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二十三 縁起

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えんぎ


 十三とさは、水に囲まれた町であった。
 海が近く、土地が平らで、遠くに山並みがようやく確認できるということでは、柿崎や今町(直江津)と似通った景色が広がっている。
 それでも、十三には上越の海辺と決定的に違うところがあった。それは、十三の町が砂州の上にあり、いわば十三潟の中に浮いているように在ることであった。
 それでハマは、この町はどんなだね、とタケに訊かれると、ウミに浮いている、と答えたものだった。
 十三潟(十三湖)は、縄文時代には現在の五所川原市の中心部あたりまで広がる、巨大な大潟だった。
 それが、岩木川が運ぶ土砂や、海からの砂(寛政四年の津波もあった)の影響、あるいは長年の地殻の変動もあったはずだが、十三潟は徐々に小さくなっていったと云う。
 出羽の砂潟(酒田)と成り立ちがよく似ているが、規模の観点で言って、十三潟のほうがはるかに広大である。
 また十三湊は、かつて三津七湊に数えられていたほどの要衝で、西廻り航路と岩木川舟運を直結させる川湊として、重要な役割を担い、ゆえに大変栄えていたのである。
 幕末の探検家、松浦武四郎は、十三湊の賑わいぶりを評して、「十三湊は(山形の)酒田湊よりもよい川湊である」と、「東奥沿海日誌」(嘉永三年=一八五〇年)に著している。
 海に囲まれた日本は、古代より河川の舟運と、それらを結ぶ海運が交易の中心であった。
 そのため、時の権力者は津・湊の近くに都を形成し、発展してきた。
 津軽もまた、その例外ではないが、一つ違うことがある。
 それは、古代から長きに渡り、大和朝廷の権力の外側にあって、かつ未開の渡島おしま(北海道)の先住民と交易があり、もっと言えば、その渡島を経由して、大陸と交易していたことである。
 故に、大和政権が手に入れられない貴重な産物を保有しており、それらを手中に収めるために、津軽は長きに渡り、時の権力者にとって、垂涎の的であり続けたのだ。
 権力者とはつまり、奥州藤原氏、源頼朝、北条氏らである。
 しかし、一見彼らが支配したかに見えて、本当のところは完全には陥落しなかったのが、津軽なのである。
 結論を急げば、毛人えみし系の先住豪族が力を持ち続けていたのである。
 それが、北条義時の時になってようやく、中央側が折れ、その先住豪族を北方世界の統括者として任官する。
 その権力者こそが、十三潟北岸に城(福島城)を構えた、安東(安藤)氏であった。
 この安東氏こそが、十三湊のかつての繁栄を創り上げた人物であった。
 その栄華は、室町時代まで続いた。
 安東氏が、足利義量よしかずの、室町幕府、第五代征夷大将軍に任じられた祝賀として、北方産物を贈ったことが記録されている。
 その安東氏も、一四三二年の南部氏との戦に破れ、夷嶋えぞがしま(北海道)に没落した。
 その後、南部氏は十三潟、十三湊をそれほど重要視しなかったようだ。
 一方、岩木川の舟運に支えられ、日本海交易で発展した十三湊は、まさにその「川」と「海」の力が元となって衰退を余儀なくされるのである。
 それが、洪水と飛砂である。
 またそれに加えて、特に江戸末期頃から立て続けに冷害に見舞われ、明治の津軽は疲弊していくのである。
 ハマとタケが十三湊に移り住んだ年の前年の明治十七年(一八八四年)は、およそ二百年かかった津軽西浜の植林(屏風山と呼ばれるようになっていく)が完成して十年目の年だったが、それも虚しく、平年の半分の凶作となった。
 屏風山によって、飛砂への対策が済んでも、岩木川が運ぶ土砂は、年々変わらず十三潟を浅くしていったし、その土砂によって、水戸口は閉塞させられ、何度も別の水戸口を開けなければならなかった。
 南部氏が津軽の権力を掌握し、弘前藩主になると同時に、西廻り航路の重要港としての十三湊は、その座を鰺ヶ沢湊に明け渡し、その後、その座に返り咲くことはなかった。
 それでも、岩木川舟運は江戸時代まで機能したし、「十三小廻こまわし」という回漕かいそうで、米などを鰺ヶ沢湊に運び、西廻り航路とつながっていた。
 ゆえに、十三湊は、松浦武四郎がその地を訪れた時代も、かつての栄華を残していたのである。
 その時から、およそ四十年。
 戊辰・箱館戦争、版籍奉還、廃藩置県、屏風山の植林完成、戦争インフレによる弘前藩の財政困窮、水戸口閉塞改善の嘆願書、政府のインフレ政策による米価の下落、凶作と激動があった。そして、この明治十八年は、春から大洪水の幕開けだった。四月に中流域の大巻おおまき堤防が決壊したのだ。春の雪解け増水の時期に、大雨が降ったのである。不幸中の幸いで死者はなかったが、十三潟あたりの下流域にも洪水の爪痕は残った。
 その後始末が、ようやく済んだ。
 ハマとタケが十三村に到着したのは、そういう時であった。
 このような困難続きでも、津軽の人々はたくましく生き、土地に残る人は馬鈴薯の栽培、新たにリンゴ栽培をし、そうでない人々は、新天地を求めて北海道へ移っていった。

