聖女の猫

鈴木 了馬

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聖女の猫

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「ジャネッ、ジャネット」
 ジャックは、ほとんど半狂乱になって、娘を呼び叫んでいた。
 汗が背中を冷やしている。
 後悔している。
 昼寝をしてしまったことを。
 こういう日が来ると、何度も夢に見たではないか。
 自分の迂闊うかつさを呪った。
 すべてに絶望しかけた時だった。
 誰かが自分を呼んでいる。
「あなた、ねえ、ジャック」
 ジャックは目を開けた。
 また、夢か。
 ジャックは、半身を起こした。
 朝だった。
 呼び起こしたのは、妻であった。
 ジャックは、ここ数年、時折この夢を見る。
 毎回、その状況設定は変わるが、同じ結果の夢だった。
 娘の失踪。
 繰り返される夢は、ジャックの心に仮想現実を埋め込んだ。
 もはや、それは夢ではなく、もう一つの現実と化していたのだ。
 どうして、このような想念に取り憑かれてしまったのだろう。
 それはひとえに、娘の性格によるのだろう。
 ジャックはそう結論付けるしかなかった。
 物静かで、人一倍信心深く、反抗心の欠片かけらもない、従順なありきたりの少女。
 だが、その内に、他の人間の言動に左右されない「頑なさ」をジャックは感じ取っていた。
 その、ジャネット特有の頑なさは、その不器用さゆえに、一度行動に出れば、誰も止められない厄介の火種になるのではないか。なるだろう。なるにちがいない。
 そんな予感がするのである。
 それは、父親であるジャックだけが抱く感覚であった。
 しかし、それはただの予感ではなかった。

 まだ五月だった。
 しかし、もう何日にも渡って七月のように暑い陽気だった。
 こぼすといけないので、水は控えめに汲んだ。
 何度も運べば良いことである。
 ジャネットは、納屋の先を左に折れ、歩いていった。
 畑の上には蜃気楼ができている。
 そのらめきの中をじゅうが歩いてくる。
 ルカであろう。
 黒猫のルカ。
 しかし、今日のルカはいつもと様子が違った。
 ジャネットに懐いている、小動物然としたルカでは。
 ひょうである。
 紛れもない猛獣の歩みであった。
 しかし、蜃気楼を抜けて、ジャネットの足元まで近づくと、それはいつもルカに戻っていた。
 ジャネットは水の入った木桶を地面に置きしゃがむと、ルカの頭から首にかけてを撫でた。
「ミャア」
 ルカは一声鳴くと大きくアクビをして、首をかく。
 ジャネットは桶の水を手のひらに少しすくって、ルカに差し出した。
 その時だった。
 一際陽射しが強くなったように感じて、ジャネットは顔を上げてみた。
 キラッ、と辺り一帯が光った。

 
『多くを望む者には、ただの一つも与えられないだろう。一つの事を願い、心血しんけつそそぐ者にこそ、しゅ御手みてを差しのべられるのだ』


 それは一瞬の白昼夢だったろう。
 なぜなら、仮に、その間ジャネットが気を失ったのであれば、倒れるかどうにかなったはずであるからだ。
 しかし、ジャネットは、その夢の前と変わらずに、ルカに手を差しのべ、その手のひらをルカは大事そうに舐めていたのだ。
 その声は上から聞こえたように、ジャネットは感じた。
 なぜか、心がすっきりと洗われるようで、それでいて、独特の温かさが身体の隅々に残っていた。
 そして、気がつけば、泪がこぼれ、抑える間もなく、次々と溢れた。
「うっ」
 ジャネットは座り込んでしまった。
「ミャア」
 心配そうに、ルカが鳴いた。

 翌日の朝である。
 ジャネットは、父親に許しを得て、村の教会に行った。
 信仰のあついジャネットとはいえ、月曜日に教会に行くことは珍しかった。
 父親は少し訝しんだが、流石に教会に行くことを止められまい。
「このままでは、干ばつになってしまいます。お祈りをしてまいります」
 それは嘘ではなかった。
 しかし、それだけが目的ではなかった。
 告解こっかい
 一晩考えた。
 聞いてはいけない声を聞いてしまった。
 それは誰にも言えないことである。
 自分は、魔女の嫌疑をかけられてしまうだろう。
 いや、それよりも、そのような声を聞いたと錯覚してしまうような自分は、行いが悪いか、信仰が足りないからだ、と思うのであった。
 だから、悔い改めなければならない、と。
 
