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三十三 津軽ドンガル節
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つがるどんがるぶし
秋。
稲の穂が実る頃、ハマとクマの筵機の修行は、一旦の終了をみた。
それに機織りの先生も、稲刈りに忙しくなることもあり、ちょうど一区切りには良かったのである。
米は、昨年(明治十九年)ほどの不作には見舞われなかったが、その年も多くの農民が津軽を離れ北海道に渡った。
明治十九年当時ではまだ、津軽北部におけるリンゴ栽培は進んでいなかった。不作・凶作にあえぐ稲作農業を尻目に、北海道はニシン漁に活気付き、東北各地から移住が進んだわけだが、特に青森からの移住がその多くを占めた。
それは、移住する資金がある富農だけではなかった。貧しい小作農家の若者たちも北を目指し、津軽を後にしたのである。
そして、この年は日本全国でコレラが流行するのである。青森でも、十月頃から感染者が増え、多くの犠牲者を出すこととなった。
コレラの特効薬がない時代、やれることと言えば、飲水に注意を払い、不要に出歩かないということしか対策は無かった。
座頭、坊様はコレラとは別の伝染病で失明したわけで、彼らもコレラを恐れ、家に閉じこもる人が多かった。
さらにこの翌年、津軽で再び疱瘡が猛威を振るい、百人以上の死者を出した。
まさに弱り目に祟り目であったが、こういう背景があったからこそ、坊様たちの三味線鍛錬に拍車が掛かり、津軽民謡は発展・成熟していったのではないだろうか。
事実、この明治二十年頃、津軽民謡は「最初の転機を迎えた」と考える者は多い。
その筆頭が、東北民謡の第一人者であり、「津軽民謡の父」と称された成田雲竹である。
その転機を象徴する出来事とは。
十九年、蒔田湊の横、金木村嘉瀬に、「嘉瀬の桃」こと、黒川桃太郎が生誕する。後に「三味線の天才」と言われることになる。
また、この翌々年、正月十五日に成田雲竹が西津軽郡森田村に生まれ、同年五月には、後の津軽民謡唄い手として人気を博した「初代、津軽家すわ子」となる、坂本スワが北津軽郡飯詰村に生誕した。
以上の三人はすべて晴眼者(目が不自由ではない者)であった。
そして、この明治二十一年に、津軽三味線にとってセンセーショナルな出来事があった。
津軽三味線の祖、仁太坊が「叩き奏法」を完成させたのである。
この手は、すぐさま坊様たちの注目を得て、盗まれた。
その盗んだ者の中に、「蒔田のトヨ」こと豊川タキゾウも居た。
「あら、トヨさん、久すぶりだね」
ようやく疱瘡の事を聞かなくなった、明治二十一年の春。五月一日の朝のことであった。
「おっしょうさん、居ますか」
「居るよ。裏の小屋。声がげでくるね」
その朝、食事の後、ハマは裏に増設してもらった小屋で、筵を織るため、準備を行っていたのである。
伝染病が蔓延したこともあり、この一年近く、タキゾウは実家に居て、十三には来ていなかった。
そのタキゾウが突然顔を出したと聞いたハマは、即座に「唄のことだろう」と感づいたのだった。
「ほう、来たね。トヨが」
果たしてハマの直感どおり、タキゾウは、新しい演奏を師匠に聴いてもらう目的で出向いてきたのであった。
「おっしょうさん、お変わりなぐ、無ぇよりだっす。突然来ですまねっす。ばって、今日は絶対さ、おっしょうさんに聴いでもらわねどいげねはんで、来たんだっす。ついに、完成すた。ころがけ節が」
ハマは、やっぱり、と微笑んで、座り直し、背筋を伸ばした。
「はい、では、聴く」
タキゾウは、すぐに三味線を袋から出し、調弦を始めた。
実際には見えないが、ハマにはタキゾウの三味線が変わったことが、音で判った。
太い棹、糸(弦)も太くなっている。そして撥も、特性の樫の大撥であった。
「ほう、三味線変わったね」
「さすがは、おっしょうさんだ。仁太坊の真似だばって、今度の唄には、こぃすかねはんで。少すうるさぇがもすれねばって、許すてけ」
あれだけ、仁太坊の真似はしないと言い張っていたタキゾウですら、仁太坊の「叩き奏法」を盗んだらしい。それで、太棹に、太い糸、そして樫の大撥なのだ。
