たれやも通ふ萩の下道(したみち)

沢亘里 魚尾

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(三)大姫の悲劇と、九条・近衛の対立

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「さて大治だいじののち久寿きゅうじゅ(一一二六から一一五五年)までは、また鳥羽院(が)、白河院の御後に世をしろしめして(お治めになっていたが)、保元ほうげん元年(一一五六年)七月二日、鳥羽院失せさせ給いてのち(崩御されたのち)、日本国の乱逆らんげきと云うことは起こりて後、世は武者むさの世になりにけるなり」
 慈円は、嘆きの感情を隠すこともなく、愚管抄に、そうづつった。
 神代じんだいから承久の乱までの歴史研究を通じて、「保元の乱」こそが、日本国を戦乱の世に変えてしまったと、慈円は断じたのだった。
 そういう意味において、「保元の乱」は日本の歴史の分水嶺として捉えることができる。
 この乱逆が起こる以前は、天皇の皇位継承およびその臣下である、補佐役の摂政せっしょうを司る摂関家せっかんけの後継者争いは、その中の問題、つまり、天皇家と摂関家の枠内の問題であり、そこに外部、ましてや、武家が関わることなど、あるはずがなかった。
 慈円が愚管抄に論ずるは、「保元の乱」こそが、それまでの世の「道理どうり」を大きく変貌させ、その後の世の「道理」を規定してしまった大事件であったことである。
 言い換えれば、「保元の乱」という既成事実が、乱逆、武力による謀反むほんがまかり通る世に、日本を変えてしまったというのである。
 そして、保元の乱における天皇家のお世継争い、摂関家の権力闘争は、すなわち武家の力を借りた解決に向かうことになる。
 言わば、武家に付け入る隙を与えたのだ。
 保元の乱はそのまま、平治へいじの乱につながっていく。
 そして遂に、平氏、平清盛による武家政権は誕生することになるのだ。
 清盛は、下級貴族である伊勢平氏の出であったが、それが瞬く間に出世をしていき、遂に太政大臣にまで上り詰める。
 そして、清盛は最終目標達成を果たす。
 承安じょうあん元年(一一七一)、十二月十四日、清盛の娘、徳子とくこは、高倉天皇(第八十代)に入内じゅだい(妻となること)し、その七年後、念願の皇子を授かる。
 すなわち、武家、平清盛は、天皇の外祖父となるのである。
 これで平氏は安泰、清盛はそう思ったことだろう。
 しかし、驕れる者は久しからず、というように、平氏の天下は長くは続かない。
 それは、清盛の振る舞いや行いが、まさに「驕れる者」のそれであったからに他ならない。
 慈円も、平氏の後白河法皇に対する配慮の無さを愚管抄で批判しているし、当時の人々も同じ思いだったであろう。
 朝廷、京都から遠く離れた、伊豆の地で、平氏の無道な振る舞いをじっと見守る者が居た。
 源頼朝である。
 平治の乱で、頼朝の父、義朝よしともは敗死した。
 乱以前、義朝は後白河上皇より四位の位を授かり、播磨守はりまのかみとなっていた。
 その時、頼朝は十三歳であるにも関わらず、右兵衛佐うひょうえのすけに任ぜられていた。
 父の敗死の後、間もなく頼朝も逮捕され、斬首の運命にあった。
 しかし、頼朝は死を免れた。
 「物の始終は興有り不思議なり。其時もかかる又打ちかえして世の主となるべき者なりければにや、・・・」
 慈円は、そう愚管抄に書いている。
 頼朝の助命を嘆願したのは、実に、平清盛の弟、頼盛の母であった。
 慈円はその事を、いつかは又、天下を取るべき器であることを察したからであろうか、と云うのである。
 そして、その読みは的中する。
 それにしても、頼朝の伊豆での暮らしは長きに渡った。
 実に二十年である。
 その二十年は謎の多い二十年ではあるが、結果として、苦節であったことである。
 まさに頼朝の人格と、内なる「道理」が形成された二十年であった。