 告解室に入ると、ジャネットはひざまずいて、両手を組み、待った。
 他に信徒はなく、間もなく仕切りの小窓が開いた。
回心かいしんを呼びかけておられる神の声に心を開いてください」
「父と子と聖霊せいれい御名みなによって、アーメン」
 ジャネットは十字を切る。
「神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」
「先月、告解をいたしました。そして、また罪を犯しました。それは前回の悔い改めが足りなかったことによるかもしれないのです。罪深いことです」
 そこまで言って、ジャネットは躊躇ちゅうちょした。
 前回は、日照りが続き、また今年も麦が不作になるのではないか、という不安が続き、そのことで、どうしても農作業に身が入らない自分がいる、と告解した。
 しかし、実際には、言い切れないことがあったかもしれない、と今になって気づいてしまったからである。
 農作業に身が入らないのは、単なる気象だけの問題ではなかった。
 イングランドとの戦争が続いていて、とうとう兵隊が村々を焼き払っている、という噂が駆け巡っていた。
 この、ドンレミ村が同じような事態となるのは時間の問題ではないのか。
 そういう不安があったのである。
 そのことを前回の告解で、告白しなかったがために、聞かなくてもいい幻聴を聞いたのではないか。
 そう思い至ったからである。
「続けなさい」
「はい」
 経緯は仕方ない。今の事実をまず話さなくては。ジャネットは勇気を出して続けた。
「光を見ました。そして声を、聞いたのです。恐れ多く、罪深いことです」
 ジャネットは、覚えていた。
 一字一句、たがうこと無くなぞった。

 
『多くを望む者には、ただの一つも与えられないだろう。一つの事を願い、心血しんけつそそぐ者にこそ、しゅ御手みてを差しのべられるのだ』


 それほどに、鮮烈な声であったのだ。
 聞き終わると、司祭は言った。
「それはどういうことだと思いますか。あなた自身では、どういう意味かと」
「よくは分かりません。ただ、戦争を終わらせないといけないと思うのです。そういうことは誰にとっても不幸なことだと思うからです」
 司祭は、助言すべき言葉をすぐに用意したのだが、それを言うことができなかった。
 なぜなら、それはまさに、少女が聞いた声を、半ば肯定することであり、かつ傍観を薦める言葉であるからだ。
 神の御心の導くまま、フランスの勝利を願いなさい。
 司祭は、心とは裏腹なことを言った。
「戦争のことは、あなたの考えることではありません。これまで通り、農事に勤しみ、父を助けなさい」
 ありきたりの忠告。
 司祭は続けて言った。。
「祈りなさい。そしてミサにも参りなさい」
「祈りを怠りません。ミサにも参ります」
「それでは、神のゆるしを求め、心から悔い改めの祈りを唱えてください」
「神よ、いつくしみ深くわたしをかえりみ、豊かなあわれみによってわたしのとがを赦してください。悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください」
「全能の神、憐れみ深い父は、御子みこキリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通してあなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは父と子と聖霊の御名によって、あなたの罪を赦します」
「アーメン」
「神に立ち返り、罪を許された人は幸せです」
「ありがとうございます」
 ジャネットの告解は終わった。
 しかし、ジャネットは声に従った。
 告解からおよそ二年の後、ジャネット十四歳の時であった。

「このままでは、オルレアン解放は、千に一度も叶わないことでしょう」
 ジャンヌ(ジャネットの本名)は、顔こそは伏せたままであったが、平然と言い放った。
「千に一度とな」
 シャルル七世は、内心の怒りを抑えきれず、そう漏らした。
 その動揺を気にかける様子もなく、ジャンヌは続けた。
「本来であれば、勝てる戦、であるにもかかわらずでございます」
「ふむ、では、何故なにゆえに勝てぬ」
 ジャンヌはついに、ゆっくりと顔を上げ、シャルルの目を見つめて言った。
「それは、フランス軍に聖霊の力が、皆無だからです」
「なんと」
 この娘は、気がおかしいに違いない。
 シャルルは言葉を失いかけた。
「それでは、聞こう。どうすれば、聖霊が戻るというのだ」
 王位継承を巡る英仏の百年戦争は、この時点ですでに勃発から九十年を経過していた。
 ジャンヌは、その戦の中で、フランス兵が犯してきた数々の悪事が故に、聖なる力を失い続けてきた、と語った。
「わたしを、先陣に同行させてください。それだけで十分です」
 そう静かにゆっくりとジェンヌは言い、再び顔を伏せた。

 シャルル七世とジャンヌの謁見の噂は、それからわずか一ヶ月の間に広がり、オルレアン市民にまで届いた。
 そして、一四二九年四月二十九日。
 日の入の九時までにはまだ一時間はあろうか。
 その先兵の集団は、異様なまでの静寂と、オーラに包まれていた。
 その様子を、オルレアンの市民たちは見守っていた。
 そして人々は間もなく、集団の中心に純白の御旗みはたを認めた。
 地響きのような声が沸き起こった。
 もはや、イギリス軍は、ただの傍観者となったようであった。
 御旗を持っているのは、ジャンヌその人である。
 シャルル七世が特注した甲冑が、ほっそりと小さいジャンヌを護っている。
 この時の光景を、まるで神が降臨したようであった、と誰もが後にささやきあったという。
 その劇的な入城後、わずか十日足らずで、イギリス軍は撤退を余儀なくされた。

 ジャンヌ・ダルクの処刑裁判は、おそらくカトリック異端審問の中で史上最大級のものであったろう。
 それほどに、英仏百年戦争、オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルクの功績は並外れたものであり、そうであるがゆえに政治的に利用され、見せしめにされたのである。
 その異端審問は、オルレアン解放の約二年後、一四三一年一月九日に始まった。
 焦点は言うまでもなく、異端であるかどうか、魔女であるかどうか、であるが、もう一つ、重大な関心事があった。
 その大事とは、ジャンヌが、啓示を受けたかどうかである。
 もちろん、そのようなことを、例えジャンヌが証言しようがどうしようが、妄言とされるのだが。

