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サンサーラ(転生輪廻)

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 雨季直前の五月の終わり。
 ポブジカの谷(中央ブータンにあるバレー)は、若草輝ける季節である。
 ペマは、仮置きの板囲いの中を少し離れた場所から覗く。
 子猫はまだ生まれていない。
 毎日、小学校から帰って、父親にやるべきことを訊きに行く前に必ず、牛舎の片隅のラクパの様子を見に行く。
 灰青色のメスの雑種猫が妊娠していることにペマが気づいたのは一月以上前のことだが、いよいよ先週から産まれそうな具合なのだ。
 それで、板を何枚か運んできて、目隠しを作ったペマであった。
 ペマという名前は、昨年なくなった祖父が付けた。「蓮の花」という意味で、女の子の名前のように聞こえるが、ペマは小学二年生の男子だ。
 兄が一人いるが、僧院に修行に行っている。
 ラクパの妊娠は、彼女自身の初めての事だということもあるが、ペマにとって、もう一つ気がかりなことがあった。
 誰にも話していないのだが、もう半年以上、ペマは時折同じ夢を見る。
 それは森に棲む二頭の虎が、三日にあげず村に降りてきては、家畜の水牛を襲い、場合によっては飼い主の人間に危害を加えるのだった。
 夢は、虎が森に帰って行くところで、いつも終わる。
 ところが、その夢を何度か見るうちに、白人のハンターが村にやってきて、逃げ去った虎を探索するようになった。
 それでも、なかなか虎は狙撃されることはなく、そのことを知る度に、ペマは安心するが、一方で、人が虎にやられることも恐ろしいと、複雑な気持ちのまま目覚めるのであった。
 ブータン人のご多分に漏れず、ペマは虎を四神獣の一として崇拝している。
 タンディン先生が、虎はネコ科の中で最大の動物、とペマたちに教えた。
 チベット仏教・ニンマ派の創始者(紀元八世紀頃)、グル・リンポチェは、二度目のブータン来訪の際、雌虎に乗り、忿怒尊(ドロジ・ドロェ)の姿をして、ブータン西部のパロに赴いたと云う。その場所がパロの「タクツァン僧院」であり、「タクツァン」とは「虎の棲家」という意味だ。
 この言伝えから、グル・リンポチェも「虎」も、チベット仏教を国教とするブータン王国とは切っても切れない関係なのだ。
 虎は本来、警戒心が並外れて強く、人間がその姿を見ることは難しい。その虎が、人を襲うことは稀で、そういう悲劇をもたらす原因は、自然破壊によって虎の生息域が狭まっている証左である。
 そういうことを知らないでも、ペマには、虎が人を襲うことが尋常なことではないことは直感的に解る。
(本当は虎だって、人を襲いたくはないはずだ)
 ペマはそう信じて疑わない。
 そして、その夢を見るようになって、しばらくして、ラクパがみごもったことを、ペマは知った。
(あの夢と、ラクパのことは、関係あるのかな)
 ペマには、それが気になるのだ。
 夢の中の虎の行く末が、ラクパのこの先を暗示しているような・・・。
 だから無意識に、これ以上、その夢を見ないようになりたい、と願う。夢の結末を知りたくはないのだった。
 
 その虎はベンガルトラ、メスの二歳と一ヶ月だった。
 人間の年齡にすると、少女から娘に変わる歳頃。ようやく独り立ちする年齡である。
 そのメスのベンガルトラは、生まれ変わりであった。正確に言うなら、その生命は三度目の命であり、前世もまたベンガルトラであった。
 無論、己が生まれ変わりだということを、その虎が知るはずもない。
 ただ、今は、空腹を癒やすための獲物を探して、ヒマラヤの頂を臨む山林をさすらっていた。
 もはや追手は来ないだろう。
 メス虎は、非常時の警戒を、通常の警戒まで緩め、それでも注意を怠ること無く、歩みを進める。
 そこは、チャンパワト(現インド領)から北東へ約五十キロの場所だった。サーダ(現在のインド・ネパール国境の川)を渡れば、もっと安心なのだが、彼女には、もはや川を渡る体力も気力も無い。
 やがてメスの娘虎は、身を隠すに十分な茂みを見つけ、身を伏せた。
 ほんの一瞬に近い眠りであった。
 その短い眠りの中で、娘虎は前世の夢を見た。

