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丸一日寝ていたような深い眠りだった。
こんなに良く眠ったのは何時以来だろうか、と真一は考えながら、ベッドを出て、窓辺に向かった。
モスグリーンの遮光カーテンを引くと、部屋には一気に真夏の光線が差し込んだ。
すでに、太陽は真上近くまでに上がってしまったらしい。
汗だくだった。
夜中かき続けた汗か、朝からの気温の上昇でかいた汗なのか、分からなかった。
その割には、とてもすっきりした目覚めだった。
真一は、ダイニングに行き、冷蔵庫のドアを開け、炭酸水を取り出してグラスに注ぎ、立て続けに二杯飲んだ。
それは、前日、晶子が現場の帰りに渡した二つの紙袋に入っていたものだった。
紙袋の中には、他にパンやハム、牛乳、シリアル、レタスなどの食料品が入っていた。
それを開けた瞬間、真一は思わず吹き出してしまった。
グラスを置くと、真一はダイニングを見渡した。
小さな木製のダイニングテーブルと、二人掛けのソファ。
あらためて見れば見るほど、何故か自分の部屋じゃないみたいだ、と真一は思った。
そのマンションは、辞めたITソフトウェア会社に勤務するようになって引っ越した部屋だった。
三部屋もあるファミリー向けのマンションで、そもそも真一には広すぎた。
もう少し時間をかければ、身の丈にあった部屋もあっただろうが、当時は急いでいた。
それに、契約どおりの給与なら、無理はない家賃だったのだ。
会社の資金繰りが悪化し、給与の未払いが続くと、家賃が何より邪魔になった。
引っ越しをしなければと考え始めたころには、すでに引っ越し資金すら捻出できない状態になっていた。だから、仕方なく住み続けてきわけだった。
当初、長くは住まないつもりだったから、家具は最小限度にとどめ、増やさなかった。
昨日からの状況の変化を考えると、まだしばらくはここに住むようだった。
「でも、やっぱり広いな」
真一は独り言を言って、椅子を立ち、また冷蔵を開けた。
晶子は、六個入りの卵も購入していた。
少し考えて、真一は、朝食を作ることにした。
ハムエッグ、トースト、サラダ。
ふと思い立って、コーヒーを淹れようと、スチールラックの上の密閉式の陶器の容れ物を開けたが、そこの入っていた茶褐色の粉末は、およそコーヒーの香りがしなかった。
飲み物は炭酸水で我慢するしかなかった。
朝食の後。真一は、しばらく開いてもいなかったノート・パソコンを起動してみた。
それは、カリカリと怪しげな音を立てながらも、なんとかたちあがり、企画書作成ソフトも問題なく使えるようだった。
真一は、PDA(携帯端末)をチェックした。
前夜、夜中に現場の写真と図面が晶子から一式送られてきていた。
そこに、店舗企画も早速進めてほしい、とも書いてある。
問題は、インターネットだ。
プロバイダはだいぶ前に解約していた。
PDAから図面などのデータをパソコンに移動することもできない。
真一は、あれこれ考えたが、やはり自宅での作業を選んだ。
PDAを左、右にノートパソコンをダイニングテーブルに据え、真一は作業に取り掛かることにした。
真一は、まず気持ちを落ち着け、何から始めるべきか、頭で整理した。
考えをめぐらせているうちに、真一は、大学生のころ将来はお店を経営できたら良い、という夢想を抱いたことがあったことを思い出した。
内容までは思い出せなかったが、所詮ただの思いつきレベルであったはずだった。
今回は、そういうことではない。
仕事だ。
しかも、かなりの部分、真一に任されていた。
どんな企画であろうと、現実の店になってしまうのだ。
責任重大である。
しかし、こういう局面でも、焦らず基本に立ち返って、一歩踏み出す。
それが重要だと言うことを、真一は社会人経験から学んでいた。
しばらくして、真一は、アプリケーションの新規作成から、新規ドキュメントを一つ立ち上げ、すでに分かっている基本情報を書き出していった。
●立地:茅ケ崎、鉄砲通り
●敷地面積:約五十坪
●業種:酒類を提供する店舗
●予算:要確認
●周辺の競合:要調査
ここまで書いて、真一は、もっとも重要な基本的な要件が何も分かっていないことに気付いた。
まずは、予算がないことには、どうにもならないような気がしたので、真一は、晶子にメールで確認することにした。
送信して、数分で晶子から返信があった。
