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ヘミングウェイの最初の猫
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セミノール族の男だった。
男は、私の進行方向、向かって左側にある棕櫚の木陰から忽然と現れた。
私とセミノール族の男は、ちょうど同時に桟橋に辿り着いた。
桟橋には一艘も接岸していない。
動くものは、二人の他には無い。
「こんにちは、ミスター」
相手が白人であれば、もっと素っ気ない言い方で返したかもしれない。
「真っ白い猫を見なかったかい」
私は、親しげに微笑みかけ、男に尋ねた。
「猫ですかい」
「そうだ、よく肥えた白いミトンハンドなんだが」
男は、両手をあげて肩をすくめた。
「もう何日も、猫を見かけてないんです」
私は笑って。
「そりゃそうだろう。一杯やりに行くんだが一緒に行くかい」
男はまた肩をすくめ、黙って私についてくる。
昼下がりのスロッピージョーは閑散としていて、店主は新聞をめくっている。
「ダブルを二つ頼む」
「お早いですね。今日は」
それには答えずに、私は男への説明を再開した。
「その譲り受けた猫が、変わった猫でね、指が六本あるんだ」
「そりゃ、珍しい。何でなんですかい」
「俺も、同じように船長に訊いたんだがね。貨物船は、それが当たり前なんだとさ。何でも、船の上に張られたロープやらマストやらにしっかり掴まれるように、そうなったんだとさ」
「そりゃ、何んて言うんですかい、そのお・・・」
「進化、だろ」
「そう、それです。進化」
「こんな形、こんな普通よりも大きい手」
私は、自分の手で、それを説明した。
男は、分かったような、分からないような。
「それでね、名前も一緒に譲り受けたんだがね。スノーボールって名前でね。何でスノーボールなんて妙ちくりんな名前なんだね、て訊いたんだよ、その船長に。雪玉だよ雪玉、何だって大航海する船の上で雪玉なんだい、ってね。何とか言ってたんだがね、忘れちまった。要は白いっていうだけのことさ。で、可哀想なんでね、こんな合衆国最南端の島で、雪玉は無いだろうってことで、スノーホワイトって改名したのさ。奴は、ホワイトなんて呼んだんじゃ、私になんて寄り付かないからね」
「そりゃ良い考えでさあ」
男は微笑んで、紙巻き煙草を取り出すと、私に一本勧めた。
「ありがとう。ちなみにお前さんの家はどこだい」
「住んでないんですあ。マイアミから二日かけてやってきましたです。友達の結婚式でね。パーティが明日あるんですあ」
「へえ、それでね。どうりであまり見ない顔だと思ったよ。宿はどうするんだい」
「宿なんてありゃしません。ここまでだって野宿しながらやってきたですあ」
そうだろうと思っていながら尋ねたのだった。
「良かったら、うちに来ないかい。そのスノーホワイトも、もう帰って来ると想うしな。見たいだろ、その猫」
「いいんですかい」
「いいとも。妻が一人いるけど、気にしないで良い」
「マスター、ダブルのおかわりをくれ」
「はいよ」
私は、その男に特別好感を抱いたわけではない。
彼が先住民だということに少しだけ好意を持っただけだ。
それから、さらにもう一杯ずつ、フローズン・ダイキリを飲んだ後、二人で私の家に向かった。
日暮れまではもう少しあった。
私は知っていた。
先住民は日の入と共に眠りに就くことを。
「部屋はいくつもあるからどこでもいいんだ」
「いいや、部屋なんて要りませんです。その庭の、そう、そのベンチに寝ますから、気にせんでくだせえ」
男は緑のベンチを指差して言った。
それで、私はもう一つ同じベンチを引っ張り出してきて、白い小さな丸テーブルも運んで、男に付き合うことにした。
妻がパンとコンビーフとワインを持ってきてくれた。
男は礼を言うと、パンとコンビーフを食べ、早々と寝る態勢に入った。
ワインには手を付けなかった。
苦手というよりは、もう十分なのだろう。
私は逆に、パンとコンビーフには手を付けずワインをちびちびやりながら話を続けた。
北ミシガンの故郷の話やら、パリでの生活の話やら、釣りの話やらだった。
男は、本当に暗くなると同時に眠りについた。
