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一朝亭冬蔵の新作古典
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トントントン、と太鼓の調子。
一拍置き、シャンシャンと三味線が鳴る。
拍手が起こり、出囃子が続く、しばらくして、舞台上手から、現われたのは、このところ、異才と評判の古典落語家、一朝亭冬蔵。
一際、拍手が強くなり、中央の演台を上がるや、座布団に座り、深々と頭を下げた。
頭を上げると、一気に拍手が止む。
「大勢のお運び、ありがとう存じます。しばらくの間、お付き合いを願います」
やや皮肉な笑いを浮かべながら、決まりきった挨拶をしたのを、通な客が笑った。
なんで落語っていうのはこんな変な挨拶をするのか、という冬蔵の内心を感じ取ったのだ。
そう皮肉ってみせるのは、冬蔵の一種の照れであって、心の底から、古典を馬鹿にしているわけではない事も観客はお見通し。
本心から馬鹿にしていたら、落語家なんぞにゃあ成っていない。
「この所、どのところか全く分かりませんが、災いが多ございまして、落ち着く暇もございません。災いって言ったって、特定の個人に降りかかる祟りみたいなものではなく、災害のことですよ。もはや、いつから続いているのか分かりませんよ、ほんと。うんざりしますが。そんな中、日本人は我慢強い、被災しても、自分の事よりも他人の事、などと海外の方々には、褒められているようで。いい話ではありますが、内心は、勘弁してくれよ、ですよね。それが人情ってものでしょ、なーんて強がってみせても、本当は海外逃亡でもしたいところですよ、まったく。日本は災害が多いところですよ、古代から。なんたって列島そのものが火山で出来てるようなもんですからね。諦めるしか無い。それは江戸の頃も変わらずで。江戸の災害といえば火事。火事と喧嘩は江戸の花、なんてよく言いますが、勘違いしたらいけなせんよ、これは。火事そのものを花、と言ったわけではない。火消しの働きぶりの華々しさを言ったのですよ。分かりますか。ああ、火事って見てるぶんにはキレイだなあ、花火よりずっといいやって、そんな事を言ったわけではないので」
笑いが起こり、冬蔵はそれに乗じて羽織を後ろに脱ぎ落とした。
「本所、今の両国辺りの長屋に、定吉という大工が一人住んでおりました。歳の頃は二十五、六。未だに独り者。腕は確かだが、少々変わり者でして。なかなか良い縁がない。幼い頃に大火事で二親に先立たれ、今の棟梁の家に拾われた。腕は良いんだが情を表に出さねえで評判。どうも人をあまり信用していないところがある。それも二親を早く亡くしたことと関わりがあるものかねえ、と親方の女房はかねてより心配頻り。それでも独り立ちして、長屋に越してきて、はや一年ちょっと過ぎたある夜。定吉がノミを研いでいると」
「トン、トン」
定吉は気づかない。
「トントン」
定吉「なんだ、風か」
「トン、トン、トン」
定吉は、念のため立っていき、戸を開けた。
綺麗な着物姿の若い女。
女「夜分にすみません」
定吉は、見覚えのある、その女とどこで会ったか思い出せないでいる。
定吉「ええ、どちらさんで」
女「昼間はありがとうございました」
定吉「ああ、思めえ出しやした。あの時の」
女「大変助かりました。本当にありがとうございました」
女は何度も頭を下げる。その日の昼間、定吉が仕事の材料を追加注文して現場に戻る途中、両国橋の袂で、定吉の前を歩く女が風呂敷包みを落とした。それに気づいた定吉が拾って、女に渡した。
女「あれは、大事な薬で、さる御武家様のご注文のもの。無くしたら大変な事になるところでございました」
定吉「それでわざわざ、そんな大仰に考えなくても、ようござんすよ」
女「そんな事はございません。こちらはほんの気持ちですが」
女は風呂敷包みの菓子折りのようなものを差し出すが、定吉は受け取ろうとしない。
定吉「そんな事をされちゃあ、こっちが気の毒に思っちまいますんで、本当に結構で」
何度か押し問答があって、折れたのは定吉のほう。
上がってもらって茶を出すのも散らかっていて気がすすまない。
定吉「もう、すっかり暗くなっちまってますから、あっしが送って行きます。ちょっと待っておくんなせえ」
支度をしようと家の中に戻ろうとする定吉に。
女「いいえ、それには及びません」