「タケぢゃん、まだ水汲んでぎでもらえるが」
 クマは、水桶をタケに渡して頼んだ。
「はい、クマばあちゃ」
「一度でなぐ、何度も行げばいはんで。少すずづな、無理すねで」
 佐渡屋の別館であり、ハマとタケが住むことになった家は、町家並びの南の端の方に位置し、鍛冶町通りの横にあった。
 町には井戸がいくつかあり、別館から一番近い井戸は鍛冶町にあった。水汲みは一度では済まない。必要に応じて何度も行くわけだが、朝一番の水汲みは、家から少し離れた願竜寺がんりゅうじ境内の井戸に行くことに、タケは決めたのだった。
 それは、朝の町の景色が多く見られるからで、タケのそういう子供特有の興味は尽きない。
 クマは佐渡屋別館専属の女中として利兵衛に雇われていて、町の南、明神沼の近くの村、富萢とみやちから通ってくる。
 年の頃は六十過ぎ、名前に似合わず小柄だったが、丸顔で色黒だった。
 もちろんクマは利兵衛の身の回りの世話を主にやるのだが、新しく来たハマとタケの世話も、利兵衛に仰せつかっていた。しかし、ハマやタケはそのような客人扱いされる気は毛頭なく、タケはハマに言われ、早晩そうばんクマに付いて、やることを聞いて回り、すぐにクマの助手と化した。
 明け六つの鐘が鳴って間もなかったが、町家通りの人通りは少なくなかった。
 タケは、行き交う人の様子に目を向けながら、水桶を持って歩いていく。
 右、左、土蔵が二軒置きにあり、左の三軒目の土蔵が見えてくるともうすぐだった。
 右手に湯屋がある角をタケは右に折れて、願竜寺通りに入っていく。
 立派な山門が見える。
 願竜寺。
 開基は慶安元年(一六四八年)。開祖は雪典せってん
 雪典は、佐渡国相川大澗おおま村にある願竜寺の嫡子で、もともと佐渡と縁がある十三村に来て、佐渡屋太郎兵衛の援助でこの寺を建立したと云う。佐渡屋太郎兵衛はもちろん、佐渡屋利兵衛の親戚筋であった。
 その意味で、願竜寺は佐渡屋と縁がある。そう話して聴かせたのは利兵衛であった。
 町家並びには、もう一つ北へ八軒程先に、湊迎寺そうごうじがあり、それはもう一つの有力商家、能登屋と縁があった。
 山門をくぐり左手に、井戸はあった。
 井戸の前に水桶を一旦置き、タケは本堂の前まで歩いていき、手を合わせた。
 特別なにかを祈るわけでもない。強いて云うなら、今日も一日無事でありますように。
 つい三日前、同じようにその場所で参拝した者があった。
 豊川タキゾウ。
 盲人の青年であった。
 今のタケと同じ五歳で麻疹はしかに罹り、視力を失った。ハマと同様だった。
 タキゾウは、その日、三味線を持ち、門付かどつけ芸をするために川舟に乗って、十三村に来ていた。
 毎回、十三村に来た時は、最初に願竜寺門前で門付けをすることをタキゾウは決めていて、その前には必ず参詣するのであった。
 タキゾウの場合は、ちゃんとした祈りがあった。
 津軽一の三味線弾きに成れますように。
 この年、タキゾウは数えの十七歳となった。
 まもなくハマとタケは、この青年と縁を持つことになる。
 願竜寺が繋いだ、重要な縁であった。
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