私は男の寝息を確認すると、アルコールランプの傘を外して、紙巻き煙草に火をつけ、ベンチに横になった。
私は、眠る代わりに回想した。
初めての相手だった。
彼女も先住民だった。
薄赤褐色の肌は、決して光沢があるわけではなかった。
なぜなら、その肌は柔らかい産毛に覆われていたからである。
もちろん、そのことが分かったのは、初めて交わった時だった。
日暮れ前の夕陽に赤く照らされた草原だった。
彼女はすっかり裸になって、私よりも二歳年下であるにも関わらず、全てにおいて私をリードした。
夕陽に染まった彼女の上半身は私の脳裏に焼き付いている。
私はすぐにも、イキそうになったのだが、彼女がそれを察して、大事に大事に導いてくれたのだった。
「まだ、だめよ。もっと良くなるから」
私は声にならなかった。
本当は、もっと良くなるのは彼女のほうなのか、僕の方なのかを訊きたかったのに。
そうしているうちに、明らかに僕の方は、本当に良くなってきた。
粘度のある湿り気と、これ以上にない束縛と、毛皮のような肌ざわり、そして最後は心地良い痛みと解放。
あの時から二十年以上の年月を経た、今この瞬間になって私は初めて識った。
あの初めての感覚は、もう二度と私には訪れないことを。
私は、目を閉じた。
私は空っぽの庭で目覚めた。
すっかり陽は昇ってしまっていた。
私は何かに諦めて、身を起こさずにベンチに横になったまま、庭を見つめた。
セミノール族の男は居なくなっていた。
それは初めから分かっていたことだ。
あとで、妻に尋ねてみるつもりだが、彼女はきっと、そんな先住民の男など知らない、と言うに決まっている。
そうして、男は最初から居なかったことになるのだ。
その時だった。
門扉の横の棕櫚の影から、スノーホワイトが現れた。
そして私の方を見た。
目があった。
彼女は、まるで見知らぬ男を見るような目で私を見たのだ。
彼女はいつもするように、寄ってきて私の体に自分の体を擦り付けることはしなかった。
ただ門扉の方を見やると、そちらにゆっくりと歩いていく。
そしてそのまま庭を出ると、道路を時間をかけて歩いていき、そのうちに見えなくなった。
庭は再び空っぽになった。
その後、彼女の姿を見ることは無かった。
男は、私の進行方向、向かって左側にある棕櫚の木陰から忽然と現れた。
私とセミノール族の男は、ちょうど同時に桟橋に辿り着いた。
桟橋には一艘も接岸していない。
動くものは、二人の他には無い。
「こんにちは、ミスター」
相手が白人であれば、もっと素っ気ない言い方で返したかもしれない。
「真っ白い猫を見なかったかい」
私は、親しげに微笑みかけ、男に尋ねた。
「猫ですかい」
「そうだ、よく肥えた白いミトンハンドなんだが」
男は、両手をあげて肩をすくめた。
「もう何日も、猫を見かけてないんです」
私は笑って。
「そりゃそうだろう。一杯やりに行くんだが一緒に行くかい」
男はまた肩をすくめ、黙って私についてくる。
昼下がりのスロッピージョーは閑散としていて、店主は新聞をめくっている。
「ダブルを二つ頼む」
「お早いですね。今日は」
それには答えずに、私は男への説明を再開した。
「その譲り受けた猫が、変わった猫でね、指が六本あるんだ」
「そりゃ、珍しい。何でなんですかい」
「俺も、同じように船長に訊いたんだがね。貨物船は、それが当たり前なんだとさ。何でも、船の上に張られたロープやらマストやらにしっかり掴まれるように、そうなったんだとさ」
「そりゃ、何んて言うんですかい、そのお・・・」
「進化、だろ」
「そう、それです。進化」
「こんな形、こんな普通よりも大きい手」
私は、自分の手で、それを説明した。
男は、分かったような、分からないような。
「それでね、名前も一緒に譲り受けたんだがね。スノーボールって名前でね。何でスノーボールなんて妙ちくりんな名前なんだね、て訊いたんだよ、その船長に。雪玉だよ雪玉、何だって大航海する船の上で雪玉なんだい、ってね。何とか言ってたんだがね、忘れちまった。要は白いっていうだけのことさ。で、可哀想なんでね、こんな合衆国最南端の島で、雪玉は無いだろうってことで、スノーホワイトって改名したのさ。奴は、ホワイトなんて呼んだんじゃ、私になんて寄り付かないからね」
