蝶と猫

鈴木 了馬

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蝶と猫

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 蝶。
 黄緑色。
 それは、アパートの一階の奥、ちょうどノリ子の部屋の前に、止まって、飛んでいた。
 懐かしい高さ。
 蝶の高さが。
 その想いは、後から振り返って思ったわけでなく、その時はっきりと実感した、肉感的な感覚だった。
 そう直感した瞬間、蝶は、ノリ子に向かって飛んできた。
 通路に上がりかけていたノリ子は、まるで蝶に道を譲るかのように、一歩下がり道路側に立ち、待った。
 気がつけば、蝶の後を、ノリ子の飼い猫「タッチャン」がついてきていた。
 間もなく、ノリ子は、それが「蝶」ではないことに気付いた。
 淡く光る、黄緑色のもの。
 丸く、どちらかというとハート形に近かった。
 直径は五センチほど。
 それは、ノリ子とすれ違う距離まで来て、進路をノリ子寄りに変えたと思うと、彼女の額目掛けて進んできた。
 とっさにノリ子は頭を屈め、目を閉じた。
 それ・・は構わず、ノリ子の額に飛び込んだ。
 猫は立ち止まり、直後に、ノリ子は後方を振り返った。
 それは、消えていた。
 まるで、ノリ子の中に入り込んでしまったかのようだった。
 タッチャンが、奇妙な声で、三回鳴いた。

 ノリ子が、そのアパートに住むようになってから、およそ七年が過ぎた。
 つまり、夫が失踪してから、それくらい経ったということであった。
 夫、タツオは北関東のある街で、印刷業を営んでいた。
 出版不況が続き、それでも何とか食いつないで来たが、失踪する三年前に知り合った男とやったご当地アイドル事業で、多額の借金を背負う事になった。
 いや、つまりはその男に騙されたのだ。男は姿をくらまし、タツオとノリ子は離散。
 夫も行方知れずとなった。
 ブティックホテルのナイトテーブルに、書き置きと、現金三百万をのこして。
 後から分かったことだが、件の男が失踪した直後に、役所に離婚届が提出されており、タツオとノリ子は、戸籍上は赤の他人となっていた。
 その時から十五年以上前、タツオの提案で、もしもの時のために、離婚届は出せるように用意しておこう、ということで出すだけになっていた離婚届を、タツオが勝手に提出したのだった。
 どんな苦労も共に背負ってきた。
 子供は授からなかったが、幸せな暮らしであった。
 これからも死ぬまで、添い遂げようという覚悟にちがいはなかったノリ子だったが、夫の気持ちは痛いほどに分かった。
 捜索願を出されるのは、タツオの本望ではないことは分かりきっていたので、考えた末に結局出さなかった。
 ノリ子はしばらく、ホテルを転々としながら暮らし、気がつけば東京都内にたどり着いていた。
 考えた末に、篠田アヤ子にメールを送って、連絡を取った。
 しばらくやり取りはしていなかったが、ノリ子が信頼できる唯一の人であった。
 アヤ子は、ノリ子の短大のOGで、華道部の先輩であった。
 ある作品発表会をきっかけにして仲良くなり、ノリ子が短大卒業後も親しい交際が続いたのだった。
 ノリ子がすべての事情を話すと、動じる様子もなく、自分のアパートが一部屋空いたところだから、そこに住みな、と肩を撫でてくれた。
 アヤ子は二十年ほど前に、夫を肝硬変で亡くし、息子夫婦と二世帯住宅に暮らしている。
 その豪邸の前庭にその二階建てのアパートがある。
 さらにアヤ子は、家業の鳶職の事務職をノリ子に与えた。
 外で働くのはあまり良くない、という判断だ。
 アヤ子も、家計の足しにとパートをいくつも掛け持ちしている。
 都内の豪邸暮らしは案外楽ではないのだ。
 アルバイトを雇うのは勿体ないから片手間に自分でやってきた事務職を、ノリ子が格安で引き受けてくれることは、アヤ子にとってもメリットが大きいのだ。
 ノリ子は、ただただアヤ子の厚意と、度量に感謝するのみである。
 もう一つ、ノリ子がアヤ子の近くに住むことになった結果、彼女が密かに期待を寄せることがあった。
 その場所は、かつて大学生時代、タツオが住んでいた場所に近かった。
 その時代に知り合ったタツオとノリ子は、その界隈で良く会っていたものである。
 縁が味方をしてくれれば、再会の可能性もゼロでは無いだろう、と。
 しかし、何事もなく時は過ぎ、ノリ子は五十三歳になった。
 タツオも無事に生きていれば、五十九歳である。

