ソフト・ラチ

鈴木 了馬

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〈5〉

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「鵠沼海岸まで、お願いします」
 鵠沼海岸。
「ごめんなさい。そこで、解散ですので、そこまでお付き合いください。どうか、お願いします」
「懐かしいなあ、鵠沼かあ」
「良く行かれたんですか」
「良く行ったなんてもんじゃないよ。一時期、毎日行ってたよ」
「へえ、お仕事の関係で」
「いや、大学時代、あの近くに住んでいたから」
「ええ、良いなあ」
「そうそう、で、サーフィンをやってたから、夏はほとんど毎朝行ってたよ」
「すごい、そうなんですね」
 車は、狩場線から、横浜新道に入った。
 あと二十分ほどで、午後一時。
「そしたら、もしかして、美味しいお店ご存知ですか」
「ああ、ランチね。あるよ、いくつか。何が良い。焼き肉、とんかつ、中華、日本蕎麦。お寿司、カレー」
「ええ、すごい、そんなにあると迷いますね。どうしよう」
 アサコは、慎重に考え、「とんかつ」を希望した。
 タクシーはすでに、戸塚付近を快走中だった。
「運転手さん、新道降りたら、そのまま、バイパスに入って、辻堂駅の方から海に向かってもらい、湘南工科大学の前辺りでおろしてください」
「はい、分かりました」
 孝雄が目的地の変更を運転手に指示した。
 お店は混んでいたが、それでも、二人が座るには問題なかった。
 二人なのでカウンター席、一番右側の二席へ案内される。
 アサコは、ボックス席を想像していたから初めは少し戸惑ったが、厨房が見えるカウンター席に着いてみて、この店が名店と言われる理由が分かったような気がした。
 カウンター、正解。
 みな同じ、白い割烹着を来て、それぞれの持場を守っている。
 考えてみれば、入口に同じ割烹着姿で座っていた男性は、お店のオーナーかも知れなかった。
 店の規模にしては、従業員が多い。
 しかし、一人として持て余している感じがなく、持ち場持ち場をしっかり守っていた。
「一つだけ、訊いていいかな」
「はい」
 アサコは身構える。
「僕のこと、いつごろから知ってるの」
 やはり、そのことは訊かれるよな、とアサコは思い、そして、用意しておいた嘘をついた。
「ふた月ほど前です」
 アサコは、何度も妄想し、シミュレーションした答えを返した。
 孝雄は、嘘を見破ったりはしなかったが、少しの違和感を感じた。
 しかし、孝雄は無駄な詮索などしない。
 アサコのストーリーとしては、二ヶ月前くらいに見かけ一目惚れ、そして一ヶ月前に、偶然妻子と出かける姿を目撃。
 ただ、冷静に考えれば、たった二ヶ月で、見知らぬ男性に思いを寄せ、思い詰め、そして、手錠で拉致することを計画する、それは例え犯罪者だとしても急展開過ぎる、とアサコ自身が気付いていた。
 少しの沈黙に、アサコはうつむき、そのことを指摘されはしないか、と内心落ち着かなかった。
「この、手作り刺身こんにゃく、美味しんだよ」
 孝雄は、カウンター前に貼られた手書きのメニューを指差して言った。
「へえ、そうなんですね、頼みますか」
「そうだね、せっかく来たから頼もうか。すみません、刺し身こんにゃくと、ビール一本ください」
 昼間のビールは効くものだ。
 二人で、都合二本飲んだ。
 その店のご飯は少なめなので、それで、何とか完食したが、二人とも食べすぎの感じだった。
 食事中は、食べ物の話で盛り上がった。
 しかし、それ以外のプライベートな話は一切しなかった。
 店を出ると、左の方に歩いて行く。
 孝雄がよく知る通り。
 しかし、マンションが建ち、小洒落たショップが増え、そしてスーパーが出来ていた。
 十分ほど歩き、国道一三四を渡り、二人は砂浜に出た。
 よく晴れて、風も少なく、砂浜を散歩するのにはうってつけだった。
「鵠沼の方まで、歩こうか」
「はい」