「そりゃ良い考えでさあ」
男は微笑んで、紙巻き煙草を取り出すと、私に一本勧めた。
「ありがとう。ちなみにお前さんの家はどこだい」
「住んでないんですあ。マイアミから二日かけてやってきましたです。友達の結婚式でね。パーティが明日あるんですあ」
「へえ、それでね。どうりであまり見ない顔だと思ったよ。宿はどうするんだい」
「宿なんてありゃしません。ここまでだって野宿しながらやってきたですあ」
そうだろうと思っていながら尋ねたのだった。
「良かったら、うちに来ないかい。そのスノーホワイトも、もう帰って来ると想うしな。見たいだろ、その猫」
「いいんですかい」
「いいとも。妻が一人いるけど、気にしないで良い」
「マスター、ダブルのおかわりをくれ」
「はいよ」
私は、その男に特別好感を抱いたわけではない。
彼が先住民だということに少しだけ好意を持っただけだ。
それから、さらにもう一杯ずつ、フローズン・ダイキリを飲んだ後、二人で私の家に向かった。
日暮れまではもう少しあった。
私は知っていた。
先住民は日の入と共に眠りに就くことを。
「部屋はいくつもあるからどこでもいいんだ」
「いいや、部屋なんて要りませんです。その庭の、そう、そのベンチに寝ますから、気にせんでくだせえ」
男は緑のベンチを指差して言った。
それで、私はもう一つ同じベンチを引っ張り出してきて、白い小さな丸テーブルも運んで、男に付き合うことにした。
妻がパンとコンビーフとワインを持ってきてくれた。
男は礼を言うと、パンとコンビーフを食べ、早々と寝る態勢に入った。
ワインには手を付けなかった。
苦手というよりは、もう十分なのだろう。
私は逆に、パンとコンビーフには手を付けずワインをちびちびやりながら話を続けた。
北ミシガンの故郷の話やら、パリでの生活の話やら、釣りの話やらだった。
男は、本当に暗くなると同時に眠りについた。
私は男の寝息を確認すると、アルコールランプの傘を外して、紙巻き煙草に火をつけ、ベンチに横になった。
私は、眠る代わりに回想した。
初めての相手だった。
彼女も先住民だった。
薄赤褐色の肌は、決して光沢があるわけではなかった。
なぜなら、その肌は柔らかい産毛に覆われていたからである。
もちろん、そのことが分かったのは、初めて交わった時だった。
日暮れ前の夕陽に赤く照らされた草原だった。
彼女はすっかり裸になって、私よりも二歳年下であるにも関わらず、全てにおいて私をリードした。
夕陽に染まった彼女の上半身は私の脳裏に焼き付いている。
私はすぐにも、イキそうになったのだが、彼女がそれを察して、大事に大事に導いてくれたのだった。
「まだ、だめよ。もっと良くなるから」
私は声にならなかった。
本当は、もっと良くなるのは彼女のほうなのか、僕の方なのかを訊きたかったのに。
そうしているうちに、明らかに僕の方は、本当に良くなってきた。
粘度のある湿り気と、これ以上にない束縛と、毛皮のような肌ざわり、そして最後は心地良い痛みと解放。
あの時から二十年以上の年月を経た、今この瞬間になって私は初めて識った。
あの初めての感覚は、もう二度と私には訪れないことを。
私は、目を閉じた。
私は空っぽの庭で目覚めた。
すっかり陽は昇ってしまっていた。
私は何かに諦めて、身を起こさずにベンチに横になったまま、庭を見つめた。
セミノール族の男は居なくなっていた。
それは初めから分かっていたことだ。
あとで、妻に尋ねてみるつもりだが、彼女はきっと、そんな先住民の男など知らない、と言うに決まっている。
そうして、男は最初から居なかったことになるのだ。
その時だった。
門扉の横の棕櫚の影から、スノーホワイトが現れた。
そして私の方を見た。
目があった。
彼女は、まるで見知らぬ男を見るような目で私を見たのだ。
彼女はいつもするように、寄ってきて私の体に自分の体を擦り付けることはしなかった。
ただ門扉の方を見やると、そちらにゆっくりと歩いていく。
そしてそのまま庭を出ると、道路を時間をかけて歩いていき、そのうちに見えなくなった。
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