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四
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余助がバンバに引き取られた僅か一月後、余助の母トモ、兄妹で残っていた次女カネが亡くなった。
カネだけでも残っていたなら、余助の人生も、あるいは変わったのかもしれない。
残された家には、権四郎の兄、元次郎の家族が入った。
余助は乳飲み子だったが、元次郎の家に引き取られることはなかった。
バンバが手放さなかったからだ。
どちらが良かったかなど、今もって誰にも分からない。
元次郎の妻のシマは後妻で、体格が良く丈夫な女だった。
シマは、その頃ちょうど身ごもっていて、余助の乳母を引き受けてくれた。
これも、余助には幸いだった。
そういう訳で、余助の取り巻く環境は変わった。
助けられた命だった。
バンバも元次郎の畑の手伝うなど、行き来も増え、すっかり祖母のような扱いだった。
そういう暮らしが続いていき、余助も大病無く育っていったわけである。
そして六年の月日が流れた。
余助は数えの七つになった。
飢饉の影響はすっかり影を潜めた。
余助は、朝の野良仕事の手伝いを終えると、いつもの様に山の炭焼き小屋に向かった。
そこには、あの木戸三郎兵衛が居る。
手には、杉の枝を削って作った木太刀(キダチ)を持っている。
炭焼き小屋は、長年、源佐という男が守ってきた。
源佐は、早くに妻と死に別れ、子もなく独り身だった。
頑固者で、村人には変わり者扱いをされていたが、なぜかバンバにだけは気を許していた。
その源佐に木戸を紹介したのはバンバだった。
その源佐が、四年前に亡くなり、結果として木戸三郎兵衛が炭焼きの跡を引き継ぐことになったのだ。
木戸にとっては、ただ潜伏しているだけの身よりも、「炭焼きの跡継ぎの」という枕詞が付くほうが、素性を隠すにはよかった。
炭焼き小屋は、雪が深くなると近付けない。
山々が雪に閉ざされると、木戸は、あの洞穴(ほらあな)に籠った。
今、木戸は、余助の教育係でもあった。
バンバや余助がお願いしたわけでも、木戸が進んで買ってでたわけでもない。
遊び相手が、自然にそうなったのだ。
木戸が教えるのは、剣術と読み書き。
後から想えば、このことも、余助にとって幸いだったと言う他ない。
前夜の雨もようやく乾き、新緑はまばゆいばかりに輝いている。
間もなく梅雨明けだろう。
炭焼きの番小屋の表戸は、いつものように開け放たれていた。
敷居をまたぎ、余助は中に入った。
木戸の姿は無かった。
炭焼き窯のほうか、と余助は後ずさり、小屋を出た。
その時だった。
表戸の右横から、木太刀が振り下ろされた。
余助は完全に油断していた。
木太刀は余助の頭のすんでのところで止まった。
「あははは、驚かせてすまん」
木戸はそう言って笑ったが、余助は憮然とした。
油断していた自分にも腹が立ったし、負けが悔しいのだった。
それに追い打ちを掛けるように、木戸が高笑いをしたため、余助は目をひん剥いて、真っ赤な顔をして怒った。
「なして、笑う」
「すまんすまん、そう怒るな」
バンバには大切にされていたが、甘やかされていないせいか、余助は気が強かった。
それに負けず嫌い。
「まあ、まず一休みしろ」
木戸は番小屋の中に入り、板の間に座った。
余助も後について、とぼとぼと番小屋の中に入り、上がりに腰掛けた。
炭焼き窯は、切り立った渓谷の上の、平らな場所にあった。
そこは、一畝(三十坪)に満たない。
その裏は、奥深い森。
炭焼き場に行く道は、村人には知られていなかった。
源佐亡き後は、木戸、バンバ、そして余助の他に、その道を知り得る者はいなかった。
