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女帝の猫
しおりを挟むエルミタージュの猫たちに捧ぐ
遅い朝の陽光が、渡り廊下を明るく照らしていた。
エカテリーナのお気に入りの眺めであった。
美の宝庫へ続く廊下。
冬宮殿内部は、極寒が嘘のように温かい。
早朝から大量の陳情書に目を通したが、エカテリーナに疲れた様子はない。
背筋をピンと伸ばして歩いていき、美術展示館と居住部を隔てる扉を開けた。
しっとりと、少し冷ややかな空気が入ってくる。
温度差があった。
視線を下ろすと、きれいなグレーの猫が居て、ちょうど、扉の手前で折り返し、展示館に戻ろうとするところだった。
廊下で日向ぼっこをしていたのだろうか。
ロシアンブルー。
不覚にも、綺麗だ、と思った。
エカテリーナにとって、そういう感覚は初めてのものであった。
触れてみたいと思った。
触ったことのないものに。
味わったことのない反応をするだろうか。
動物が好きなエカテリーナだったが、猫だけは好きになれなかった。
従順でない感じが。
とらえどころのない感じがである。
それに、偏見だろうが、あらゆる病原菌を運ぶ、あの忌まわしい鼠を捉え、食す、というから尚更であった。
エリザヴェータが、カザンから猫たちを連れてきて宮殿に住まわせ、ネズミ退治をすると聞いた時、寒気で、身が縮み上がる思いだった。
そのエリザヴェータが崩御し、我が天下となり、新しい冬宮殿に、念願の美術展示室を創設するときも、臣下たちは、美術品を鼠から守るためには、猫です、と口を揃えて言った。
「書物も本来でございましたら、猫に守らせるべきでございます」
側近で、友人でもあるダーシュコヴァ夫人は、そう助言した。
居住部だけは勘弁を、ということで、渡り廊下に扉が設置された。
猫は当初、その扉の向こう側の存在だった。
なのに、その時、気付けばエカテリーナは、猫に歩み寄っていた。
まるで、目に止まった男性に吸い寄せられるように。
しかし、猫は、エカテリーナから目をそらすと、急ぐでもなく、悠然と歩き、遠ざかっていく。
エカテリーナは立ち尽くし、猫が廊下をそれて、見えなくなるまで、その姿を見つめていた。
エカテリーナは、一人渡り廊下に取り残された。
ひととおり挨拶にまわって、エカテリーナは足を止めた。
見かけない、いや、どこかで見たことのある一人の男の顔が目に付いたのであった。
一際大きいその男は、決して美男では無かったが、とらえどころのない魅力を放っていた。
エカテリーナが、これまでに会ったことのないタイプの男である。
どこがどう違うのか、分からないが。
エカテリーナは吸い寄せられるように男に近づいていった。
男がすぐに、エカテリーナに気づき、話をしている男から目をそらし、視線をエカテリーナに向けたが、すぐにその視線を話し相手に戻した。
挨拶も無しかしら。
エカテリーナは表情を少し固くして、そのまま大男に歩み寄った。
その話し相手とは、アレクセイ。
エカテリーナの側近であり、愛人のグリゴーリー・オルローフの弟である。
エカテリーナは、わざと話を遮るように、アレクセイに声をかけた。
「陛下、毎回、大変なご盛況で」
「ありがとう。楽しめて」
「もちろんです」
エカテリーナは、初めて気がついたふうに。
「あら、お話し中でしたのに、すみません。こちらは」
「陛下、お忘れになったのですか。それは可愛そうです」
そう言われて、胸のつかえが瞬時に取れるように、エカテリーナは思い出した。
良かった。
「忘れるわけはないでしょう」
そう答えると、エカテリーナは溢れんばかりの笑みを作り、大男を振り向き仰いだ。
「あの時は、助かりました。下げ緒を差し出してくださったわね」
その言葉を聞いて初めて、大男は一歩下がり腰をかがめて挨拶をした。
一七六二年の一月五日、ロマノフ朝第六代ロシア皇帝にして、女帝のエリザヴェータが崩御した。
エリザヴェータは、体調異変を訴えるはるか前に、皇位継承に関する遺言をしたためたはずであったが、ついにその遺言書が見つかることはなかった。
エリザヴェータには子がない。
