シアター 穴蔵(あなぐら)

沢亘里 魚尾

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 初詣の参拝者も落ち着いた一月のある朝、真一は電車で鎌倉駅に向かった。
 三十八度を超す熱がようやく下がった次の日ということもあり、足元がふらついていたが、真一は見えない力に突き動かされるような気持ちだった。
 巡礼は、真一にとって、初めてのことだった。
 大学時代の友人に、何年か前に誘われたことがあったが、その時は、気が進まず同道しなかった。
 ただ、その友人から鎌倉巡礼について、後日聞かされたことがあって、だいたいの作法を少しは知っていた。
 お遍路と言えば、普通は白装束だろうが、真一は、黒いジーンズに、黒のとっくりセーター、そして黒いウールのコートに黒のブーツと、黒装束だった。
 そして、小さい黒い肩掛け鞄に、数珠と財布などを入れて持った。
 鎌倉駅の観光案内所で訊ねると、鎌倉でのお遍路にはいくつかのコースがあり、代表的なものは、鎌倉三十三観音と鎌倉二十四ヶ所地蔵巡りがあると説明され、二種類のパンフレットをもらった。
 歩き始めた時間は九時過ぎであった。
 到底一日で回りきれる距離ではないと、真一は早々と二日間の巡礼を覚悟した。
 真一はまず、三十三観音の第一番札所、杉本寺に向かった。
 参詣の後、真一は御朱印帳を購入し、一番目の御朱印を押してもらうと、二つのパンフレットの地図を見比べて、自分なりの順路を作ってみた。
 杉本寺を起点に、三十五寺院を定め、一旦東に向かい西に戻り、南に下り北西に向かい、その後南へ、最後は極楽寺で終わるという道のりであった。
 六番目に訪れた寺で参詣を終え、御朱印所に行くと、留守だった。
 しばらく辺りの景色を眺め、真一が佇んでいると、本堂の裏側から通路を通って住職が現れた。
「お待たせしました」
 真一は、合掌すると御朱印帳を住職に渡した。
「よろしくお願いします」
「よく、お参りいただきました」
 住職は、比較的若く、真一は三十代であろうと、見当をつけた。
 字は達筆というよりは、几帳面かつ力強い筆跡だった。
 その寺の御朱印所は、本堂や母屋の続きにはなく、別庵のようになっていた。
 真一が再び合掌して頭を下げ山門へ向かいかけるのに、住職が御朱印所から表に出てきて、真一を見送りながら話しかけた。
「どういうことで、巡礼に」
 立ち止まり、振り返ると真一は住職と目を合わせた。
 住職は柔らかな頬笑みを眼鏡越しに真一に向けていた。
「おなかの子が亡くなりまして」
「そうですか」
 住職は極めて穏やかな表情でそう言うと、一度合掌して続けた。
「それは」「有難いことですね」
 真一は一瞬、耳を疑った。
 真一の表情を確かめてから、住職は付け加えるように語った。
「そのような出来事があった縁で、貴方が、巡礼をなさることをご決断されたのであれば」「それは、有難いことです」
 咄嗟に、真一は手を合わせて頭を下げた。住職が続けた。
「巡礼は、ただ、ある寺から次の寺へ、多くの寺に行くことが目的ではないのです」「その道すがら、貴方はきっと、霊験あらたかな体験をなさるでしょう」「そのことこそが修行なのです」「よく、お参りくださいました」
 そういうと、住職は再び合掌した。
「ありがとうございます」
 山門をくぐり、来た道を下って行く間、真一は、住職の言葉を繰り返し頭の中で反芻した。
 何故か涙があふれ、涙に滲んで、進めなくなり、真一は歩みを止めた。
 振り返ると、山門の前に、まだ住職の姿があった。
 真一は向き直り、また歩き始めた。
 その後彼は無心に歩き続け、気が付けば北鎌倉駅の方まで来ていた。
 駅前のコンビニでおにぎりとお茶を購入し、それを昼食とした。
 午後の順路は、円覚寺からだった。
 住職の言葉があったにも関わらず、真一は先を急ぐ自分を止められなかった。
 北鎌倉エリアから再度鎌倉駅方面に戻り、化粧坂の先の海蔵寺を過ぎたあたりからだろうか。
 真一は、右の膝上の筋に痛みを感じた。
 何度か屈伸をしたり、延ばしたり、揉んだりしたが、歩きだすと痛みが戻り、構わず歩いているうちに、いよいよ真一は足を引きずらずには歩けなくなった。
 やっとの思いで、鎌倉駅まで戻った真一は、その日は諦めて帰ることにした。
 その夜、真一はバスタブにお湯を張り、長めの風呂につかった。
 そして、以前に整形外科で処方されて残っていた湿布を貼って、早めに床に就いたのである。
 ところが、翌朝になっても、膝上の痛みは治るどころか、かえって悪化したようだった。
 それでも、真一には途中で断念するという選択肢は無かった
 残る寺院は七つだった。
 これも修行のうちであるはず、だと思った。。
 予想通り、その日の巡礼は、真一にとって苛酷を極めた。
 特に階段が辛かった。
 しかも、この日の道程は、寺院間の移動距離が長いかった。
 最後の極楽寺の坂を冷や汗をかきながら降り切ると、すでに冬の太陽は沈みかけていた。
 当然用意されているはずだった達成感は、限界に達した激痛とそれに起因したであろう倦怠感に取って代わった。
 それでも、真一は不思議と穏やかな気持ちだった。
 真一は、江ノ電で藤沢駅まで戻り、そこからバスで自宅に戻った。
 家にたどり着いたのは、午後六時過ぎだった。
 空腹を感じないわけではなかったが、眠気に勝てない気がしていた。
 それに、わずかに悪寒がしていた。
 真一は、ブランデーをタンブラーに七割くらい注ぐと、一気の飲み干し、ベッドに潜り込んだ。
 眠りに落ちるのには、数分も要さなかった。
 真一は死んだように眠った。
 痛みは、翌朝、嘘のように消え去っていた。
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