 頼朝の天下草創そうそう(草分け)の下地には、この二十年があるのだ。
 もちろん、清盛の失敗を繰り返さない、という思いもあったに違いない。
 その筋道の通った世の治め方は、後に徳川家康をして、頼朝研究をしていたという事実からも、いかに優れていたかを証明している。
 平氏の無道は、頼朝によって修正され、王政は蘇る。
 しかし、それもまた鎌倉幕府の長い歴史の中では、束の間のことだった。
 平氏の無道は、北条氏によって再び繰り返されることになるからだ。
 ともかくも、頼朝によって、世は一旦の平静さを取り戻す。
 三十四年に渡る院政で、権力の座にあった後白河法皇が亡くなると、慈円が唱えた「公武協調こうぶきょうちょう」の時代が訪れる。
「殿下(藤原兼実かねざね=九条兼実)、鎌倉の将軍(源頼朝)仰せ合わせつつ、世の御政おんまつりごとはありけり」(愚管抄 巻第六)
 慈円にとっての春の訪れであった。
 摂政、藤原兼実は、慈円の同母兄である。
 つまり、慈円は九条家の人である。
 兄、兼実が後鳥羽天皇の関白となると、慈円も昇進を遂げ、護持僧ごじそう(天皇加護のために加持祈祷を執り行う僧)となった。
 慈円の立場上、歴史書「愚管抄」は、「九条家と近衛家の対立」の記録という一面を持つ。
 そして、この対立こそが、当世の天皇家を揺るがし続けたといってもいい。
 慈円の安堵も束の間であった。
 建久七年(一一九六年)の冬、摂関家に異変が起こった。
 その引き金となったのは、実に誰もが想像もしないことであった。

 御台所みだいどころ(源頼朝の正室=北条政子)は、沐浴を終えたばかりの大姫(頼朝と政子の長女)の居室に向った。
 一途な性質は、父親譲りだと、政子は思っていた。
 平治の乱の源氏敗北により、伊豆に流された頼朝が、再起を果たすことができたのも、決して諦めない、まっすぐ通った頼朝自身の芯の強さにあったからなのだ。
 しかし、その振れることのない芯も、大姫の場合は、いんの方に働いているだけだと。
「きっと、良い縁だと思ったのですが」
 大姫は庭をじっと見つめたまま、動かなかった。
 その白い横顔には、微かな笑みが浮かんでいるように見えた。
 病が回復し、沐浴を終えたことで、心穏やかであるのだろうと、政子は思い、ふと声にしてみたのだった。
 庭の萩は、満開の白い繊細な花を咲かせていた。
 大姫の笑みは、実はその萩のせいであった。
右武衛うぶえい殿(一条高能)は、決して事を急がれてはならない、と申されて」
 そこでようやく、大姫が政子の言葉を遮るように言った。
「もう、私のことは良いのでござります」
 大きな声ではなかったが、強い声音だった。
 微笑みは消え、きっと見つめた目は、冷徹なほどに、冷ややかだった。
 許嫁いいなずけ志水しみず殿=源義高よしたか)を亡くして、十年の月日が流れた。
 大姫は十八になった。
 志水殿の死後、悲歎の余り、心神に異常を来したことが発端となり、大姫は病床に付すことが多くなった。
 気の病が体を蝕んでいったのだ。
 辛うじて、彼女を生かしていたのは、義高への一途な供養の心だけだった。
 源義高は、源義仲よしなか(木曽義仲)の嫡男ちゃくなんであった。
 義仲と頼朝は従兄弟の関係である。
 したがって、大姫は、義高の又従兄妹ということになる。
 それが、許嫁となっていたのは、頼朝の政略が為であった。
 義仲は、頼朝と引けをとらない武将であった。
 義仲の叔父である志田義広と頼朝は対立関係にあった。
 そこへ持ってきて、寿永じゅえい二年(一一八三年)、その志田を義仲が庇護したことがきっかけで、義仲と頼朝は一触即発の状態となる。
 しかし、そこでの武力衝突はなく、その和議の人質として鎌倉に送られたのが義高であったのだ。
 表向きは、大姫の許嫁として。
 そのような事情を知らない、大姫は義高を慕い、日を追うごとに敬愛を深めていったのである。
 とはいえ、二人はまだ子供であった。
 時に、義高が十一、大姫が八歳。