彼女からの回答はこうだった。
「最初に予算を決めてしまいますと、面白味のない、ありきたりのプランになってしまいませんでしょうか」「まずは、そこは気になさらないで考えていただけますでしょうか」
予算がない事業などあるものか、と真一は反論したい気持ちになったが、結局は、了解しました、とだけ返した。
真一は、次のページを作成し、新たな気持ちで考え始めた。
一旦パソコンから離れ、大学ノートとボールペンを持ち、真一はソファに座った。
それから彼は、一人ブレーンストーミングのような作業を繰り返した。
三十分もすると、真一は一つの方向性を見出した。
そこからは早かった。
真一はダイニング・テーブルに戻り、PDAで情報を検索しながら、企画をまとめていった。
晶子が、再び真一のマンションに来たのは、二週間後だった。
駐車場に下りていくと、見慣れないグレーのベンツAクラスがとまっていた。
「今日はポルシェじゃないんですね」
晶子が何故かあきれ顔をした。
「ですから、真一さん、そういう言葉づかいはやめて下さらない」
「ああ」
彼女は、何やら英語でつぶやきながら、後部座席から、黒い革製のビジネスバックを取り出した。
「主人が、勝手に売り払ってしまったの」「気に入ってましたのに、あのポルシェ」「それでも、真一さんは先日大層怖がられていましたでしょ、ポルシェ」「ですから、わたくしとしては残念に思いますけれども、こちらのほうが、結果的によろしかったかもしれませんね」「だいたい、別居中のあの方に意見されるのもおかしな話なのですが、まあ、しょうがありませんわね、彼の名義になっておりましたので」「わたくしがお金をお支払いしましたのに」
晶子は荷物を降ろしながら、一気にまくしたてた。
真一は車の脇に立って、話の筋を追っていた。
「ちょっと、お立ちになっていないで、手伝ってくださる」
真一は慌てて手を貸した。
「お部屋に上がらせてもらってよろしいかしら」
真一が先に立って、晶子を案内した。
「なんか、息苦しいわね、この部屋」「どうしてかしら」
晶子は、玄関を入ると開口一番そう言った。
そして部屋に上がると、真一に断ることもなく、全ての部屋を勝手に見て回った。
「部屋数と、広さは問題ないのに、一階の中側の部屋だから、日当たりがよろしくないのと」「それから、真一さん、お掃除なさってないでしょう」
いきなりの干渉に真一は内心憤慨していたが、黙っていた。
「まあ、そのうち考えましょう」
何を考えるか、真一は訝ったが、聞き流すことにした。
「さて、真一さん、それはさておき、プランは出来てますかしら」
「正直、予算が明確ではない、ということもあって、現実にできるかどうか、そのあたりの検証はこれからやらなければならないと思うけど、まあ、なんとか」
「あらあら、真一さん、ご自分のプランに自信をお持ちになったら」「プレゼン前に、そのように言い訳をなさって」
晶子は、馬鹿にしたように笑ったが、当たっているだけに、真一は反論できなかった。
「説明してくださらない、真一さん」
プリンタのカートリッジが使い物にならなかったため、真一は資料を印刷できなかった。
だから、二人はソファに並んで座り、ノートパソコンの画面を覗くかたちで、真一の説明が始まった。
真一のプランは、一言で言うなら、映画を放映するバー、であった。
外観や店内の平面図も作成してあった。
入り口から見た店内イメージは、手書きした線画をスキャンし、イラスト作成ソフトでトレースして、簡単に色付けしていた。
だいぶ前に購入して捨てずにおいた古いスキャナが役に立った。
内装の部材、スツール関係、プラズマ・ディスプレイやAV機器の類いは、価格や仕様を書き入れ一覧にしてあった。
「ネットが繋がっていれば、画像も貼れたんだけど」
「いいわ、今はこれで」
飲み物は、ビールを一種類。
ウィスキーは月替わりで一種類。
ワインは月替わりで五種類、スパークリングワインは週替わりで二種類、価格帯に関わらず全てグラスでの提供を可能とする、としてあった。
食事は、スペインのバル形式で、週替わりで五種類。
飲み物と食事の価格については、損益を計算した上で確定、としてあった。
●オープン予定:二〇〇三年七月
(海のシーズン開始に合わせる)
※施工期間:約三カ月
●総工費:約四五〇〇万円
「さすが真一さんね」「私の目に狂いは無かったですわ」
