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十一月半ば、店内のアンティークスツールが決まった。
時を同じくして、晶子は港区の病院に入院した。
ブラッドパッチを受けるためだった。
入院直前には、体調が優れず、脚などに痣のようなものが見受けられるようになっていた。
ブラッドパッチは、脳脊髄液減少症の完全な治療法ではなく、漏れ出た髄液を自分の血液で代用する施術である。
効果は状況に寄ってまちまちで、晶子の場合は、それなりに効果が出ていたが、繰り返すことで効果が薄れる心配もあった。
今回が、二年ぶり三回目の施術ということだった。
晶子は退院後すぐに真一に電話をかけてきた。
真一は素直に喜んだが、晶子の声はなぜか沈んでいた。
執拗に真一が問いただすと、彼女は重い口を開いた。
「夫が、訴えると言ってますの」「離婚が一方的だという主張をされて」
別居中の二人は、離婚調停中だった。
「でも、暴力があったわけだろ」
「ありましたわ」「ただ、それは厳密には、強く引っ張った手を彼が放した拍子に、わたくしが倒れたのですから、不可抗力と言われてしまいましたら、それまでですわ」「あの人は、わたくしが外出がちで、夫婦としての生活を維持できないように、故意に仕向けた、といったようなことをおっしゃっているそうなの」
「仕事柄しょうがないだろ、それは」
「前はそうでしたわ」
晶子はそう言うと、少し間をおいた。
呼吸を整えているような音が聞こえて、真一は彼女が何か重大な話を用意していることを直感した。
「あの人、何するか分かりませんわ」
真一には、それが一種の強迫のように聞こえた。
「真一さん」
力なく、晶子はそう呼び掛けると、また息を整えた。
「わたくし、やっぱり、パリの先生のところに行こうと思いますの」
真一が全く予想していなかった言葉だった。
いつの夜だったか、晶子は、自分の献体を考えている、と言ったことがあった。
治療をし続けることの苦痛に彼女は苦しんでいたのだ。
晶子の症状は、通常の「脳髄液減少症」のそれとは異なっていた。
それゆえ、彼女を研究対象として重要視している先生がパリに居ると言うのだった。
その治療にはリスクが伴う。
つまり、パリの先生のところに行く、ということは、死のリスクがあるということだった。
「だって、ブラッドパッチも上手くいったんじゃ・・・」
「真一さんには分からないわ」
その通りだった。
「ごめんなさい、真一さん」
「それは何について・・・」
晶子は、真一の言葉を遮った。
「パリに発つ日が決まりましたら、連絡いたしますわ」
晶子は泣いているようだった。真一が言葉を返す前に、電話は切れた。
もう二度と、連絡が来ないかもしれない、と真一は思っていた。
しかし、それから三日後、晶子から電話が来た。
最悪の結果を予想していた真一だったが、彼女からの電話で、一瞬少しの希望を持って、言葉を待った。
はたして、真一の希望は脆くも砕かれた。
翌日パリに向かう、ということだった。
待ち合わせの時間よりも三十分早く着いた真一は、結局一時間待つことになった。
晶子は、ベージュの厚手のコートに、黒いフェルトの鍔広の帽子、大きなサングラスという身ごしらえで現れた。
真一は、ジーパンにブルーのダウンジャケット姿だった。
「このような場所で、本当に申し訳ございません」
真一の右隣に座った晶子は、まっすぐ前を向いたまま話し始めた。
「お店の工事は、一旦ストップしてしまいますが、ご心配なさらないで」「弁護士に全て託してありますので」「夫とのことが、すんなり運んでいましたら、何の問題もなかったのですが」「店の権利はわたくしの父に譲ることになります」「そうなりましたら、もちろん、真一さんが御迷惑でなければ、実際の経営をお願いしますわ」
「それは、もう、君が戻らないかもしれない、ということを言ってるんだね」
真一の言葉は、意図せず強い調子になっていた。
「申し訳ございません、真一さん」
彼女は放心したように力なく言った。
「もうひとつ、大事なことをお話ししなければいけませんのに、どうしても言葉になりませんわ」
晶子は、声も出さずに泣いているようだった。
真一は彼女の肩に手を回したが、晶子がその手を取って、真一の膝に戻した。
「そのような資格は、わたくしにはございませんわ」
「どうして」「他に何があるんだ」
真一の言葉の勢いを借りるように、晶子が口走った。
「あなたの子供がいたの」
放たれた言葉が、真一の脳に到達するのには、少し時間がかかった。
「な、なに」
「身ごもっていたの、あなたの子供を」
聞き返したことで、真一は二つ目の事実を知ることになった。
知ることと、理解するということとは別問題だった。
「いま、いた、って」
「身ごもったままでの、ブラッドパッチはリスクがあるから」
「どうしてそんな大事なことを」
俯いたままだったが、真一の言葉の、一字一字には力が込められていた。
冷静さを失っているのは、真一だけではなかった。
「ああ」
晶子は堪え切れず嗚咽を発した。
そして、立ちあがると、エントランスに向かって急ぎ足で歩いて行った。
真一は動けなかった。