そうなるとすなわち、養子である皇太子ピョートル三世が皇位を継承することになる。
しかし、これには様々なケチが付いた。
それ以前に、人間的に皇帝の器ではない、とまで言う者も多かった。
ただの浅はかな軍事マニアでしかないピョートル三世は、即位するやいなや、長年のプロイセン贔屓が行き過ぎて、ロシア軍の軍服をプロシャ風のものに変えさせて、軍の反発を買う。
同年六月、ピョートル三世、つまり夫と不仲のエカテリーナと軍が動く。
クーデターであった。
皇位奪還後、全権掌握を国民に知らしめる軍のパレードに出陣するエカテリーナ。
自らロシア軍の軍服をまとい、純白のサラブレッドに飛び乗った新女帝エカテリーナ。
ふと、剣に下げ緒が無いことに気付く。
それを見た近衛隊のある下士官が急ぎ駆け寄り、自らの下げ緒を外して、エカテリーナに差し出した。
その下士官こそが、ポチョムキンであった。
「光栄でございます。女王陛下。改めまして、グリゴーリー・ポチョムキンでございます。以後お見知りおきを」
アレクセイが割って入った。
「今日は、軍が非番なので、タイミングよく連れてこられました。ご招待はありませんでしたが、勝手をして申し訳ございません」
「いいえ、良いのよ。彼は大事な功労者の一人ですもの」
「ありがとう存じます」
そう、アレクセイのほうが礼を言い、ポチョムキンは、それに合わせて、会釈をした。
「恐れながら、陛下。早速で申し訳ございませんが、一つお願いがございます」
顔を上げたポチョムキンが、空かさず口を開いた。
「どうぞ、何かしら」
「はい。陛下の秘蔵の絵画ですが、それらをいつか見せていただきたいと存じます。展示室の公開のご予定がございますか」
「ええ、まだだけれども、何しろ大量にあるもので、まず、整理をしているところなの。だから、展示室ではなくて、まだ倉庫といったところかしら」
すぐに、そう答えながら、エカテリーナは別のことを考えていた。
これまで、何度か、新しい冬宮殿の大広間で、このパーティを開いているのだが、美術品について、その金銭的な価値以外、その内容に興味を示した者は、ポチョムキンが初めてだったのである。
ましてや、彼は兵士である。
その風貌は大男で、それほど見目麗しくない。
どちらかと言えば、木偶の坊の類ではなかったのか。
それに、このポチョムキンは、媚びへつらう感じがまるでない。
自分の存在を認められて初めて、挨拶をしたぐらいの横柄な物腰なのだ。
この男は、何だ。
エカテリーナは、そう心で呟いた。
それは、不快、いや、心地よい違和感であった。
言ってみれば、「引っ掛かり」みたいな何か。
その引っ掛かりは、その後ずっとエカテリーナから離れなかった。
そのパーティから数日後のこと。
エカテリーナは、忌まわしい悪夢うなされ目を覚ました。
まだ、夜も明けていない真夜中。
冬だというのに、額には大量の汗をかいている。
火事の夢だった。
冬宮殿の美術展示館のほうから出火したようだった。
煙臭さに気づいて、エカテリーナは居室を出ると渡り廊下まで歩いて行った。
そこでエカテリーナが見たものは。
廊下の向こうから、ゆらゆらと急ぐでもなく歩いてくる、大量の灰色の小動物。
ネズミ。
後退ろうとするエカテリーナだが、足が硬直して動かない。
煙の足はネズミよりも速く、どんどんと居館のほうに流れてくる。
その煙を追いかけるように、ネズミの群も近づいてくる。
そこで目が覚めた。
どうして、このような夢を見たのか。
エカテリーナには、心当たりがあった。
鮮明に。
皇太子妃時代のある初冬のことであった。
当時住んでいた、モスクワのアンネンゴーフ宮殿が火事になった。
彼女は回想録に書いている。
「そのときわたしは奇妙なものを見た。鼠や二十日鼠の大群が、別に急ぐ様子もなく、階段を列をなしておりてきたのである」
被害は、女帝エリザヴェータの衣装のすべて(四千着あまり)。
奇跡的に、エカテリーナの大切な蔵書は無事であった。
悪夢の朝が明けるとすぐに、エカテリーナは世話係に命じた。
「猫の管理人を呼んできてもらえるかしら」
間もなく現れたのは、小太りの老女であった。
緊張のせいか、なぜか薄ら笑いを浮かべている。