「でも、映画の放映については、権利関係をクリアにしないと問題が起きるかと」
晶子は、また、あきれ顔で言った。
「真一さんは、できないお話ばかりですねえ」「そんな瑣末な話は、真一さんがお考えになることではありませんわ」「諸々の問題をクリアにするための人材についても、いろいろご用意致しますし、クリアになったことだけを実現させればいいことよ」
至極当然なことを指摘され、真一は返す言葉がなかった。
「そんなことより、さきほどお預けした鞄はどちらかしら」
真一は、玄関から鞄を取ってきて、彼女に渡した。
「こちら、当面、ビジネスに必要だと思われるものを、揃えておきました」
鞄の中には、真新しいノートパソコン、革製のペンケースと万年筆、ボールペン、シルバーの電気計算機、そしてケース入りの大きなスチール製デジタル腕時計が入っていた。
「足りないもの、必要なものはおっしゃってくださいね」「それから、腕時計をお持ちじゃないようでしたので、間に合わせで申し訳ございませんが、わたくしの知人でスイス人のエンジニアから頂いた腕時計、お使いになって」
「はい」
「さあ、真一さん、お疲れ様でした」「まずは、素敵なプランをありがとうございます」「これから、会食をしながら、少し打合せをさせていただきたいのですが、ご予定はいかがかしら」
真一は頷いた。
「出かける前に、企画書のデータをわたくしのメールアドレスに送ってくださらない」
「それが、このパソコン、インターネットにつながってなくて」
「あ、左様で。そういうことでしたら、パソコンごとお借りできますかしら」
二人は、車で都内に向かった。
途中、晶子は彼女の父の行きつけのテーラーだと言って、青山にあるテーラーに立ち寄り、真一のスーツを三着注文した。
それらも必要経費ということだった。
最終的に、ベンツは赤坂のホテルの駐車場に停車した。
「企画段階のお話ですからオープンなお店ではなくて、お部屋を取ってお話しした方がよろしいかしら」「そうですわね、そのほうがよろしい」「そうしましょう、真一さん」
晶子は、車のリモコンキーを押しながら、独り言のように言った。時間は、午後三時半を回ったところだった。
道中の車内では、晶子が一方的にいろいろな話をした。
彼女の妹の話、その一人息子が晶子によくなついている話、亡くなった祖母の話、祖母が晶子が幼いころにプレゼントしてくれたセスナの話、会社の社長の話、社長のお忍びの旅行の世話までを晶子がやっているという話、その社長の妻女の話などだった。
部屋のチェックインをする間、真一は、ロビーのソファに座って待っていた。
外国人の宿泊客がずいぶんと多いホテルだと真一は思った。
「普通なら、予約がなければ泊れないホテルなのですが、わたくしはよくこちらを利用させていただいておりますのでね」「まずまずの希望の部屋がとれましたわ」
部屋は二十五階だった。
真一は、正直、打合せだけに、このような部屋を取る必要があるのか、と訝しく思っていたが、経済感覚が極端に違う相手のすることと諦め、言われるままにした。
「禁煙フロアですけれども、真一さんはお煙草はお吸いになって」
「いや、だいぶ前にやめたよ」
「それはよろしいわ、うちの主人はヘビースモーカーですから、同じお部屋に泊ったことはほとんどないですわ」
部屋は広々としていて、ベッドが二つ、贅沢に配置されていた。
色づかいはダークブラウンとベージュで統一され、シックな雰囲気の部屋だった。
「真一さん、夕食にはまだお時間も十分ありますから、そうね、美容室に行って来られたらいかがですか」
「いやあ」
「それがよろしいわ、前から気になっていましたの」「そのヘヤ・スタイルは、よくお似合いですが、あまり美容院には行かれていないようですわね」
完全に晶子に主導権が渡ってしまっていた。
もともと、真一はショート・ヘア・スタイルだった。
それが何カ月も散髪していなかったために、伸び放題になっていたのだ。
それでも、整髪はちゃんとしている真一だったが、晶子には気になっていたらしい。
「いま、予約を入れてみますので、お待ちになって」
そういうと、真一に構わず、晶子はベッドサイドの受話器を取り、話を付けてしまった。
「整えるぐらいであれば、問題ないそうですわ」「いってらっしゃいな、真一さん」「わたくしは、その間に、真一さんの企画書をもう一度拝見して、疑問点や課題を整理しておきますから」
真一は言われるままに美容室のある階に降りておった。
