水の獣(みずのけもの)

沢亘里 魚尾

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 家にいて、父親と顔を合わせている時間を多く作ってしまわぬように、守は夜出かけることに決めていた。
 町には取り立てて、繁華街もなく、飲食店も少なく、どの店に入っても同級生や知人に会うことを覚悟しなければならなかった。
 昨晩も、守は居酒屋で中学の同級生に出くわし、要らぬ詮索をされかけた。
 守は、酒場を避け、市役所近くの蕎麦屋に入った。
 先客は、一人だけだった。
 常連らしいその七〇前後の男性は、店のおかみに酒の量を咎められていた。
 それで三杯目の焼酎のお湯割りは薄めに出されたようで、そのことで軽い言い合いをしていた。
 守はなんとなくその男性を避けるように、右奥の座敷に座った。
 言い合いは止まず、なかなかオーダーが来ないので、守から声をかけ、ビールと板わさ、そしてざるそばを注文した。
 その日は、守の同級生などは現れなかったが、守の父の同級生で、父の釣り仲間でもある男が現れた。
 それはそれで、めんどくさいことにならないように、守は知らぬそぶりをしていた。
 ところが見つけられてしまった。
「おお、守くんでねえがい」
 男性は、ズーズー弁で守に話しかけてきた。
「あ、ご無沙汰してます」「いつも親父がお世話になってます」
「また、かしこまって」「世話な、してねえずう」「夏休みがあ」
 もう、どこかで一杯やってきた感じだった。
 守は、そうです、とだけ答えた。話をできるだけ長引かせたくなかったのだ。
「んだが、おとさん、喜んでっべ」「たまには、帰ってこねえど、だめだずう」
 突然、常日頃の親不孝を指摘されて、守は返す言葉もなかった。
「これが」
 男は、釣竿を合せる手振りで、守に聞いてきた。
「そう、今日も行ってきました」
「釣れだが」
「山女魚が一匹と岩魚が二匹」
「んじゃ、まあまあだな」「どごで」
「寺田川」
「ああ、あそごが」「気を付けろよ」
 そう言うと、男性は何故か妙な笑みを浮かべながら、ラーメンを食べ始めた。
 守は、追加で、冷酒と漬物を頼んだ。
 漬物は、刻んだ茗荷が入った胡瓜の浅漬けで、惜しげもなく丼大の器に盛られて出てきた。
 そのため、守は冷酒を二本おかわりすることになり、店を出る頃には、いい具合に出来上がっていた。
「んじゃ、どうもっす」
 守は、父の同級生の男の横を通り過ぎる時、そう声をかけて、レジに向かった。
 店を出ると、何故か、その男が守の後を追って出てきて、守を呼び寄せた。
「守くん、ちょっと待で」
 そして男性は耳打ち気味に話した。
「ヒトミちゃんて、守くんの同級生で居だべ」
「え、鈴木ヒトミのこと」
「んだんだ、その人」
 守は、突然の話題に少々驚いたが、男の顔を見返して、先を促した。
「離婚したんだげんとな、なんか、うつ病みだいで、変な噂がたってんだあ」
 男性の話はこうだった。
 鈴木ヒトミは、離婚後、実家に一旦戻ったが、父親との不仲から、市外のアパートに一人暮らしをしている、ということだった。
 それだけだったら、よく聞く話だった。問題はそのあとだった。
 鈴木ヒトミが手当たり次第に男性と関係を持っている、という噂がたっているというのだ。
 そのような話をなぜ、男が守にしてきたのか、と訝った。
 可能性は一つ、守の父親から聞いたに違いなかった。
 ついでに余計なことを父が話していないことを願った。
 それにしても、酒が入っているとは言え、デリカシーの無い男だと思いながら、守は聞いていた。
「それがよ」
 更に男は続けた。
 ここまでの話は、単なる品のない噂話だと言い切ってもいいものだったが、その後に語られたことが驚きだった。
 もしや、と守は昼間見たことをまた思い出したのだ。
「ある男に捨てられだ、というごとで、頭が少し可笑すぐなったみでえでよ」「山のあちこちの川で目撃されでんのよ」
 男性は、さらに声を落として、守の耳に口を近づけて言った。
「それが、裸で歩いでんなだど」
 守は、まさかという意味合いの笑みを演じて見せた。
 ところが内心は穏やかではなかった。
 「だがら、気つけろよ」
 それがどういう意味なのか守にはわからなかったが、動揺しているせいか、分かったというように頷いた。
 帰り路、守の脳裏に忘れかけていた女の緑がかった肌の色が蘇った。
 あれは、亡霊だと、自分に言い聞かせ、実際そう思い始めていた守だった。
 話を蒸し返されただけでなく、それが生身の人間であり、事もあろうに鈴木ヒトミである可能性まで出てきているのだった。
 そして、鈴木ヒトミは守にとって、「ただの初恋の人」ではないのだった。
 十何年、二十年近くの間、できれば思い出したくない相手だった。
 守は一連の出来事を頭から追い出そうと、関係のないことを考えるようにして歩いた。
 そこまでして、強く忘れようとする守には、理由があった。
 別のことを考えるというアイデアは、当初、上手くいったかに見えたが、結局はだめだった。
 思考が中断するたびに、あの緑がかった肌の、背中、臀部、足が蘇ってくるのだった。
 それらのイメージは、小学六年生当時の鈴木ヒトミと全く一致しなかった。
 ついには、守が心の奥深くに鍵をかけて仕舞いこんでいた出来事を思い出さざるを得なくなった。
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