25 / 65
二十三 縁起
しおりを挟む
えんぎ
十三は、水に囲まれた町であった。
海が近く、土地が平らで、遠くに山並みがようやく確認できるということでは、柿崎や今町(直江津)と似通った景色が広がっている。
それでも、十三には上越の海辺と決定的に違うところがあった。それは、十三の町が砂州の上にあり、いわば十三潟の中に浮いているように在ることであった。
それでハマは、この町はどんなだね、とタケに訊かれると、ウミに浮いている、と答えたものだった。
十三潟(十三湖)は、縄文時代には現在の五所川原市の中心部あたりまで広がる、巨大な大潟だった。
それが、岩木川が運ぶ土砂や、海からの砂(寛政四年の津波もあった)の影響、あるいは長年の地殻の変動もあったはずだが、十三潟は徐々に小さくなっていったと云う。
出羽の砂潟(酒田)と成り立ちがよく似ているが、規模の観点で言って、十三潟のほうがはるかに広大である。
また十三湊は、かつて三津七湊に数えられていたほどの要衝で、西廻り航路と岩木川舟運を直結させる川湊として、重要な役割を担い、ゆえに大変栄えていたのである。
幕末の探検家、松浦武四郎は、十三湊の賑わいぶりを評して、「十三湊は(山形の)酒田湊よりもよい川湊である」と、「東奥沿海日誌」(嘉永三年=一八五〇年)に著している。
海に囲まれた日本は、古代より河川の舟運と、それらを結ぶ海運が交易の中心であった。
そのため、時の権力者は津・湊の近くに都を形成し、発展してきた。
津軽もまた、その例外ではないが、一つ違うことがある。
それは、古代から長きに渡り、大和朝廷の権力の外側にあって、かつ未開の渡島(北海道)の先住民と交易があり、もっと言えば、その渡島を経由して、大陸と交易していたことである。
故に、大和政権が手に入れられない貴重な産物を保有しており、それらを手中に収めるために、津軽は長きに渡り、時の権力者にとって、垂涎の的であり続けたのだ。
権力者とはつまり、奥州藤原氏、源頼朝、北条氏らである。
しかし、一見彼らが支配したかに見えて、本当のところは完全には陥落しなかったのが、津軽なのである。
結論を急げば、毛人系の先住豪族が力を持ち続けていたのである。
それが、北条義時の時になってようやく、中央側が折れ、その先住豪族を北方世界の統括者として任官する。
その権力者こそが、十三潟北岸に城(福島城)を構えた、安東(安藤)氏であった。
この安東氏こそが、十三湊のかつての繁栄を創り上げた人物であった。
その栄華は、室町時代まで続いた。
安東氏が、足利義量の、室町幕府、第五代征夷大将軍に任じられた祝賀として、北方産物を贈ったことが記録されている。
その安東氏も、一四三二年の南部氏との戦に破れ、夷嶋(北海道)に没落した。
その後、南部氏は十三潟、十三湊をそれほど重要視しなかったようだ。
一方、岩木川の舟運に支えられ、日本海交易で発展した十三湊は、まさにその「川」と「海」の力が元となって衰退を余儀なくされるのである。
それが、洪水と飛砂である。
またそれに加えて、特に江戸末期頃から立て続けに冷害に見舞われ、明治の津軽は疲弊していくのである。
ハマとタケが十三湊に移り住んだ年の前年の明治十七年(一八八四年)は、およそ二百年かかった津軽西浜の植林(屏風山と呼ばれるようになっていく)が完成して十年目の年だったが、それも虚しく、平年の半分の凶作となった。
屏風山によって、飛砂への対策が済んでも、岩木川が運ぶ土砂は、年々変わらず十三潟を浅くしていったし、その土砂によって、水戸口は閉塞させられ、何度も別の水戸口を開けなければならなかった。
南部氏が津軽の権力を掌握し、弘前藩主になると同時に、西廻り航路の重要港としての十三湊は、その座を鰺ヶ沢湊に明け渡し、その後、その座に返り咲くことはなかった。
それでも、岩木川舟運は江戸時代まで機能したし、「十三小廻し」という回漕で、米などを鰺ヶ沢湊に運び、西廻り航路とつながっていた。
ゆえに、十三湊は、松浦武四郎がその地を訪れた時代も、かつての栄華を残していたのである。
その時から、およそ四十年。
