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一
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二つ目のビー玉は黄色いマーブルだ。
青の次は黄。
その河原には何回か来ているけど、ビー玉を見つけたのは初めてだ。
浅瀬の川底を覗き込むアオイの小さな顔が水面に写った。
その、暑くてもさらっとしている顔には、水面に反射した光が揺らめいている。
気配を感じたので、アオイは顔を上げた。
「あ」
男の子が一人、河原に歩いてきた。
アオイと同じくらいの歳か。
男の子の方もアオイに気づいたらしく、トボトボと近づいてくる。
「なんだそれ」
アオイは手に持ったビー玉を掲げて見せた。
「なーんだ」
アオイは、それが何ていうものなのか分からない。
前に一度だけ、パパが何とかと言っていたような気がするけど。
「これ、なに」
「ぼくが捨てたやつだ」
そういうことを知りたかったわけではないけれど、アオイはあえなく質問を取り下げた。
やっぱりパパに聞こう、と思い直したのだ。
「昨日、無かったもの」
「もっとあるはずだよ」
男の子はそう言い捨てると、もと来た道を戻って行った。
おやつの時間かな、とアオイは思った。
人が捨てた物なら、とアオイはビー玉を川底に戻した。
「このボールきれい」
元の場所にある方がずっときれいだと、アオイは思った。
「だれかがすてたものは、ひろっちゃダメなんだあ、ママにおこられるよ」
もう帰った男の子に話しかけるようにアオイは言った。
アオイは、川底のビー玉を触りながら、それはすごく喜んでいると思った。
「ボールさん、なんて言ってる」
誰も答えない。
「こんどパパに聞いてみるね」
アオイはにっこりとして、岸に上がった。
そして、辺りを見渡し、首を傾げた。
「あれ、どっち」
アオイは、河原を少し上流側のほうまで歩いてみた。
誰かが置き去りにしたようなバーベキュー用のコンロがあった。
「あ、バーベキューでしょ、これ」
いつかどこかでアオイの父親が言った。
「もう少し、大きくなったらバーベキューしようか、アオイ」
「あおい、おねえちゃんになったら、バーベキュー、できる」
「できるよ」
「わあい、たのしみい」
アオイは、再び歩き出して土手を上がり、舗装された道に出た。
「にんじんでしょ、あと、おにく」
アオイは、道を橋の袂まで歩いて行った。道は大きな道路に突き当たった。
「こっちかな」
アオイは、右に折れ、橋を渡って歩いて行く。
来る時に、確かにこの道を来たことを思いだした。
アオイは橋を渡りながら、バーベキューで焼くものを考え続けた。
「あと、とうもろこしでしょ、ぴーまんでしょ」
時折、車が上り下り、数台通ったが、誰もアオイには気づかなかった。
アオイもアオイで、手を振ったりなどしない。
どうせ停まってくれない、と分かっているから。
「あおい、にんじん好きなんだあ」「ぴーまんも好き」
橋は終わって、道は下り坂になった。
今度は、好きな食べ物の話。
「あとね、トマトも」
アオイは、脇目もふらず歩いて行く。
「パパもトマト好き、ママはたべないけどね」
やがて国道はゆるやかに左にカーブする。
そこで国道は、二股になった。
左がバイパスで、右が旧道だ。
アオイは、旧道の方を歩いて行った。
「おばあちゃんの、やさいスープ好きなんだあ」「あと、にくダンゴ」
しばらく歩き、アオイはその道が農道と交差する小さな十字路まで来た。
そこで立ち止まる。
来た時は、ここで車を降りた。
アオイが待っている車は、右の方向から農道を進んできて、右折し、旧国道の坂を上がっていくはず。
