たれやも通ふ萩の下道(したみち)

沢亘里 魚尾

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(終話)その参道を歩くのは誰か・・・

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 丹生河の河原には、小さな番小屋がある。
 やなを見張る番小屋である。
 水無月(六月)であった。
「じい」
 子供らは、鮎が梁にかかると、番小屋の順徳院に知らせる。
 順徳院は、河の流れから視線を離し、梁の方に目を向けた。
 両手に鮎を掲げて、三郎が叫んでいる。
 この三郎が、一番に順徳院になついている。
 三郎は、子供らの大将である。
 この年、十歳になった。
 いつも、年下の子供らを五、六人従えている。
 その子らが、順徳院の参道造りに一役買った。
「じい、遠くがら植えるが、近くがら植えるが」
「まずは、石段の横からの」
「ほうが、おお、まず、こごさ運んでけろ」
 三郎が先頭に立って、順徳院を手伝ったものだ。
 その萩の参道が完成して、もうすぐ二回目の秋が来る。
「じい、じい」
 順徳院は、三郎に手を振った。
 今度は大きめの鮎がかかったようだ。
「ただいま、戻りました。書状を預かって参りました」
 番小屋に近づいて来たのは、阿部頼時だった。
 二日ほど前に羽黒山に行き、今戻ったのである。
「書状とな」
 それは、北条光時が、羽黒山の重玄に宛てたものであった。
 光時は、父、朝時から時々そうするように言われていた。
 羽黒山は北の要衝がゆえ、幕府の動きを時々伝えるように、と。
 その実は、羽黒山に報せておけば、それが引いては順徳院に届く、そう思ってのことである。
 存命の限りは。
 書状には、朝時が昨年亡くなったことが記されていた。
 また、平経高の近況も書かれていた。
 経高卿が、来る年の忠成王(順徳天皇の第五皇子)、元服の儀の準備を秘かに進めている、ということであった。
 順徳院は、文を読み終えると、長らく押し黙って、川の方を眺めていた。
 世は、確実に移ろい変わったということだろう。
 帰洛の望みなど、とうの昔に捨て去った順徳院であったが、それでも、朝時の死は、終わりの象徴として胸に迫ってくるものがあった。
「経高殿かあ、懐かしいのう」
 そのうちに、順徳院は、そう呟いた。
「有り難いことであるのう」
 この時、経高は、忠成王の皇位継承の可能性をまだ棄て切らずにいたのだが、そのような思惑を順徳院が想像するわけもない。また、そういう期待など露ほどもなかった。
 ましてや、朝時亡き後、その嫡男の光時が暗躍していることなど、考えにも及ばかなかった。
 ただ、自身が不在となってのち、長き月日が過ぎ去っても、こうして後を守ってくれる人々があることを、有り難い、と思われたのである。
 何か返したいが、返書を送るわけにはいかない。
 考えた末に、順徳院は和歌を一つ贈ることにした。
 久方ぶりに詠んだ歌であった。

 そういうことがあり、月が改まった。
 その年も、萩は良く咲いた。
 昨年よりも、豪勢に咲いた。
 三郎初め、子供らも大喜びで参道を駆け、萩の木陰に遊んだ。
 萩が終われば、一気に秋が深まるであろう。
 そんなある夜、順徳院は、不思議な夢を見た。
 聖観世音菩薩像の前に座していた。
 順徳院の前には、壮麗な紫と金糸の袈裟をめされた高僧が座って、読経していた。
 それは、蜂子皇子であった。
 経が終わると、蜂子皇子は順徳院を振り返り、仰せられた。
 蜂子皇子の顔は、まるで仏像の様である。
「順徳よ、祈られよ。迷うことはない、間もなく迎えに参る」
 それは死のお告げであった。
 そして、順徳院は翌朝から床に伏すこととなった。
 心の臓が相当に弱っている、と村の巫術師ふじゅつしは診たてた。
 しかし、順徳院はただ昏睡に陥っていたのではない。
 夢の中で、般若心経を何度も、何度も唱えた。
 見舞った村人も、それをうわ言に聞いたと云う。
 誰もがそのまま逝かれるのであろう、と思っていた。
 それが数日間持ち堪え、その朝、順徳院は何事も無かったように床から身を起こした。
 この時、偶然、宮居には誰も付いていなかった。農作業に出払っていたのである。
 順徳院は、表に出て、山門まで歩いていった。