 義高が人質になった同年の七月、義仲の軍勢が遂に平氏を突破し、京都に入洛を果たした。
 しかしその九月、義仲軍は、備中国びっちゅうのくに水島の戦いで平氏軍に大敗する。
 後白河法皇は義仲を見放し、頼朝に接近するために院宣を出し、頼朝の東国支配を許した。
 後が無くなった義仲は、強引な策に打って出る。
 後白河法皇を捉えて幽閉し、頼朝追討の院宣を出させたのであった。
 しかし、この事に激怒した頼朝は、翌寿永三年一月、近江まで進めていた源範頼のりより、源義経よしつねに、義仲追討を命じた。
 そして、義仲は粟津あわづの戦いにて、討たれるのである。
 頼朝は深慮遠謀しんりょえんぼうした。
 義高の禍根かこんを将来に残しては、やがて自らに跳ね返ってくるだろう、と。
 下した判断は、義高を誅殺ちゅうさつせよ、であった。
 義高は、頼朝が放った討手うってによって、入間いるま河原で討ち取られた。
 よわい、僅かに十二であった。
 大姫は、頼朝が討手を放ったと聞き及んで直ぐに、留まると言う義高に逃げるように説得し、遊び仲間や女房たちの協力を得て、女装をさせて逃がしたと云う。
 そのことが、かえって頼朝の怒りを助長させたに違いなかった。
 義高が言うように、潔く鎌倉に留まっていれば、命だけは助かったかも知れなかった。
 大姫の悲嘆は察して余りある。
 憤怒したのは、政子であった。
 義高を殺害したのは、討手となった堀親家ほりちかいえの軍の郎党ろうとう藤内光澄とうないみつずみという者であった。
 政子は頼朝に強く迫り、藤内光澄を斬首の上、晒し首にさせたと云う。
 その一方で政子は、大姫のこともたしなめた。
「父を恨んではなりませぬぞ。これがまつりごと。そうしないでは、世は治まりませぬ」
 そのことがあっての十年であった。
 傷は癒えることはなかった。
 婿むこの話が出る度に、なぜか心神しんしんは乱れる。
 二十日ほど前も、右武衛殿との縁談の話を政子がしたところ、大姫はまた体調を崩したのだった。
 高熱が出て、うわ言に、義高の名を呼んだ。
 義高との固い契りを忘れない大姫の姿を見て、周囲の人々は、「まさに貞女ていじょの行いである」と讃えたと云う。
「右武衛殿のことを悪く申しておるのではございません」
 困惑し、言葉を失った政子に、大姫は語りかけるように言った。
 眼差しは萩に注がれたままだった。
「そのようなことになり申せば(結婚をすれば)、わが身を世の深い淵に沈めることになりましょう」
 ただ、義高の御霊に顔向けができない、というのである。
 これから八日の後(建久五年八月二十六日)、頼朝は右武衛殿(一条高能)を伴って、勝長寿院しょうちょうじゅいん永福寺ようふくじに参られた。
の方から、願い入れたにも関わらず、この度は、誠に申し訳ござらん」
 頼朝が直々に、大姫のことを詫たのだった。
 親心であった。
 義高のことは、頼朝とて、やり過ぎたと後悔していた。
 自らが平治の乱で助命されたように、義高にも生きる道があったかもしれない、と。
 頼朝は良かれと思い、縁談を運んで来たのだ。
 せめてもの償いのつもりだった。
 しかし、この頼朝の親心が最終的に政権を揺るがすことになろうとは、当の本人とて想像もしなかったであろう。
 この破談はだんの後、あろうことか、頼朝と政子は、大姫を後鳥羽天皇に入内されることを模索し始めるのである。
 このことこそが、大姫の心を鎮め、幕府の安定に寄与する道である、と頼朝は信じて疑わなかった。
 この翌年(建久六年=一一九五年)、東大寺の再建がようやく叶う。
 平清盛が五男の重衡しげひらに命じて、焼き払った東大寺が、実に十四年の歳月を経て、落慶らっけいにこぎ着けたのだ。
 再建の功労者の一人である頼朝は、その落慶供養のために、二月、京都に上洛した。
 頼朝が征夷大将軍となって、三年目のことである。
 総勢数百騎を伴っての上洛であった。
 政子、大姫も随行した。
 これは入内の交渉のためである。
