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三十二 命日
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めいにち
八月は二日月の夜だった。
ハマは夢を見た。滅多に見ない夢を。
春治の夢だった。
何日も、何日もタケが熱にうなされ、そしてようやく、その病が治った、と春治は喜んでいた。
ところが、その喜ぶ声が、なぜか悲しそうに、ハマには聞こえる。
その訳を、ハマは春治に問いたくてしょうがないが、どう言ったらいいか分からない。そして、ようやく声が出た、と思った時に、現実の朝が来た。
耳を澄ますと、タケの寝息が聞こえた。
うなされたようなことは無かったらしい。
ハマはほっとして、しかし、また夢のことが気にかかり、そして春治のことを想った。
(そうか)
もうすぐ、命日なのである。
毎朝、寝間の小さな祭壇に向かっての念仏を欠かさないハマではあったが、津軽に来てからの新しい暮らしの中で、少し疎かになったか、と自戒してみた。
そういう、一日の始まりであった。
いつものように、クマと工藤家に向かう途中、道端で作業する人たちに遭遇した。
「虫送りだな」
クマが教えてくれた。
昨夜は寝苦しい夜で、虫が多く出た、ということで、「虫送り」の準備をしているのであった。
藁の松明を燃やして、虫を払う。
維新前には、全国で田植えの終わった時期に毎年決まって行われていた、この虫送りであるが、明治七年(一八七四年)に明治政府によって禁止されてから、津軽でも儀礼としては行わなくなった。
ただ、虫が多く発生したときには、稲を害虫から守るために、そうして松明をともして、虫送りもどきを行ったのである。
ハマには、昨夜の夢のこともあって、その虫送りが、送り火のように想われ、身につまされる気持ちになるのだった。
さらに、その日、十三に戻り、タキゾウがまた稽古にやってきて、三味線を準備しているときに、そのタキゾウが、ハマのそんな落ち着かない心を見透かしたのであった。
目が見えない者の、直感であろうか。
「おっしょうさん、何が、具合でも悪ぇのだがっす」
「そんげなことはねえんだが・・・」
何か、言い訳でもしているように、言いよどんで、ハマははっとしてタキゾウに尋ねてみようと思う。
「トヨ、どこか、先祖供養するのに良い場所はねえだろうか」
タキゾウは、迷わず即答した。
「そいだば、川倉の地蔵さんだ」
「そこは・・・」
「そうだっす。坊様連中がそこの例大祭さ集まって、芸披露する地蔵さんだ」
「そうだね。トヨ、そこに連れて行ってくれねえかね」
「はい、お安ぇ御用だ。いづ行ぎますか」
「お盆」
「分がったっす。差すかえねば、誰の供養だがっす」
「おとっちゃん。タケのおとっちゃん。ちょうどこの十日が命日だから」
来週の十日(八月)が春治の命日。旧盆は、その四日後だった。
「そうですたが。そいだば、やっぱり川倉の地蔵さんが一番だっす」
小学校はあるだろうから、といろいろ相談した結果、午後一番の舟で十三を出て、蒔田の川湊でタキゾウと落ち合うこととなった。利兵衛が、そういうことならと、クマを同行させることを許してくれた。
当日、幸いなことに晴れ、予定通り川船に乗り込んだ三人だった。
前潟からゆっくりと出た高瀬舟は、やがて帆を立て、大川(岩木川)を上った。
考えて見れば、はじめて岩木川を上る、ハマとタケである。
「おかっちゃ、いい景色だよ。気持ちいいね」
ハマには当然見えないのだが、風や匂い、そして川面の状態が舟を通して感じられ、同じように心地よかった。
ハマは、想い出していた。
今町に下る川船で感じた冷たい川風を。
しかし、その川風すら、あの時は心地よく感じたのだった。
春治が年季明けのハマを迎えに来てくれた、あの関川の川風は。
季節は正反対だが、春治が今、舟に同船しているような、そんな気がしてならないハマであった。
舟は思いの外早く、蒔田に着いた。
船着き場で待っているタキゾウを、クマがすぐに見つけて声をかける。
蒔田湊から川倉、賽の河原地蔵尊までは、およそ半刻(約一時間)の道のりであった。
タキゾウには通い慣れた路である。クマも良く知った路だった。
先頭はタキゾウとクマ。クマがハマを手引きし、その後ろにタケが付く。
一日のうちで一番暑い時分の道行きであった。
