たれやも通ふ萩の下道(したみち)

沢亘里 魚尾

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(二十一)辿り着いた終の住み処にて

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 上り下りの、山道であった。
 順徳院は、背負子しょいこに似たものに後ろ向きに担がれていたので、景色は進まず、遠ざかっていく。
 僧兵は、全部で五人。
 それに、順徳院と阿部頼時である。
 僧兵は、急がずゆるまず、しっかりとした足取りで、慣れ親しんだ修験道を進んで行った。
 背負子は交代で担がれる。
 そのうちに、上りだけの道になっていく。
 陽はほとんど落ち、夕闇が迫っていた。
 道が二股に別れ、一行は左の道を取った。
 少し経って、先頭の僧が立ち止まり振り返った。
「いま、少しにござります」
 その言葉通り、更に左に進み、道が平らになったかと思うと、突然、星空が開け、境内に到着した。
 羽黒山本院は、にわかに活気づいた。
「さあさ、こちらでございます」
 順徳院は、背負子から降ろされ、本堂に導かれた。
 本堂の中は、何本もの蝋燭が灯され、まばゆいばかりである。
「遠い所を、恐縮至極に存じます」
 出迎えたのは、三人の僧であった。
 夜だというのに、正装である。
 中央で挨拶をしたのは、重玄ちょうげん
 総長吏、尊長そんちょう不在の羽黒山を守る、総長代理である。
「なんの、世話になります。よろしゅうに」
「はは、すでに、お休みになられる御用意ができております。お疲れかと存じますゆえ、御挨拶は改めまして、明朝にてお許し下さい。さっそく別院にご案内いたします」
 行き届いていた。
 案内された別院は、直ぐ近くにあり、すでに床が取られ、体を拭くための湯と綿布も用意されていた。
「いま、粥をお持ちいたしますゆえ、御体をお清めになり、お待ちください」
 そう言い置いて、頼時が下がった。
 桶の湯は、程よい加減であった。
 足を拭き、さらに手、首を拭かれた。
 そうしているうちに、順徳院は、人心地が付いていった。
 正直、後先を考える余裕もなく、ただ佐渡を離れることだけを考え佐渡を出て、本当に羽黒山にたどり着けるかどうかさえも確信を持てぬままの旅の始まりであった。
 今漸く、佐渡を離れた実感がこみ上げてきた順徳院であったろう。
 そして、それは、別の世を生きられる、その日々の最初の一日であった。
 順徳院は、ふと思い立ち、衝立を出られ、本堂正面に歩いて行かれた。
 そこには、等身大ほどの聖観世音菩薩像が祀られてあった。
「ああ、有り難や」
 順徳院は、着座され、合掌された。
 これが、順徳院の羽黒山初日であった。

 思いの外、眠りが深かった御様子である。
 順徳院は、日の出前に目が覚めた。
 佐渡から着てきた、藍の一重を羽織り、外に出られた。
 既に空は白んでいる。
 霧が少し残っていた。
 霊気が漂っている。
 順徳院は、導かれるように、本院のほうへ歩いていった。
 本院の本堂には、すでに重玄ほか、若い僧たちがおり、朝の勤めの準備をしている。
 重玄が気づき、手を休め、歩み寄ってきた。
 明るいところで見れば、まだ年若き重玄であった。
 齢四十そこそこであろう。
「良く、お休みになられましたか」
「お陰にて」
 その言葉に安心して、重玄が合掌一礼すると勤めを再開した。
 間もなく、読経が始まった。
 僧の数は、十数名。
 総勢の般若心経は、殊更に荘厳に、本堂に響き渡る。
 読経が終わり、朝粥の膳が済んだ後、漸く、順徳院と重玄は御対面され、話された。
 その事は、佐渡におられる時からお考えのことであった。
 羽黒山にて、然るべき戒師かいし(戒を授ける師僧)を得たならば、出家なさるというお望みである。
 重玄は、恐れながらも、快諾した。
 それは多くを語られるまでもなく、その決意の程を感じ取ったからであろう。
「謹んで、お受けいたします。その前に、一つお願いがございます」
「聞き申そう」
「是非に、羽黒山の縁起について、お話させていただきとう存じます」
「かの皇子のことか」
「さようにござります」
 重玄は、蜂子皇子はちのこおうじの羽黒山開山について、披露しようというのである。
「少々、長くなりますゆえ、準備をいたします。こちらで少しお待ちいただきますようお願いいたします」