その坂の上に、アオイの祖父母の家がある。
夕方に近づくにつれて、車は多くなった。
アオイが待っているのは、祖母が運転する白い軽ワゴン。
祖母、吉江は自分の生家に行っている。
吉江の兄が寝たきりだった。
一年ほど前に脳溢血で倒れ、半身がきかないのだった。
そんな兄を吉江は二日と置かず見舞っていた。
その車に便乗して、アオイはそこまで来たのだ。
祖母の運転する軽ワゴンは、なかなか来ない。
「おばあちゃん、話が止まらなくなっちゃったのかな」
もう少しで陽が沈む頃、見覚えのある軽ワゴンが農道を進んで来て、十字路で一時停止した。
アオイは、ひょいと、後部座席に乗り込んだ。
祖母は気づかない。
バックミラーに映る祖母の顔をアオイは覗きこんだ。
「なんか、こわい顔」
アオイは、笑っている吉江のほうが好きだ。
だから、そういう顔には違和感がある。
アオイは窓の外を見た。
白いガードレールからはみ出して、雑草が道路の方に伸びていて、それが時々車にかすって音を立てるのが面白い。
白い軽ワゴンは、重そうに坂を上がっていった。
坂を上がり切ると一時停止して、右折した。
そこから百メートルもしないで、車は左折し家の駐車場に入った。
祖母はエンジンを切ると、駐車場のシャッターを下ろして、玄関の引き戸をガラガラと開けて入っていった。
居間から漏れるテレビの青い光が、暗い廊下を染めている。
「よしえ、が」
「ただいま」
吉江は、居間の障子を開け、中を覗いた。
わずかに微笑みを浮かべて、吉江は俊夫に話しかけた。
「遅くなったなわ」
俊夫はテレビから目を離さなかった。
「すんがい、ままずまいすっから(すぐご飯作るから)」
吉江は障子を閉めて、台所に入っていった。
アオイは、吉江の腕の下をすり抜けて居間に入ると、仏壇の前の座布団に座った。
祖父は、難しそうな顔をして囲碁番組を観ていた。
「おじいちゃん」
アオイはそう言うと、ニコッと笑った。
「兄貴は、どうだった」
俊夫が、台所の吉江に大きな声で聞いた。
「変わらねえ」
吉江は、そう答えると台所側のガラス戸を開けた。
「あねちゃん(義姉さん)、だいぶボケが進んできたみたいだよ」「百合子さん、大変だよ、あれでは」
百合子というのは、吉江の生家の長男の嫁だ。
「省吾はいねすな(居ないしね)」
そう言うと、俊夫は、ビデオを止めて、夕方のニュース番組に切り替えた。
省吾とは、吉江の生家の長男だ。
転勤で神奈川にいるが、もうすぐ定年を前に早期退職する予定だった。
百合子は、先行して、省吾の実家に暮らすようになったが、いきなり寝たきりの義父と、軽い痴呆の義母の面倒をみることになったのだ。
「おじいちゃん、暗いから電気つけたほうがいいよ」
アオイの声が聞こえたわけではないだろうが、俊夫は立って、蛍光灯の紐を引っ張った。
人工的な蛍光灯の灯りが、嘘みたいに部屋を明るくした。
「明るいね、おじいちゃんの顔がよく見える」
アオイは、震災の前の年に、一家で帰省した時のことを想い出した。
アオイは三歳になったばかり。
「貝殻を洗って遊んだんだよね」
裏の軒下に干していたホタテの貝殻をアオイが見つけて、菜園の洗い場で洗ったのだ。
俊夫がそれを手伝った。
ホタテは、何年か前に、俊夫の一人娘、ミカの婚家から贈られたものだった。
「おじいちゃん、洗い終わったやつはこっちに干すのよ」
「そうかそうか」
アオイに言いつけられて、嬉しそうに右往左往する俊夫の横顔をアオイは覚えていた。
「つまらない、あおい」「夜になっちゃったし」
俊夫はテレビ画面を見つめている。
すると、アオイの頭を誰かが撫でた。
アオイが振り返ると、老婆が一人腰を曲げて立っていた。
初めて見る人だった。