 孝雄は深呼吸した。
「懐かしいなあ、何年ぶりかなあ、三十年、ええ、そんなにか」
「どの辺りで、サーフィンしてたんですか」
「ちょうど、この辺りから、鵠沼海岸の端までで、その時々で入る場所を変えてたね」
「一人で」
「いや、僕の同級生で、サーフィンの師匠と二人が多かったかなあ。乗れるようになってからは一人の時もあったけど」
 カラスが一羽、飛びすぎていった。
「サーフィンは、どういうところが楽しいですか」
「そうだなあ、いろいろな楽しい要素があるけど、サーフィンだけのことを言ったら、長時間やっていると、イルカになった気分になる瞬間があったなあ」
「ええ、イルカ」
「そう、なんか、やらない人から見れば、鳥になった気分とか、どちらかというとそういう感じに思うかもしれないけど、サーフィンて思いの外、水中にいる時間が長いもんなんだよ。ドルフィン・スルーって言って、波の下をくぐって波の向こう側に行って、波待ちし、そして波に乗ってまたドルフィン・スルー、といった感じで、何度も何度もそれを繰り返すわけだけど、夏の海なんか、ほとんど裸同然、サーフパンツ一枚でそれを繰り返すんだよね。そうしているうちに、ふと、あっイルカだ、と思う瞬間が来る」
「へえ、そういう感覚、ほかのスポーツにはないかもですね」
「そうそう、そう思う、僕は」
「いいなあ、そういうの」
「何かスポーツ、やってる」
「いや、やらないですね。ジムみたいなところにも行かないし、小学校の時、水泳をしていたくらいですかね」
「じゃあ、泳げるんだね」
「できますかね、私も、サーフィン」
「泳げることが最低限の前提条件。でも、難しいよ、サーフィンは。僕がやったスポーツの中で、一番むずかしいかも。スキーなんかより、もっと難しい。波は、斜面と違って、瞬間瞬間、全部違うから」
 アサコには、分かるような気がした。
 そうしているうちに、二人は、引地川の河口に着いた。
 孝雄が提案して、スケートパークの横の階段に、二人は並んで座った。
 波は穏やかで、サーフィンには向かない日だった。
 しばらくして、孝雄のほうが先に口を開いた。
 アサコは、何を話して良いか、すでにシミュレーションしていたネタが尽きてしまった。
「どうして、普通に声を掛けたりしなかったの」
 アサコは少し考えてから答えた。
「どうしても、声を掛けられなかったんです。どう声を掛けて良いか、分からなかったんです。カードみたいなものを渡そう、と思って用意したんですが、それも渡せずじまいでした」
「ふーん」
「私、男の人と、まともに付き合ったことがないんです。だから、どう話しかけて良いものか、ほんとうは分かってないんです、きっと。仕事では、男性が多い職場なので、自然に話すんですが、自分から話す、というよりも話しかけられて、それに従って仕事をする、という関係だし」
「そうなんだ」
 それでも、手錠をかけて拉致をする理由にはなっていなかった。
「でも、確かに、実は行動力はあるってことなんだよね、きっと」
 思い詰めれば、とは孝雄は言わなかった。
 その行動力があれば、カードの一枚くらい渡せるのに、とも。
 人には、それぞれのクセがある。
 しかし、誰もが、そのクセに気付かずに、知らずに繰り返す。だから、クセなのだが。
 指摘をする人が居なければ、そのまま気付くことはないのだ。
「ご兄弟は」
「一人っ子なんです。母だけ。小学校一年生の時、親は離婚しました」
 そういうことか、と孝雄は何となく納得したが、コメントはしなかった。
「いま、おいくつ」
「二十七です」
「若い」
 孝雄は、思わず笑った。
「親子だね」
 二人は、その後しばらく、海を見て過ごした。
 そのうちに、なぜか、笛の音が聞こえてきた。
 見れば、小柄な六十代くらいの男性が、横笛を吹いていた。
 波が静かな分、音が良く通り、砂浜を流れていくのが分かった。
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