 重玄は、僧らに、布団(座布団)やら、白湯を運ばせた。
 そして、境内が見える向きに、順徳院と並んで座り、重玄が話し始めた。
「蜂子皇子様が、この羽黒山に入られた当時は、それはもう、今のように、一筋の道もなく、ただの森でございました。あの砂潟さかた(現、山形県酒田市全域)がまだ、湖だったと云います。順徳院様同様、佐渡から由良に入られ、そこで、八乙女やおとめ(八人の乙女)に遇い、それらに導かれ、砂潟を舟にて渡られ、そののち、羽黒山に入られた、と云われております」
「いつか、大鳥に導かれて羽黒山に入られた、と聞き申した」
「さようでございます。三本足の八咫烏やたがらすと。しかし、その八咫烏について、いろいろと聞きますれば、どうやら、その正体は、熊野から羽黒の砂鉄を求めて参った産鉄族であった、と云われています。砂潟や羽黒山は、日本有数の砂鉄の産地だったのです。また、羽黒は製鉄や鍛冶にも適していました。豊富な冷たく清い水が湧いたからです。それゆえ、刀鍛冶も盛んになり、刀のみならず、様々な鉄製の武具・農具も造られるようになったのです。いや、鉄の前にも、このあたりは、大山(鳥海山)の火山によって、黒曜石が良く採れ、よって矢尻や石鏃せきぞくが多く造られ、諸国に輸出されておりました。羽黒山が、多くの僧兵を抱えているのは、その頃からなのでございます。その兵力は、蝦夷えぞの民から聖域と領民を守るためのものでありました」
 それは、順徳院も知らない話であった。
 重玄は、ひと際重々しく話を続けた。
「ともかくも、蜂子皇子様はこの羽黒を最後の地と定められ、ここで、修験の道に入られました。滝の下の岩窟いわやに籠もられて、来る日も来る日も、ひたすら瞑想を続けられたと云います。厳しい冬もそれは続きました。当時は、般若心経のような、経典もない時代です。砂潟に注ぐ今野川こんのがわ(現、山形県鶴岡市羽黒町を流れる)や梵字川ぼんじがわ(別名「赤川」、同じく鶴岡市を流れる)が造る三角州は、その当時、大般若村と言ったそうです。何も、その大般若村で採れるわらびは、苦みが全くなかったそうです。岩窟に籠もられた蜂子皇子様も、蕨や野草などを食されていたでしょう。そんな蜂子皇子様をこの辺りの人々は、いたたまれなくなったのでしょうか、お堂を建立こんりゅうしてさしあげるのです。それが羽黒寺の始まりにございます」
 重玄は、言葉を置き、順徳院に白湯を勧め、自らも白湯をすすった。
「蜂子皇子様が羽黒山を登り、本格的に修験の道に入られたのは、その後のことにございます。残っている逸話としましては、三合目の神子石みこいしでの山姥やまうばの話。豊満な女の化身で、蜂子皇子様を誘惑されたとのこと。五合目、狩籠かりごめでは、大蛇を退治されたとか。そのような苦難を乗り越え、ようやく七合目の合清水ごうしみず。視界が開け、雲海と山々(奥羽山脈)の景色に見とれたことでしょう。しかし、九合目、仏水池ぶっすいいけにたどり着いた頃に、霧が出てきまして、行く手を阻まれます。蜂子皇子様が困っておられますと、岩陰から童子が二人現れます。除魔じょま童子と金剛童子です。そして、蜂子皇子様に告げました。ここまでの修行で、人間の苦しみは除かれましたが、それだけでは此の山の頂上に登ることはできません。今は山を下りて、再び精進潔斎けっさいして再び登りなさい、と。蜂子皇子様は、このお告げに従い、山を下り再び岩窟に籠もり、座禅を組み勤行ごんぎょうに励まれました。この修業は本当に厳しいものでした。これが元で、蜂子皇子様の面相は褐色になり、巌しいものになられたと云われています。その後、再び山頂を目指され、遂に、蜂子皇子様は山を登り切ります。それは明け方の頃だったと云います。日の出を待ち、そして御来迎ごらいごうを御体に受け、仏の御相(すがた)を目にするのでございます。しばらく、時を忘れて、その光景に見とれていますと、今度は、東の空から、月が昇ってきます。その何と神々しいことか。その光は、山も外界も全て包み込む。そこで、蜂子皇子様は思われました。この山は、月に一番近い山である、と。そして、蜂子皇子様は、大きな声でこう叫んだといいます。月読つくよみの神様、御来迎様、と。それは山々にこだまして、谷の間に間に響き伝って流れていったと云います」
「なんと有り難きことか」
 まるで、御自分が同じ道を今、歩まれてきたように順徳院は、深く得るものがあったろう。