老婆は、目を細めてにっこりとアオイの顔を覗き込んでいる。
「だあれ」
アオイはおっかなびっくり聞いてみた。
「ひいばあちゃんだ」
「ひい、ばあちゃん」
「んだんだ」
アオイが繰り返すと、老婆は頷いて、またアオイの頭を撫でる。
「めんごだな」
とても優しい顔だと、アオイは思って、にっこり微笑んだ。
「まだ、ごはんでぎねがらよ、こっちゃ来い」
アオイの曾祖母は手招きしながら、祖父母の寝室のほうに入っていった。
アオイは導かれるままに曾祖母の後に付いて行く。
進んで行ったのは薄暗い祖父母の寝室のはずだったが、たどり着くと、古い畳敷きの部屋だった。
部屋の奥からは、夕暮れの光が差し込んでいて、畳をオレンジに染めていた。
曾祖母は、座布団を出してきて、畳の上に並べた。
「はい、座って」
アオイは、言われたとおり、座布団に座った
「なまえは」
曾祖母は、曲がった腰をさらに屈めて聞いた。
「あおいだよ」
「アオイちゃんが、めんごだな」
曾祖母は、またそう言いながら、アオイの左頬を撫でた。
アオイはくすぐったがり、きゃきゃと笑い声をあげた。
「めんご、てなんだよお」
「かわいい、てごど」
曾祖母は、押し入れの襖を開けて紙風船を取り出し、アオイに渡した。
「あ、これ、おうちにあったよ」
「紙風船な」
「ひい、ばあちゃん、膨らまして」
曾祖母は、座って、紙風船に息を吹き込んだ。
五六回吹き込むと、紙風船はまんまるになった。
「あ、アオイがやる、かして」
アオイは紙風船を受け取ると、手で打ち、曾祖母の方へまっすぐに飛ばした。
勢い良く飛んだ紙風船は、曾祖母に当たった。
「お、上手だな」
「はい、アオイの勝ち」「今度は、ひい、ばあちゃん、うって」
「はい、ほれ」
今度は、弧を描いてアオイの方に紙風船が飛んできて、アオイは返した。
不思議なほど、二人の息が合い、何度もラリーが続いた。
「ミカど、そっくりだなあ」
「ミカはママ」「なにいってるう、ひい、ばあちゃん」
「おかさんさ、会いだいべ」
「うん」
「おとさんさも、会いだいべ」
「うん」
アオイは急に泣きそうな顔になった。
でも泣かずに堪えながら答えた。
「どこにいるか、わからないの」
「大丈夫だ、ひいばあちゃん、探してけっからな、待ってろ、じぇったい探してきてけっさげ」
アオイは微笑みを浮かべて頷いた。
「めんごだな」
曾祖母は、アオイの頭から頬を撫でながら言った。
「ほれ、御飯でぎだみだいだよ」
そう言うと曾祖母は居間の方へ、アオイを促した。
そして曾祖母は消えた。
吉江が仏壇の灯りを点けた。
肉団子を二個、レタス、トマト、そして少しのご飯が小皿に載っていた。
吉江はその小皿を仏壇の下の段、写真立の前に置いた。
写真立には、アオイの父ユウイチに抱かれたアオイ、横にミカが並んで写った写真が入っていた。
その日は、七月十一日。
三人の月命日だった。
「月命日」と言うと、俊夫が怒るので、吉江は毎日、三人の好物を仏壇に供えるようになった。
だから、今日も何も言わずにアオイの好物を備えてから、座卓に座った。
俊夫は既に、ほうれん草の御浸しを食べ始めていた。
会話はない。
「いただきまあす」
アオイは、大好物のトマトから口に頬張った。
「トマトちゃん」
半分にカットされたプチトマトは、アオイの口のサイズにぴったりだ。
一気に、トマトをたいらげると、アオイは肉団子にフォークを刺そうとした。
こちらは吉江はあえてカットしなかった。
丸いほうが肉団子らしいと思ったからだった。
アオイのフォークが滑った。
カタン。
フォークが落ちた。
俊夫は箸を止めて、仏壇に目をやった。
続いて、吉江も。
柄にクマが描かれたフォークは、経机の上まで転げ落ちていた。
