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黒猫をいだく女【30】
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「あらたいへん、せっかくお越しいただいたのに、夢二は次男と富士山に行っていますのよ」
そう言いながら奥から出てきた、夢二の新しい妻と思しき女をひと目見て、カワバタ(川端康成)は一瞬目を疑った。何かの企みに紛れ込んでしまったような・・・。
それが、大正十一年(一九二二年)の夏のことである。
その七年後に、ようやく初対面を果たした竹久夢二は、カワバタがあの時イメージした大芸術家「竹久夢二」ではなく、老いた一人の人間であった。
(あのとき、会っていれば・・・)
二年前に自殺した芥川龍之介と比較して、夢二はどうであったかを検証できたかもしれない、とカワバタは一人悔やんだ。
(やはり、あの時すでに、夢二の「末期」は始まっていたのだろう。あの「黒船屋」といい、留守に出迎えた妻といい・・・)
夢二は口の端で微笑んだようだった。
その表情は、誰かが見ていれば、何かを皮肉っているようだ、と見て取れたかもしれないが、あいにく、居間には夢二ひとりだ。妻のお葉は、近所に用足しに出ている。
居間のテーブルに、現像したての、旅行(山形旅行)の写真を並べ、選り分けながら、その出来栄えを確認しているのだった。
その最中に何の前触れもなく、ふと、夢二は何もかもに嫌気が指す、時折起こるいつもの感情が、顔に現れたのである。
(まったく本当に、これがいつまで続くというのか。日本)
日露戦争のまぐれの勝利以来、また、大戦争(第一次世界大戦)を経てもなお、戦争という病に侵された帝国と、それに乗せられた平民たちに対する諦めの嘲笑が、こうしてため息のように漏れることがあるのだ。
(かと言って、それに抗う者たちが集まれば、かえって炭が起き、ますます炎が燃え盛り、逆に軍国主義者の力が増長するのに手を貸すようなものなのだ。何もかも最早、この国には無駄なことなのだ。江戸や明治には戻らない。岡田先生(洋画家:岡田三郎助)には有り難かった。そう先生が薦めてくれたように、僕は、内なる精神を詩のように描く。そうして描いてきたのだ。僕が本当に言いたいことなど、誰かに解って欲しくはない。そう、僕は描けば良い。ただ心の赴くままに。勝ち負けではない。描き続けるのだ)
夢二の手、目は、すでに意味もなく或るだけで、写真のことなどはどうでも良くなっている。夢想の中に埋没してしまった。
(こんなことを考えるということすら、無駄だと言うのに・・・。あるいは僕は、カワバタ君(川端康成)に、自分の絵が好きだと言われ、ついつい気を良くして、このような、とうに封印し、閉じ込めた考えが湧き出してきたのだろう。くだらぬ、実にくだらぬ。こんなことでは筆が鈍る)
夢二は止まりかけた手をまた動かして、紙焼きを並べていく。
(そうだ、カワバタ君が、今度家に来たい、と言っているそうだが、そのときには、努めて、このような事を論じることなど、無いようにしなければならない)
そう勝手に自らを戒める夢二の手に、知らずに力がこもるが、ふとまた気づいて、夢二は微笑む。今度は、いささか穏やかな微笑みであった。
(しかし思えば、風景の写真しかないな。僕もいつかは、女から離れ、風景などを描く老画家になるものだろうか・・・、いや・・・。そうだ、夏は富士か)
大正十一年(一九二二年)の夏、夢二(三九歳)は、次男の不二彦(十一歳)と富士山に登ったと云う。
折悪しくそこを狙ってしまったかのように、カワバタは、芥川龍之介の弟子、渡辺庫輔に案内されて、渋谷の夢二宅を訪ねたという訳だった。だから、本来あるべき初対面の機会が失われたのだ。
一九二九年の夏、夢二は伊香保温泉に居た。そこにカワバタは訪れた。
夢二は、その時、「榛名山美術研究所」の構想を練り始めたところであった。
古来より山岳信仰が守られてきた「榛名山」の山腹の湖畔に、産業社会における人間と自然、都市と田園を、デザインと民芸の側面から、楽しみながら仲間たちで模索するユートピアを目指して。