戊辰・箱館戦争、版籍奉還、廃藩置県、屏風山の植林完成、戦争インフレによる弘前藩の財政困窮、水戸口閉塞改善の嘆願書、政府のインフレ政策による米価の下落、凶作と激動があった。そして、この明治十八年は、春から大洪水の幕開けだった。四月に中流域の大巻堤防が決壊したのだ。春の雪解け増水の時期に、大雨が降ったのである。不幸中の幸いで死者はなかったが、十三潟あたりの下流域にも洪水の爪痕は残った。
その後始末が、ようやく済んだ。
ハマとタケが十三村に到着したのは、そういう時であった。
このような困難続きでも、津軽の人々はたくましく生き、土地に残る人は馬鈴薯の栽培、新たにリンゴ栽培をし、そうでない人々は、新天地を求めて北海道へ移っていった。
「タケぢゃん、まだ水汲んでぎでもらえるが」
クマは、水桶をタケに渡して頼んだ。
「はい、クマばあちゃ」
「一度でなぐ、何度も行げばいはんで。少すずづな、無理すねで」
佐渡屋の別館であり、ハマとタケが住むことになった家は、町家並びの南の端の方に位置し、鍛冶町通りの横にあった。
町には井戸がいくつかあり、別館から一番近い井戸は鍛冶町にあった。水汲みは一度では済まない。必要に応じて何度も行くわけだが、朝一番の水汲みは、家から少し離れた願竜寺境内の井戸に行くことに、タケは決めたのだった。
それは、朝の町の景色が多く見られるからで、タケのそういう子供特有の興味は尽きない。
クマは佐渡屋別館専属の女中として利兵衛に雇われていて、町の南、明神沼の近くの村、富萢から通ってくる。
年の頃は六十過ぎ、名前に似合わず小柄だったが、丸顔で色黒だった。
もちろんクマは利兵衛の身の回りの世話を主にやるのだが、新しく来たハマとタケの世話も、利兵衛に仰せつかっていた。しかし、ハマやタケはそのような客人扱いされる気は毛頭なく、タケはハマに言われ、早晩クマに付いて、やることを聞いて回り、すぐにクマの助手と化した。
明け六つの鐘が鳴って間もなかったが、町家通りの人通りは少なくなかった。
タケは、行き交う人の様子に目を向けながら、水桶を持って歩いていく。
右、左、土蔵が二軒置きにあり、左の三軒目の土蔵が見えてくるともうすぐだった。
右手に湯屋がある角をタケは右に折れて、願竜寺通りに入っていく。
立派な山門が見える。
願竜寺。
開基は慶安元年(一六四八年)。開祖は雪典。
雪典は、佐渡国相川大澗村にある願竜寺の嫡子で、もともと佐渡と縁がある十三村に来て、佐渡屋太郎兵衛の援助でこの寺を建立したと云う。佐渡屋太郎兵衛はもちろん、佐渡屋利兵衛の親戚筋であった。
その意味で、願竜寺は佐渡屋と縁がある。そう話して聴かせたのは利兵衛であった。
町家並びには、もう一つ北へ八軒程先に、湊迎寺があり、それはもう一つの有力商家、能登屋と縁があった。
山門をくぐり左手に、井戸はあった。
井戸の前に水桶を一旦置き、タケは本堂の前まで歩いていき、手を合わせた。
特別なにかを祈るわけでもない。強いて云うなら、今日も一日無事でありますように。
つい三日前、同じようにその場所で参拝した者があった。
豊川タキゾウ。
盲人の青年であった。
今のタケと同じ五歳で麻疹に罹り、視力を失った。ハマと同様だった。
タキゾウは、その日、三味線を持ち、門付芸をするために川舟に乗って、十三村に来ていた。
毎回、十三村に来た時は、最初に願竜寺門前で門付けをすることをタキゾウは決めていて、その前には必ず参詣するのであった。
タキゾウの場合は、ちゃんとした祈りがあった。
津軽一の三味線弾きに成れますように。
この年、タキゾウは数えの十七歳となった。
まもなくハマとタケは、この青年と縁を持つことになる。
願竜寺が繋いだ、重要な縁であった。
十三は、水に囲まれた町であった。
海が近く、土地が平らで、遠くに山並みがようやく確認できるということでは、柿崎や今町(直江津)と似通った景色が広がっている。
それでも、十三には上越の海辺と決定的に違うところがあった。それは、十三の町が砂州の上にあり、いわば十三潟の中に浮いているように在ることであった。
それでハマは、この町はどんなだね、とタケに訊かれると、ウミに浮いている、と答えたものだった。
十三潟(十三湖)は、縄文時代には現在の五所川原市の中心部あたりまで広がる、巨大な大潟だった。