まるで脚が鉄の塊になったようだった。
時を同じくして、晶子は港区の病院に入院した。
ブラッドパッチを受けるためだった。
入院直前には、体調が優れず、脚などに痣のようなものが見受けられるようになっていた。
ブラッドパッチは、脳脊髄液減少症の完全な治療法ではなく、漏れ出た髄液を自分の血液で代用する施術である。
効果は状況に寄ってまちまちで、晶子の場合は、それなりに効果が出ていたが、繰り返すことで効果が薄れる心配もあった。
今回が、二年ぶり三回目の施術ということだった。
晶子は退院後すぐに真一に電話をかけてきた。
真一は素直に喜んだが、晶子の声はなぜか沈んでいた。
執拗に真一が問いただすと、彼女は重い口を開いた。
「夫が、訴えると言ってますの」「離婚が一方的だという主張をされて」
別居中の二人は、離婚調停中だった。
「でも、暴力があったわけだろ」
「ありましたわ」「ただ、それは厳密には、強く引っ張った手を彼が放した拍子に、わたくしが倒れたのですから、不可抗力と言われてしまいましたら、それまでですわ」「あの人は、わたくしが外出がちで、夫婦としての生活を維持できないように、故意に仕向けた、といったようなことをおっしゃっているそうなの」
「仕事柄しょうがないだろ、それは」
「前はそうでしたわ」
晶子はそう言うと、少し間をおいた。
呼吸を整えているような音が聞こえて、真一は彼女が何か重大な話を用意していることを直感した。
「あの人、何するか分かりませんわ」
真一には、それが一種の強迫のように聞こえた。
「真一さん」
力なく、晶子はそう呼び掛けると、また息を整えた。
「わたくし、やっぱり、パリの先生のところに行こうと思いますの」
真一が全く予想していなかった言葉だった。
いつの夜だったか、晶子は、自分の献体を考えている、と言ったことがあった。
治療をし続けることの苦痛に彼女は苦しんでいたのだ。
晶子の症状は、通常の「脳髄液減少症」のそれとは異なっていた。
それゆえ、彼女を研究対象として重要視している先生がパリに居ると言うのだった。
その治療にはリスクが伴う。
つまり、パリの先生のところに行く、ということは、死のリスクがあるということだった。
「だって、ブラッドパッチも上手くいったんじゃ・・・」
「真一さんには分からないわ」
その通りだった。
「ごめんなさい、真一さん」
「それは何について・・・」
晶子は、真一の言葉を遮った。
「パリに発つ日が決まりましたら、連絡いたしますわ」
晶子は泣いているようだった。真一が言葉を返す前に、電話は切れた。
もう二度と、連絡が来ないかもしれない、と真一は思っていた。
しかし、それから三日後、晶子から電話が来た。
最悪の結果を予想していた真一だったが、彼女からの電話で、一瞬少しの希望を持って、言葉を待った。
はたして、真一の希望は脆くも砕かれた。
翌日パリに向かう、ということだった。
待ち合わせの時間よりも三十分早く着いた真一は、結局一時間待つことになった。
晶子は、ベージュの厚手のコートに、黒いフェルトの鍔広の帽子、大きなサングラスという身ごしらえで現れた。
真一は、ジーパンにブルーのダウンジャケット姿だった。
「このような場所で、本当に申し訳ございません」
真一の右隣に座った晶子は、まっすぐ前を向いたまま話し始めた。
「お店の工事は、一旦ストップしてしまいますが、ご心配なさらないで」「弁護士に全て託してありますので」「夫とのことが、すんなり運んでいましたら、何の問題もなかったのですが」「店の権利はわたくしの父に譲ることになります」「そうなりましたら、もちろん、真一さんが御迷惑でなければ、実際の経営をお願いしますわ」
「それは、もう、君が戻らないかもしれない、ということを言ってるんだね」
真一の言葉は、意図せず強い調子になっていた。
「申し訳ございません、真一さん」
彼女は放心したように力なく言った。
「もうひとつ、大事なことをお話ししなければいけませんのに、どうしても言葉になりませんわ」
晶子は、声も出さずに泣いているようだった。
真一は彼女の肩に手を回したが、晶子がその手を取って、真一の膝に戻した。
「そのような資格は、わたくしにはございませんわ」
「どうして」「他に何があるんだ」
真一の言葉の勢いを借りるように、晶子が口走った。
「あなたの子供がいたの」
放たれた言葉が、真一の脳に到達するのには、少し時間がかかった。
「な、なに」
「身ごもっていたの、あなたの子供を」
聞き返したことで、真一は二つ目の事実を知ることになった。
知ることと、理解するということとは別問題だった。
「いま、いた、って」
「身ごもったままでの、ブラッドパッチはリスクがあるから」
「どうしてそんな大事なことを」
俯いたままだったが、真一の言葉の、一字一字には力が込められていた。
冷静さを失っているのは、真一だけではなかった。
「ああ」
晶子は堪え切れず嗚咽を発した。
そして、立ちあがると、エントランスに向かって急ぎ足で歩いて行った。
真一は動けなかった。
まるで脚が鉄の塊になったようだった。
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