シアター 穴蔵(あなぐら)

沢亘里 魚尾

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「ごめんなさいね、狭い車で」「窮屈じゃないかしら」
「あ、大丈夫です」
「ちょっと、いろいろ訊かせてもらうけど、よろしいかしら」
「はい」
「その前に、あなた、お歳は」
「三十五です」
「あら、良かったですわ、最初に伺っておいて」「わたくしよりも、年上でいらっしゃるのですね」「わたくしは今年で三十三歳ですわ」「そうですね、真一さんと呼ばせていただきたいのですが、よろしゅうございますか」
「ええ、ああ、はい」
「ちょっと、真一さん、落ち着いてくださらない」
 そういうと、石田は少し笑って、顎を引き真一にいたずらな視線を送った。
 よく見れば、妙に落ち着き払った物腰と、見るからに高級そうな服装、そして言葉遣いがそう見せているだけで、彼女は年齢相応だった。
 車は、滑るように、鎌倉方面に向けて海沿いの道を走っていた。
 メーターは、六十キロそこそこで、車の流れに乗って走っているはずだったが、真一には、実速度よりも早く感じられた。
 晶子は何度もきわどい車線変更を繰り返し、その度に、真一はひやひやさせられた。
 石田が、真一の気持ちを察したように言った。
「あら、スピード出し過ぎかしら」
「いえ、大丈夫です」
「ちょっと、真一さん、敬語はやめてくださらない」「わたくしのほうが年下ですから」
「いや、でも、そういうわけには」
「いいですか、真一さん、わたくしと真一さんは、今後は、ビジネスパートナーなのですから」「対等に接してください」
 いつの間にか、真一はビジネスパートナーになってしまったらしかった。反論したい気持ちもあったが、真一は、しばらく成り行きに任せることにした。
「まあ、急には無理ですので、おいおい」
「結構ですわ」「ただ、下の名前で呼んで下さらない」「それだけはお願いしますわ」
「はい」
 晶子は、まずは自分からということで、自己紹介を始めた。
 生まれは、神戸。
 神戸は母親の実家で、相当の資産家らしかった。
 父親は、婿養子だと言った。
 相続争いで、石田の家族は二十年ほど前に都内の、碑文谷に移住した。
 父親は、国家公務員ということだった。
 晶子自身は、電気工事士の特殊な資格を持っていて、大手電機メーカーの関連会社で現場監督および社長秘書をしているということだった。
 晶子は結婚しているが、実質上は別居状態で、ホテル暮らしをしているということだった。
 晶子の夫も、金持ちの出であるらしく、実家は田園調布にあった。大手商社勤務ということだった。
 そんな二人は、いまどき珍しい見合い結婚ということだった。
「すごいですねえ」
 真一の人生とは真逆だった。
 あまりの現実感のなさに、真一はただ、へえ、とかすごいですねえ、といった言葉しか発せなかった。
「どこが凄いとおっしゃるの」
「いやあ、大手商社マンて」
「どうして」「ただの物を知らないご子息よ」
 晶子は、鼻でせせら笑うように吐き捨てた。そして、左右を見渡し、次の交差点を急にUターンした。
 それが、まるで自己紹介の終了を意味しているようだった。
 真一は、咄嗟に身構えた。
「そんな、怖がらなくても大丈夫ですわよ」「わたくし、二種免許をもっておりますので」
 彼女の経歴説明は、簡潔で具体的だった。
 真一は、彼女のように話せるかどうか、正直自信がなかった。
「真一さんのほうはどうかしら」
 真一は、結局、包み隠さず、正直に話すしかない、と諦めて話しだした。
 身寄りは、父親とその後妻だが、音信不通であること。
 母親は、十年以上前に病気で他界したこと。
 大学を卒業後、中堅どころの不動産会社に勤めたが、その会社が倒産したこと。
 その後も、転職を繰り返さなければならなかったこと。
 ITバブルに乗じて、心機一転、転職したITソフトウェア会社も、ITバブルの崩壊ですぐに経営悪化し、つい最近倒産したこと。
「ほんと運がないんだよ」
「真一さん」「運のせいにしてはいけませんわ」
 晶子が真顔で口をはさみ、真一は、自分の実力の無さを指摘されたようで、口をつぐんだ。
「きっと、真一さんが生まれながらにしてお持ちでいらっしゃる、ご自分の才能を活かせるようなフィールドに、これまでちゃんと向き合わなかったことが問題なのだと思います」
 単なるフォローにしては、かなり分析めいたことを石田は言った。
「いいですわ、ごめんなさい、差し出がましいいことを申して」「これからは、そうならないようにいたしましょう」
 その自信はどこからくるのだろうか、と真一は訝しく思った。
 車は、一三四号を右折した。
「これからどちらへ」
「藤沢駅です」「真一さんの口座番号を店長に聞きました」
 何のために、そんなことをしたのか、と真一にははかりかねた。
「必要経費を先に振り込んでおく必要がありますので」
 そう言うと、石田は真一の方を向いて、そうでしょ、という表情をした。
「真一さんには、これから、いろいろ調べたり、資料を作っていただいたりしないといけませんから」「場合によっては海外出張だってあるかもしれません」
 たまりかねて、真一が口を開いた。
「そもそも、何をやるかも知らされていない」
 石田は、また真一の方を向いて、少し笑っただけだった。
 車は、ハザードを付けて、銀行に横付けされた。
「少しお待ちになって」
 そういうと、真一を車に残して石田は銀行の中に入って行った。
 駅前のバス通りに路上駐車。
 真一は、車の通行を気にした。
 しかし、石田は二分もしないで戻ってきた。
「エーティエムが空いていてよかったわ」
 そう言い終わる前に、晶子は車を始動した。
 しばらくすると、ポルシェは再び海沿いの道を走っていた。
 やがて、ポルシェはリストランテ「ドウモ」の前を通り過ぎた。
「真一さん、条件面ですが」「お給料ではなくて、投資と思ってほしいのですが、毎月五十万を必要経費として、真一さんの口座に振り込みます」
 リストランテ「ドウモ」の給料とは比べものにならないほどに高額だった。
 それだけに、どんな重責を任されてしまうか、と正直真一は不安だった。
 そんな真一の気持ちを察するように、晶子が言った。
「決して変なことにはなりませんわ」
 あとで、分かったことだが、晶子はこの日藤沢駅前の銀行から、真一の口座に三百万を振り込んでいた。