「あの、灰色の綺麗な猫は何と言って」
「ロシアンブルーでござります」
「そのロシアンブルーを、こちらの居館にもおいてほしいの。それから、これまで、展示館の方は、様々な猫が居たと思うけど、全て宮殿内は、そのロシアンブルーだけにしなさい。その他の猫たちは、庭や宮殿の周りに居させて、宮殿内に入れないようにしなさい」
無茶な話だが、反論などできるわけがない。
「かしこまりました」
猫嫌いが有名で、それまで話題にもしないエカテリーナだったため、この事を皆いぶかしんだ。
どういう心境の変化なのか、と。
ついには、渡り廊下の扉も取り外された。
ロシアンブルーは、展示館と居館を自由に行き来できるようになったのである。
人間なら扉がなくても、恐れ多くエカテリーナの居館に、そう簡単に入れない。
例外は、側近と愛人、そしてロシアンブルーだけである。
早朝から執務に励むエカテリーナ。
時折、ドアの隙間から、ロシアンブルーが入ってきて、気がつくと、机の横に座って居たりする。
あまり鳴かない猫である。
それに、懐きもしない。
エカテリーナの猫嫌いを知ってのことか。
それなのに、執務室に入り込む。
「何なのだ、お前は」
エカテリーナが独りごちる。
「ミャア」
鳴いた。
椅子を立って、エカテリーナがロシアンブルーに近寄る。
しかし、いつも決まって、すっと立って走り、ドアをすり抜けて居なくなった。
あのパーティでの再会の後、ポチョムキンはエカテリーナの前に姿を見せなかった。
これまで、エカテリーナの視界に、あのような男は居なかった。
普通なら、彼女の目に止まった兵士は、とにかくチャンスが有れば、彼女に近づきたがるはずである。
そんなある日、ポチョムキンが片目を失ったという噂が宮殿に届いた。
「アレクセイ様と乱闘になったとのことです」
噂を運んできたのは、ダーシュコヴァ夫人であった。
「あら、彼らは同志ではなかったかしら。いつだかのパーティで、ポチョムキンを私に紹介してくれたのが、アレクセイだったと思うけど」
「ああ、それで」
「それがどうしたの」
「それが原因ですよ」
「それがというのは」
怪訝な表情で、エカテリーナが夫人に聞き返した。
「陛下のご寵愛の取り合いでしょ。エカテリーナ様が原因だ、との、噂にございます」
エカテリーナが、現愛人のグリゴーリー・オルローフに飽きがきている、というのは誰の目にも明らかであった。
そうなると、周囲の男たちは騒がしくなる。
次は、誰だ、と。
何しろ、エカテリーナの愛人になれば、とにかく一生安泰なのだ。
高額な給料と膨大な土地、その土地に属する大勢の農奴が与えられる。
それらは、愛人としての役目を終えたとしても没収されない、という噂だ。
グリゴーリー・オルローフの弟で、エカテリーナ御代成立の最大の功労者である、アレクセイにしてみれば、次は俺だ、という思いがあるはずであった。
すなわち、新しい恋敵をアレクセイが痛めつけた、という構図なのは明らかだった。
「それで、ポチョムキンは今どうしておる」
「もちろん変わらず、軍の職務についておりますとも」
これで引き下がるなら、それはそれで良かろう。様子を見ようではないか。
そう、エカテリーナは胸の中で悦に入った。
このところの倦怠の日々に、一筋の光が指したような気がしていた。
ちょうどこの頃、ロシアで猛威を振るい続けてきた、天然痘のワクチン開発に成功した、という報せが、エカテリーナに届く。
医学の発展に力を注ぐ方針を打ち出していたエカテリーナには、朗報である。
そこで、本当にそのワクチンが有効であるかどうか、が問題となった。
実験台を探す必要があるが、貴族の中で、そのようなことを引き受ける者は誰ひとりとしていない。
しびれを切らしたエカテリーナは、自らワクチン接種をすると言い出した。
これには、周囲がにわかに騒々しくなった。
失敗したら、また帝国は混乱に陥ること間違いなしである。
必死に止める者も多かった。
しかし、エカテリーナはワクチン接種を強行するのである。
誰もが、固唾をのんで見守る。
日が過ぎていく。
十日経ち、二十日経ち、そして一月。
エカテリーナは無事であった。
