りは、常に戦闘の予行演習である。
 山岳丘陵のゲリラ戦も、予行演習によって精度が上げられていった。
 湿地帯でのチーターによる狩りも、言ってみればチットールガル奪還のシミュレーションである。
 しかし、これは実戦に使えるのか。
 その湿原は、チットールガルの南南西四〇キロのところに広がっていた。
 現在の、Talou bandhのあたりか。
 そこに塹壕を掘る計画を立てたのが、メダンが一歳のときである。
 プラタープはまず、穴を掘らせ、背の低い石の猟師小屋を造った。
 更に、その小屋から湿原を遠巻きに、約百メートルの塹壕を掘らせた。
 塹壕の深さは、約七〇センチ。
 チーターの肩の高さである。
 すなわち、チーターは身をかがめることなく、湿原を見渡せる。
 人間も、座れば、ちょうど首だけが出る高さなのだ。
 そして、塹壕には、二メートル置きにスロープの通路があり、チーターはそこから獲物目掛けて出動するのである。
 前日から猟師小屋に、プラタープと従者数人、メダンが待機し、翌朝、小屋から続く塹壕を通って、鳥の群れに近づき、時を計らい、メダンを出撃させるのである。
 そして、この日、その三年越しの計画が成功したのであった。
「でかしたぞ、メダン」
 そう言うと、プラタープは弓矢で、クロヅルに止めを刺し、メダンに褒美の鹿肉を与えた。
「あとは、実戦のみである」
 この翌日から、プラタープは、チットールガルでのゲリラ戦計画を練り始めた。
 計画と言っても、単純な話であった。
 チットールガルの近隣の複数地点から、地下通路を掘り、街の下を張り巡らせる。
 それだけである。
 しかし、それだけが至難であった。
 当時、その計画実行に不可欠な掘削技術が発達していなかった。
 さらに、チットールガルの下の地盤は、意外に堅い場所が多いことが、試掘後すぐに判明したのである。
 予想以上に掘削は難航した。
 その間も、帝国軍との戦闘が数回あった。
 塹壕も思うように掘り進めず、月日だけが経過していった。
 一五九〇年、プラタープは首都を南下させ、チャーヴァンドに定め、遷都した。
 これも、塹壕計画のための擬装であった。
 遷都後、なぜか不運続きであった。
 チットールガルの東側からの塹壕掘削部隊が落盤に遭い、複数の死者が出た。
 そして、一五九六年、小さな戦闘の際、プラタープは胸に重症を負った。
 それは自らの弓矢のご発射であった。
 距離を出そうと、特注させた堅い弓であった。
 傷は、何ヶ月も癒えなかった。
 その傷が、誇り高きメーワール王国の、ラジャ(王)を気弱にした。
 五十六歳。
 あのメダンも十一歳。
 もはや寿命に近い。
 その頃は、もはやメダンは狩りに出ることは無かった。
 病のプラタープに付き添っている。
「背に黄金の産毛がある頃から、お前と共に戦って来たが、余は、最早疲れてしまった」
「グウウウ」
 メダンは、プラタープを労るように喉を鳴らした。

「大臣様、大変にございます。王様のお姿がどこにもございませぬ」
 突然従者が館に駆け込んできて、大臣にほうじた。
 ラジャ、プラタープが姿を消したのであった。

 満月が出ていた。
 遠く、チットールガルの、街の灯りが見える。
「余の夢はついえたのじゃ。最早これまでである」
 メーワール王の目に涙が光った。
「グウウウ」
「お前も泣いているのか、メダン」
 プラタープは、メダンを抱き寄せ、目を閉じた。
 
 二日後、ラジャは発見された。
 アラバリ山の山頂付近であった。
 すでに息絶えている。
 そのラジャの腕に抱かれていた愛猫あいびょうも、すでに息が無かった。
しおりを挟む

処理中です...