 ポルシェが向かった先は、「ドウモ」から鉄砲通りを茅ケ崎駅寄りに五百メートルほど行ったところだった。
「ここですわ」
 そこは五十坪ほどの空き地で、右隣はペットのクリニック、左隣りは三階建ての古い雑居ビルで、テナントとして配管工事業者や建築資材のショールームなどが入っていた。
「ここに、お酒を出す店を作りたいと思っていますの」
「バーとか、そういうお店ですか」
「そう」「でも、在り来たりのお店にするつもりはありませんの」
 真一は、晶子の目論見が、ようやくなんとなく分かってきたが、さらに言葉を待った。
「そこで、真一さんに企画してほしいの」
 真一は、こらえきれずに、少し鼻で笑った。
「どうして、僕なんです」「先ほど、お会いしたばっかりですよ」
「あら、可笑しいかしら」「そうおっしゃるなら、真一さん」「あなたなら、この件に関して適任の方を探すとしたら、どうなさいます」
 真一は、当たり前のことしか思いつかなかった。
「面接とか、そういうことをお考えででしょ」「それで、本当に適任の方が見つかるとお思いですか」「だいたいは、時間をかけて採用したわりには、最初ばかりで、そのうち上手くいかなくなると、言い訳ばかりする人ばかりじゃないかしら」
 彼女は、全てを知り尽くしたように言い放った。
「でも、僕が、そういう言い訳しない人間かどうかも分からないでしょう」
「真一さんは、ご自分で売り込んできた人材ではないので、もし言い訳しなければいけない状況に陥ったとしても、わたくしに真一さんを責める権利はありませんわね」
 それは、真一の問いに対する回答としてはバツだった。
 しかし、反論しても意味がないように思われた。
「こんな禅問答をしても意味がないですわね」「とにかく、私は真一さんを採用したいと思いますの」「ただ、どうしても受けられないということでしたら、もちろん、無理強いは致しませんわ」
 一方的に口車に乗せられそうになっている感じと、こんな上手い話があるわけがない、という思いで、真一の頭は混乱していた。
 しかし一方で真一は、自分にはもはや何かを時間をかけて決断するような、そういう立場や境遇ではない、ということも十分に思い知らされてもいた。
 どのみち安定した暮らしなど求めようもなかった。
「引き受けますよ」
「そう、ありがとう、真一さん」
 晶子は、心底安心したように、右手を胸に当てて、息を吐いた。
「こちらの図面などは、後ほどお渡ししますわ」
 そう言うと、晶子は、スマートフォンを取り出し、現場の写真を撮り始めた。
 陽は、まだまだ高く、髪の毛がじりじりと音を立てるような暑さだった。
 真一は手持無沙汰に晶子を待っていた。
「これで、よろしいわ」「この写真も後ほど、お渡ししますのでね」「メールアドレスを教えてくださらない」
 真一は、渡された手帳にWEBメールのアドレスを書いた。
「さあ、今日はこれで終了ですわ」「お送りするわ、真一さん」「少し車で待っていてくださらない」
 晶子は、ポルシェのエンジンだけかけると、通りを渡り、向かいのスーパーマーケットに入っていった。
 数分後、大きな紙袋を抱えて、彼女は戻ってきた。
「さあ、真一さん、道を教えてくださらない」「真一さんのお住まいまでの」
 マンションの駐車場に着くと、晶子は紙袋を真一に渡した。
 真一は、晶子が部屋に上がるものとばかり思っていたので、それを受け取り、彼女が車を降りるのを待った。
 運転席のウィンドウが下りた。
「それでは、真一さん、一週間後に、こちらに伺うわ」「何号室かしら」
「一〇七です」
 ポルシェは、すぐに動き出し、国道に出た。
 走り去るポルシェを見ようと、真一が国道まで歩いて行った。
 その間、ほんの数十秒だった。
 しかし、ポルシェはすでに彼方に消え去っていた。
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