 最近、一つ気になることがあった。
 それは、飼い猫、三毛の「タッチャン」のことであった。
 飼い始めた頃は、部屋から一歩も出ない、怖がりの、甘えん坊だったのが、最近は、日中、家に居ることがなくなった。
 ノリ子としても、自由に歩き回ってくれた方が良いので、アヤ子に許しを得て、猫用の出入り口を設置し、さらに他所様の迷惑にならないように、去勢手術も行った。
 しかし、こうも長時間出歩かれると、流石に気になるのだった。
 そんなノリ子を見て、アヤ子は、さすがに呆れて、笑いながら言う。
「まったく、幸せな悩みだよ、あんたは。息子の心配するみたいに」
 そう笑っても、アヤ子は安心していた。
 居なくなった夫のことが忘れられず、浮かない顔ばっかりしていたノリ子が、自分らしい生活を取り戻したと思えるからである。

「おい、そこは俺の場所だ」
 少し油断した、とタツオはハッとして、ベンチを立ち、その場を立ち去る。
 良い場所には、必ず「先人」が居るのだ。
 用心して、時には「挨拶代わりの品」を差し出す必要もあるのだ。
 そういう縄張りの世界が、浮浪者にはある。
 乞食は三日やったら止められない、とは、良く言ったものである。
 タツオも、路上の人になって、もう七年。
 速いものであった。
 近頃は、昔を振り返ることも、ほとんどなくなった。
 ある意味、「無」の境地。
 瞬間、その瞬間を生き抜く。
 何かの想念に取り憑かれているようでは、その世界では生きていけないのだ。
 生きるために、無私で用心する。
 しかし、それが、さっきの失敗で、タツオは一気に昔に引き戻された。
 そもそも、踏み入れるべき場所ではないところに、来てしまったのだった。
 ここは、何十年ぶりに来た場所だが、知り尽くしていた。
 焼きが回ったのかもしれない、と、ふと後悔した。
 しかし、どうだろう。
 季節が良かったせいもあったか。
 とどまり始めると、住みよい場所であった。
 それに、もはや、自分を知る者など、ここには居ないだろうし、例え、居たとしても自分に気付くはずがないのであった。
 第一、そういう昔のことに囚われている事自体が、振り切れていない証拠であった。
 何、大したこと無いさ。
 タツオは高をくくった。
 
「な、なんだ、やめろ」
 タツオは毒づいた。
 季節が過ぎ、夏になった。
 物凄い台風が過ぎ去って、二日経った。
 下腹が痛かった。
 少しぐらいなら、何でも無いが、それが少しどころではなかった。
 寝ていれば治るだろう。
 いや、他に選択肢など無い。そうするしか無いのだ。そうして、この七年間生きてきたのだ。
 しかし、今回は二日経っても痛みが引かないどころが、増していくようだった。
「やめろってんだ」
 タツオの顔を舐めているのは、猫である。
 タツオは、薄目を開けた。
「なんだ、おめえか。今日は分けてやれる食い物なんかねえぞ」
「にゃあ」
「なんだ、おまえ、まさか、俺のこと心配でもしてんのか。そんな浮かない顔して」
「にゃむにゃむにゃむ」
「おいおい、化け猫でもあるまいに、なんだ、人間様みたいな鳴き方して、はっは、なんて言った」
 それがいけなかった。
 笑った拍子に、変な力が入った。
「うおぉ、ああ」
 下腹部に激痛が走った。
 急激に、意識が遠退いた。

