水の獣(みずのけもの)

沢亘里 魚尾

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 守は、まだ日が暮れる前に、薬缶と蝋燭、線香、そしてライターを持ち、一人菩提寺に出かけた。
 父親に、一緒に行かないか、と声をかけたが、後で行く、ということだった。
 家族全員揃って、最後に墓参りに行ったのはいつのことだろうか。
 守はそう想いやりながら、夕暮れの旧国道を歩いて行った。
 車も人通りも疎らだった。
 小学生当時、墓参りというと、少しワクワクしていたことを守は思い出していた。
 年に一度だけ着る浴衣を祖母が着付けてくれた。
「も少す、肥らねど、かっこつかねな」
 祖母はそう言いながらも、着付け終わると、ポンと守のお腹を叩いて、はい上等、と言った。
 慣れない下駄を履き、水をいっぱいにした薬缶を左手に、提灯を右手にぶら下げて、イライラする父と玄関先で待っていると、母が最後に出てくる。
「ばあちゃんは」と守が尋ねると、母は、後から来る、と言った。
 祖母は、遠慮していつも一緒に行かなかった。
 信仰心の薄い祖父は、茶の間でテレビを観ていた。
 同じようなことをどこ家庭もしていたと思う。
 お寺に行けば、知っている人に何人もあった。
 それが、あの当時の守の田舎のお盆の風景だった。
 今ではそういう家庭も少なくなっただろう、と守は勝手に想った。
 墓までは、歩いて五分足らずだ。
 その日は、少し遠回りして、花屋で仏花をもとめた。
 山門をくぐった。
 人も疎らだ。
 昔なら、開け放たれていたはずの本堂の扉も閉ざされていた。
 墓地には、老男が二三人見えるだけだった。
 守は、本堂に向かって左手の地蔵尊の裏にある、自家の墓の前に立って、まず一礼した。
 墓には、もちろん、花など立向けられていなかった。
 守の祖父母の世代の親類が、軒並み亡くなったり、施設に入所している今日この頃では、墓を参る人などいなかった。
 守は、まず、墓の掃除から始めた。
 草をむしり、落ち葉などを拾い、昨年のお盆の線香の燃えカスなどを片づけた。
 その後、守は、薬缶の水を墓石の上からかけた。
 水が無くなると、水場に行き、それを二回繰り返して、墓のすべてを洗い清めた。花瓶の役割をしている金属の容れ物も石から外して洗った。
 それから花を生け、蝋燭を立て火を灯し、線香に火を付けた。
 数珠を手に、しゃがんでゆっくりお参りすると、守は記憶をたどりながら墓地の奥に歩いて行った。
 その墓は、古びたコンクリートの段の上に、立っていた。
 墓石は黒の御影で、守の家の墓よりも大きくて立派だが、同じように殺風景だった。
 隼人の祖父が生きている頃は、花を絶やしたことなどないのではないだろうか、と守は想像した。
 守は、自家の墓と同じような手順で、墓を掃除し、半分残しておいた花を生け、手を合わせた。
 隼人の死以来、初めてのことだった。
 それで許してもらおうなどとは考えない守だったが、なぜか気持ちがすうっとした。
 何もかもが、完全に取り返しがつかなくなった今だからこそ得るに至った、自分勝手は平穏だった。
 守は、立ちあがると、山門の方に戻りかけて、ふと右の方の墓に目を向けた。
 界隈では珍しく、早くも既に花が活けられて、線香の束からは、煙が上がっていた。
 墓自体もきれいに掃除されていた。
「鈴木家先祖代々之墓」
 グレーの新しい墓石には、そう刻まれていた。
 最近新しくしたばかりの墓。
 感心しながら、通り過ぎようとした守は、また足を止めた。
 それは鈴木ヒトミの家の墓だった。守の家の墓からかろうじて見える場所に位置してことを思い出したのだ。
 お盆の夜には、密かな期待とともに横目で見ていた守だった。
 誰かの新盆でもあるかのような様子だった。
 地蔵尊の横の桜の樹に、ミンミンゼミが一匹とまって鳴き始めた。
 守は逃げるように、寺を後にした。
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