俊夫と吉江は目を合わせた。
仏頂面だった俊夫が、先に微笑んだ。
青の次は黄。
その河原には何回か来ているけど、ビー玉を見つけたのは初めてだ。
浅瀬の川底を覗き込むアオイの小さな顔が水面に写った。
その、暑くてもさらっとしている顔には、水面に反射した光が揺らめいている。
気配を感じたので、アオイは顔を上げた。
「あ」
男の子が一人、河原に歩いてきた。
アオイと同じくらいの歳か。
男の子の方もアオイに気づいたらしく、トボトボと近づいてくる。
「なんだそれ」
アオイは手に持ったビー玉を掲げて見せた。
「なーんだ」
アオイは、それが何ていうものなのか分からない。
前に一度だけ、パパが何とかと言っていたような気がするけど。
「これ、なに」
「ぼくが捨てたやつだ」
そういうことを知りたかったわけではないけれど、アオイはあえなく質問を取り下げた。
やっぱりパパに聞こう、と思い直したのだ。
「昨日、無かったもの」
「もっとあるはずだよ」
男の子はそう言い捨てると、もと来た道を戻って行った。
おやつの時間かな、とアオイは思った。
人が捨てた物なら、とアオイはビー玉を川底に戻した。
「このボールきれい」
元の場所にある方がずっときれいだと、アオイは思った。
「だれかがすてたものは、ひろっちゃダメなんだあ、ママにおこられるよ」
もう帰った男の子に話しかけるようにアオイは言った。
アオイは、川底のビー玉を触りながら、それはすごく喜んでいると思った。
「ボールさん、なんて言ってる」
誰も答えない。
「こんどパパに聞いてみるね」
アオイはにっこりとして、岸に上がった。
そして、辺りを見渡し、首を傾げた。
「あれ、どっち」
アオイは、河原を少し上流側のほうまで歩いてみた。
誰かが置き去りにしたようなバーベキュー用のコンロがあった。
「あ、バーベキューでしょ、これ」
いつかどこかでアオイの父親が言った。
「もう少し、大きくなったらバーベキューしようか、アオイ」
「あおい、おねえちゃんになったら、バーベキュー、できる」
「できるよ」
「わあい、たのしみい」
アオイは、再び歩き出して土手を上がり、舗装された道に出た。
「にんじんでしょ、あと、おにく」
アオイは、道を橋の袂まで歩いて行った。道は大きな道路に突き当たった。
「こっちかな」
アオイは、右に折れ、橋を渡って歩いて行く。
来る時に、確かにこの道を来たことを思いだした。
アオイは橋を渡りながら、バーベキューで焼くものを考え続けた。
「あと、とうもろこしでしょ、ぴーまんでしょ」
時折、車が上り下り、数台通ったが、誰もアオイには気づかなかった。
アオイもアオイで、手を振ったりなどしない。
どうせ停まってくれない、と分かっているから。
「あおい、にんじん好きなんだあ」「ぴーまんも好き」
橋は終わって、道は下り坂になった。
今度は、好きな食べ物の話。
「あとね、トマトも」
アオイは、脇目もふらず歩いて行く。
「パパもトマト好き、ママはたべないけどね」
やがて国道はゆるやかに左にカーブする。
そこで国道は、二股になった。
左がバイパスで、右が旧道だ。
アオイは、旧道の方を歩いて行った。
「おばあちゃんの、やさいスープ好きなんだあ」「あと、にくダンゴ」
しばらく歩き、アオイはその道が農道と交差する小さな十字路まで来た。
そこで立ち止まる。
来た時は、ここで車を降りた。
アオイが待っている車は、右の方向から農道を進んできて、右折し、旧国道の坂を上がっていくはず。
その坂の上に、アオイの祖父母の家がある。
夕方に近づくにつれて、車は多くなった。
アオイが待っているのは、祖母が運転する白い軽ワゴン。
祖母、吉江は自分の生家に行っている。
