クリムトの電報【31】

鈴木 了馬

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クリムトの電報【31】

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 二日間、雨が降り続いていた。
 エミーリエは、居間のドアの前に立ち止まった。玄関のドアに鍵がかかっていなかったので、グスタフ(クリムト)が居ることは確実だったが、まったく気配が無かった。それで、さらに不安になったエミーリエであったが、今、グスタフがソファに座って、八割れを抱いているのが見えた。覗くつもりは無かったが、一瞬声を掛けそびれて、グスタフの様子を覗う。
 前のアトリエから運んできた物どもは、何一つ手つかずのままであった。それは彼が、この一年、ほとんど絵を描いていないことを意味する。それでもグスタフは毎日こうしてアトリエに来て、中庭の花に水をやり、猫に餌をやると、絵仕事をする部屋ではなく控えの居間のソファに座って、八割れの猫、カッツェとともに時を過ごす。誰も知らないが、実はこのカッツェは、グスタフの亡き弟の忘れ形見である。
 絵は描かなくとも、やはりグスタフは常に絵のことについて考える。美術史や日本の書物などを読み漁る。そしてそういうことすら手に付かなくなれば、アトリエを出て、行くところといえば、やはり美術館である。
 三日目の雨の朝だった。
 鬱の人は、長雨に弱いだろう、とエミーリエは急に心配になり、グスタフの新しいアトリエに立ち寄ることにしたのだった。
 今、彼の手には書物はなく、猫を抱いて、中庭が見える窓の方をを向いていた。
 カッツェの方が先に、エミーリエに気が付き顔を上げたことで、グスタフも我に返り、振り向いた。
「ハロ…」
 エミーリエは静かに微笑みかけた。
 グスタフは口を開いたが、声は出さない。微笑んだ訳では無いが微かな表情をこしらえた。
 エミーリエは部屋に入り、さっきまでグスタフが見ていた窓に目をやった。
 雨の中に浮かぶように、セイヨウニワトコの白い花が見える。
「よく降るわねえ」
 エミーリエは、あまり意味のない独り言を言ったつもりだった。
「五月の終わりの一週間は、いつも雨だ」
 画家の観察眼らしい、その着眼点。
「そうなの、知らなかった」
「知らなくて当然。僕がこの雨を気にするようになったのは、この時期になると、母が特に具合が悪いからなんだ。普通に考えれば、冬のほうが気が落ち込むように思いがちだが、違うんだ」
 グスタフの母アンナは、長いこと鬱病を患っている。自分がふと口にした雨の事が発端となり、こういう話題になってしまったことで、エミーリエは今朝からの心配が別の意味で的中したことを独り噛み締めた。
 いずれにしても、エミーリエは、このアトリエへの道すがら、グスタフに提案しようと思っていたことを切り出すしか無かった。
「夏になったら、アッター湖に行きましょうよ」
 グスタフは顔を上げ、エミーリエを見つめる。言葉の真意を探るように。
 それは、パトロンとしての、いや義理の妹としての言葉ではないことを、グスタフは瞬間的に見抜いたようだった。
 エミーリエは、それに気づかないふりをして続ける。グスタフの同意は要らなかった。
「素晴らしく良いところだから…」
 その後に続く言葉は、グスタフに任せる。ただ、エミーリエは、今のグスタフにはウィーンから逃れることが必要だと考えてのことだった。それは海外の別の街ではだめだった。とにかく自然豊かなところ。その場所として、フレーゲ家の別荘地が最適だと考えたのだ。
 およそ十ヶ月前の父の死、それから五ヶ月後の弟の急死は、グスタフの心に深い影を落とした。とりわけ、芸術の同士、共同経営者の弟エルンストの死は、グスタフから絵を描く気力さえ奪ったのである。
 それでもこうして、新しいアトリエに毎朝通ってくるグスタフの冷静な様子を目にして、まるで絵を諦めたわけではないことをエミーリエは確かめ、そして安堵したのである。
 そして、今、彼女はもう一段回踏み込んだ。
 義理の兄エルンストの死後、迷わずにその未亡人である姉ヘレーネと幼子の保護者となってくれたグスタフを、エミーリエは信頼していた。だからこそ、もとの精神状態に戻ってくれることを願い、画家クリムトをこれまで以上に支援していきたいと決意を新たにするエミーリエであった。
 グスタフは、彼女の提案に、同意も返事もせずに、カッツェを撫でていた。
(まだ足りないのだ。踏み込み方が…)
 彼女は歩みを進め、グスタフの右隣に座った。そして肩を寄せた。