それは、何物にも縛られない、素の「竹久夢二」の構想と言える。
人は老いるほどに、過去に引き戻される。
若い夢二は、キリスト教的人道主義者であった。故に、戦争に反対したのである。その夢二は最晩年、ユダヤ人排斥が最高潮となるドイツで、極秘裏に、ユダヤ人救済センターの連絡係として活動した。コードネームは「メーソン・ユメ」。彼の役目は、ウィーンから各国へ発送する文書の運び屋。
この翌年(一九三四年、昭和九年)、夢二は結核のために、四十九年の生涯を閉じた。
伊香保で初めて眼にする夢二の姿に、カワバタは、完全なる「夢二の末期」を見た。あの、芥川龍之介と同様の、いや、自分の末期に似た感慨と同じような。
そしてその時、あの夢二不在の渋谷の邸での感覚が蘇ったことだろう。
芸術の敗北。
カワバタは、夢二についてこう書いている。
・・・小説家だって同じだ。芸術家でなくとも、夫婦は顔が似てくるばかりでなく、考え方もひとつになってしまう。少しも珍しくはないが、夢二氏の絵の女は特色が著しいだけ、それがあざやかだったのである。あれは絵空事ではなかったのである。夢二氏が女の体に自分の絵を完全に描いたのである。芸術家の勝利であろうが、また何かへの敗北のようにも感じられる(川端康成「末期の眼」より)。
(不二彦は、登頂しきれるだろうか。やはり、写真機(カメラ)は持っていくのをやめよう)
そう決心して、夢二は紙焼きを置くと、立ち上がった。
ちょうどその時、店先から下駄の音がした。
「あなた、ただいま戻りました」
夢二が店の方に立って行くと、紫の風呂敷包みを左手に持って、微笑みながら俯き、下駄を脱ぐ姿が目に飛び込んできた。
瞬間的に切り取った、その像の女は、妻のお葉では無かった。
先ごろ自分が発表した作品「黒船屋」の絵の女。黒猫を抱く女。
この数日後に、カワバタは夢二宅を訪れ、夢二と全く同じ感覚に襲われたのであった。
後に夢二は、この自覚を日記(「夢二日記」)に、オスカー・ワイルドの名言を引用して書いた。
「『人生は芸術を模倣する』とフランスで死んだイギリス人が言いました。わたしの人生は私の幼い時受けた芸術の影響を脱し得ないばかりでなく、或いは実践していたのかもしれません」
そう言いながら奥から出てきた、夢二の新しい妻と思しき女をひと目見て、カワバタ(川端康成)は一瞬目を疑った。何かの企みに紛れ込んでしまったような・・・。
それが、大正十一年(一九二二年)の夏のことである。
その七年後に、ようやく初対面を果たした竹久夢二は、カワバタがあの時イメージした大芸術家「竹久夢二」ではなく、老いた一人の人間であった。
(あのとき、会っていれば・・・)
二年前に自殺した芥川龍之介と比較して、夢二はどうであったかを検証できたかもしれない、とカワバタは一人悔やんだ。
(やはり、あの時すでに、夢二の「末期」は始まっていたのだろう。あの「黒船屋」といい、留守に出迎えた妻といい・・・)
夢二は口の端で微笑んだようだった。
その表情は、誰かが見ていれば、何かを皮肉っているようだ、と見て取れたかもしれないが、あいにく、居間には夢二ひとりだ。妻のお葉は、近所に用足しに出ている。
居間のテーブルに、現像したての、旅行(山形旅行)の写真を並べ、選り分けながら、その出来栄えを確認しているのだった。
その最中に何の前触れもなく、ふと、夢二は何もかもに嫌気が指す、時折起こるいつもの感情が、顔に現れたのである。
(まったく本当に、これがいつまで続くというのか。日本)
日露戦争のまぐれの勝利以来、また、大戦争(第一次世界大戦)を経てもなお、戦争という病に侵された帝国と、それに乗せられた平民たちに対する諦めの嘲笑が、こうしてため息のように漏れることがあるのだ。
(かと言って、それに抗う者たちが集まれば、かえって炭が起き、ますます炎が燃え盛り、逆に軍国主義者の力が増長するのに手を貸すようなものなのだ。何もかも最早、この国には無駄なことなのだ。江戸や明治には戻らない。岡田先生(洋画家:岡田三郎助)には有り難かった。そう先生が薦めてくれたように、僕は、内なる精神を詩のように描く。そうして描いてきたのだ。僕が本当に言いたいことなど、誰かに解って欲しくはない。そう、僕は描けば良い。ただ心の赴くままに。勝ち負けではない。描き続けるのだ)