 時代が下ること建長七年(一二五五年)の同日、七月十九日、正厳の御宮の山門に、ある人物が立った。
 遥か前方にそびえる船形山が、真っ先に目に入ってきた。
 しばし、言葉もなく、遠望絶景に見惚れる。
 やがて視線は、自ずと近景におよび、参道に注がれた。
「はああ」
 意図せず言葉が、漏れた。
 満開の萩が咲き誇っていた。
 それは、船形山に続くかのように、遠くまで真っ直ぐ、一筋に伸びている。
 その人こそ、慶子女王であった。
 順徳院の崩御を受け、すでに出家しているため、尼僧の姿である。
 無論、案内する村長むらおさは、そのことを知らない。
 この年は、順徳院の十三回忌(定説の崩御から数えて)であった。
 慶子女王が、順徳院崩御について、不信を持ち始めたのは、真野御陵まののみささぎ(佐渡にのこる順徳院御陵)が、火葬塚かそうづか(火葬場所)とされたことがきっかけであった。
 火葬がいつなされたというのか。
 少なくとも、左衛門佐局さえもんのすけのつぼねと慶子女王はその事実を知らなかった。
 佐渡本間氏の者に問おても、要領を得ない。
 その時は、諦めるしかなかった。
 しかし、何年経っても、事あるごとに、脳裏に浮かび、疑念は消えることがなかった。
 それが、思いもかけないことがきっかけで、全てを知ることになるのである。
 それは、順徳院の歌業について、佐渡本間氏の文書を当たっているときだった。
 慶子女王は、忠綱が記した、些細だが重大な記録に打ち当たる。
 それがすなわち、順徳院の秘事の源であった。

 仁治三年、六月廿日(二十日)、両津よりいで由良に着く

 その一文であった。
 仁治三年は、順徳院が崩御された年。
 しかも六月というと、崩逝される三ヶ月前である。
 なぜ、その時期に、順徳院の警護の責任者である、本間忠綱が出羽に渡ったのであろうか。
 それに、砂潟(酒田)ではなく、由良へ。
 不可解であった。
 その記録を目にしてのち、慶子女王は、本間氏のあらゆる文書を当たった。
 もちろん、表向きは、順徳院の歌業についての探索が理由であった。
 しかし、その一文以上のことは見つからなかった。
 慶子女王は、一転、由良の方面に注目してみようと考えた。
 すでに出家していた慶子女王は、修行と称して出羽に渡るのである。
 だが、おおよそ予期はしていたが、由良に手がかりがあるはずもなかった。
 あったのは、蜂子皇子の伝説だけ。
 落胆した女王であったが、その皇子のことで、ある記憶が呼び覚まされた。
 生前、慶子女王は、順徳院より、蜂子皇子について聞いたことがあった。
 蜂子皇子の佐渡滞在や、羽黒山開山についてである。
 羽黒山。
 それはほんのひらめきだった。
 しかし、その閃きで訪れた羽黒山で、遂に慶子女王は事実を突き止めるのである。
 羽黒山僧兵は、順徳院の出羽御幸を記録していたのだ。
 その中に、正厳に御宮を造営、とあった。
 慶子女王は、急遽、正厳を目指す。
 父との再会を、微かに心に秘めて。
 はたして、その正厳にて、村長むらおさを訪うと、真っ先に案内された所が「天子塚」であった。
 つまり、再会は叶わなかったのである。
 落胆しながらも、慶子女王は、村長に伴われ、この山門に至った。
「この萩は、天子様が植えられたそうで、今でも、稲刈りが終わる頃、村人総出で剪定してよ、そうして、育ででいます」
 村長は、そう説明した。
「この、萩の道を、貴方は最後にお造りになられたのですか」
 慶子女王は、語りかけるように呟き、山門をくぐった。

 順徳院は、ゆっくりと、石段を下りていった。
 萩が歩みを妨げる。
 妨げてもよい、と順徳院は、それを楽しむように萩を分けて割り、力強く歩みを進める。
 よく晴れ渡っていた。
 船形山には雲ひとつ掛かっていない。
 ふと、順徳院の耳に、何かの音色が聞こえてきた。
 それは、伸びやかで優雅な、しょうの音の様であった。
 最初は、微かに鳴っていたその音は、徐々に大きくなっていく。
 最早それは、音曲おんぎょくを奏でているようだ。
 やがて、その奏楽そうがくは、順徳院の鼓動と重なるように全身に響いた。
 それは、壮大な景色と、順徳院自身が一体となった瞬間でもあった。
 順徳院は、顔を上げ、目をつむると、大きく息を吸った。
 そして、ゆっくりと、仰向けに、萩に寄りかかるように倒れこんだ。
 揺れる萩の枝の何本かを通して、高くなった秋の空を、最期に、順徳院は目にされたであろうか。

 ふなかたの 稲藁やく香のけぶりゆく
  たれやも通ふ 萩の下道したみち
           (詠み人知らず)

 船形山(御所山)の見下ろす山里は、稲藁を焼く匂いが流れて、秋深まる予感に趣深い。
 しかし、その香も、すぐに消えてしまう儚いものであり、人も同じように死にゆくことから逃れられない。
 満開の萩で埋もれんばかりのこの参道は、人の知らない道である。
 その道を、行き交う者など、(この先も)あるだろうか。
 いや、ないだろう。
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