こんなに良く眠ったのは何時以来だろうか、と真一は考えながら、ベッドを出て、窓辺に向かった。
モスグリーンの遮光カーテンを引くと、部屋には一気に真夏の光線が差し込んだ。
すでに、太陽は真上近くまでに上がってしまったらしい。
汗だくだった。
夜中かき続けた汗か、朝からの気温の上昇でかいた汗なのか、分からなかった。
その割には、とてもすっきりした目覚めだった。
真一は、ダイニングに行き、冷蔵庫のドアを開け、炭酸水を取り出してグラスに注ぎ、立て続けに二杯飲んだ。
それは、前日、晶子が現場の帰りに渡した二つの紙袋に入っていたものだった。
紙袋の中には、他にパンやハム、牛乳、シリアル、レタスなどの食料品が入っていた。
それを開けた瞬間、真一は思わず吹き出してしまった。
グラスを置くと、真一はダイニングを見渡した。
小さな木製のダイニングテーブルと、二人掛けのソファ。
あらためて見れば見るほど、何故か自分の部屋じゃないみたいだ、と真一は思った。
そのマンションは、辞めたITソフトウェア会社に勤務するようになって引っ越した部屋だった。
三部屋もあるファミリー向けのマンションで、そもそも真一には広すぎた。
もう少し時間をかければ、身の丈にあった部屋もあっただろうが、当時は急いでいた。
それに、契約どおりの給与なら、無理はない家賃だったのだ。
会社の資金繰りが悪化し、給与の未払いが続くと、家賃が何より邪魔になった。
引っ越しをしなければと考え始めたころには、すでに引っ越し資金すら捻出できない状態になっていた。だから、仕方なく住み続けてきわけだった。
当初、長くは住まないつもりだったから、家具は最小限度にとどめ、増やさなかった。
昨日からの状況の変化を考えると、まだしばらくはここに住むようだった。
「でも、やっぱり広いな」
真一は独り言を言って、椅子を立ち、また冷蔵を開けた。
晶子は、六個入りの卵も購入していた。
少し考えて、真一は、朝食を作ることにした。
ハムエッグ、トースト、サラダ。
ふと思い立って、コーヒーを淹れようと、スチールラックの上の密閉式の陶器の容れ物を開けたが、そこの入っていた茶褐色の粉末は、およそコーヒーの香りがしなかった。
飲み物は炭酸水で我慢するしかなかった。
朝食の後。真一は、しばらく開いてもいなかったノート・パソコンを起動してみた。
それは、カリカリと怪しげな音を立てながらも、なんとかたちあがり、企画書作成ソフトも問題なく使えるようだった。
真一は、PDA(携帯端末)をチェックした。
前夜、夜中に現場の写真と図面が晶子から一式送られてきていた。
そこに、店舗企画も早速進めてほしい、とも書いてある。
問題は、インターネットだ。
プロバイダはだいぶ前に解約していた。
PDAから図面などのデータをパソコンに移動することもできない。
真一は、あれこれ考えたが、やはり自宅での作業を選んだ。
PDAを左、右にノートパソコンをダイニングテーブルに据え、真一は作業に取り掛かることにした。
真一は、まず気持ちを落ち着け、何から始めるべきか、頭で整理した。
考えをめぐらせているうちに、真一は、大学生のころ将来はお店を経営できたら良い、という夢想を抱いたことがあったことを思い出した。
内容までは思い出せなかったが、所詮ただの思いつきレベルであったはずだった。
今回は、そういうことではない。
仕事だ。
しかも、かなりの部分、真一に任されていた。
どんな企画であろうと、現実の店になってしまうのだ。
責任重大である。
しかし、こういう局面でも、焦らず基本に立ち返って、一歩踏み出す。
それが重要だと言うことを、真一は社会人経験から学んでいた。
しばらくして、真一は、アプリケーションの新規作成から、新規ドキュメントを一つ立ち上げ、すでに分かっている基本情報を書き出していった。
●立地:茅ケ崎、鉄砲通り
●敷地面積:約五十坪
●業種:酒類を提供する店舗
●予算:要確認
●周辺の競合:要調査
ここまで書いて、真一は、もっとも重要な基本的な要件が何も分かっていないことに気付いた。
まずは、予算がないことには、どうにもならないような気がしたので、真一は、晶子にメールで確認することにした。
送信して、数分で晶子から返信があった。
彼女からの回答はこうだった。
「最初に予算を決めてしまいますと、面白味のない、ありきたりのプランになってしまいませんでしょうか」「まずは、そこは気になさらないで考えていただけますでしょうか」