 その出家の翌日から、順徳院は、別院に籠もり、数日間、聖観世音菩薩像に祈り続けた、と云う。
 それは、蜂子皇子の苦行を、自らの御身に刻みこむかの様であった。
 承久が事が起こってから、どれほど多くの人命が失われたことか。
 世の乱れ、厄災の話を流れ聞くにつけ、順徳院は、ただただ祈るしか無い。そのような二十余年であった。
 その気持ちは、今も変わらなかった。
 そうして、祈り続けるうちに、何かしらのお告げがあったのだろうか。
「そろそろ、宮木野を目指そうと思う」
 数日の後、順徳院は阿部頼時に、ふと、そう所望された。
 そして遂に、最上河の水量の状態を見計らって、順徳院の一行は、羽黒山を下り、最上河を遡って行ったのである。
 蜂子皇子の苦難の道に比べれば、それは容易い旅路であると、順徳院は思うことができた。
 それに、僧兵五名、阿部頼時が同道しているから更に心強い。
 一日目は、修験道を下り、清河きよかわ(現、立谷沢川たちやざわがわ)の河辺を歩いた。
 この河は、羽黒権現の御手洗みたらせである、まさに清らかな流れであった。
 午の刻(午前十二時頃)、一行は清河の河口に到着した。
 しばし、休みをとり、その間、僧兵たちは川船の手配をした。
 こうして、いよいよ最上河を遡る。
 初日は、古口ふるくちの船着場にほど近い、お不動様のお堂を借り一行は逗留した。
 近隣の村人が夕餉を差し入れる。
 そして、二日目。
 最上河は蛇行して遡り、舟形ふながたというところまで来た。
 まだ日暮れには時があったが、この先は森深いため、そこで逗留することとなった。
 三日目は、途中、毒沢どくさわというところで休憩をし、一気に進んだ。
 舟で河を遡る旅は、順徳院にとり、感動の連続であった。
 自ずと、歌心が掻き立てられるが、順徳院は歌を最早詠まないと秘かに決めていた。
 己は、もうこれまでの自分ではないのだ、と。
 そう決心してのことであった。
 河の流れ、風のそよぎ、鳥のさえずり、木々の息吹、そういうものの一切を全て御身に受けて、感ずれは良いのだ、と。
 詠まれない歌心は、儚く、順徳院は殊更にものの哀れを感じられるのであった。
 やがて、最上河は丹生河に出会う。
 丹生河を遡って程なく、遠く船形山を望むことができた。
「あれが、船形山にござります」
 その山向こうには、目指す宮木野がある。
 順徳院の足取りは軽かった。
 一行は、人目には、修験者の一行でしかない。
 途中ですれ違う民は、合掌したり、会釈をしたりで、見送った。
 それは暑い日であった。
 川風があるから、まだましであったが、それでも日差しが、白い装束でも反射しきれずに、肌を焼く。
 知らず知らずに、それは、特に順徳院に堪えたのではないだろうか。
 一時ほど歩き、弁当を使い、さらに半時歩いた頃、山際が迫り始めた。
 その時である。
 空高くせり上がった入道雲が、遂に堪えきれずに雷雨となったのである。
 山近い沢は、急に増水する。
 一行は、丹生河の沿道を離れ、雨宿りの場所を求めて、河を見下ろしながら上流に進んでいった。
 そうするとすぐに、河の左岸に、小高い丘が見え、木が多く茂っている所に出た。
 僧兵頭は、その林で雨宿りすることを決め、上っていった。
 その場所は、後に御所神社が建つ辺りである。
 鬱蒼と茂る木々の間から、雨が滴り落ちてくる。
 それでも、豪雨からしっかりと一行を守ってくれる。
 眼下に広がる、何でもない風景に、順徳院は癒やされていた。
 雨は半時ほどであがった。
 しかし、既に陽は傾きかけていたため、僧兵たちは、手分けして、逗留先を探した。
 直ぐに、農民の納屋が見つかり、そこを借り、一行は草鞋を脱いだ。
 明くる朝、農民から、粥の朝餉を提供され、その後すぐに一行は、再び旅路に戻った。
 一行は、東から南東に進路を変え、丹生河の支流、鶴子つるこ沢を遡っていった。
 そして、の刻(午前十時)前には、山間の里にたどり着いた。
 ここが、船形山超えの拠点であり、ひとまずの目的の地であった。
 安堵からであろうか。
 ここで、順徳院が急に発熱してしまうのである。
 昨日の雨、旅の疲れもさることながら、誰の目にも、それがこの二十年以上の労苦が一気に吹き出したのだと思えたのである。
 幸いなのは、その鶴子沢は船形山の登山道にほど近いだけでなく、温泉が湧き出る地であることだ。
