相模にくだりて

沢亘里 魚尾

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「権現」様は、、、

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 鶯の鳴く声がした。
 新しい朝の光が、障子を通して畳に差し込んでいる。
 いつしか、すっかり明けてしまった。
 曙から文机に向かっているが、どうしたものやら、考えが浮かんでこないまま時が過ぎたのである。
 乙侍従おとじじゅうは諦めて立ち上がろうとして、はたと動きを止めた。
 不意に、一つの景色が脳裏に浮かんだからだ。
 それは、千代の寺院(千葉ちよう弓削ゆげ寺)の後方に広がり連なる晴れがましい、足柄の山並みであった。
 あの時も、鶯が鳴いていた。
 大和とは少しの季節の違いはあれ、あずまの国も春であった。
 鞠子まりこ酒匂さかわ)河のほとりにある千代の観音様を詣でようと、女房たちを伴って、出かけた。
 すでに、天平の綺羅びやかさは失われている。
 廃れかけた寺院。
 その背景、遠くまで連連と続く、春の息吹が眩しい、足柄の山並み。
 あの時、自らを寺の成れの果てと重ねたことを乙侍従は思い出していた。
 しかし、千代の寺院は、廃れながらも、威風を確かに残していた。
 そして、その威厳が後背こうはいの山々の雄大さと呼応していた。
 そのように感じていたにも関わらず、自らはありきたりの言葉を発したのだ、と。
「塔のありし頃は、もっとよろしかったろうに」
 それで、女房たちも、同感の意を口々に表した。
 
 千代の寺院(千代廃寺)は、八世紀頃の建立とされた発掘途上の幻の寺院である。
 一説には、相模国が「相武さがむ国」と「師長しなが国」に分かれていた頃、千代の台地に師長国造くにのみやつこ所があったとも云われる。
 すなわち、海老名にあった相模国分寺と国分尼寺とは別に、千代の地にも、国分寺、国分尼寺があったという説がある。
 その国分寺が、この千代の寺院であり、尼寺跡という地名が残るとおり、国分尼寺もあったとされるのだ。
 千代の台地では、その他の遺跡も見つかっており、古代より人の営みがあった。
 台地は東西五から六町(約五五〇メートル)、南北四から五町(約四五〇メートル)あり、その平らかな土地に、東大寺式とも法隆寺式とも云われる巨大な寺院と尼寺があったとされ、それらが如何に巨大であったかが推測される。

 その千代の寺院、境内を歩いている時、鶯が鳴いていたのである。
 それゆえか、と乙侍従は、その事を思い出した訳に考え至った。
 合点がいき、座り直した。
 しかし、早くも別の何かが胸に引っかかり始めていた。
 鶯といえば、あの歌は見事な返しであった、と。
 
 鶯の鳴く音のそらになかりせば
   都の人をいかで見ましや
 (鶯の鳴く音のような美しい声が空に聞こえなかったら、こんな田舎で都の人をどうして見るだろうか)
 【のちに、『走湯権現はしりゆごんげん返歌百首』に、[歌題]初春二「鶯」として選歌】

 その和歌は、伊豆山いずさんは走湯権現の仏僧、阿多美あたみ四郎聖範せいはんが乙侍従への返歌として詠じたものであった。
 
 乙侍従が送った本歌は、

 春くれば谷かくれなる鶯も
   都にでて鳴かむとぞ思ふ
 (春が来るので、谷に隠れている鶯も、都に出てさえずろうと思います)
 【のちに、『走湯奉納百首』に、[歌題]初春二「鶯」として選歌】
 
 ようやく都に戻ることが決まった春だった。
 その喜びを詠んだ。
 対して、聖範は、乙侍従の参詣訪問を素直に喜び、同時に何気なく都を褒め称えた。
 そのすり替えを、見事、と評したのだった。
 思えば、相模国さがみのくににありし頃は、早く都に帰りたいとばかり、日々願ったものである。
 それは、単に都を遠く離れたからということもあるが、理由はそれだけではなかった。
 夫(大江公資きんより)の相模国司さがみのくにのつかさ着任が決まった頃、折悪しく、養父の源頼光よりみつは重い病に臥せっていた。
 かつて四天王に名を連ね、「ライコウ」と称されたほどの武将(後に金時物の歌舞伎の演目にもなる)が、その面影もないほどにやつれていた。
 相模国に下ったならば、親の死に目には会えまい。
「なにゆえに、正妻でないわたくしが」
「そなたでなければ、立ち行かぬ。それに、気ぜわしい都ではない地において、我が子を産んではくれぬか」
 その言葉の裏にある、夫の心は分かっていた。
 定頼さだより殿との仲を終わりにさせようとして。
 それは分かった上でも、乙侍従には嬉しかった。
 子を授かれば、自らの身は安泰となるであろうし、家名も立つ。
 仮に男子を授からなくとも、自分のように、父親の分からないような身の上には成らない。
「文人の子」
 あの当時は、そのことに殊更こだわっていた乙侍従であったが、今となっては、それが間違っていたのではないか、と思うのであった。
「武士の子は、武士の子」
 本当のところは知らされていない乙侍従であったが、実父も武士だったらしい。
 そして、養父は、かの源頼光。
 しかし、だからといって、武士の子が文人に成れぬ訳がない。
 ただ少しの後悔は、武士の妻になる道があったのではないか、であった。
 乙侍従も今年で四十である。
 夫は去り(離縁)、定頼(藤原定頼)との仲もとうに終っていた。
 もはや、すべては過ぎ去ったことである。
 あれ程までに望み暮らした日々が、懐かしくもあった。
 そうした気持の区切りが、ある意味「自伝」とも言うべき、私家集編纂に乙侍従を駆り立てた。
 しかし、どうしても、相模国にて書き溜めた、そして贈答された歌たちの、行き場がない。
「どのように収めたら良いものか」
 数日来考え、今朝に至っている。
「あの頃が懐かしい」
 ふと気がつくと、そう独り言を呟く我が居た。
「そうか、われは、相模にくだりて、相模よりづる、そう、相模」
 後に、小倉百人一首に歌を残す、女流歌人「相模」は、この日から、「相模」をごうした。
 長元ちょうげん三年(一〇三一年)、初春のことであった。

 この二十年後、あの百人一首の名歌が詠まれた。
 恋に明け暮れた我が半生を振り返り、還暦(六十歳)にして、また歌人「相模」として詠じたとは、まさに「相模らしい」と、言えるのではないだろうか。
 
 恨みわびほさぬ袖だにあるものを
   恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
 (叶わぬ恋に相手を幾度も恨み、泣き暮らし、乾く間もない袖が惜しいというのに、その上、恋だけに生き、その恋と共に朽ち果てていくだろう私の名が惜しいことである)
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