「声が訪れた、そういうのかね」
 審問官は少し、語気を強めた。
「はい」
 ジャンヌは、迷うこと無く即座に答えた。
「それは一回」
「いいえ」
「声の内容は」
「それはお答えできません」
「どうしてだね」
「そのような恐れ多いことを、わたしのような者が、申し上げるということはできないということです」
「まあいい、おいおいと。それでは聞くが、その時、光はあったのか」
 一瞬があり、遠くまばゆい光景を思い出すような表情が、ジャンヌの顔に微かに見て取れた。
「そう、それはなんとも、心地よい光でした」
「その光は、どこから差してきたのかね」
「どこからというわけではなかったかと思います。あらゆる方向から来ているようでした」
 審問官は、薄ら笑いを浮かべ、あたりを見渡した。
 名立たる聖職者、神学者たちが固唾をのんで見守っている。
 誰一人として笑っている者はいなかった。
「それならば、それらの光がお前に向かってきていたとは言い切れまい」
 その言は、審問の目的からずれていた。
 それに対して、ジャンヌが「言い切れない」と言ったならば、異端は成立しなくなる。
 しかし、ジャンヌは、誰もが予想もしないことを言い放ったのである。
「そう断言されるのでしたら、あらゆる光が、あなただけに来るものではありません」
 ジャンヌの視線は審問官にまっすぐ向けられていた。

 裁判は四ヶ月以上に及んだ。
 何が何でもジャンヌを異端としたい者たちにとっては、長い四ヶ月であっただろう。
 そして逆に、真実を突き止めたいと考えた者がいたとすれば、短い四ヶ月だったろう。
 どちらにせよ、結論は決まっていた。
 異端は認定されたのである。

「おじいちゃん、早く」
「クララ待っておくれ。はあ」
「あ、そろそろみたい」
 四階建ての集合住宅の屋上だった。
 知り合いに鍵を借りたのである。
 正面からではないが、火刑台がある広場は十分に見渡せた。
 大勢の群衆が見守っている。
 火刑台のあるヴィエ・マルシェ広場には、到底近づけなかった。
 物凄い人だかりだからだ。
 その人だかりは、死刑執行人らが進む沿道、その周りの建物も同様である。
 もっとも、クララの母親は、絶対に近づいてはいけないと、固くクララに言いつけていた。
 それで、クララは祖父に頼み込んだのだ。
 火刑台に面していない方角の建物であれば、というヨハンの予想は正しかった。

「・・・祈りながら、ここに汝を教会から切り離し、見捨てる」
 長い破門宣告が終わり、死刑執行人であるイギリス軍の兵隊に、ジャンヌの身柄が渡された。
 兵隊たちは、手際よくジャンヌを火刑台に縛り付けた。
 ジャンヌは抵抗すること無く、心の中で祈りを捧げていた。
 付添の二人の修道士が、十字架を掲げている。それはジャンヌが願ったことであった。
 そして、ついに火が放たれたのである。
 みるみるうちに、ジャンヌの体が火に覆われていった。

 ヨハンがようやくたどり着いた時、群衆の大きなどよめきが起こった。
 火の勢いが増したようだった。
「あ、猫、黒い」
「ええ、どこだい」
「火刑台の右側、見えない」
「見えないがな」
「あっ、飛び込んだ」
 クララが見たのは、一匹の黒猫が火刑台の火の中に飛び込む姿だった。

 火の勢いが増すのに合わせるように、ジャンヌの祈りは、声に出され、大きく叫ぶように変わっていったと云う。
「ジェジュー、クリー、ジェジュ、クリ、ジェジュー、クリ、ジェジュー、クー」
 最後は、イエズス様、と何度も叫びながら絶命したと云う。
 並外れて信仰心の篤い、乙女ジャネットの最期であった。

 一四五三年、十月十九日、ボルドーが陥落し、百年戦争は終結した。
 その後、ジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われ、三年後の一四五六年七月七日、法廷は、ジャンヌ・ダルクの無罪を宣告した。
 一人の純朴な少女は、戦地の乙女から魔女に貶められたあげく火あぶりにされ、死後に聖女となったのである。
 ジャンヌ・ダルクほど、波乱に富んだ経歴を持つ者は、他に例を見ない。
 今では、世界で七万以上の聖女ジャンヌ・ダルク像があると言われている。

 時は過ぎ、一八六七年。
 不可解なニュースがパリを駆け巡った。
 それは、ジャンヌ・ダルクの遺灰が入った瓶が発見されたというものであった。
 ヴィエ・マルシェ広場の火刑台下から採取されたものだと云う。
 その遺物の中には、猫の大腿骨だいたいこつ欠片かけらが入っていた。
 もちろん、その骨が黒猫ルカのものであるかどうかを、知る術はない。
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