吉江の兄が寝たきりだった。
一年ほど前に脳溢血で倒れ、半身がきかないのだった。
そんな兄を吉江は二日と置かず見舞っていた。
その車に便乗して、アオイはそこまで来たのだ。
祖母の運転する軽ワゴンは、なかなか来ない。
「おばあちゃん、話が止まらなくなっちゃったのかな」
もう少しで陽が沈む頃、見覚えのある軽ワゴンが農道を進んで来て、十字路で一時停止した。
アオイは、ひょいと、後部座席に乗り込んだ。
祖母は気づかない。
バックミラーに映る祖母の顔をアオイは覗きこんだ。
「なんか、こわい顔」
アオイは、笑っている吉江のほうが好きだ。
だから、そういう顔には違和感がある。
アオイは窓の外を見た。
白いガードレールからはみ出して、雑草が道路の方に伸びていて、それが時々車にかすって音を立てるのが面白い。
白い軽ワゴンは、重そうに坂を上がっていった。
坂を上がり切ると一時停止して、右折した。
そこから百メートルもしないで、車は左折し家の駐車場に入った。
祖母はエンジンを切ると、駐車場のシャッターを下ろして、玄関の引き戸をガラガラと開けて入っていった。
居間から漏れるテレビの青い光が、暗い廊下を染めている。
「よしえ、が」
「ただいま」
吉江は、居間の障子を開け、中を覗いた。
わずかに微笑みを浮かべて、吉江は俊夫に話しかけた。
「遅くなったなわ」
俊夫はテレビから目を離さなかった。
「すんがい、ままずまいすっから(すぐご飯作るから)」
吉江は障子を閉めて、台所に入っていった。
アオイは、吉江の腕の下をすり抜けて居間に入ると、仏壇の前の座布団に座った。
祖父は、難しそうな顔をして囲碁番組を観ていた。
「おじいちゃん」
アオイはそう言うと、ニコッと笑った。
「兄貴は、どうだった」
俊夫が、台所の吉江に大きな声で聞いた。
「変わらねえ」
吉江は、そう答えると台所側のガラス戸を開けた。
「あねちゃん(義姉さん)、だいぶボケが進んできたみたいだよ」「百合子さん、大変だよ、あれでは」
百合子というのは、吉江の生家の長男の嫁だ。
「省吾はいねすな(居ないしね)」
そう言うと、俊夫は、ビデオを止めて、夕方のニュース番組に切り替えた。
省吾とは、吉江の生家の長男だ。
転勤で神奈川にいるが、もうすぐ定年を前に早期退職する予定だった。
百合子は、先行して、省吾の実家に暮らすようになったが、いきなり寝たきりの義父と、軽い痴呆の義母の面倒をみることになったのだ。
「おじいちゃん、暗いから電気つけたほうがいいよ」
アオイの声が聞こえたわけではないだろうが、俊夫は立って、蛍光灯の紐を引っ張った。
人工的な蛍光灯の灯りが、嘘みたいに部屋を明るくした。
「明るいね、おじいちゃんの顔がよく見える」
アオイは、震災の前の年に、一家で帰省した時のことを想い出した。
アオイは三歳になったばかり。
「貝殻を洗って遊んだんだよね」
裏の軒下に干していたホタテの貝殻をアオイが見つけて、菜園の洗い場で洗ったのだ。
俊夫がそれを手伝った。
ホタテは、何年か前に、俊夫の一人娘、ミカの婚家から贈られたものだった。
「おじいちゃん、洗い終わったやつはこっちに干すのよ」
「そうかそうか」
アオイに言いつけられて、嬉しそうに右往左往する俊夫の横顔をアオイは覚えていた。
「つまらない、あおい」「夜になっちゃったし」
俊夫はテレビ画面を見つめている。
すると、アオイの頭を誰かが撫でた。
アオイが振り返ると、老婆が一人腰を曲げて立っていた。
初めて見る人だった。
老婆は、目を細めてにっこりとアオイの顔を覗き込んでいる。
「だあれ」
アオイはおっかなびっくり聞いてみた。
「ひいばあちゃんだ」
「ひい、ばあちゃん」
「んだんだ」
