ソフト・ラチ

鈴木 了馬

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〈4〉

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 その小さな映画館には、二つのシアターがあった。
 彼女が、中央の窓口でチケットを買った。
 その間、孝雄は物珍しそうに見渡しながら、ロビーを歩き回った。
 相当に年季が入っている。
「まだ時間がありますので、飲みものでも買いに行きましょう」
 言われるままに孝雄は彼女に付いて行った。
 映画館を出て、右手に歩き右折。少し歩き、また右に折れた。    
 商店街。
 すぐにコンビニがあり、彼女はそこに入った。
「お酒は飲まれますか」
「飲むけど」
「そしたら、ビールなんていかがでしょう」
 孝雄は、何となく彼女に任せることにした。
 彼女は、缶ビールを一本、温かいお茶のペットボトル二本をカゴに入れた。
「おつまみは」
 孝雄は、スティックのサラミソーセージを選んでカゴに入れた。
 それから彼女は、ポテトスナックのカップと、シュガーレス・ガムを更に買い足してレジに進んだ。
 孝雄は、学生時代のことを思い出している。
 こんな風に、女性とコンビニで買い物をしたのは、いつが最後だっただろうか、と。
 デートみたい。
 拉致されたのに。
 映画館に戻り、右手のシアターの奥に行くと、待合のスペースがあり、二人は、奥の壁沿いの二脚ある椅子に並んで座った。
 老婦人が一人、パンフレットを見ながら開場を待っている。
 映画のチラシが何十種類もおいてあった。
「この映画館は、よく来るの」
「最近はあまり来ないですね。都内の映画館ばかりです」
「さすが横浜、黄金町だな。こういう映画館も少なくなったでしょう」
「少なくなりましたね。でも、都内には結構まだ残ってますよ」
「へえ、そうなんだ」
「そうです。下高井戸にもありますが、知りませんか」
「知ってるけど、行ったことがないよ」
「そうですよね。わざわざ選んで小さな映画館に行きませんよね」
「うん、というか、うちは今、DVDしか観なくなっちゃったなあ」
「あ、そうですよね。みなさん。私は変わり者なので、映画は、映画館でしか観たことがないんです」
 変わり者だから。
 この人は、どんな人でもタイプ別に規定しておかないと落ち着かない、そういう人なんだろうなあ、と孝雄は、何となく彼女のことを想像し始めていた。
 だが、実際には想定どおりでは無い事が多く、そのギャップに苦しむのだろうか、と。
 そして急に、自分を拉致した彼女の事が知りたくなった。
「そう言えば、名前を聞いていなかった。僕は、タカオです」
「あ、そうでした。というか、すみません。私、お詫びもせずに、一方的に。本当に今日は申し訳ございません。大変な失礼とご迷惑をおかけしまして。気に食わなければ、この後、警察に通報するなり、何なりしてくださって結構ですので。その覚悟で今日は来ていますので」
「ほんと、変わり者」
「はい、ごめんなさい」
 孝雄は思わず笑って、膝に肘を着き、前かがみになった。
「でも、どうして、途中、逃げ出したり、通報の電話をしたりなさらなかったのですか」
「うーん、なんでだろう。ていうか、最初は痴漢冤罪だ、と目の前が真っ暗になったんだよ。しまった、と。それが、そうじゃない、と分かって安心したら、どうでも良くなったのかな」
「ほんとに、すみません。驚かせてしまって」
「それに、今日は、いつにも増して、何の予定も入っていなかったので」
「良かったです」
「気をつけないといけないね、電車。やっぱり、もっと早く出勤して、早く帰るようにしないと駄目だな」
「そんな、私のせいで」
「いや、あなたのせいではなく、漫然と、満員電車に乗ってたって、良いことは無い、ということ。自分の身は自分で守らないと」
「ほんと、ごめんなさい」
「いやいや、で、お名前は」
「あ、アサコ、って言います」
「えっ」
「え、どうしました」
「いや、びっくり、家内と同じ名前だから」
「え、そうなんですか」
「うん」
「ごめんなさい」
「いや、あなたが謝ることではないな、それは。そういう偶然もあるんだね」
「あの奥様、アサコさんっておっしゃるんですね」
「え、知ってるの」
 アサコは、約ひと月前の、日曜日のことを話した。
「ああ、それで。でも、よくそれで、今日の事になったね」
「すみません。普通、妻子がある人を拉致したりしませんよね」
 孝雄は吹き出した。
「いやいや、拉致自体、しないよ」
「ほんとうに、申し訳ございませんでした。今日だけなので、許してください。ほんと、通報してくださって結構です。ただ、今日一日が終わってからにしてください。どうか、お願いします」
「あは、やっぱり、変わり者」
 その時、入場の案内があって、間もなく二人は、シアターに入った。
 
 終演後、孝雄は、思った。
 映画好きだけあって、本当に良い映画をセレクトしたんだな、と。
 イスラエル生まれの監督の映画だった。
 二〇〇九年に、ヴェネチア国際映画祭で、金獅子賞を受賞した作品。
 その映画は、息子が戦死した、と誤報を伝えるシーンから始まる。
「良い映画だった。二回目」
 孝雄は、映画館を出て、アサコに訊いた。
「いや、私も初めてなんです」
 あの日曜日、孝雄に妻子があることを知る以前に、アサコは、孝雄を映画に誘うことを真剣に考えていた。
 この映画を一緒に観たかったのだ。
 その時は、有楽町で上映していた。
 でも、声を掛けられなかった。
 それが、この日やっと叶ったのだった。
 黄金町駅前通りに出ると、彼女は再び、タクシーを拾った。

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