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七 日比子(昆子)のおタナちゃん

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びりごのおたなちゃん

「ハマは、夏が好きだって言い始めた頃から、体が丈夫んになったんだ」
 ハマの母タケが珍しく、そんな回想をしたのは、亡くなる前年の夏のことだった。
 けれども、ハマが夏と言えば、後世想い出すのは、「おタナちゃん」の事であった。
 おタナは、ハマと同い年だった。
 そんなおタナと、ハマが初めて会ったのは、ハマが修行二年目、七歳(数え)の時だった。野口家は、妙音講みょうおんこう(毎年五月十三日に行われる会。芸能の神・弁天様をお祭りし、師匠共々唄を披露し、腕を競い合う)の直前の二週間ほど、中頸城なかくびき方面に旅をすることが多い。
 ちょうど、八十八夜の頃に出立する。
「別れ霜、って言うんだ」
 そう教えてくれたのは、物知りのおセン姉さだった。
 もう霜が降りなくなる季節。夏の始まりであった。
「これから山道だーすけ、一服するかなあ」
 いつもの事だ。
 田畑が切れて、山間に入る手前(今の地名で、上越市牧区宮口の辺り)。そこから、休み休み歩いて、日比子(びりご=昆子)まで、およそ半刻と四半刻(一時間三十分)ほどの所だった。
 路を右に少しそれた、いつもの土手上にヤスヨが一行を導く。
 そして土手上の原っぱに皆座った。
 吹き上げてくる涼しい風が、その場所の見晴らしの良さを感じさせる。
 涼しくも、それは最早、春先の風ではなかった。
「気持ちがいいねえ」
 コトがしみじみと言って、息を吐く音が聞こえる。
 新芽の緑の匂いがしていた。額を陽の光が温めていくのが分かる。
 野趣の変化を姉さたちと一緒に感じながら、サト(ハマ)は自分ひとりだけの喜びを胸に感じていた。
(もうすぐ、おタナちゃに会える)
 この年会えれば、三回目。
 同い歳の二人は、九つ(数え)になる。
「来年は、タナと一緒にゼンマイ干しやらんかね」
 日比子の定宿、佐藤家の末っ子、おタナは、ばあ様の手伝いをよくする子であった。
 ちょうど、野口家の一行が日比子に泊まる頃は、山菜の美味しい季節だった。
 夕餉にも、何種類もの山菜料理が出され、それを皆楽しみにしていた。
 木の芽のクルミ和え
 タラの芽の天ぷら
 ウルイのおひたし
 天然浅葱あさつきのぬた
 わらびの味噌汁
 それらは、贅沢ではないが、何よりの御馳走であった。
 前年、旅立ちの朝早く、タナはサトと一緒にゼンマイ干しをやることを約束したのであった。
 別れ際に、サトはタナの体を触った。
 髪、頬、肩、腰。
 すらっとして、子供なのに均整がとれている、とサトは想った。
(きっと、器量良しなんだなあ)
 その感触がまだ残っている。
「さあて、そいじゃあ、日比子びりごまで、もう一息歩くかねえ」
 コトの合図に、手引きのヤスヨとハツエ、そして新米のシズエが立った。
 姉さたちが手引きの後ろに捉まって続く。
 先頭のヤスヨの列は、コト、タカ、タミ。
 続くハツエの列は、セン、ツマ、サト、そして新米手引きのシズエが最後尾だ。
「はい、この坂登りきれば、御馳走が待ってるよお」
 路は、人里を離れ、緩やかに谷あいを進んでいった。
 心地よい気候のおかげもあって、途中一回の短い休みを入れただけで、一行は予定よりも少し早く、日比子に入った。
 村の入り口にある神社に参拝を終えると、ヤスヨが先に宿に挨拶に向かった。一行はヤスヨが戻ってくるのを待ってから、歩き出す。
 ヤスヨは、庭先に、ばあさまが出てこなかった事を気にしながら戻ってきて、再び手を引いて歩き出す。
「今日来るかと想っていましたよ、て、佐藤の旦那様」
 コトに報告する。受け入れ問題なし、ということだった。
 しかし、サトはその声に、少しの陰りを感じていた。
(何か、変わったことがあるなあ)
 佐藤喜三郎と、妻タエは、いつになく明るく一行を出迎えた。
「ようござりました」
 喜三郎が挨拶した。しかし、いつもならその後ろから駆け寄ってくる足音が無い。
 訝しむサトに構わず、コトはすでに神社で組み立てた三味線を弾き始める。セン、タカがあとに続く。
 門付け唄をまずやるのだ。お世話になりますの挨拶代わりだ。
 
 見そめ相そめ ついなれそめて
 今は思いの ソリャ種となる

 来ては唐紙 なでてはもどる
 いとど思いの ソリャ増鏡

 かわいがらんせ つとめのうちは
 末に女房 ソリャわが妻よ
 ・・・・・
     (門付け唄「かわいがらんせ」)

 サトも声慣らしと、元気に唄った。
 しかし、唄の間、ばあ様の声がしない。それにタナの気配も無かったのである。
(何か採りにでも行っているのか)
 挨拶の門付けが終わると、村を回る。
 瞽女さが来たよ、と知らせ回るのである。
「そいじゃあ、上らねえでこのまま明りいうちに、門付け回ろか。そんなんで旦那様、先に行ってくる」
「ああ、そうですか、では、準備して待ってますよ。行ってらっしゃい」
「ところで、ばあ様とお嬢ちゃんの声聞こえませんが、山菜採りにでも行きましたか」
 あるき出しながら、コトは旦那に聞いた。
「それがねえ・・・」
 妻タエが後を引き取る。
「去年の暮に、亡くなりました」
 一行が、揃って立ち止まる。
「ありゃあ・・・」
 さすがのコトも二の句が出ない。
「それに、タナも」
「はああっ」
 先ほどからおかしいと想っていた、サトの声。
(うそだ)
「後を追うように。正月でした」
「なんだってねえ。まだ小さかったのにねえ」
「百か日過ぎて、今年も瞽女さが来るねえ、って、おっとちゃと話していたところで。ほんとやっと春が来たようだ、て」
「そうですかねえ。後で、お参りさせてください。明日は出る前に、お経を上げさせてください、皆で。ばか、お世話になりましたすけ、長いこと」
「はい、どうもなあ。それでは、後ほど。お風呂沸かして待ってますすけ」
 瞽女宿は、一番風呂を瞽女に提供したものである。それほどまでに、瞽女は有り難い訪問者であったのだ。
 サトは、愕然としていた。
(どうして、こんなことが)
 にわかに信じられず、気をしっかり持っていられそうも無かった。
 それでも、一軒、そしてまた一軒と、門付け唄を歌うごとに、不思議に気持ちが落ち着いていくのだった。
 何故か、あのばあ様とおタナが微笑みながら、一行について回っているような、そういう気配を感じたのである。確かな感覚が。
(大事な人が亡くなる、てことは、こんげな感じのことなのでねえだろうか)
 まだ幼いサトは、そんな事をふと思った。
 しかし、門付けから戻って、仏壇に手を合わせ、風呂をもらい、夕餉を馳走になったりしているうちに、二人の不在が、さらに重く、サトの心に影を落としていった。
(もう、会えねえなんて。おタナちゃ)
 心の中で、何度も呼びかけては、涙が湧いてくる。
「その、ワラビは、去年採れたものの塩漬けですよ。ばあ様とタナが採って、アクを抜いて、そして樽に漬けておいたのを、昨晩から塩抜きして、お吸い物にしました」
「そうか。大切にいただかんばね。ほんとにこちらの山菜料理は、毎年楽しみだよ。全部んまい。手が込んでて」
(ゼンマイ干すの、一緒にやろうと約束したのに)
 何気ない会話の度に、サトは想いに沈んでいくのだった。
 その夜の宴は、いつにも増してにぎやかに、そして夜遅くまで続いたのだった。
 早めに引けた、サトと手引きのシズエは、先に休んだ。
 サトは、クタクタに疲れていた。
 おタナのことをずっと堪えていたからだろう。こういう事も、修行なのかもしれないと、考えていたら、サトは不思議とすぐに眠りに落ちた。
 なんとなく期待してたのだが、夢枕にタナが立つことは無かった。
 眠りは深く、あっという間に朝になった感じだった。
 底しれぬ虚しさと、こんな時に良く眠れた自分の薄情さを、サトは心の中で毒づいた。
 一番鶏が鳴いた。
 サトはまどろみの中で、その音を聴くとも無しに、聞いていた。
 その時だった。
 外で、笑い声がした。
 耳を澄ます。
 それは、タナの声に似ていた。
(そんげなわけはねえ。いや、まだ眠りの中だったか)
 また、した。
 再び耳を澄ませる。
(やっぱり、おタナちゃんの声)
 すると、声が、だんだん大きく近づいてきた。
 笑っている。
(え、おタナちゃん、呼んでる。私を)
 サトは、起き上がった。
「どうしたね、サト。まだ早いすけ、もう少し寝てろ。それとも、かわやかい」
 ヤスヨだった。
 すでに起きて、荷物などを片付けていた。
「ヤスヨ姉さん、おはようござんす。すみません。厠に連れていってくんなせ」
 ヤスヨに手を引かれ、玄関の土間に降り、表に出、厠のある右の方へ、サトは進んで行く。
 おタナの声はしなくなり、その代わり、ヤギが一声鳴いた。
 厠を済まして戻ってくると、庭先にタエが居るのが見え、ヤスヨが挨拶した。
「あ、はようござんす。早いですね」
「おはようございます。よう眠れましたか」
「はい、おかげさまで」
 庭先で、タエは筵を敷いて作業中だった。
「それは、ゼンマイですね」
「そう、山菜の始末する人が居んくなったもんだすけねえ。そのくせ採ってくる人は変わらずいっろ」
 笑いながら、タエが言う。
「あら、手伝いましょうか。少しでも」
「いやいや、そんなこと、大丈夫ですよ」
(そうか。おタナちゃが呼んだんだ。やっぱり)
 はっとなって、サトが言った。
「いや、おかみさん、手伝わせてください。私に」
「そんげな、瞽女さに、ゼンマイ干しなんてさせてしもうたら、罰があたるよ」
 サトの気持ちに呼応するように、アク抜きしたゼンマイ独特の匂いがしていた。
「やる。だって、約束したすけ、私。おタナちゃと」
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