 この列に、北条時政の名前はなかった。
「鎌倉の留守は、この時政にお任せくだされ」
 時政は、上洛のための随兵のことが決定される前に、自ら頼朝に随兵辞退を申し出た。
 これは純粋な辞退ではない。
 いずれ、先陣に名を連ねることはあるまい、と時政は分かっていた。
 畠山重忠あたりに決まっておろう、と。
 とかく、この頃は冷遇されている時政であった。
 それに、時政にはやるべき事があったのだ。
 辞退の旨が承諾されると、時政はすぐに京の要人らへ書状を送った。
 頼朝が東国を平定する頃、時政は平氏より取り戻した六波羅(のちの六波羅探題)を一時守っていた。
 その当時に築いた公卿との信頼関係が生きたことになった。
 時政が送ったのは、東大寺落慶供養に参列できないことの詫び状であった。
 関白、兼実宛の書状には、詫び状とは別に一通の書状が入っていた。
 それを読んだ兼実は、殊更驚くこともなかった。
 むしろ、このような讒言ざんげんを送りつけてくるような側近しか持たない頼朝を気の毒に思い、鼻白んだ。
 時政の書状には、頼朝の入内の真の目的は、宮家みやけ将軍擁立ようりつを目論む頼朝の野望であり、ひいては、摂関家の存亡に関わるゆえ、認めてはならない、と書かれていた。
 頼朝が天皇家の縁戚となれば、いずれ天皇家から征夷大将軍が出るような事態になり、摂関家がおざなりになる、という論理であった。
 確かに時政の言い分は、兼実の懸念の一つではあった。
 しかし、それよりも何よりも、武者むさが天皇家の外戚がいせき(母方の親戚)になる、ということ事態が筋道に反する、と兼実は考えた。
 いにしえより、日本国は、天皇とその補佐役である摂関家が司る、という道理である。
 すでに平氏は没落して後、ようやく頼朝が世に平和をもたらす道理が訪れたにも関わらず、その均衡を頼朝自身が元に戻し、平氏の過ちを繰り返すとは何たることか、であった。
 はたして、同年三月十二日、東大寺の落慶供養が執り行われ、それから十八日後に、ようやく頼朝の参内さんだい(皇居に参上すること)があり、関白兼実への面会となった。
 初回は挨拶のみであった。
 その後、二回・三回と頼朝は兼実と対面するが、会談内容は政務のことのみであった。
 万事につけて厳格な兼実らしいことである。
 そして、四回目の参内の時(四月二十二日)、頼朝はようやく大姫入内のことを切り出した。
 きたか、と思ったが兼実は表情とて変えない。
 「そう、そのことである。先頃、僧正そうじょう(慈円)にも相談してみました」
 これは偽りであった。
 この後、頼朝から直接慈円に相談することを牽制したのである
 行っても無駄足だ、ということであった。
「はは、それで、慈円殿は」
きょう(頼朝)も御存知のとおり、慈円は物の道理と筋道を大事にする性質」
「いかにも」
「公武協調とは言え、それはまつりごとの上でのこと。家と家との関係は別の話と申しておりました」
 頼朝は目を伏せ、しばし言葉の意味を考えた。
 しかし、図りかねているうちに、兼実はさらりと止めを刺した。
「それに、僧正はまた、先例を重んじる。何よりも前将軍(清盛)の二の舞となることを懸念しております」
 天皇家の外祖父となって、平家と共に崩ぜられた安徳天皇の時と同じ失敗を繰り返すことを恐れている、というのであった。
 これで、頼朝は兼実の説得を断念した。
 失意を抱き、頼朝は京を後にする。
 しかし、頼朝と政子は大姫の入内を諦めなかった。
 関白がだめなら、上卿しょうけい(公卿の長)へお願い申そう、ということになり、翌建久七年、願いぶみを送る。
「予の娘、大姫を内に差し上げたい」
 時の上卿、通親みちちか土御門つちみかど通親)は、かねてから兼実のやり方に不満を持っており、派閥としては近衛家派であった。
 そこで、この入内願いのことを何か役立てられないか、と策謀さくぼうしたのである。
 当時、兼実の善政に対しては、公卿の間では賛否が分かれていた。