利兵衛が貸してくれた菅笠、クマが用意した竹の水筒(湯冷まし入)が役に立った。
それでも、休み休みの歩みで、結局一刻ほど掛かって、一行はようやく地蔵尊の手前の沢に差し掛かった。
「ちょっと、待って」
ハマが突然立ち止まり、クマは肩を引かれて止まり、タケはハマの尻にぶつかりそうになって歩みを止めた。
そこは、本当の河原であった。
ハマが止まったのは、一人ではない誰かに引き止められたように感じたからであった。
そして、立ち止まってみて、ハマは解った。
すごい霊気だった。
「止まねほうがい」
タキゾウは、止まるな、と言っているのだった。
「そうだね」
ハマは応じて、なんとか歩みを再開した。
むせそうな感じであった。
ハマは、念仏を唱え始める。そうしないでは、ほんとうに吐いてしまいそうなのであった。
タケは、ハマの着物の帯を強く握りしめる。
そこからの道のりが、これまでの一刻と同じ時がかかったような錯覚に、ハマは襲われていた。足が重かった。けれども何とか、河原を渡りきった。それはほんの一時でも、修験の歩みであった。
空気が変わった。
ハマはそう感じた。
重苦しかった空気が、空に解き放たれているような感じだった。
「着いだっす」
タキゾウがそう報せる前に、ハマは自分が地蔵尊の前に居ることを悟った。
自然に、涙が溢れた。
この翌日、折よくタケが先生から添削してもらった文を持って帰り、ハマに読んで聞かせたのだった。
拝啓
まだまだ暑い日は続いておりますが、息災で御過しでせうか。
私は、この春から小学校に通つております。
母は、小学校に入る事が出来たのは御祖母様の御陰だと大変に喜んでおります。
入学から凡そ四月が経ち、私も文が書けるまでとなりました。これも御祖母様の御陰です。有難う御座います。
母は、筵機織りを通いで習い始めました。学費の足しにするのだと、毎日精を出しております。織れるようになつたら、御祖母様に贈るそうです。
私は、唄と三味線の稽古を始めました。確り出来るようになつたら、聴いてください。舟で柿崎に行きます。
先日は、父の命日だつたので、川倉地蔵尊に御参りに行きました。母は、大変に喜んでおりました。
それではまた。流行り病が大変な世相です。御祖母様も御体に気を付けてください。
敬具
明治拾九年八月拾壱日
立浪タケ
立浪サエ様
八月は二日月の夜だった。
ハマは夢を見た。滅多に見ない夢を。
春治の夢だった。
何日も、何日もタケが熱にうなされ、そしてようやく、その病が治った、と春治は喜んでいた。
ところが、その喜ぶ声が、なぜか悲しそうに、ハマには聞こえる。
その訳を、ハマは春治に問いたくてしょうがないが、どう言ったらいいか分からない。そして、ようやく声が出た、と思った時に、現実の朝が来た。
耳を澄ますと、タケの寝息が聞こえた。
うなされたようなことは無かったらしい。
ハマはほっとして、しかし、また夢のことが気にかかり、そして春治のことを想った。
(そうか)
もうすぐ、命日なのである。
毎朝、寝間の小さな祭壇に向かっての念仏を欠かさないハマではあったが、津軽に来てからの新しい暮らしの中で、少し疎かになったか、と自戒してみた。
そういう、一日の始まりであった。
いつものように、クマと工藤家に向かう途中、道端で作業する人たちに遭遇した。
「虫送りだな」
クマが教えてくれた。
昨夜は寝苦しい夜で、虫が多く出た、ということで、「虫送り」の準備をしているのであった。
藁の松明を燃やして、虫を払う。
維新前には、全国で田植えの終わった時期に毎年決まって行われていた、この虫送りであるが、明治七年(一八七四年)に明治政府によって禁止されてから、津軽でも儀礼としては行わなくなった。
ただ、虫が多く発生したときには、稲を害虫から守るために、そうして松明をともして、虫送りもどきを行ったのである。
ハマには、昨夜の夢のこともあって、その虫送りが、送り火のように想われ、身につまされる気持ちになるのだった。
さらに、その日、十三に戻り、タキゾウがまた稽古にやってきて、三味線を準備しているときに、そのタキゾウが、ハマのそんな落ち着かない心を見透かしたのであった。
目が見えない者の、直感であろうか。
「おっしょうさん、何が、具合でも悪ぇのだがっす」
「そんげなことはねえんだが・・・」
何か、言い訳でもしているように、言いよどんで、ハマははっとしてタキゾウに尋ねてみようと思う。
「トヨ、どこか、先祖供養するのに良い場所はねえだろうか」