予算がない事業などあるものか、と真一は反論したい気持ちになったが、結局は、了解しました、とだけ返した。
真一は、次のページを作成し、新たな気持ちで考え始めた。
一旦パソコンから離れ、大学ノートとボールペンを持ち、真一はソファに座った。
それから彼は、一人ブレーンストーミングのような作業を繰り返した。
三十分もすると、真一は一つの方向性を見出した。
そこからは早かった。
真一はダイニング・テーブルに戻り、PDAで情報を検索しながら、企画をまとめていった。
晶子が、再び真一のマンションに来たのは、二週間後だった。
駐車場に下りていくと、見慣れないグレーのベンツAクラスがとまっていた。
「今日はポルシェじゃないんですね」
晶子が何故かあきれ顔をした。
「ですから、真一さん、そういう言葉づかいはやめて下さらない」
「ああ」
彼女は、何やら英語でつぶやきながら、後部座席から、黒い革製のビジネスバックを取り出した。
「主人が、勝手に売り払ってしまったの」「気に入ってましたのに、あのポルシェ」「それでも、真一さんは先日大層怖がられていましたでしょ、ポルシェ」「ですから、わたくしとしては残念に思いますけれども、こちらのほうが、結果的によろしかったかもしれませんね」「だいたい、別居中のあの方に意見されるのもおかしな話なのですが、まあ、しょうがありませんわね、彼の名義になっておりましたので」「わたくしがお金をお支払いしましたのに」
晶子は荷物を降ろしながら、一気にまくしたてた。
真一は車の脇に立って、話の筋を追っていた。
「ちょっと、お立ちになっていないで、手伝ってくださる」
真一は慌てて手を貸した。
「お部屋に上がらせてもらってよろしいかしら」
真一が先に立って、晶子を案内した。
「なんか、息苦しいわね、この部屋」「どうしてかしら」
晶子は、玄関を入ると開口一番そう言った。
そして部屋に上がると、真一に断ることもなく、全ての部屋を勝手に見て回った。
「部屋数と、広さは問題ないのに、一階の中側の部屋だから、日当たりがよろしくないのと」「それから、真一さん、お掃除なさってないでしょう」
いきなりの干渉に真一は内心憤慨していたが、黙っていた。
「まあ、そのうち考えましょう」
何を考えるか、真一は訝ったが、聞き流すことにした。
「さて、真一さん、それはさておき、プランは出来てますかしら」
「正直、予算が明確ではない、ということもあって、現実にできるかどうか、そのあたりの検証はこれからやらなければならないと思うけど、まあ、なんとか」
「あらあら、真一さん、ご自分のプランに自信をお持ちになったら」「プレゼン前に、そのように言い訳をなさって」
晶子は、馬鹿にしたように笑ったが、当たっているだけに、真一は反論できなかった。
「説明してくださらない、真一さん」
プリンタのカートリッジが使い物にならなかったため、真一は資料を印刷できなかった。
だから、二人はソファに並んで座り、ノートパソコンの画面を覗くかたちで、真一の説明が始まった。
真一のプランは、一言で言うなら、映画を放映するバー、であった。
外観や店内の平面図も作成してあった。
入り口から見た店内イメージは、手書きした線画をスキャンし、イラスト作成ソフトでトレースして、簡単に色付けしていた。
だいぶ前に購入して捨てずにおいた古いスキャナが役に立った。
内装の部材、スツール関係、プラズマ・ディスプレイやAV機器の類いは、価格や仕様を書き入れ一覧にしてあった。
「ネットが繋がっていれば、画像も貼れたんだけど」
「いいわ、今はこれで」
飲み物は、ビールを一種類。
ウィスキーは月替わりで一種類。
ワインは月替わりで五種類、スパークリングワインは週替わりで二種類、価格帯に関わらず全てグラスでの提供を可能とする、としてあった。
食事は、スペインのバル形式で、週替わりで五種類。
飲み物と食事の価格については、損益を計算した上で確定、としてあった。
●オープン予定:二〇〇三年七月
(海のシーズン開始に合わせる)
※施工期間:約三カ月
●総工費:約四五〇〇万円
「さすが真一さんね」「私の目に狂いは無かったですわ」
「でも、映画の放映については、権利関係をクリアにしないと問題が起きるかと」
晶子は、また、あきれ顔で言った。