それが、岩木川が運ぶ土砂や、海からの砂(寛政四年の津波もあった)の影響、あるいは長年の地殻の変動もあったはずだが、十三潟は徐々に小さくなっていったと云う。
出羽の砂潟(酒田)と成り立ちがよく似ているが、規模の観点で言って、十三潟のほうがはるかに広大である。
また十三湊は、かつて三津七湊に数えられていたほどの要衝で、西廻り航路と岩木川舟運を直結させる川湊として、重要な役割を担い、ゆえに大変栄えていたのである。
幕末の探検家、松浦武四郎は、十三湊の賑わいぶりを評して、「十三湊は(山形の)酒田湊よりもよい川湊である」と、「東奥沿海日誌」(嘉永三年=一八五〇年)に著している。
海に囲まれた日本は、古代より河川の舟運と、それらを結ぶ海運が交易の中心であった。
そのため、時の権力者は津・湊の近くに都を形成し、発展してきた。
津軽もまた、その例外ではないが、一つ違うことがある。
それは、古代から長きに渡り、大和朝廷の権力の外側にあって、かつ未開の渡島(北海道)の先住民と交易があり、もっと言えば、その渡島を経由して、大陸と交易していたことである。
故に、大和政権が手に入れられない貴重な産物を保有しており、それらを手中に収めるために、津軽は長きに渡り、時の権力者にとって、垂涎の的であり続けたのだ。
権力者とはつまり、奥州藤原氏、源頼朝、北条氏らである。
しかし、一見彼らが支配したかに見えて、本当のところは完全には陥落しなかったのが、津軽なのである。
結論を急げば、毛人系の先住豪族が力を持ち続けていたのである。
それが、北条義時の時になってようやく、中央側が折れ、その先住豪族を北方世界の統括者として任官する。
その権力者こそが、十三潟北岸に城(福島城)を構えた、安東(安藤)氏であった。
この安東氏こそが、十三湊のかつての繁栄を創り上げた人物であった。
その栄華は、室町時代まで続いた。
安東氏が、足利義量の、室町幕府、第五代征夷大将軍に任じられた祝賀として、北方産物を贈ったことが記録されている。
その安東氏も、一四三二年の南部氏との戦に破れ、夷嶋(北海道)に没落した。
その後、南部氏は十三潟、十三湊をそれほど重要視しなかったようだ。
一方、岩木川の舟運に支えられ、日本海交易で発展した十三湊は、まさにその「川」と「海」の力が元となって衰退を余儀なくされるのである。
それが、洪水と飛砂である。
またそれに加えて、特に江戸末期頃から立て続けに冷害に見舞われ、明治の津軽は疲弊していくのである。
ハマとタケが十三湊に移り住んだ年の前年の明治十七年(一八八四年)は、およそ二百年かかった津軽西浜の植林(屏風山と呼ばれるようになっていく)が完成して十年目の年だったが、それも虚しく、平年の半分の凶作となった。
屏風山によって、飛砂への対策が済んでも、岩木川が運ぶ土砂は、年々変わらず十三潟を浅くしていったし、その土砂によって、水戸口は閉塞させられ、何度も別の水戸口を開けなければならなかった。
南部氏が津軽の権力を掌握し、弘前藩主になると同時に、西廻り航路の重要港としての十三湊は、その座を鰺ヶ沢湊に明け渡し、その後、その座に返り咲くことはなかった。
それでも、岩木川舟運は江戸時代まで機能したし、「十三小廻し」という回漕で、米などを鰺ヶ沢湊に運び、西廻り航路とつながっていた。
ゆえに、十三湊は、松浦武四郎がその地を訪れた時代も、かつての栄華を残していたのである。
その時から、およそ四十年。
戊辰・箱館戦争、版籍奉還、廃藩置県、屏風山の植林完成、戦争インフレによる弘前藩の財政困窮、水戸口閉塞改善の嘆願書、政府のインフレ政策による米価の下落、凶作と激動があった。そして、この明治十八年は、春から大洪水の幕開けだった。四月に中流域の大巻堤防が決壊したのだ。春の雪解け増水の時期に、大雨が降ったのである。不幸中の幸いで死者はなかったが、十三潟あたりの下流域にも洪水の爪痕は残った。
その後始末が、ようやく済んだ。
ハマとタケが十三村に到着したのは、そういう時であった。
このような困難続きでも、津軽の人々はたくましく生き、土地に残る人は馬鈴薯の栽培、新たにリンゴ栽培をし、そうでない人々は、新天地を求めて北海道へ移っていった。