「いつもお世話になっております。鳶篠田でございますが、奥様いらっしゃいますでしょうか。はい、すみません」
 アキタ建材の女主人兼、会計がすぐに代わった。
「いつも、お世話様です。奥様、先日は美味しいスイカを頂きまして、ありがとうございました。私も分けて頂いて、食べましたが、違いますね、本場のスイカは。ほんとに美味しくいただきました」
 その時、玄関先で、猫が鳴く声がした。
 声は、タッチャンに違いないが、鳴き方がいつもと違った。
「奥様、今日電話しましたのは、細かいことでほんとに申し訳ございませんが、先月のお支払いのことで、七日の砕石の分なのですがね、こちらの帳簿に無いものだったので」
 聞けば、それは、一回で足りずに、現場から直接追加で取りに行った分、だと言う。
「さようでしたか、いや、すみません、こちらの連絡不足で、余計なことを申しました。今後とも、よろしくお願いいたします。ごめんください」
 タッチャンはまだ鳴いている。
 ノリ子は、ペンを置き、玄関に立っていった。
「どうしたの、タッチャン。中に入ってくればいいのに」
 ドアを開けると、ドアの前で、タッチャンが鳴いている。
「にゃむにゃむにゃむ」
「やあだ、タッチャン。喋ってるみたいじゃない。なんて言っているの。あはは」
 そう問いかけると、もちろん、それには答えずに、タッチャンは道路の方に歩いて行って、一旦止まり、ノリ子を振り返る。
 これは、誰の目にも、俺に付いてきてくれ、ということだ。
 ノリ子は、一旦部屋に戻り、鍵を掛けて、タッチャンについて行くことにした。
 何のことだろう、と半信半疑だったノリ子だが、三分歩き、五分経っていくうちに、どういう訳か、あの人、そうタツオの顔が突如脳裏に浮かんだ。いや、それだけではなく、同時に、明滅する様に、あの薄黄緑色のハートのイメージがチラつく。
(まさか・・・)
(いや、そんなことは無い)
(だって、タッチャンは、あの人にあったこと無いし)
(いや、でも、自分だって、それを期待して、ここに暮らし始めたじゃないか)
(いやいや、そんな事無いって)
 一人、そうやって自問自答しているうちに、ノリ子は、なんだか泣けてきた。
(ああ、そう言えば、あの夕暮れ、何日前だったかしら)
(あの、黄緑色の蝶を見かけたの)
(二日前、三日前・・・)
(嫌だよ、あんた)
(せっかくの再会なのに)
(やっと会えるのに、死ん・・・)
(嫌だよ、嫌だよ、生きてておくれよ)
 妄想、嫌な予感が止まらない。
 ノリ子は、遂に、座り込んで泣き始めた。
「にゃむにゃむにゃむ」
「ああああああ」
 タツオとの思い出が、脳裏に走馬灯のように映し出される。
(初めてのデートは、下高井戸シネマだったね。あの映画館、まだあるのよ)
(『少年機関車に乗る』だったかしら)
(映画の後、市場で買い物をして、あんたが料理を作ってくれたね)
(古びたアパートだったけど、美味しかったし、楽しかった)
(あんたは夢ばっかりで、でも、話が上手で。ほんと、その話を聞いていると、いつまでも飽きなかった)
(旅行も、内外、いろんなところに行ったね)
(喧嘩はほとんどしなかったでしょ)
(でも、こんなことになるくらいなら、いっぱい喧嘩して、ちゃんと噛んで含んで教えてやればよかった・・・)
「あああああ」
「にゃむにゃむにゃむ」
 次の瞬間、ノリ子の頭から、あの薄黄緑色の蝶が舞い上がった。     
 ノリ子は、その蝶に気づいて見上げた。それは、少しの間、止まって飛んでいたが、間も無く動き出し、ゆっくりと進んで飛び、公園の茂みの中にすーっと入っていった。
「おい、うるせえぞ。なに、こんなところで泣いてやがる、おい、三毛、おめえか、変なやつ連れてきやがってよ。また、腹が痛くなるじゃねえか」
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