そうこうしているうちに、準備が整った。
「そいだば、やらせでもらいます。ころがけ新保広大寺節。よろすくおねがいすます」
「ドン、ド、トンテン、トツルロヅンツウン・・・」
前弾きから始まった演奏は、大音量ながら、軽快に進んだ。
この時点ですでに、ハマの野口家伝承の「新保広大寺」の原型は、とどめていないに等しかった。
さらに、ようやく唄に入ったと思いきや、文句が違う。
「わしのナァエー、生まれーわあー、津軽ヤァ蒔田ナァー、姓は豊川、ヤレサァそのお名は、タキゾウナァエー」
それは、言わば「口上」であった。
タキゾウは、最初に持ってきた長囃子の後、唄の最初に独自の口上を一首加えたのである。
ちなみに、この口上を唄うというやり方もまた、仁太坊から盗んだものであった。
この口上の節の後に、ようやくタキゾウは、本題の新保広大寺に入っていくのだった。
ハマは、自分が師匠であることを忘れて、タキゾウの演奏に聴き入った。
なんと心躍る、しかもその三味線の迫力ある音が直接体に伝わってくる、その感じを楽しんでいた。
そして、最後は再び長囃子。
「ド、ド、ドン」
少しの沈黙があり、その間、ハマは唄の余韻に浸った。
「良くやったな、トヨ。だた、もうこれは「ころがけ」ではないね。軽々と駆け回るだけでなく、ドン、ドン、と力が合わさった。そう、ドンガル節、でどうかね。それに、これはもう、誰もが知る『新保広大寺節』ではないね」
実は、この「ドン、ドン」の撥さばきこそ、あの仁太坊の「叩き」の手を盗んだものであった。
「そいだば、こぃは何だが。おっしょうさん」
「津軽、ドンガル節」
「津軽ドンガル節。よし、もらった、そうするっす」
津軽ドンガル節。
これもまた、そのうちに盗まれる。そして、味が加わった。
誰も、それを咎める者はない。
津軽ドンガル節は、坊様の間を巡り巡って、そのうちに「津軽ジョンガラ節」と呼ばれるようになっていく。
後世に誰も語る者は無かったが、その元は、タキゾウのドンガル節であったのだ。
それが生まれたのは、十三村の佐渡屋別館であった。
明治二十一年、皐月は朔日のことであった。
秋。
稲の穂が実る頃、ハマとクマの筵機の修行は、一旦の終了をみた。
それに機織りの先生も、稲刈りに忙しくなることもあり、ちょうど一区切りには良かったのである。
米は、昨年(明治十九年)ほどの不作には見舞われなかったが、その年も多くの農民が津軽を離れ北海道に渡った。
明治十九年当時ではまだ、津軽北部におけるリンゴ栽培は進んでいなかった。不作・凶作にあえぐ稲作農業を尻目に、北海道はニシン漁に活気付き、東北各地から移住が進んだわけだが、特に青森からの移住がその多くを占めた。
それは、移住する資金がある富農だけではなかった。貧しい小作農家の若者たちも北を目指し、津軽を後にしたのである。
そして、この年は日本全国でコレラが流行するのである。青森でも、十月頃から感染者が増え、多くの犠牲者を出すこととなった。
コレラの特効薬がない時代、やれることと言えば、飲水に注意を払い、不要に出歩かないということしか対策は無かった。
座頭、坊様はコレラとは別の伝染病で失明したわけで、彼らもコレラを恐れ、家に閉じこもる人が多かった。
さらにこの翌年、津軽で再び疱瘡が猛威を振るい、百人以上の死者を出した。
まさに弱り目に祟り目であったが、こういう背景があったからこそ、坊様たちの三味線鍛錬に拍車が掛かり、津軽民謡は発展・成熟していったのではないだろうか。
事実、この明治二十年頃、津軽民謡は「最初の転機を迎えた」と考える者は多い。
その筆頭が、東北民謡の第一人者であり、「津軽民謡の父」と称された成田雲竹である。
その転機を象徴する出来事とは。
十九年、蒔田湊の横、金木村嘉瀬に、「嘉瀬の桃」こと、黒川桃太郎が生誕する。後に「三味線の天才」と言われることになる。
また、この翌々年、正月十五日に成田雲竹が西津軽郡森田村に生まれ、同年五月には、後の津軽民謡唄い手として人気を博した「初代、津軽家すわ子」となる、坂本スワが北津軽郡飯詰村に生誕した。
以上の三人はすべて晴眼者(目が不自由ではない者)であった。