タキゾウは、迷わず即答した。
「そいだば、川倉の地蔵さんだ」
「そこは・・・」
「そうだっす。坊様連中がそこの例大祭さ集まって、芸披露する地蔵さんだ」
「そうだね。トヨ、そこに連れて行ってくれねえかね」
「はい、お安ぇ御用だ。いづ行ぎますか」
「お盆」
「分がったっす。差すかえねば、誰の供養だがっす」
「おとっちゃん。タケのおとっちゃん。ちょうどこの十日が命日だから」
来週の十日(八月)が春治の命日。旧盆は、その四日後だった。
「そうですたが。そいだば、やっぱり川倉の地蔵さんが一番だっす」
小学校はあるだろうから、といろいろ相談した結果、午後一番の舟で十三を出て、蒔田の川湊でタキゾウと落ち合うこととなった。利兵衛が、そういうことならと、クマを同行させることを許してくれた。
当日、幸いなことに晴れ、予定通り川船に乗り込んだ三人だった。
前潟からゆっくりと出た高瀬舟は、やがて帆を立て、大川(岩木川)を上った。
考えて見れば、はじめて岩木川を上る、ハマとタケである。
「おかっちゃ、いい景色だよ。気持ちいいね」
ハマには当然見えないのだが、風や匂い、そして川面の状態が舟を通して感じられ、同じように心地よかった。
ハマは、想い出していた。
今町に下る川船で感じた冷たい川風を。
しかし、その川風すら、あの時は心地よく感じたのだった。
春治が年季明けのハマを迎えに来てくれた、あの関川の川風は。
季節は正反対だが、春治が今、舟に同船しているような、そんな気がしてならないハマであった。
舟は思いの外早く、蒔田に着いた。
船着き場で待っているタキゾウを、クマがすぐに見つけて声をかける。
蒔田湊から川倉、賽の河原地蔵尊までは、およそ半刻(約一時間)の道のりであった。
タキゾウには通い慣れた路である。クマも良く知った路だった。
先頭はタキゾウとクマ。クマがハマを手引きし、その後ろにタケが付く。
一日のうちで一番暑い時分の道行きであった。
利兵衛が貸してくれた菅笠、クマが用意した竹の水筒(湯冷まし入)が役に立った。
それでも、休み休みの歩みで、結局一刻ほど掛かって、一行はようやく地蔵尊の手前の沢に差し掛かった。
「ちょっと、待って」
ハマが突然立ち止まり、クマは肩を引かれて止まり、タケはハマの尻にぶつかりそうになって歩みを止めた。
そこは、本当の河原であった。
ハマが止まったのは、一人ではない誰かに引き止められたように感じたからであった。
そして、立ち止まってみて、ハマは解った。
すごい霊気だった。
「止まねほうがい」
タキゾウは、止まるな、と言っているのだった。
「そうだね」
ハマは応じて、なんとか歩みを再開した。
むせそうな感じであった。
ハマは、念仏を唱え始める。そうしないでは、ほんとうに吐いてしまいそうなのであった。
タケは、ハマの着物の帯を強く握りしめる。
そこからの道のりが、これまでの一刻と同じ時がかかったような錯覚に、ハマは襲われていた。足が重かった。けれども何とか、河原を渡りきった。それはほんの一時でも、修験の歩みであった。
空気が変わった。
ハマはそう感じた。
重苦しかった空気が、空に解き放たれているような感じだった。
「着いだっす」
タキゾウがそう報せる前に、ハマは自分が地蔵尊の前に居ることを悟った。
自然に、涙が溢れた。
この翌日、折よくタケが先生から添削してもらった文を持って帰り、ハマに読んで聞かせたのだった。
拝啓
まだまだ暑い日は続いておりますが、息災で御過しでせうか。
私は、この春から小学校に通つております。
母は、小学校に入る事が出来たのは御祖母様の御陰だと大変に喜んでおります。
入学から凡そ四月が経ち、私も文が書けるまでとなりました。これも御祖母様の御陰です。有難う御座います。
母は、筵機織りを通いで習い始めました。学費の足しにするのだと、毎日精を出しております。織れるようになつたら、御祖母様に贈るそうです。
私は、唄と三味線の稽古を始めました。確り出来るようになつたら、聴いてください。舟で柿崎に行きます。
先日は、父の命日だつたので、川倉地蔵尊に御参りに行きました。母は、大変に喜んでおりました。
それではまた。流行り病が大変な世相です。御祖母様も御体に気を付けてください。
敬具
明治拾九年八月拾壱日
立浪タケ
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