 順徳院が静養するには、これほど良い場所はない。
 羽黒山の僧兵と分かれば、村人たちは先を競って、その一行を迎えてくれた。
 一行は、また農民の納屋を借りて、そこにしばらく逗留することとなった。
 いずれ、綿密な山越えの計画を立てる必要があるため、長逗留は予定の通りで、決して痛手ではない。
 僧兵たちは、腰を据えて船形山の登山道探索に励む覚悟である。
 しかし、その道は、僧兵たちにとっても、容易い道とは言えなかった。
「順徳院様の御体のことを考えれば、この道は、果たして越えられるものであろうか」
「だいぶ、お疲れのご様子だし、体力ものう」
「いずれにしても、少しでも容易い道を探さねばのう」
 そんな心配を抱えながら、僧兵らは、幾度も探索、登山を重ねた。
 しかし、結果として、それらは全て徒労に終わったのである。
 順徳院は、思いの外、回復が早かった。
 それは民たちが、順徳院を気にかけ、衣食や薬草などを惜しみなく提供したからでもある。
 それとやはり、温泉が効いたと見える。
 見た目にも、肌の色艶が良く、明らかに回復してきたことが分かった。
 時が過ぎゆくのは早い。
 季節は、夏から秋へ。
「御坊さま、これは、モダスって言うて、ここらでは、一番良く食べられるキノコです」
 一言で、モダシと言っても、色とりどり、大小様々であった。
 モダシは自生する木によって、色も大きさも変わるのである。
「ほう、珍しきもの」
「晩げ、きのこ汁さして、持ってきます」
 季節ごとに、正に野趣ごと食す、そういう暮らしがそこにはあった。
 そういう山懐に抱かれて日々を送っていると、このままこうして暮らしていたい、と想うのは当然のことであった。
 そうして過ごされるうちに、秋も深まっていく。
 登山道の踏査とうさは難航していた。
 順徳院は、鶴子沢の右斜面にある、小さな社に毎朝出かけて行っては、般若心経を唱えるということを習いとするようになっていた。
 
 秋深まりつつある、そんなある朝のこと。
 その朝は、特に冷える朝であった。
 途中から、羽黒の僧兵らも加わっての般若心経読経となった。
「毎日の探索、有りがたく、すみませぬ」
「いや、もったいなきお言葉」
「して、今朝は」
「はは、少し、相談にと。だいぶ寒くなって参りました。それで、まだ探索は続けたいと思っておりますが、何れにしましても、当年中の山越えは難しいかと存じます」
「やはりのう、そうであろう」
 順徳院は、しばし、考えるような素振りであった。
 僧兵たちは、それを見守る。
「いや、余も、そのことをこの頃は考えておってのう。このように、皆の手を煩わせて、これ以上、更に労苦を掛けてまで、山を越えることも無いのではないか、と」
「はは」
「そう思うてのう。ここの暮らしは豊かな暮らしであろう。だから、このままで良いかと思うてのう」
 順徳院は、しみじみと言われた。
 そのようにして、順徳院は、その地を終の所とすることを決められたのである。
 仁治三年(一二四二年)、九月の末頃の話である。
 それはちょうど、京に順徳院崩御の報せが届いた頃であった。
 間もなく、最初の冬がやって来た。
 雪深く、長く厳しい冬であった。
 それでも、何不自由なく、順徳院は過ごされ、翌春には、鶴子沢を離れ、正厳の村に移り住むのである。
 阿部頼時が村長らと相談して決めたことであった。
 羽黒の僧兵らは、雪が降る前に羽黒山に戻ったので、今は、頼時のみである。
 順徳院は、鶴子沢を離れることを名残惜しんだが、歩いて半日もかからないところであるから、これからも通える距離である。
 それに実際に移られてみれば、順徳院は、新しい住居を殊の外愛でられた。
 建物自体は質素なものであるが、お気に召されたのは、その眺望である。
 御宮の庭先からは、船形山の山並みが、一望にできる。
 また、小高い丘の上に、その御宮はあるため、辺りの野や、田畑の景色を見渡せるのだ。
 そこで春を過ごすうちに、順徳院は、ある御計画を立てられた。
 それは。
 船形山をまっすぐ正面に見て、小さな山門を造営し、幾段かの石段を造る。
 そこから続く道は、言わば参道である。
 それは、船形山に向って一直線に伸びている。
「道の両側に、萩を植えよう」
 順徳院は、そう呟いた。
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