定吉「危ねえからよお。何かあっちまってからでは遅えし、そんなことになっちまったら、こっちが気を病んで寝込んじまうようでえ」
女「お気持ちは有り難いのですが、帰るところが無くなってしまったのです」
定吉「え、それはどういうことで」
聞けば、女は越中から両国の薬種問屋に奉公に上がって二年。失敗ばかりで、迷惑のかけ通し。今日も、せっかく定吉が大事な薬の包みを拾ってくれて命拾いしたにも関わらず、その御武家宅から帰る途中、その代金を落としてしまったと言う。しかも、それが今回だけでなく数回あるとのこと。今度ばかりは、問屋の主人も耐えかねて、もうこの店には置いておけない、と。
定吉「本心から旦那さんは、そんなことをおっしゃったわけじゃありゃあせんよ」
女「そんなことはありません。今までも、何度もそう言われて、その度に、何度も頭を下げてようやく許してもらってきたのでございます。それを私は。こうなったのは無理もございません。私がすべて悪いのでございます。明日には、越中に帰ろうと思います。お願いですから、今晩だけ、こちらに泊めていただけませんでしょうか。どうか、どうか」
興奮して大声で頼む女に、定吉は声を落として話しかける。
定吉「こんなむさ苦しい男所帯。お泊めするのは気が引けますが、ひとまず、中で話を聞きましょう」
このような次第で、止むに止まれず、その女を一泊の約束で泊めた定吉。
これまでの奉公のことなどを女も遠慮もせずに次々と話す。それをまた定吉も嫌がらずに聞く。
女の名は、末の娘ということで、おすえ。
おすえは、次の朝、早くに起きて、朝餉の支度などをして、すっかり女房のよう。
おすえ「いってらっしゃい。この後、旅支度をして、出ていきます。本当にお世話になりました」
定吉「いやいや、礼には及ばねえ。達者で。無事で帰っておくんなせえ」
そう送り出し、送り出されて、仕事に出かけた定吉が、夕方長屋に戻ってみるってえと、おすえはまだ家にいる。
定吉「どうしたんでえ、また何かあったのけえ」
心配する定吉におすえは泣きながら。
おすえ「どのみち、実家に帰っても、厳しい父のこと。追い出されるのは間違いありません。あああ」
さすがの、定吉も困った。
そしてしばらく泣くに任せておいて、自分は、道具箱を片付けた。
そのうちに、おすえは台所に立っていって夕餉の支度などをし始めた。
そうこうしている内に、一月ほど過ぎまして、季節は秋から冬へ。
定吉は冬が大嫌い。
それは、あの大火事、明暦の大火を思い出すからでして。
おぼろげながら、燃えさかる町を彷徨い、おかあちゃん、おとうちゃんと叫んで探した、記憶が蘇る。
二十年以上経っても、冬だけは駄目。
どこか、気もそぞろで、落ちつかず、普段あまり飲まない酒を飲んで帰る。
おすえ「おかえんなさい、定吉さん。遅かったですねえ。すぐにご飯の支度をしますから」
定吉は、おすえが家に居ることもすっかり忘れていた。
おすえ「今夜は、特に冷えますから。お鍋にしました。お酒も買ってきましたので、いま燗をおつけしますが、ぬる燗ですか、熱燗ですか」
定吉「すまねえ、もう飲んできた」
少し、ささくれだった気持が言葉の端に出た。
しかし、そんなことを、おすえは気に留めるふうもない。
おすえ「それはようございました。それでは、お飲み直しください。寒い日はお酒がよろしゅうございましょう」
何だが、言葉遣いが武家の妻のよう。
この夜、定吉とおすえは、初めて男女の仲になります。
夜が更けて、なかなか寝付けない二人。
床に背を向けて寝ておりますが、お互いにまだ寝ていないことは分かっております。
定吉「なあ、おすえ」
おすえ「はい」
定吉「どうして、おまえは、そんなに俺に良くしてくれるのだ」
おすえはすぐには答えない。
定吉は寝返りをうって、おすえの方を向いた。
定吉「どうしてだい」
普通なら、あなたが好きになりました、とかそういう答えを期待するものです。定吉もそういう返しを待っていたわけですが、おすえは、定吉の方を向きもしないで、話し始めた。
おすえ「母が大変にお世話になりました」
定吉「それは・・・」
何のことやら。おすえは、訝る定吉に構わず続ける。
おすえ「わたしは、定吉さんがあの大火事の後、助けてくださった、三毛猫の一番の下の娘にございます」
おいおい、こいつ頭がおかしいんじゃないか。居るんだよなあ、やっちまった後に、しまった、と思うような女。
(笑い)
ぷっつん女。
(再び笑い)
定吉「なんの話でえ」
おすえ「お忘れですか、あの本所の燃え盛る、あの店の前にうずくまった三毛猫。定吉さんが飛んできて、拾い上げてくれたでしょう。その後、一緒に逃げてくれて、しばらく原っぱで一緒に居たあの三毛猫」
定吉「ああ、あの」
確かに、定吉は逃げ惑う中、目に入った傷ついた三毛猫を助けたことを思い出した。
おすえ「あのミケは私の母にございます」
定吉「そんな馬鹿な、このぷっ」
おすえ「信じられないのは無理もございません。そんな化け猫のような話」
定吉「ような話って、化け猫の話でしょ、それ、早い話が。そんな話は初めに言ってくんねえかなあ、やっちまってからよう」
(笑い)
おすえ「お嫌いですか、わたしが」
定吉「嫌いも何も、猫じゃん」
(笑い)
おすえ「そうです。では、私は出ていきます。お世話になりました」
そういうと、おすえは寝返りを打ち、定吉の方を向いた。
到底、猫には見えない。
暗がりでも、その透き通るような肌が見えるようだ。
そんなおすえがすすり泣く。
定吉「おめえ、本気か」
おすえ「定吉さんは、ほんの遊びだったの」
定吉「そんなこたあ、ねえよ。俺だって、あの大火事のことは、忘れたこたあ無え。記憶に焼き付いて、離れねえ。やけに冷える夜だったあ。今夜みていによお。いや、もっとだったあ。そこを焼け出されて、親とも離れ離れ。それ以来みなしご。あの時は、そう体がひとりでに動いて、走ってた。同じに見えたんだろうよ、自分とよ。あのミケが。食うものも無くて、原っぱで、ミケを抱いてるとよ、それでも暖かかった。俺の方だよ、救われたのは」
おすえ「母は、定吉さんが、大工の棟梁に拾われた後も、食べるものを運んできてくれた、と大変に感謝しておりました。今私がこうしていられるのも、定吉さんのおかげなんです。母は、、、死ぬ間際、定吉さんに、もう一度、もう一度だけ会いたい、そう言い残して息を引き取ったのでございます」
定吉「そうだったのけえ」
おすえ「わたしに、母に代わって、恩返しをさせてはもらえませんでしょうか」
定吉は、泣いていて言葉にならない。
おすえ「ねえ定吉さん、それが人情というものでしょう」
定吉「人情って、そりゃ猫情にゃん」
「猫の人情噺でした」
一拍置き、シャンシャンと三味線が鳴る。
拍手が起こり、出囃子が続く、しばらくして、舞台上手から、現われたのは、このところ、異才と評判の古典落語家、一朝亭冬蔵。
一際、拍手が強くなり、中央の演台を上がるや、座布団に座り、深々と頭を下げた。
頭を上げると、一気に拍手が止む。
「大勢のお運び、ありがとう存じます。しばらくの間、お付き合いを願います」
やや皮肉な笑いを浮かべながら、決まりきった挨拶をしたのを、通な客が笑った。
なんで落語っていうのはこんな変な挨拶をするのか、という冬蔵の内心を感じ取ったのだ。
そう皮肉ってみせるのは、冬蔵の一種の照れであって、心の底から、古典を馬鹿にしているわけではない事も観客はお見通し。
本心から馬鹿にしていたら、落語家なんぞにゃあ成っていない。
「この所、どのところか全く分かりませんが、災いが多ございまして、落ち着く暇もございません。災いって言ったって、特定の個人に降りかかる祟りみたいなものではなく、災害のことですよ。もはや、いつから続いているのか分かりませんよ、ほんと。うんざりしますが。そんな中、日本人は我慢強い、被災しても、自分の事よりも他人の事、などと海外の方々には、褒められているようで。いい話ではありますが、内心は、勘弁してくれよ、ですよね。それが人情ってものでしょ、なーんて強がってみせても、本当は海外逃亡でもしたいところですよ、まったく。日本は災害が多いところですよ、古代から。なんたって列島そのものが火山で出来てるようなもんですからね。諦めるしか無い。それは江戸の頃も変わらずで。江戸の災害といえば火事。火事と喧嘩は江戸の花、なんてよく言いますが、勘違いしたらいけなせんよ、これは。火事そのものを花、と言ったわけではない。火消しの働きぶりの華々しさを言ったのですよ。分かりますか。ああ、火事って見てるぶんにはキレイだなあ、花火よりずっといいやって、そんな事を言ったわけではないので」
笑いが起こり、冬蔵はそれに乗じて羽織を後ろに脱ぎ落とした。