「あそごさ行くには、岩の絶壁ば登らねど駄目だべ」
村人には、そうとしか想えなかったのだ。
炭焼き場からは、渓谷と、その向こう岸の森が一望にできる。
向こうの森は、洞穴がある森だった。
「水に浮いたことはあるか」
不意に、木戸が余助に尋ねた。
泳げるか、どうかを聞いたのだった。
「ねえ」
「そうか、それでは、今日はそれをやってみるか」
余助は、木戸が何を言っているかも理解できなかったが、正直期待はずれだった。
さっきから、不意打ちの躱し方をやるものとばかり思っていたからだ。
「何だ嫌か、これも剣術の上達には役に立つ」
そんなことを言われても、余助に分かるはずもない。
今では、兵法は身を守るためのもの、もっと言うならば、生きるためのもの、木戸はそう思うようになっていた。
長い隠遁生活がそうさせたのかも知れなかったが、そこには木戸なりの哲学がある。
由井らが企んだ 倒幕は、結果として計画倒れに終わった。
そればかりか、そのことで更に、幕府側は浪人に対して警戒の目を強めることとなってしまった。
武士が生きる道を得るための闘争であったはずが、結果として、かえって生きる道を狭めることになったのではないか。
生きる糧をどう得るか。
身を守る術。
それが何よりも肝要なのではないか。
それは、古より言われてきたことであるが、あの時期の自分たちには、それが欠けていたのではないか、という思いである。
「お前のバア様は凄いぞ」
余助は顔を上げ、木戸を見つめた。
大きく丸い、力強い眼差しだった。
「生きる力を持っている」
生きるための兵法。
基本的な構え、型は確かに剣術には重要だが、それ以前に必要なものがある。
それを余助の身につけてやりたい、と木戸は思っていた。
木の蔓に、どれだけ長い時間、ぶら下がっていられるか。
息を長く止められるか。
そのためには、息を止める前に、息を整えなければならない。
そして、頭を空にする。
そういったことだった。
「水に浮くことができなければ、川に落ちたら、死ぬより他にない」
余助は、目を離さずに聞いているが、まだ木戸が言わんとすることが解らずにいた。
「要は、水に浮くことができる者は、浮くことができない者よりも強い、ということだ」
余助は強くなりたかった。
理由などなかった。
ただただ、本能的に強さに憧れる気持ちが体の中から沸き上がってくるのだ。
「やってみるか」
余助は頷いた。
それから二人は、時間を掛けて森を歩き、下流側から回り込むように渓谷に降りて、渓流を遡った。
ちょうど炭焼き小屋の真下あたりに、目的の滝があった。
竜頭の滝。
土地の人はそう呼んでいた。
滝壺が丸く、深かった。
昔、その山には、人々を悩ます竜が棲んでいた。
ある男が、その竜を退治するために単身山に分け入った。
そして、ひと月ほど掛けて、ようやく竜の首を取った。
切り落とされた首は、その滝に落ちた。
そして、その滝壺に竜の首が刺さり、丸い、深くえぐられたような滝壺になったという。
その滝壺の淵に、二人は立った。
衣は既に脱いでいる。
夏だから、水量は少ないが、それでも、滝壺は満々と水を湛えている。
深く青い。
滝壺の幅は、二間ほど。
滝下に落ちた流れは、滝の底に一旦向かい、そして、また上に浮き上がり淵を通って、下流に流れていく。
その浮いてくる水流を利用すれば、体を浮かべる感覚が早く身につく。
木戸はそのことを、幼いころの実体験から知っていた。
胸に何度か水をかけると、木戸は迷わず滝壺に飛び込んだ。
四尺二寸の木戸とて、足は着かない。
木戸は立泳ぎで浮いてみせた。
もちろん、余助には、それが浮いているのかどうかも、分かり得ない。
「足を動かして、浮いてる」
木戸は、両手を水面から上に上げて見せた。
「よく見ろ」
まずは見る。
そして、真似る。
余助は、膝に両手を着き、四股を踏む様にして、木戸の泳法を凝視した。
滝の音がしていた。
滝の上の空高く旋回していた鳶が、一声鳴いた。
カネだけでも残っていたなら、余助の人生も、あるいは変わったのかもしれない。
残された家には、権四郎の兄、元次郎の家族が入った。
余助は乳飲み子だったが、元次郎の家に引き取られることはなかった。
バンバが手放さなかったからだ。
どちらが良かったかなど、今もって誰にも分からない。
元次郎の妻のシマは後妻で、体格が良く丈夫な女だった。
シマは、その頃ちょうど身ごもっていて、余助の乳母を引き受けてくれた。
これも、余助には幸いだった。
そういう訳で、余助の取り巻く環境は変わった。
助けられた命だった。
バンバも元次郎の畑の手伝うなど、行き来も増え、すっかり祖母のような扱いだった。
そういう暮らしが続いていき、余助も大病無く育っていったわけである。
そして六年の月日が流れた。
余助は数えの七つになった。
飢饉の影響はすっかり影を潜めた。
余助は、朝の野良仕事の手伝いを終えると、いつもの様に山の炭焼き小屋に向かった。
そこには、あの木戸三郎兵衛が居る。
手には、杉の枝を削って作った木太刀(キダチ)を持っている。
炭焼き小屋は、長年、源佐という男が守ってきた。
源佐は、早くに妻と死に別れ、子もなく独り身だった。
頑固者で、村人には変わり者扱いをされていたが、なぜかバンバにだけは気を許していた。
その源佐に木戸を紹介したのはバンバだった。
その源佐が、四年前に亡くなり、結果として木戸三郎兵衛が炭焼きの跡を引き継ぐことになったのだ。
木戸にとっては、ただ潜伏しているだけの身よりも、「炭焼きの跡継ぎの」という枕詞が付くほうが、素性を隠すにはよかった。
炭焼き小屋は、雪が深くなると近付けない。
山々が雪に閉ざされると、木戸は、あの洞穴(ほらあな)に籠った。
今、木戸は、余助の教育係でもあった。
バンバや余助がお願いしたわけでも、木戸が進んで買ってでたわけでもない。
遊び相手が、自然にそうなったのだ。
木戸が教えるのは、剣術と読み書き。
後から想えば、このことも、余助にとって幸いだったと言う他ない。
前夜の雨もようやく乾き、新緑はまばゆいばかりに輝いている。
間もなく梅雨明けだろう。
炭焼きの番小屋の表戸は、いつものように開け放たれていた。
敷居をまたぎ、余助は中に入った。
木戸の姿は無かった。
炭焼き窯のほうか、と余助は後ずさり、小屋を出た。
その時だった。
表戸の右横から、木太刀が振り下ろされた。
余助は完全に油断していた。
木太刀は余助の頭のすんでのところで止まった。
「あははは、驚かせてすまん」
木戸はそう言って笑ったが、余助は憮然とした。
油断していた自分にも腹が立ったし、負けが悔しいのだった。
それに追い打ちを掛けるように、木戸が高笑いをしたため、余助は目をひん剥いて、真っ赤な顔をして怒った。
「なして、笑う」
「すまんすまん、そう怒るな」
バンバには大切にされていたが、甘やかされていないせいか、余助は気が強かった。
それに負けず嫌い。
「まあ、まず一休みしろ」
木戸は番小屋の中に入り、板の間に座った。
余助も後について、とぼとぼと番小屋の中に入り、上がりに腰掛けた。
炭焼き窯は、切り立った渓谷の上の、平らな場所にあった。
そこは、一畝(三十坪)に満たない。
その裏は、奥深い森。
炭焼き場に行く道は、村人には知られていなかった。
源佐亡き後は、木戸、バンバ、そして余助の他に、その道を知り得る者はいなかった。
「あそごさ行くには、岩の絶壁ば登らねど駄目だべ」
村人には、そうとしか想えなかったのだ。
炭焼き場からは、渓谷と、その向こう岸の森が一望にできる。
向こうの森は、洞穴がある森だった。
「水に浮いたことはあるか」