 否定派の言い分としては、あまりにも厳格に過ぎる、ということがあった。
 時の、後鳥羽天皇ですら辟易することがあったと云う。
 その後鳥羽天皇は、大姫入内には前向きだった。
 関白兼実は、大姫入内に反対。
 この対立構図を、通親は、九条家失脚に利用できまいかと、兼ねてより考えていたが、今一つ決定力が足りないと思っていたのである。
 その中にあって、北条殿(時政)の讒言の書状は、まさに渡りに船となったわけである。
 通親は、直ちに時政に返書へんしょを送った。
 確かめたかったのは、一つ。
 同じ書状を関白、兼実にも送ったかどうか、だった。
 再び直ぐに時政より書状が届いた。
 伝えてある、ということであった。
 その讒言から、通親は、頼朝は長くない、と読み取った。
 そして、通親自身の策略に時政の讒言を利用はしても、はなから大姫の入内は阻止するつもりだった。
 なぜなら、通親自身にも、妻、形部卿三位ぎょうぶきょうのさんみ藤原範子ふじわらののりこ)との間に生まれた娘子がおり、同じく入内を考えていたからだ。
 範子は、後鳥羽天皇の乳母うばでもあった。
 頼朝からの願い文で、通親の計略の準備は整った。
 何とか助力いたそう、と通親は頼朝に返書を送り、返す刀で後鳥羽天皇に内密に話があることを申し出た。
 「関白殿(兼実)に不信がござります。すでにお聞き及びとは存じまするが、関東(頼朝)より姫君の入内の話が参っております。これを関白殿が阻止しております。これはひとえに、ご自身のお家(九条家)のことのみを案ずるがためにござります。関白として、天皇家の将来を見据え、まつりごとを執り行うことが肝要かと存じまするが、これではそれがままなりません」
 後鳥羽天皇は、頷き、次の言葉を待った。
 通親の話しぶりから、まだ続きがあることを感じたからだった。
「さらに、九条殿(兼実)と北条殿が何やら頻繁に文を交わしているようにござりまして。不審に思い、内々に調べましたところ、北条殿に将軍家への謀叛の動きがあることが判明してございます」
「なんと」
 後鳥羽天皇は、この言葉に驚き、それを兼実が黙認しているとすれば、由々しき事態である、と考えたのである。
 頼朝に対する後鳥羽天皇の信頼は厚かった。
 平氏を抑え、東国を平定した。さらには全国を平定するであろう、と確信していたのだ。
 加えて、何よりも、天皇家を敬い、物の道理をわきまえている、と。
 それに、源氏は下級であれ、貴族である。
 それが、地方の一武将に取って代わられる、としたら、それこそ幕府の後ろ盾てある天皇家の危機である。
 後鳥羽天皇は、すぐに兼実の弟である慈円に事の次第を確かめることにした。
 慈円こそは、頼朝の良き理解者であったからだ。
 後鳥羽天皇の話を受け、慈円はすぐに兼実の説得に走った。
 しかし、兼実は、天皇家と武家の縁戚関係には、あくまでも反対、という立場を変えなかったのである。
 一方、通親は、頼朝に対して、天皇と九条殿(兼実)との関係は悪化しているから、将軍家(頼朝)にとって悪いようにはならないだろう、と伝えていた。
 こうして、建久七年(一一九六年)は十一月二十五日、後鳥羽天皇は、前摂政、藤原基通もとみち(近衛家)を関白ならびに藤原氏の氏長者うじのちょうじゃ(代表者)に任ずる命を下し、九条兼実は失脚したのである。
 この後、兼実が政界に復帰することはなかった。
 九条家と近衛家の対立は、これで決定的なものとなってしまった。
 同時に、慈円も天台座主を辞任する。
 慈円の辞任を、頼朝はたいへんに恨みに思った、と云う。
 この政変が、頼朝の急死の一年前の出来事であった。
 その引き金になったのは、「大姫入内計画」であったのだ。
 結果として、政争の具であり続けた大姫は、頼朝の死の約半年前、建久八年七月十四日に亡くなられた。
 二十歳であった。
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