「真一さんは、できないお話ばかりですねえ」「そんな瑣末な話は、真一さんがお考えになることではありませんわ」「諸々の問題をクリアにするための人材についても、いろいろご用意致しますし、クリアになったことだけを実現させればいいことよ」
至極当然なことを指摘され、真一は返す言葉がなかった。
「そんなことより、さきほどお預けした鞄はどちらかしら」
真一は、玄関から鞄を取ってきて、彼女に渡した。
「こちら、当面、ビジネスに必要だと思われるものを、揃えておきました」
鞄の中には、真新しいノートパソコン、革製のペンケースと万年筆、ボールペン、シルバーの電気計算機、そしてケース入りの大きなスチール製デジタル腕時計が入っていた。
「足りないもの、必要なものはおっしゃってくださいね」「それから、腕時計をお持ちじゃないようでしたので、間に合わせで申し訳ございませんが、わたくしの知人でスイス人のエンジニアから頂いた腕時計、お使いになって」
「はい」
「さあ、真一さん、お疲れ様でした」「まずは、素敵なプランをありがとうございます」「これから、会食をしながら、少し打合せをさせていただきたいのですが、ご予定はいかがかしら」
真一は頷いた。
「出かける前に、企画書のデータをわたくしのメールアドレスに送ってくださらない」
「それが、このパソコン、インターネットにつながってなくて」
「あ、左様で。そういうことでしたら、パソコンごとお借りできますかしら」
二人は、車で都内に向かった。
途中、晶子は彼女の父の行きつけのテーラーだと言って、青山にあるテーラーに立ち寄り、真一のスーツを三着注文した。
それらも必要経費ということだった。
最終的に、ベンツは赤坂のホテルの駐車場に停車した。
「企画段階のお話ですからオープンなお店ではなくて、お部屋を取ってお話しした方がよろしいかしら」「そうですわね、そのほうがよろしい」「そうしましょう、真一さん」
晶子は、車のリモコンキーを押しながら、独り言のように言った。時間は、午後三時半を回ったところだった。
道中の車内では、晶子が一方的にいろいろな話をした。
彼女の妹の話、その一人息子が晶子によくなついている話、亡くなった祖母の話、祖母が晶子が幼いころにプレゼントしてくれたセスナの話、会社の社長の話、社長のお忍びの旅行の世話までを晶子がやっているという話、その社長の妻女の話などだった。
部屋のチェックインをする間、真一は、ロビーのソファに座って待っていた。
外国人の宿泊客がずいぶんと多いホテルだと真一は思った。
「普通なら、予約がなければ泊れないホテルなのですが、わたくしはよくこちらを利用させていただいておりますのでね」「まずまずの希望の部屋がとれましたわ」
部屋は二十五階だった。
真一は、正直、打合せだけに、このような部屋を取る必要があるのか、と訝しく思っていたが、経済感覚が極端に違う相手のすることと諦め、言われるままにした。
「禁煙フロアですけれども、真一さんはお煙草はお吸いになって」
「いや、だいぶ前にやめたよ」
「それはよろしいわ、うちの主人はヘビースモーカーですから、同じお部屋に泊ったことはほとんどないですわ」
部屋は広々としていて、ベッドが二つ、贅沢に配置されていた。
色づかいはダークブラウンとベージュで統一され、シックな雰囲気の部屋だった。
「真一さん、夕食にはまだお時間も十分ありますから、そうね、美容室に行って来られたらいかがですか」
「いやあ」
「それがよろしいわ、前から気になっていましたの」「そのヘヤ・スタイルは、よくお似合いですが、あまり美容院には行かれていないようですわね」
完全に晶子に主導権が渡ってしまっていた。
もともと、真一はショート・ヘア・スタイルだった。
それが何カ月も散髪していなかったために、伸び放題になっていたのだ。
それでも、整髪はちゃんとしている真一だったが、晶子には気になっていたらしい。
「いま、予約を入れてみますので、お待ちになって」
そういうと、真一に構わず、晶子はベッドサイドの受話器を取り、話を付けてしまった。
「整えるぐらいであれば、問題ないそうですわ」「いってらっしゃいな、真一さん」「わたくしは、その間に、真一さんの企画書をもう一度拝見して、疑問点や課題を整理しておきますから」
真一は言われるままに美容室のある階に降りておった。
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