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 時が過ぎ、天和二年(一六八二年)、井原西鶴が「好色一代男」を発刊した年、中島屋の一階の奥座敷に、瑞江ときちの姿があった。
 きちは数えで十五になった。
 修行三年目だ。
 九月の節句を過ぎて、瑞恵は藍の地に籬と菊の模様の小袖を着て、琴を奏でていた。
 きちの小袖姿もだいぶ板についてきた。
 彼女の方は、先輩芸妓のお下がりの紅色の鹿の子絞りの小袖だった。
 中島屋には、その時二人の住込みが居た。
 一人は、きちの姉さんにあたり、高台寺門前の花街に通っている滝で、もう一人がきちだった。
 きちは、毎朝早くから、滝の着付けなどの支度の世話をした。もちろん、台所でも女将を手伝う。
 それらがひと段落する四つぐらいから毎日の稽古が始まった。
 実践的な芸事の稽古が始まって約一年が経っていた。
「いちと、にと、さんと」
 琴の前奏が入って、きちが唄いだした。

 月夜の
 からすはほれてなく

 それは、客の要求を想定した、即興で唄う練習であった。
 瑞恵が用意しておいた和歌や俳句などを紙に書いて渡し、すぐに三味線や琴に合わせて、きちが踊ったり、唄ったりした。
 琴の間奏の後に、きちが続けた。

 我もからすか
 そなたにほれてなく

「はい、よろしい」
 きちは、正座をした姿を崩さずに、瑞恵の言葉を待っている。
「きちも、そろそろお座敷にあがれますやろ」
 内心まだまだ不安の多いきちであったが、待ちに待った師匠の言葉に胸は躍った。
「おおきに、おかあさん」「あんじょうきばります」
 女将は厳しい調子で続けた。
「最初に言うた通り、うちは一見さん相手でおへんえ」「そやからこそ、お客さまに粗相があってはならしまへん」「分かったはりますな」
「はい、おかあさん」
「最初は、滝についてお座敷に上がらせるつもりどすが、そない思い通りにいくとは限りまへん」「いずれにしても、これからも毎日が修行」「そのことを肝に銘じて、おきばりやす」
「はい、おかあさん、おおきに」
「今日は、これから常照寺さんに参拝に行きますえ」
 その昔、女将の瑞恵が島原で芸妓をしていたということを、ある時、きちは滝に聞いた。
 それがいつのころからか、置屋の女将に落ち着き、何人もの芸妓を世に送り出してきた。
 指導力では定評のある瑞江だった。
 一方、中島屋の主人は滅多に顔を見せない人で、きちもこの一年、一度すれ違った程度だった。
 見た目は商家の主という風情で、温厚そうに見えたが、さまざまな噂があり、一筋縄ではいかない人物であるのだろう、ときちは想像していた。
 しかし、実際のところは分からなかった。
 聞いたところで、滝も知らなかったし、瑞江も一切話さなかったろうが。
 きちには、これまで大きな幸運が二つあった。
 その一つ目は、十吉郎に買われたということだった。
 それ以外の人買いも入田河岸にも小沢村にも何人も現れていただろうし、人買いによっては悲惨な末路しかなかったはずだった。
「きちは運がええ」
 滝は、きちが中島屋に来たばかりの頃、何度かそのようなことを言った。
 そういう滝は、転落寸前に瑞江に拾われたのだった。
 もう一つの幸運は、とりもなおさず中島屋、瑞江との縁である。
 きちは次第に、心底から瑞江を母と慕うようになっていった。
 無論、瑞江がもっと若かったころは、相当のやり手だったということを、きちも先輩たちに聞かされることがあった。
 鞍替と言って、よその抱え主から引き抜きがあった場合の提示額の高さで、物議を醸したことも何度かあったという。
 瑞江にしてみれば、懇切丁寧な教育は先行投資に他ならない。
 よそに出しても恥ずかしくない教育をしているのだから高くて当然だった。
 だから悪意のある噂には動じることなく聞き流してきた。
 それで、やってこれたのだから、瑞江もその世界では一目置かれる存在だったということだろう。
 きちにしてみても、噂や昔話には興味がなかった。
 今目の前にある瑞江がたった一人の師匠であるし、京における母である。
 それが彼女にとっての真実であり、それにしがみついているわけでもなく、自然にそう思えるのだった。
 常照寺までは、およそ一時の時間を要した。
 久方ぶりの遠出に、きちの心は弾んでいた。
 紅葉にはまだ早かったが、野山の匂いは秋の香だった。
 参道を通り、朱色の山門をくぐると、もみじの緑が鮮やかだった。
「ここは桜の名所。この次は春に来はったらよろしい」
 きちは、ふと故郷の山桜を思い出した。
「この寺は、吉野太夫はんがようけ通らはった寺やし」
「ほんでここに」「おかあさん、おおきに」
 道すがら瑞江は、この参詣はこれから独り立ちするきちの祈願のためだと言った。
 口には出さなかったが、美貌と教養を兼ね備えた、吉野太夫のような存在に少しでも近付けるように、という瑞恵の願いに違いなかった。
 きちが喜びを噛みしめながら、境内の野趣をあれこれと愛でていると、瑞江は不意に声を正して話し始めた。
「誇りが大切なんどす」
 それは、瑞恵の口癖だった。
 意地と勇気だけは幼いころから自信があるきちであった。
 しかし、それだけでは、心や体が弱くなったときには頼りなくなるだろう。
 そんな時に、自分を支えてくれるのは、芸であり、厳しい修行に耐えてきたという誇りだと、瑞恵はきちに教えてくれた。
「これからもずっと、あんたはうちの子や」「忘れなはんな」
 そういう瑞恵に、きちは故郷の母の面影を重ねた。
 同時に、なんとなく瑞恵が年老いて見えた。そして、故郷の母も同じだろうと、思った。
 きちは瑞恵に微笑みかけて言った。
「うちのほうこそ、おかあさん、これからも、よろしゅう頼んます」
「きちは、笑顔がよろし」「こっちが元気づけられるときがある」
 それから、境内の茶店で半時ほどくつろいだ後、二人は常照寺を後にした。
 夕焼けが洛中を温かく照らしていた。
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