夢二の手、目は、すでに意味もなく或るだけで、写真のことなどはどうでも良くなっている。夢想の中に埋没してしまった。
(こんなことを考えるということすら、無駄だと言うのに・・・。あるいは僕は、カワバタ君(川端康成)に、自分の絵が好きだと言われ、ついつい気を良くして、このような、とうに封印し、閉じ込めた考えが湧き出してきたのだろう。くだらぬ、実にくだらぬ。こんなことでは筆が鈍る)
夢二は止まりかけた手をまた動かして、紙焼きを並べていく。
(そうだ、カワバタ君が、今度家に来たい、と言っているそうだが、そのときには、努めて、このような事を論じることなど、無いようにしなければならない)
そう勝手に自らを戒める夢二の手に、知らずに力がこもるが、ふとまた気づいて、夢二は微笑む。今度は、いささか穏やかな微笑みであった。
(しかし思えば、風景の写真しかないな。僕もいつかは、女から離れ、風景などを描く老画家になるものだろうか・・・、いや・・・。そうだ、夏は富士か)
大正十一年(一九二二年)の夏、夢二(三九歳)は、次男の不二彦(十一歳)と富士山に登ったと云う。
折悪しくそこを狙ってしまったかのように、カワバタは、芥川龍之介の弟子、渡辺庫輔に案内されて、渋谷の夢二宅を訪ねたという訳だった。だから、本来あるべき初対面の機会が失われたのだ。
一九二九年の夏、夢二は伊香保温泉に居た。そこにカワバタは訪れた。
夢二は、その時、「榛名山美術研究所」の構想を練り始めたところであった。
古来より山岳信仰が守られてきた「榛名山」の山腹の湖畔に、産業社会における人間と自然、都市と田園を、デザインと民芸の側面から、楽しみながら仲間たちで模索するユートピアを目指して。
それは、何物にも縛られない、素の「竹久夢二」の構想と言える。
人は老いるほどに、過去に引き戻される。
若い夢二は、キリスト教的人道主義者であった。故に、戦争に反対したのである。その夢二は最晩年、ユダヤ人排斥が最高潮となるドイツで、極秘裏に、ユダヤ人救済センターの連絡係として活動した。コードネームは「メーソン・ユメ」。彼の役目は、ウィーンから各国へ発送する文書の運び屋。
この翌年(一九三四年、昭和九年)、夢二は結核のために、四十九年の生涯を閉じた。
伊香保で初めて眼にする夢二の姿に、カワバタは、完全なる「夢二の末期」を見た。あの、芥川龍之介と同様の、いや、自分の末期に似た感慨と同じような。
そしてその時、あの夢二不在の渋谷の邸での感覚が蘇ったことだろう。
芸術の敗北。
カワバタは、夢二についてこう書いている。
・・・小説家だって同じだ。芸術家でなくとも、夫婦は顔が似てくるばかりでなく、考え方もひとつになってしまう。少しも珍しくはないが、夢二氏の絵の女は特色が著しいだけ、それがあざやかだったのである。あれは絵空事ではなかったのである。夢二氏が女の体に自分の絵を完全に描いたのである。芸術家の勝利であろうが、また何かへの敗北のようにも感じられる(川端康成「末期の眼」より)。
(不二彦は、登頂しきれるだろうか。やはり、写真機(カメラ)は持っていくのをやめよう)
そう決心して、夢二は紙焼きを置くと、立ち上がった。
ちょうどその時、店先から下駄の音がした。
「あなた、ただいま戻りました」
夢二が店の方に立って行くと、紫の風呂敷包みを左手に持って、微笑みながら俯き、下駄を脱ぐ姿が目に飛び込んできた。
瞬間的に切り取った、その像の女は、妻のお葉では無かった。
先ごろ自分が発表した作品「黒船屋」の絵の女。黒猫を抱く女。
この数日後に、カワバタは夢二宅を訪れ、夢二と全く同じ感覚に襲われたのであった。
後に夢二は、この自覚を日記(「夢二日記」)に、オスカー・ワイルドの名言を引用して書いた。
「『人生は芸術を模倣する』とフランスで死んだイギリス人が言いました。わたしの人生は私の幼い時受けた芸術の影響を脱し得ないばかりでなく、或いは実践していたのかもしれません」
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