「本所、今の両国辺りの長屋に、定吉という大工が一人住んでおりました。歳の頃は二十五、六。未だに独り者。腕は確かだが、少々変わり者でして。なかなか良い縁がない。幼い頃に大火事で二親に先立たれ、今の棟梁の家に拾われた。腕は良いんだが情を表に出さねえで評判。どうも人をあまり信用していないところがある。それも二親を早く亡くしたことと関わりがあるものかねえ、と親方の女房はかねてより心配頻り。それでも独り立ちして、長屋に越してきて、はや一年ちょっと過ぎたある夜。定吉がノミを研いでいると」
「トン、トン」
定吉は気づかない。
「トントン」
定吉「なんだ、風か」
「トン、トン、トン」
定吉は、念のため立っていき、戸を開けた。
綺麗な着物姿の若い女。
女「夜分にすみません」
定吉は、見覚えのある、その女とどこで会ったか思い出せないでいる。
定吉「ええ、どちらさんで」
女「昼間はありがとうございました」
定吉「ああ、思めえ出しやした。あの時の」
女「大変助かりました。本当にありがとうございました」
女は何度も頭を下げる。その日の昼間、定吉が仕事の材料を追加注文して現場に戻る途中、両国橋の袂で、定吉の前を歩く女が風呂敷包みを落とした。それに気づいた定吉が拾って、女に渡した。
女「あれは、大事な薬で、さる御武家様のご注文のもの。無くしたら大変な事になるところでございました」
定吉「それでわざわざ、そんな大仰に考えなくても、ようござんすよ」
女「そんな事はございません。こちらはほんの気持ちですが」
女は風呂敷包みの菓子折りのようなものを差し出すが、定吉は受け取ろうとしない。
定吉「そんな事をされちゃあ、こっちが気の毒に思っちまいますんで、本当に結構で」
何度か押し問答があって、折れたのは定吉のほう。
上がってもらって茶を出すのも散らかっていて気がすすまない。
定吉「もう、すっかり暗くなっちまってますから、あっしが送って行きます。ちょっと待っておくんなせえ」
支度をしようと家の中に戻ろうとする定吉に。
女「いいえ、それには及びません」
定吉「危ねえからよお。何かあっちまってからでは遅えし、そんなことになっちまったら、こっちが気を病んで寝込んじまうようでえ」
女「お気持ちは有り難いのですが、帰るところが無くなってしまったのです」
定吉「え、それはどういうことで」
聞けば、女は越中から両国の薬種問屋に奉公に上がって二年。失敗ばかりで、迷惑のかけ通し。今日も、せっかく定吉が大事な薬の包みを拾ってくれて命拾いしたにも関わらず、その御武家宅から帰る途中、その代金を落としてしまったと言う。しかも、それが今回だけでなく数回あるとのこと。今度ばかりは、問屋の主人も耐えかねて、もうこの店には置いておけない、と。
定吉「本心から旦那さんは、そんなことをおっしゃったわけじゃありゃあせんよ」
女「そんなことはありません。今までも、何度もそう言われて、その度に、何度も頭を下げてようやく許してもらってきたのでございます。それを私は。こうなったのは無理もございません。私がすべて悪いのでございます。明日には、越中に帰ろうと思います。お願いですから、今晩だけ、こちらに泊めていただけませんでしょうか。どうか、どうか」
興奮して大声で頼む女に、定吉は声を落として話しかける。
定吉「こんなむさ苦しい男所帯。お泊めするのは気が引けますが、ひとまず、中で話を聞きましょう」
このような次第で、止むに止まれず、その女を一泊の約束で泊めた定吉。
これまでの奉公のことなどを女も遠慮もせずに次々と話す。それをまた定吉も嫌がらずに聞く。
女の名は、末の娘ということで、おすえ。
おすえは、次の朝、早くに起きて、朝餉の支度などをして、すっかり女房のよう。
おすえ「いってらっしゃい。この後、旅支度をして、出ていきます。本当にお世話になりました」
定吉「いやいや、礼には及ばねえ。達者で。無事で帰っておくんなせえ」
そう送り出し、送り出されて、仕事に出かけた定吉が、夕方長屋に戻ってみるってえと、おすえはまだ家にいる。
定吉「どうしたんでえ、また何かあったのけえ」
心配する定吉におすえは泣きながら。
おすえ「どのみち、実家に帰っても、厳しい父のこと。追い出されるのは間違いありません。あああ」
さすがの、定吉も困った。
そしてしばらく泣くに任せておいて、自分は、道具箱を片付けた。
そのうちに、おすえは台所に立っていって夕餉の支度などをし始めた。
そうこうしている内に、一月ほど過ぎまして、季節は秋から冬へ。