 二日目の朝だった。
(ここは…)
 まだ慣れない。そこが実家ではなく、リッツェルベルク(アッター湖北岸)にあるフレーゲ家の別荘であることを認識するのに、少しの時間がかかった。
 分厚い遮光カーテンのせいもある。
 よく耳を澄ませば、右横に眠るエミーリエの寝息が聞こえる。
 手を伸ばして、それを確かめることもできるが、グスタフはそうしないで、静かにベッドから抜け出した。そして居間に入り、昨夜脱ぎっぱなしにしたズボンとブラウスを着て、トランクからスケッチブックを取り出し表に出た。
 坂をゆっくり降りていく。
 早朝の湖畔の空気はひんやりと、少し湿っていた。
 上がって来たばかりの太陽の光が、湖畔を照らしているのが見える。
 ここは、ウィーンではない。通いなれた実家からアトリエに向かう路でもない。
 ヨットの桟橋の先端まで行ってみようとグスタフは考えている。
 湖畔までくると、エメラルドグリーンの湖底がはっきりと見通せた。
 波は穏やかである。
 最初まっすぐに湖に飛び出た桟橋は、やがて右にカーブする。
 桟橋の先端まで来て、グスタフは湖に足を投げ出して座る。
 正面にほんの小さな島があった。
 建物が一軒きれいに収まる程度の小島だ。
 グスタフは左に目線を移し対岸を遠望すると、再び小島に視線を移す。
 残念ながら、どれも、画角に収まらない。つまり絵にならなかった。
 グスタフは諦めてスケッチブックを横に置き、大きく空気を吸った。
 湖は広く、周囲を巡ってみれば、いくらでも絵になる風景があるだろうことは容易に想像できた。
(エミーリエが言ったとおりだ。素晴らしい湖である。それに周囲の村々の佇まいも。しばらくこうしていよう)
 知らずに溜まってきた自分の中のおりのようなものが、今また知らずに湖水に溶け出していくのだった。
 そしてひととき、時が静かに流れていった。
「描かないの」
 グスタフは、エミーリエが近づいてくることにも気づかなかったのだった。
「なに…」
「絵は描かないの」
 グスタフは、桟橋に突いた右手を、手のひらを上に向けて挙げた。
「どれも…、うーん、うまく収まらないんだ」
「え、どういうこと」
「あの島、少しだけ遠い。そして対岸は、遠すぎる」
「ああ、つまり遠いってことね。ちょっと待ってて」
 エミーリエは、そう言うと桟橋を歩いて行った。
 十分ほどしてエミーリエは戻ってきた。
「おまたせ。これで見てみて」
 そう言って彼女が渡したのは、赤いオペラグラスだった。
 グスタフはそれを受け取ると、目の前の小島を見てみた。
「どう」
「これは良い」
 グスタフは、すぐにオペラグラスを左手に持ち替え、スケッチブックを開いて腿の上に載せ、鉛筆を取った。
 エミーリエは、絵を描くグスタフを眺めていた。
 何時いつぶりだろうか、グスタフが絵を描くのを見るのは、と思いながら。
「あれはね、小さくても城なの。リッツェルベルク城」
 グスタフは、それには応えない。夢中なのである。
 エミーリエは微笑んで、対岸を眺めた。
 自分の判断が正しかったことが、心から嬉しかった。
 デッサンは二十分も掛からなかった。
 帰りは二人並んで桟橋を歩いた。
 桟橋を出て、坂を上がりかけた時、グスタフが声を上げた。
「忘れた」
「え、何を、どうしたの」
「猫の餌」
「え…、何よ急に。びっくりするじゃない」
 エミーリエは次の瞬間に声を出して笑っていた。
 訊けば、カッツェに毎日餌をあげる事を、妹のヘルミーネに頼むつもりで、すっかり忘れていたことにその時気が付いたと言う。
 エミーリエは、グスタフの愛猫カッツェのために、すぐにヘルミーネへ電報を打つことを提案した。

「直ちに私のアトリエに行き、猫に餌をあげてほしい」
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