そうなると一気にワクチン接種が進んでいった。
偉大なる女帝が、天然痘の恐怖からロシアを救った。
それを全ロシアに身をもって知らしめたのである。
ところがである。
それから五年ほど経つと、今度はペストが流行し始めるのだった。
ペストは、ワクチンというわけには行かなかった(今現在も有効なワクチンはない)。
死者は町々に溢れ、それがさらなる罹患を招くという悪循環であった。
罹患者の隔離、死体の整理を指揮する者が必要であった。
エカテリーナが白羽の矢を立てたのが、愛人、グリゴーリー・オルローフであった。
かなりの危険が伴うが、エカテリーナの天然痘ワクチン接種の前例もあって、グリゴーリーに断ることはできなかった。
それに、このあたりで、帝国に貢献しておかないと、愛人の立場が危うい、とも想うのであった。
対するエカテリーナは、一通りではない思いを抱いている。
この役目を断らないのは、グリゴーリーのみ。
強靭さと、統率力。
それに、距離を置きたい。
エカテリーナの目を盗んで、グリゴーリーが他の婦人に手を出している、という噂も聞こえてくる。
仕返しをしてやろうかしら。
結果として、グリゴーリーは期待以上の成果を上げたのであった。
そして、その翌年の、一七七二年、エカテリーナは弱体化し始めたトルコと、遂に和平交渉に入ることを決める。
その責任者として、エカテリーナは、再びグリゴーリー・オルローフを派遣するのである。
これは、事実上の愛人解消の出来事であったと言われている。
実際その直後、エカテリーナ(四三歳)は、若き美男子、アレクサンドル・ヴァシーリチコフ(二八歳)と関係を持つ。
しかし、燃え上がったのは最初だけであった。
エカテリーナにしてみれば、美しく卒がないアレクサンドルは退屈でしかなかった。
私が求めているのは、この男ではない。
すぐにそう思うようになったのである。
愛人の事があっても、エカテリーナの政務に淀みは無かった。
通常の書類だけでなく、和平交渉に関する書簡も届くから、ひと際多忙な日々が続いたのである。
朝が早いエカテリーナは、逆に夜遅くまで仕事をすることはなかったが、その日は、どうしても片付けておかないといけない事案があった。
ランプだけの仄暗い室内に、万年筆の音、そしてエカテリーナの呼吸音だけが聞こえる。
ふと上げた顔。
視線の端に、ロシアンブルーが居た。
エカテリーナは、猫の方を向いた。
「あら、居たの」
猫も、目を丸くして、エカテリーナを見つめる。
エカテリーナは、試しに声をかけてみることにした。
「さあ、おいで」
そう言って、椅子を引き、机との間にスペースを作った。
猫は立ち上がって、俊敏に駆け寄り、エカテリーナの膝の上に飛び乗った。
「ミャア」
生まれて初めて、エカテリーナが猫を抱いた瞬間であった。
一七七三年、十二月四日。
その夜、寝る前に、エカテリーナは戦地に向けて一通の手紙を認めた。
宛名は、グリゴーリー・ポチョムキンであった。
「中将殿、あなたはシリストリア(現、ブルガリアの北部)を夢中になって眺めているばかりで、きっとわたしの手紙を読むお暇などないのでしょうね。今までのところあなたの砲撃が大した成功をおさめたという話もききませんが、それでもあなたのなさっていることすべてが、わたし個人、また広い意味ではあなたが仕えている愛すべき国家のためをはかっての行動であることを、わたくしは確信しています。ただしわたしはまた、熱意と勇気と知性そして判断力に富んだ人間を身近におきたいとも思っているのです。それゆえこの手紙が何のために書かれたかがあなたのことをどう考えているかおわかりになるように取りはからうためだ、と前もってお答えしておきましょう。常にあなたに好意を抱きつづけてきたエカテリーナより」
(アンリ・トロワイヤ著「女帝エカテリーナ(下)」工藤庸子=訳、中公文庫より引用)
手紙を書き終えたエカテリーナは、一言呟いた。
「さあ、おいで」
この翌月、ポチョムキンは、軍に休暇願いを出し、宮廷に参上した。
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