不意に、木戸が余助に尋ねた。
泳げるか、どうかを聞いたのだった。
「ねえ」
「そうか、それでは、今日はそれをやってみるか」
余助は、木戸が何を言っているかも理解できなかったが、正直期待はずれだった。
さっきから、不意打ちの躱し方をやるものとばかり思っていたからだ。
「何だ嫌か、これも剣術の上達には役に立つ」
そんなことを言われても、余助に分かるはずもない。
今では、兵法は身を守るためのもの、もっと言うならば、生きるためのもの、木戸はそう思うようになっていた。
長い隠遁生活がそうさせたのかも知れなかったが、そこには木戸なりの哲学がある。
由井らが企んだ 倒幕は、結果として計画倒れに終わった。
そればかりか、そのことで更に、幕府側は浪人に対して警戒の目を強めることとなってしまった。
武士が生きる道を得るための闘争であったはずが、結果として、かえって生きる道を狭めることになったのではないか。
生きる糧をどう得るか。
身を守る術。
それが何よりも肝要なのではないか。
それは、古より言われてきたことであるが、あの時期の自分たちには、それが欠けていたのではないか、という思いである。
「お前のバア様は凄いぞ」
余助は顔を上げ、木戸を見つめた。
大きく丸い、力強い眼差しだった。
「生きる力を持っている」
生きるための兵法。
基本的な構え、型は確かに剣術には重要だが、それ以前に必要なものがある。
それを余助の身につけてやりたい、と木戸は思っていた。
木の蔓に、どれだけ長い時間、ぶら下がっていられるか。
息を長く止められるか。
そのためには、息を止める前に、息を整えなければならない。
そして、頭を空にする。
そういったことだった。
「水に浮くことができなければ、川に落ちたら、死ぬより他にない」
余助は、目を離さずに聞いているが、まだ木戸が言わんとすることが解らずにいた。
「要は、水に浮くことができる者は、浮くことができない者よりも強い、ということだ」
余助は強くなりたかった。
理由などなかった。
ただただ、本能的に強さに憧れる気持ちが体の中から沸き上がってくるのだ。
「やってみるか」
余助は頷いた。
それから二人は、時間を掛けて森を歩き、下流側から回り込むように渓谷に降りて、渓流を遡った。
ちょうど炭焼き小屋の真下あたりに、目的の滝があった。
竜頭の滝。
土地の人はそう呼んでいた。
滝壺が丸く、深かった。
昔、その山には、人々を悩ます竜が棲んでいた。
ある男が、その竜を退治するために単身山に分け入った。
そして、ひと月ほど掛けて、ようやく竜の首を取った。
切り落とされた首は、その滝に落ちた。
そして、その滝壺に竜の首が刺さり、丸い、深くえぐられたような滝壺になったという。
その滝壺の淵に、二人は立った。
衣は既に脱いでいる。
夏だから、水量は少ないが、それでも、滝壺は満々と水を湛えている。
深く青い。
滝壺の幅は、二間ほど。
滝下に落ちた流れは、滝の底に一旦向かい、そして、また上に浮き上がり淵を通って、下流に流れていく。
その浮いてくる水流を利用すれば、体を浮かべる感覚が早く身につく。
木戸はそのことを、幼いころの実体験から知っていた。
胸に何度か水をかけると、木戸は迷わず滝壺に飛び込んだ。
四尺二寸の木戸とて、足は着かない。
木戸は立泳ぎで浮いてみせた。
もちろん、余助には、それが浮いているのかどうかも、分かり得ない。
「足を動かして、浮いてる」
木戸は、両手を水面から上に上げて見せた。
「よく見ろ」
まずは見る。
そして、真似る。
余助は、膝に両手を着き、四股を踏む様にして、木戸の泳法を凝視した。
滝の音がしていた。
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