 彼女の母虎は、その前日チャンパワトで、英国人のプロの狙撃手に撃たれ、命を落とした。
 一九三十年四月十一日のことだった。
 母娘は、その辺りでは有名な虎だった。
 もちろん、人間たちが思い込んでいるような所業をこの母娘だけがしたはずもなかった。人間と言うものは、兎角誇張して悲劇を語り、広がるに連れ、もとの話とはおよそ違った話になっているものなのである。
 その結果として母娘は、「八年間で四百人以上の人間を喰った虎」というレッテルを貼られ、いわば指名手配となったのである。
 悪いのは人間の方だった。移住してきた英国人、そしてそれを受け入れたネパール人たち。
 そもそも、彼らの入植が始まったのは、その時から八十年以上前のことだった。
 そう、母娘が前世を生きていた頃の話である。
 実は母娘の虎は、前世において姉妹だった。現世の「娘」のほうが前世では「姉」であった。
 一八四〇年代。
 まだタライ(ネパール南部に広がる平野)が辛うじて平和だった時代。
 彼女たちはタライ平原の北西部を縄張りにしていた。
 タルー族は穏やかで、タライがまだ湿原のままであり、そこは動物たちの楽園であった。
 この平原にある「ルンビニ村」に、かのブッダが生誕した当時は、もっと豊かな湿原だったのだろうか。
 タルーの人々と、虎たちは完全に棲み分けており、従って、互いに傷つけ合うことはなかったのである。
 それが、一八四六年のネパール宮廷内虐殺事件(クーデター)によって実権を掌握した、ラナ家が、五四年に、タライの民、タルー族の身分を賤民に位置づける「ムルキー・アイン」(ネパール固有の法典)を施行するや、タライの平穏は一気に脅かされ始めたのである。
 虎の姉妹は、もはや老齢の身となっていた。
 そして、一八五八年、悲劇は起こったのである。
 最初に妹のほうが犠牲となった。
 撃ったのはネパール人であった。六月一日の明け方ことだ。
 姉は、妹の死を知ると、一時、北の山岳地帯に逃げた。しかし、その四日後、姉虎はタライに戻った。なぜ、そんな危険な事に及んだのかは、彼女自身、解らなかった。
 彼女は、妹を狙撃したネパール兵士を探し出し、襲いかかったのである。喉元を一噛みだった。
 追手がすぐに掛かったが、もはや老齢の姉虎はろくに逃げもしなかった。
 そして、「サイの泉」で水を飲んでいるところを射殺されたのである。
 タルー族の長老は、泉の近くに穴を掘らせ、二頭の虎を埋葬して、祈りを捧げた。
 そして、その五十年後、妹虎はタライの北五百キロのアルモラ付近の森で二度目の生を受けたのである。
 どうして歴史は繰り返すのか。
 彼女は現世においても、銃弾を受けることになる。十歳の時だった。狙撃手は再びネパール人だった。
 しかし、今度は死を免れた。免れたが前歯をやられた。それは、虎にとっては、死よりも残酷な結末だった。
 牙が無ければ、まともな狩りはできないのである。
 ただでさえも生息域が激減する中で、狩りができないことは、その生存が危ういということだ。
 まだ幼い子虎を育てるためには、簡単に仕留められる家畜を襲う他、手立ては無かった。
 傷が癒えた母虎は、村に降りて水牛を襲うようになった。
 やがて、子虎が大きくなり、母虎の狩りを手伝うようになった。
 村での狩りは、人間から見つかるという危険が伴う。そして、時には、人を襲わざるを得ない状況に陥るのだった。
 それは、その母娘虎に限ったことではなかった。年を追うごとに、開発が進み、森林が伐採され、虎の生息域が減るに連れ、他の虎たちも村に降りてくる頻度が高まり、家畜のみならず、村人が犠牲になったのである。
 そして悲劇は繰り返され、八年間で四百人以上の犠牲を出すに至ったのである。
 
 それはかすかな音だった。
 人の何倍もの聴覚は、ネコ科特有のもの。
 彼女はパッと目覚め、少し状態を起こし、音の方向を凝視する。しかし、視力は人間ほどではない。ただ、尋常ではない殺気を彼女は感じ取った。
 そこからの動きは速かった。初動で、どれだけ遠くまで逃げられるかが鍵である。
 しかし、すでにスコープはロックされ、あとは引き金を引くだけとなっていた。
 そのハンターは、「真の虎刈りの傭兵」ではなかった。
 人喰い虎に関する間違った知識を持った、ただの地元のハンターだったのだ。
 しかし、紛れにも、放たれた弾はその軌道に乗った。
 背中から入った銃弾は心臓に到達し、貫通したのだった。
 それでも、逃げ切れる自信に満ちたメス虎は、自分がすでに撃たれている自覚もなく走り続ける。
 いや、それは肉体ではなく、魂である。
 魂は、東南東に向きを変え、サーダを飛び越え、走り去った。

 六月五日の朝。
 ペマは、またあの夢で目覚めた。
 起きた瞬間に何故かペマは、これが最後だ、と悟った。
 虎は遂に射殺されたのである。
 ペマは自然に突き動かされるように、立ち上がって、母屋を出た。
 東の稜線が、すでに明るい。
 ペマは牛舎に入っていき、板囲いの中を覗いた。
 ラクパは出産を終えていた。
 何匹かは、近づいてみないと解らない。
 しかし、遠目にも、子猫たちの色は判別できた。
(あっ)
 身震い。
 その瞬間、ペマは願いが通じた、と確信した。
(一、二・・・、二匹)
 この界隈では見かけたことがない茶トラが、確かに二匹、その中に混じっていた。
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