定吉は冬が大嫌い。
それは、あの大火事、明暦の大火を思い出すからでして。
おぼろげながら、燃えさかる町を彷徨い、おかあちゃん、おとうちゃんと叫んで探した、記憶が蘇る。
二十年以上経っても、冬だけは駄目。
どこか、気もそぞろで、落ちつかず、普段あまり飲まない酒を飲んで帰る。
おすえ「おかえんなさい、定吉さん。遅かったですねえ。すぐにご飯の支度をしますから」
定吉は、おすえが家に居ることもすっかり忘れていた。
おすえ「今夜は、特に冷えますから。お鍋にしました。お酒も買ってきましたので、いま燗をおつけしますが、ぬる燗ですか、熱燗ですか」
定吉「すまねえ、もう飲んできた」
少し、ささくれだった気持が言葉の端に出た。
しかし、そんなことを、おすえは気に留めるふうもない。
おすえ「それはようございました。それでは、お飲み直しください。寒い日はお酒がよろしゅうございましょう」
何だが、言葉遣いが武家の妻のよう。
この夜、定吉とおすえは、初めて男女の仲になります。
夜が更けて、なかなか寝付けない二人。
床に背を向けて寝ておりますが、お互いにまだ寝ていないことは分かっております。
定吉「なあ、おすえ」
おすえ「はい」
定吉「どうして、おまえは、そんなに俺に良くしてくれるのだ」
おすえはすぐには答えない。
定吉は寝返りをうって、おすえの方を向いた。
定吉「どうしてだい」
普通なら、あなたが好きになりました、とかそういう答えを期待するものです。定吉もそういう返しを待っていたわけですが、おすえは、定吉の方を向きもしないで、話し始めた。
おすえ「母が大変にお世話になりました」
定吉「それは・・・」
何のことやら。おすえは、訝る定吉に構わず続ける。
おすえ「わたしは、定吉さんがあの大火事の後、助けてくださった、三毛猫の一番の下の娘にございます」
おいおい、こいつ頭がおかしいんじゃないか。居るんだよなあ、やっちまった後に、しまった、と思うような女。
(笑い)
ぷっつん女。
(再び笑い)
定吉「なんの話でえ」
おすえ「お忘れですか、あの本所の燃え盛る、あの店の前にうずくまった三毛猫。定吉さんが飛んできて、拾い上げてくれたでしょう。その後、一緒に逃げてくれて、しばらく原っぱで一緒に居たあの三毛猫」
定吉「ああ、あの」
確かに、定吉は逃げ惑う中、目に入った傷ついた三毛猫を助けたことを思い出した。
おすえ「あのミケは私の母にございます」
定吉「そんな馬鹿な、このぷっ」
おすえ「信じられないのは無理もございません。そんな化け猫のような話」
定吉「ような話って、化け猫の話でしょ、それ、早い話が。そんな話は初めに言ってくんねえかなあ、やっちまってからよう」
(笑い)
おすえ「お嫌いですか、わたしが」
定吉「嫌いも何も、猫じゃん」
(笑い)
おすえ「そうです。では、私は出ていきます。お世話になりました」
そういうと、おすえは寝返りを打ち、定吉の方を向いた。
到底、猫には見えない。
暗がりでも、その透き通るような肌が見えるようだ。
そんなおすえがすすり泣く。
定吉「おめえ、本気か」
おすえ「定吉さんは、ほんの遊びだったの」
定吉「そんなこたあ、ねえよ。俺だって、あの大火事のことは、忘れたこたあ無え。記憶に焼き付いて、離れねえ。やけに冷える夜だったあ。今夜みていによお。いや、もっとだったあ。そこを焼け出されて、親とも離れ離れ。それ以来みなしご。あの時は、そう体がひとりでに動いて、走ってた。同じに見えたんだろうよ、自分とよ。あのミケが。食うものも無くて、原っぱで、ミケを抱いてるとよ、それでも暖かかった。俺の方だよ、救われたのは」
おすえ「母は、定吉さんが、大工の棟梁に拾われた後も、食べるものを運んできてくれた、と大変に感謝しておりました。今私がこうしていられるのも、定吉さんのおかげなんです。母は、、、死ぬ間際、定吉さんに、もう一度、もう一度だけ会いたい、そう言い残して息を引き取ったのでございます」
定吉「そうだったのけえ」
おすえ「わたしに、母に代わって、恩返しをさせてはもらえませんでしょうか」
定吉は、泣いていて言葉にならない。
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定吉「人情って、そりゃ猫情にゃん」
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