アオイが繰り返すと、老婆は頷いて、またアオイの頭を撫でる。
「めんごだな」
とても優しい顔だと、アオイは思って、にっこり微笑んだ。
「まだ、ごはんでぎねがらよ、こっちゃ来い」
アオイの曾祖母は手招きしながら、祖父母の寝室のほうに入っていった。
アオイは導かれるままに曾祖母の後に付いて行く。
進んで行ったのは薄暗い祖父母の寝室のはずだったが、たどり着くと、古い畳敷きの部屋だった。
部屋の奥からは、夕暮れの光が差し込んでいて、畳をオレンジに染めていた。
曾祖母は、座布団を出してきて、畳の上に並べた。
「はい、座って」
アオイは、言われたとおり、座布団に座った
「なまえは」
曾祖母は、曲がった腰をさらに屈めて聞いた。
「あおいだよ」
「アオイちゃんが、めんごだな」
曾祖母は、またそう言いながら、アオイの左頬を撫でた。
アオイはくすぐったがり、きゃきゃと笑い声をあげた。
「めんご、てなんだよお」
「かわいい、てごど」
曾祖母は、押し入れの襖を開けて紙風船を取り出し、アオイに渡した。
「あ、これ、おうちにあったよ」
「紙風船な」
「ひい、ばあちゃん、膨らまして」
曾祖母は、座って、紙風船に息を吹き込んだ。
五六回吹き込むと、紙風船はまんまるになった。
「あ、アオイがやる、かして」
アオイは紙風船を受け取ると、手で打ち、曾祖母の方へまっすぐに飛ばした。
勢い良く飛んだ紙風船は、曾祖母に当たった。
「お、上手だな」
「はい、アオイの勝ち」「今度は、ひい、ばあちゃん、うって」
「はい、ほれ」
今度は、弧を描いてアオイの方に紙風船が飛んできて、アオイは返した。
不思議なほど、二人の息が合い、何度もラリーが続いた。
「ミカど、そっくりだなあ」
「ミカはママ」「なにいってるう、ひい、ばあちゃん」
「おかさんさ、会いだいべ」
「うん」
「おとさんさも、会いだいべ」
「うん」
アオイは急に泣きそうな顔になった。
でも泣かずに堪えながら答えた。
「どこにいるか、わからないの」
「大丈夫だ、ひいばあちゃん、探してけっからな、待ってろ、じぇったい探してきてけっさげ」
アオイは微笑みを浮かべて頷いた。
「めんごだな」
曾祖母は、アオイの頭から頬を撫でながら言った。
「ほれ、御飯でぎだみだいだよ」
そう言うと曾祖母は居間の方へ、アオイを促した。
そして曾祖母は消えた。
吉江が仏壇の灯りを点けた。
肉団子を二個、レタス、トマト、そして少しのご飯が小皿に載っていた。
吉江はその小皿を仏壇の下の段、写真立の前に置いた。
写真立には、アオイの父ユウイチに抱かれたアオイ、横にミカが並んで写った写真が入っていた。
その日は、七月十一日。
三人の月命日だった。
「月命日」と言うと、俊夫が怒るので、吉江は毎日、三人の好物を仏壇に供えるようになった。
だから、今日も何も言わずにアオイの好物を備えてから、座卓に座った。
俊夫は既に、ほうれん草の御浸しを食べ始めていた。
会話はない。
「いただきまあす」
アオイは、大好物のトマトから口に頬張った。
「トマトちゃん」
半分にカットされたプチトマトは、アオイの口のサイズにぴったりだ。
一気に、トマトをたいらげると、アオイは肉団子にフォークを刺そうとした。
こちらは吉江はあえてカットしなかった。
丸いほうが肉団子らしいと思ったからだった。
アオイのフォークが滑った。
カタン。
フォークが落ちた。
俊夫は箸を止めて、仏壇に目をやった。
続いて、吉江も。
柄にクマが描かれたフォークは、経机の上まで転げ落ちていた。
俊夫と吉江は目を合わせた。
仏頂面だった俊夫が、先に微笑んだ。
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