そして、この明治二十一年に、津軽三味線にとってセンセーショナルな出来事があった。
津軽三味線の祖、仁太坊が「叩き奏法」を完成させたのである。
この手は、すぐさま坊様たちの注目を得て、盗まれた。
その盗んだ者の中に、「蒔田のトヨ」こと豊川タキゾウも居た。
「あら、トヨさん、久すぶりだね」
ようやく疱瘡の事を聞かなくなった、明治二十一年の春。五月一日の朝のことであった。
「おっしょうさん、居ますか」
「居るよ。裏の小屋。声がげでくるね」
その朝、食事の後、ハマは裏に増設してもらった小屋で、筵を織るため、準備を行っていたのである。
伝染病が蔓延したこともあり、この一年近く、タキゾウは実家に居て、十三には来ていなかった。
そのタキゾウが突然顔を出したと聞いたハマは、即座に「唄のことだろう」と感づいたのだった。
「ほう、来たね。トヨが」
果たしてハマの直感どおり、タキゾウは、新しい演奏を師匠に聴いてもらう目的で出向いてきたのであった。
「おっしょうさん、お変わりなぐ、無ぇよりだっす。突然来ですまねっす。ばって、今日は絶対さ、おっしょうさんに聴いでもらわねどいげねはんで、来たんだっす。ついに、完成すた。ころがけ節が」
ハマは、やっぱり、と微笑んで、座り直し、背筋を伸ばした。
「はい、では、聴く」
タキゾウは、すぐに三味線を袋から出し、調弦を始めた。
実際には見えないが、ハマにはタキゾウの三味線が変わったことが、音で判った。
太い棹、糸(弦)も太くなっている。そして撥も、特性の樫の大撥であった。
「ほう、三味線変わったね」
「さすがは、おっしょうさんだ。仁太坊の真似だばって、今度の唄には、こぃすかねはんで。少すうるさぇがもすれねばって、許すてけ」
あれだけ、仁太坊の真似はしないと言い張っていたタキゾウですら、仁太坊の「叩き奏法」を盗んだらしい。それで、太棹に、太い糸、そして樫の大撥なのだ。
そうこうしているうちに、準備が整った。
「そいだば、やらせでもらいます。ころがけ新保広大寺節。よろすくおねがいすます」
「ドン、ド、トンテン、トツルロヅンツウン・・・」
前弾きから始まった演奏は、大音量ながら、軽快に進んだ。
この時点ですでに、ハマの野口家伝承の「新保広大寺」の原型は、とどめていないに等しかった。
さらに、ようやく唄に入ったと思いきや、文句が違う。
「わしのナァエー、生まれーわあー、津軽ヤァ蒔田ナァー、姓は豊川、ヤレサァそのお名は、タキゾウナァエー」
それは、言わば「口上」であった。
タキゾウは、最初に持ってきた長囃子の後、唄の最初に独自の口上を一首加えたのである。
ちなみに、この口上を唄うというやり方もまた、仁太坊から盗んだものであった。
この口上の節の後に、ようやくタキゾウは、本題の新保広大寺に入っていくのだった。
ハマは、自分が師匠であることを忘れて、タキゾウの演奏に聴き入った。
なんと心躍る、しかもその三味線の迫力ある音が直接体に伝わってくる、その感じを楽しんでいた。
そして、最後は再び長囃子。
「ド、ド、ドン」
少しの沈黙があり、その間、ハマは唄の余韻に浸った。
「良くやったな、トヨ。だた、もうこれは「ころがけ」ではないね。軽々と駆け回るだけでなく、ドン、ドン、と力が合わさった。そう、ドンガル節、でどうかね。それに、これはもう、誰もが知る『新保広大寺節』ではないね」
実は、この「ドン、ドン」の撥さばきこそ、あの仁太坊の「叩き」の手を盗んだものであった。
「そいだば、こぃは何だが。おっしょうさん」
「津軽、ドンガル節」
「津軽ドンガル節。よし、もらった、そうするっす」
津軽ドンガル節。
これもまた、そのうちに盗まれる。そして、味が加わった。
誰も、それを咎める者はない。
津軽ドンガル節は、坊様の間を巡り巡って、そのうちに「津軽ジョンガラ節」と呼ばれるようになっていく。
後世に誰も語る者は無かったが、その元は、タキゾウのドンガル節であったのだ。
それが生まれたのは、十三村の佐渡屋別館であった。
明治二十一年、皐月は朔日のことであった。
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