「タケぢゃん、まだ水汲んでぎでもらえるが」
クマは、水桶をタケに渡して頼んだ。
「はい、クマばあちゃ」
「一度でなぐ、何度も行げばいはんで。少すずづな、無理すねで」
佐渡屋の別館であり、ハマとタケが住むことになった家は、町家並びの南の端の方に位置し、鍛冶町通りの横にあった。
町には井戸がいくつかあり、別館から一番近い井戸は鍛冶町にあった。水汲みは一度では済まない。必要に応じて何度も行くわけだが、朝一番の水汲みは、家から少し離れた願竜寺境内の井戸に行くことに、タケは決めたのだった。
それは、朝の町の景色が多く見られるからで、タケのそういう子供特有の興味は尽きない。
クマは佐渡屋別館専属の女中として利兵衛に雇われていて、町の南、明神沼の近くの村、富萢から通ってくる。
年の頃は六十過ぎ、名前に似合わず小柄だったが、丸顔で色黒だった。
もちろんクマは利兵衛の身の回りの世話を主にやるのだが、新しく来たハマとタケの世話も、利兵衛に仰せつかっていた。しかし、ハマやタケはそのような客人扱いされる気は毛頭なく、タケはハマに言われ、早晩クマに付いて、やることを聞いて回り、すぐにクマの助手と化した。
明け六つの鐘が鳴って間もなかったが、町家通りの人通りは少なくなかった。
タケは、行き交う人の様子に目を向けながら、水桶を持って歩いていく。
右、左、土蔵が二軒置きにあり、左の三軒目の土蔵が見えてくるともうすぐだった。
右手に湯屋がある角をタケは右に折れて、願竜寺通りに入っていく。
立派な山門が見える。
願竜寺。
開基は慶安元年(一六四八年)。開祖は雪典。
雪典は、佐渡国相川大澗村にある願竜寺の嫡子で、もともと佐渡と縁がある十三村に来て、佐渡屋太郎兵衛の援助でこの寺を建立したと云う。佐渡屋太郎兵衛はもちろん、佐渡屋利兵衛の親戚筋であった。
その意味で、願竜寺は佐渡屋と縁がある。そう話して聴かせたのは利兵衛であった。
町家並びには、もう一つ北へ八軒程先に、湊迎寺があり、それはもう一つの有力商家、能登屋と縁があった。
山門をくぐり左手に、井戸はあった。
井戸の前に水桶を一旦置き、タケは本堂の前まで歩いていき、手を合わせた。
特別なにかを祈るわけでもない。強いて云うなら、今日も一日無事でありますように。
つい三日前、同じようにその場所で参拝した者があった。
豊川タキゾウ。
盲人の青年であった。
今のタケと同じ五歳で麻疹に罹り、視力を失った。ハマと同様だった。
タキゾウは、その日、三味線を持ち、門付芸をするために川舟に乗って、十三村に来ていた。
毎回、十三村に来た時は、最初に願竜寺門前で門付けをすることをタキゾウは決めていて、その前には必ず参詣するのであった。
タキゾウの場合は、ちゃんとした祈りがあった。
津軽一の三味線弾きに成れますように。
この年、タキゾウは数えの十七歳となった。
まもなくハマとタケは、この青年と縁を持つことになる。
願竜寺が繋いだ、重要な縁であった。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
虹ノ像
おくむらなをし
歴史・時代
明治中期、商家の娘トモと、大火で住処を失ったハルは出逢う。
おっちょこちょいなハルと、どこか冷めているトモは、次第に心を通わせていく。
ふたりの大切なひとときのお話。
◇この物語はフィクションです。全21話、完結済み。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
魔斬
夢酔藤山
歴史・時代
深淵なる江戸の闇には、怨霊や妖魔の類が巣食い、昼と対なす穢土があった。
その魔を斬り払う闇の稼業、魔斬。
坊主や神主の手に負えぬ退魔を金銭で請け負う江戸の元締は関東長吏頭・浅草弾左衛門。忌むべき身分を統べる弾左衛門が最後に頼るのが、武家で唯一の魔斬人・山田浅右衛門である。昼は罪人の首を斬り、夜は怨霊を斬る因果の男。
幕末。
深い闇の奥に、今日もあやかしを斬る男がいる。
2023年オール讀物中間発表止まりの作品。その先の連作を含めて、いよいよ御開帳。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる