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ブダァ(ブッダ)は、フランク・マルタンが好きだと思う。
特に、ミサ曲。
ブダァとは、二代目の飼い猫。
二代目と言っても、養父は私が来る前に、別の猫を飼っていたかもしれないが。
私には二代目。
メインクーンの血が入った、長毛の灰トラだ。
フランク・マルタンが流れると、ブダァは、コーナーソファのオットマンの上に行き、座って目を閉じる。
長くて太い尻尾の先を、時折小さく、くるくるさせ、音楽を聴いている。
そうとしか思えない。
私は、コーヒーを落としながら、ふと、ブダァがオットマンに寝たことを確認し、口元を緩めた。
完全に、足置きを占領された。
ブダァがこの家に来て、五年になる。
養子のユリアンが来る、二年前のことだった。
先代の猫は、ブダァを貰い受ける四年前に亡くなった。
短毛の白灰トラであった。
私の半生のような猫であった。
いや、猫なのか。
母であり、妹であり、親友であり、相談相手だったろう。
父がミヒャエルと名付けた。
忘れもしない。
この家に来た日も、亡くなった日も。
貰われて来たのは、私と双子の姉の三人が最初の真実を告知された日であった。
姉たちが五歳、私は四歳だった。
養父、デニスの真実に偽りは無かった。
「お前たちは、私の愛する娘だ。それは永遠に変わることはない。どんな困難があろうとも、私はお前たちの味方だ。この愛は、決してお前たちの本当の父親、母親に劣るものではない。それを信じているからこそ、彼らは私にお前たちを託したのだ。そのことを決して忘れてはならない。もう一回言う。娘よ。俺がお前たちを愛する気持は、深く、強く、永遠なのだよ」
それが第一番目の真実の告知であった。
その父は、三年前、五十六歳の若さで、他界した。
突然の事故死であったが、天寿を全うしたと言っていい。
私たち娘を一人前に育て上げた。
そして、二人の姉は素晴らしい伴侶を見つけて、嫁いでいった。
彼女たちが幸せな家庭を築いていくことは間違いない。
なぜなら、彼女たちは父の偉大なる愛に育てられたからである。
彼女たちと私が、決定的に違うこと。
それは、第二の真実を告知されたか、されていないか。
私が父に、第二の告知を受けたのは、今からおよそ十五年前、十四歳の時だ。
それは、二〇〇四年。
イラク戦争の最中。
姉二人は、クナーベンシーセン(少年射撃祭)に出場して、優勝こそ逃したが、共に上位に食い込んだ。
私は、クナーベンシーセンに出場したことがない。
それは、銃の技術が姉たちに劣っているからではない。
むしろその逆。
私たちが、父から銃の手ほどきを受けたのは、二〇〇〇年のこと。
姉たちが十一歳、私が十歳の時である。
父はすぐに見抜いたことだろう。
私が物になる事を。
だから、私を決してクナーベンシーセンには出場させなかったのだ。
(そう決断された時に、私は直感的に分かったわ。
それには訳があることが。
それだから、不満は無かった。
そして、数日後、私は第二の真実の告知を受けたの。
私は、すんなりそれを受け入れたわ。
なぜなら、その前の年に、私は近い将来、軍に志願することを父に明言していたから。
第二の告白の後、私は修行に入った。
それは父と私の特別の日々だった。
なんていうか、訓練なのかな、あれは。
というより、まさに修行のようだった。
キリスト教というよりも、仏教、そう山岳仏教の修行。
身体的な鍛錬と、膨大な知識を得るための学習。
両方が必要。
もともと、私はコミュニケーションが、姉たちと比べると苦手な部類だったわね。
それだからと言うわけじゃないけど、本を好んだ。
修行に入ると、父にあらゆる類の書物を与えられた。
そのまま、置いておいたら、姉たちは興味すら示さない類の本。
語学、歴史書、地政学、哲学書、著名人の自伝などなど。
もちろん、新聞は必須。
学校にも通っていたから、寝る間も惜しんで本を読んだわ。
だから、世界中、どんなところに行っても、その国の基本的な事は分かっているし、ほとんど困ることはないの。
本部から手紙が来れば、指定日までに、どこであろうと、向かわないといけない。
そうなってから、調べていたのでは話にならない。
もちろん、改めて調べることもあるけど、基本的な事はベースとして知っておくべきなの。
その手紙も、父が亡くなって以来、来なかった。
父の遺体は献体として、フランスに運ばれて行った。
そういう決まり。
姉たちは、ひどく寂しがったけど、何年も前に書かれた遺書に書いてあったから、従うしかないの。
それは本部の意向であることを彼女たちは知らないけど。
私もそうなる。献体に。
それが決まりなの。
あら、ユリアンが目を覚ましたわ。)
先にそのことに気づいたのは、ブダァだった。
「クリスタ、頼んだわね」
「はい、奥様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
エルナは、玄関の扉を閉めた。
クリスタは、ユリアンの乳母兼家政婦である。
この他に、いろいろなサポートをする使用人たちも、要請があればやってくる。
クリスタは、エルナよりも五歳年上の、三十三歳。
エルナの父、デニスが亡くなった後、ユリアンが家に来た時、一緒に派遣されるようになった。
彼女は、エルナの留守を預かる。
約四年ぶりの本部からの手紙は、一週間前に届いた。
本部からの封書は、公共料金あるいは、通販会社からのダイレクトメールなどを装って来る。
身に覚えのない手紙としてやってくるのだ。
確認すべきは三点。
【エルナに宛ててあること】
【住所に関する情報】
【到着指定日時に関する情報】
それ以外は、指定された住所に行けば分かるようになっている。
「おはようございます、マダム。お荷物をお運びします」
玄関を出ると、すでに運転手が待っていた。
チューリッヒ空港までは、三十分足らず。
そこから約十二時間のフライト。
その後は、高速鉄道と、バスで約二時間半。
今回の拠点は、山荘のようなところだろうと、エルナは当たりを付けた。
もう、何ヶ月も前、いや場合によっては一年以上前から、誰かが入念に下調べを行い、全ては整っているはずであった。
エルナが、養父デニスから受け継いだ職業は、職業安定所などで探すような類の仕事ではない。
時々、映画になることもあるが、そこで描かれるような、過酷で、何か弱みを握られているから、やらされている、極めて危険で、失敗したら命はない、そのような、いわゆるブラックな仕事とは程遠い。
喩えるなら、現代、北欧の遠洋漁業の漁師ようなものだ。
完全に管理されていて、オートメーション、システマティックで、ホワイトカラーを身に着けて行う。
場合によっては、漁場も管理されていてクリーン。
そのうち、巨大な漁船の燃料ですら、自然再生エネルギーになるだろう。
給与は安くない。
それと同じ。
失敗は、本部を含む、世界組織全体の危機を招くから、不安要素が残っているような計画は、ゼロ。
更に言うなら、計画が露見することも皆無だ。
なぜなら、そうなることを、誰かが確実に阻止せざるを得ない案件だからだ。
ゆえに、仮に失敗しても、エルナに害がおよぶこともない。
極めてクリーンな職業なのである。
選ばれし者の仕事。
特異稀なる才能の持ち主にだけ許された任務。
もちろん、そこに到達するまでの決して容易ではない訓練はあるが。
もう一つ。
計画の中の登場人物の背景、その素性、職業、国籍など、個人情報の類は、エルナには一切伝えられない。
また、それをエルナが詮索することもない。
もっとも、誰もが知る有名人が登場することも、よくあるのだが。
はたして。
エルナの予想通り、たどり着いたのは、小さな山荘であった。
避暑地なのだ。
今は七月に入ったばかりなので、シーズンには少し早い。
古い木造、平屋である。
最初の鍵で開けたのは、玄関の南京錠。
この鍵は、空港までの運転手に渡されたものだ。
建物に入ると、中央のリビング兼ダイニングのテーブルに、置き手紙と、二つの鍵が置いてあった。
一つは、後で分かったのだが、クローゼットの中の棚に置かれた手提げ金庫の鍵だった。
すべての書類は、そこに入っていた。
もう一つの鍵は、森の中の山小屋の鍵であった。
エルナは、持ってきたバックパックを置くと、キッチンに行って、薬缶でお湯を沸かした。
すべてが揃っている。
まず、紅茶を淹れる。
冷蔵庫を開けると、滞在期間中には十分の食料が入っていた。
冷蔵庫の上のデジタルの置き時計が、午後三時十二分を表示していた。
今日は、現場偵察は無理である。
お湯を沸かす間に、エルナはトイレに入った。
案の定、水洗ではない。
上の棚に大人用の紙おむつが在った。
抜かり無い。
エルナは早速紙おむつに履き替えた。
水洗トイレが無い環境ではいつもこうである。
汚物は持ち帰って、しかるべき安全な場所で処分する決まりだ。
お湯が沸き、紅茶ができると、エルナはフランスパンを切って、ブルーベリージャムを塗り、ぱくついた。
それを持って、テーブルに歩いていき、鍵を拾い上げると、部屋の中を物色した。
間もなくクローゼットの手提げ金庫を開け、長封筒に入った書類を出して、テーブルに置き、紅茶を取りに行く。
封筒の中身は、いくつかの写真と地図が二枚、それからワープロ書きのスケジュールと指示書。
指定日は、三日後の土曜日。
時間は、午後五時から七時の間。
待機開始時刻は、午後一時。
エルナは時間をかけ、ファイルを読み込んだ。
そして四時半を過ぎた頃、彼女は書類を金庫に格納し、玄関の南京錠を閉めると、バードウォッチングをする外国人を装い、散歩に出かけた。
隣の別荘までは、数百メートルか、あるいは一キロくらいあろうか。
いずれにしても、カモフラージュのためにアサインされた、エルナと似た年格好の人物を含む旅行者が何組か居るはずであった。
念のため、それを確認するのだ。
二日間、朝の内に散策して、エルナは、ドイツ人の家族と、英国人のカップルに会った。
午後からは、山小屋の点検である。
方角の確認。
視界のチェック。
待機スペースのセット。
そして、「道具」の点検。
そこまでで、エルナの任務の七割は終了した。
三日後の朝、エルナは、サンドウィッチを多めに作り、カメラマンの装いで、山小屋に向かった。
山小屋に着いたら、あとはルーティンである。
待機するための、エルナなりの万全を整え、待機に入る。
実は、待つことだけはハードワークである。
タイミングを逸することを避けるために、どうしても余裕をもって待機に入るように設定されているからだ。
本当は、「無」になるべきなのだが、その間、エルナはどうしても何かを考えてしまう。
(あと、二年で、ユリアンは五歳になる。
最初の真実の告知をしなければならない。
上手くできるだろうか。
そして、あの子は、どういう人間に育つのだろうか。
その後、第二の真実の告知をするのだろうか。しないのだろうか。
父は、どうしていたか。)
陽が落ちかけてきた。
彼らは別荘に到着したようだ。
エルナが滞在している別荘よりも格段に新しく、立派な二階建てのログ。
広いバルコニーがある。
そこで、二人は夕食を摂る。
エルナには知らされていないが、この二人は翌日、ゴルフコンペに参加する。
男の実年齢は、五十二歳。有名な起業家。妻子あり。日本国籍。
女のほうは、二十八歳。元モデル。結婚歴なし。日本国籍。
二人に婚姻関係はない。
ゴルフコンペには、利害関係がある者たちが参加し、当国の政界の人間もいる。
本部に依頼した人間の目的は、その政界の人物へのダメージである。
資金的なダメージ。
人脈的ダメージ。
暗黙の脅迫。
明日になれば大騒ぎになるだろうが、表沙汰にできるわけがない。してはいけない。
だから、表沙汰にはならないのだ。
本部は、そういう仕事しか受けない。
二人の夕食の準備は楽しそうだった。
音が聞こえなくても、スコープ越しに、その雰囲気が十分に伝わってくる。
しばらく、姿が見えない時間があったが、その間、愛を交したのだろう。
多少の時間の幅はあっても、二人の行動パターンは、事前情報ファイル通りである。
ゆえに、エルナは慌てることも、気をもむこともない。
今ようやく、二人は食事の皿を外のテーブルに並べ始めた。
日暮れにはまだ少しあるが、バルコニーに照明も灯った。
都会での二人とは違う、静かな夕べの始まりである。
シャンパンが開けられる。
エルナは、ライフルを構え直した。
再びキスを交わす二人。
テーブルに座り直し、乾杯。
下す時は、エルナが決める。
深呼吸の後、七秒数える。
二人同時の場合の、養父、デニスの作法だ。
一
二
三 トゥシュー
四
五
六 トゥシュー
七 完了
そして、三秒、目を閉じる。
これも、デニスの教えである。
“Requiem Aeternam Dona Eis Domine”
やはり、ブダァが最初に気づき、耳を動かした。
そして、間もなく、玄関の呼び鈴が鳴り、クリスタが立って行き、扉を開ける。
「ただいま」
特に、ミサ曲。
ブダァとは、二代目の飼い猫。
二代目と言っても、養父は私が来る前に、別の猫を飼っていたかもしれないが。
私には二代目。
メインクーンの血が入った、長毛の灰トラだ。
フランク・マルタンが流れると、ブダァは、コーナーソファのオットマンの上に行き、座って目を閉じる。
長くて太い尻尾の先を、時折小さく、くるくるさせ、音楽を聴いている。
そうとしか思えない。
私は、コーヒーを落としながら、ふと、ブダァがオットマンに寝たことを確認し、口元を緩めた。
完全に、足置きを占領された。
ブダァがこの家に来て、五年になる。
養子のユリアンが来る、二年前のことだった。
先代の猫は、ブダァを貰い受ける四年前に亡くなった。
短毛の白灰トラであった。
私の半生のような猫であった。
いや、猫なのか。
母であり、妹であり、親友であり、相談相手だったろう。
父がミヒャエルと名付けた。
忘れもしない。
この家に来た日も、亡くなった日も。
貰われて来たのは、私と双子の姉の三人が最初の真実を告知された日であった。
姉たちが五歳、私は四歳だった。
養父、デニスの真実に偽りは無かった。
「お前たちは、私の愛する娘だ。それは永遠に変わることはない。どんな困難があろうとも、私はお前たちの味方だ。この愛は、決してお前たちの本当の父親、母親に劣るものではない。それを信じているからこそ、彼らは私にお前たちを託したのだ。そのことを決して忘れてはならない。もう一回言う。娘よ。俺がお前たちを愛する気持は、深く、強く、永遠なのだよ」
それが第一番目の真実の告知であった。
その父は、三年前、五十六歳の若さで、他界した。
突然の事故死であったが、天寿を全うしたと言っていい。
私たち娘を一人前に育て上げた。
そして、二人の姉は素晴らしい伴侶を見つけて、嫁いでいった。
彼女たちが幸せな家庭を築いていくことは間違いない。
なぜなら、彼女たちは父の偉大なる愛に育てられたからである。
彼女たちと私が、決定的に違うこと。
それは、第二の真実を告知されたか、されていないか。
私が父に、第二の告知を受けたのは、今からおよそ十五年前、十四歳の時だ。
それは、二〇〇四年。
イラク戦争の最中。
姉二人は、クナーベンシーセン(少年射撃祭)に出場して、優勝こそ逃したが、共に上位に食い込んだ。
私は、クナーベンシーセンに出場したことがない。
それは、銃の技術が姉たちに劣っているからではない。
むしろその逆。
私たちが、父から銃の手ほどきを受けたのは、二〇〇〇年のこと。
姉たちが十一歳、私が十歳の時である。
父はすぐに見抜いたことだろう。
私が物になる事を。
だから、私を決してクナーベンシーセンには出場させなかったのだ。
(そう決断された時に、私は直感的に分かったわ。
それには訳があることが。
それだから、不満は無かった。
そして、数日後、私は第二の真実の告知を受けたの。
私は、すんなりそれを受け入れたわ。
なぜなら、その前の年に、私は近い将来、軍に志願することを父に明言していたから。
第二の告白の後、私は修行に入った。
それは父と私の特別の日々だった。
なんていうか、訓練なのかな、あれは。
というより、まさに修行のようだった。
キリスト教というよりも、仏教、そう山岳仏教の修行。
身体的な鍛錬と、膨大な知識を得るための学習。
両方が必要。
もともと、私はコミュニケーションが、姉たちと比べると苦手な部類だったわね。
それだからと言うわけじゃないけど、本を好んだ。
修行に入ると、父にあらゆる類の書物を与えられた。
そのまま、置いておいたら、姉たちは興味すら示さない類の本。
語学、歴史書、地政学、哲学書、著名人の自伝などなど。
もちろん、新聞は必須。
学校にも通っていたから、寝る間も惜しんで本を読んだわ。
だから、世界中、どんなところに行っても、その国の基本的な事は分かっているし、ほとんど困ることはないの。
本部から手紙が来れば、指定日までに、どこであろうと、向かわないといけない。
そうなってから、調べていたのでは話にならない。
もちろん、改めて調べることもあるけど、基本的な事はベースとして知っておくべきなの。
その手紙も、父が亡くなって以来、来なかった。
父の遺体は献体として、フランスに運ばれて行った。
そういう決まり。
姉たちは、ひどく寂しがったけど、何年も前に書かれた遺書に書いてあったから、従うしかないの。
それは本部の意向であることを彼女たちは知らないけど。
私もそうなる。献体に。
それが決まりなの。
あら、ユリアンが目を覚ましたわ。)
先にそのことに気づいたのは、ブダァだった。
「クリスタ、頼んだわね」
「はい、奥様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
エルナは、玄関の扉を閉めた。
クリスタは、ユリアンの乳母兼家政婦である。
この他に、いろいろなサポートをする使用人たちも、要請があればやってくる。
クリスタは、エルナよりも五歳年上の、三十三歳。
エルナの父、デニスが亡くなった後、ユリアンが家に来た時、一緒に派遣されるようになった。
彼女は、エルナの留守を預かる。
約四年ぶりの本部からの手紙は、一週間前に届いた。
本部からの封書は、公共料金あるいは、通販会社からのダイレクトメールなどを装って来る。
身に覚えのない手紙としてやってくるのだ。
確認すべきは三点。
【エルナに宛ててあること】
【住所に関する情報】
【到着指定日時に関する情報】
それ以外は、指定された住所に行けば分かるようになっている。
「おはようございます、マダム。お荷物をお運びします」
玄関を出ると、すでに運転手が待っていた。
チューリッヒ空港までは、三十分足らず。
そこから約十二時間のフライト。
その後は、高速鉄道と、バスで約二時間半。
今回の拠点は、山荘のようなところだろうと、エルナは当たりを付けた。
もう、何ヶ月も前、いや場合によっては一年以上前から、誰かが入念に下調べを行い、全ては整っているはずであった。
エルナが、養父デニスから受け継いだ職業は、職業安定所などで探すような類の仕事ではない。
時々、映画になることもあるが、そこで描かれるような、過酷で、何か弱みを握られているから、やらされている、極めて危険で、失敗したら命はない、そのような、いわゆるブラックな仕事とは程遠い。
喩えるなら、現代、北欧の遠洋漁業の漁師ようなものだ。
完全に管理されていて、オートメーション、システマティックで、ホワイトカラーを身に着けて行う。
場合によっては、漁場も管理されていてクリーン。
そのうち、巨大な漁船の燃料ですら、自然再生エネルギーになるだろう。
給与は安くない。
それと同じ。
失敗は、本部を含む、世界組織全体の危機を招くから、不安要素が残っているような計画は、ゼロ。
更に言うなら、計画が露見することも皆無だ。
なぜなら、そうなることを、誰かが確実に阻止せざるを得ない案件だからだ。
ゆえに、仮に失敗しても、エルナに害がおよぶこともない。
極めてクリーンな職業なのである。
選ばれし者の仕事。
特異稀なる才能の持ち主にだけ許された任務。
もちろん、そこに到達するまでの決して容易ではない訓練はあるが。
もう一つ。
計画の中の登場人物の背景、その素性、職業、国籍など、個人情報の類は、エルナには一切伝えられない。
また、それをエルナが詮索することもない。
もっとも、誰もが知る有名人が登場することも、よくあるのだが。
はたして。
エルナの予想通り、たどり着いたのは、小さな山荘であった。
避暑地なのだ。
今は七月に入ったばかりなので、シーズンには少し早い。
古い木造、平屋である。
最初の鍵で開けたのは、玄関の南京錠。
この鍵は、空港までの運転手に渡されたものだ。
建物に入ると、中央のリビング兼ダイニングのテーブルに、置き手紙と、二つの鍵が置いてあった。
一つは、後で分かったのだが、クローゼットの中の棚に置かれた手提げ金庫の鍵だった。
すべての書類は、そこに入っていた。
もう一つの鍵は、森の中の山小屋の鍵であった。
エルナは、持ってきたバックパックを置くと、キッチンに行って、薬缶でお湯を沸かした。
すべてが揃っている。
まず、紅茶を淹れる。
冷蔵庫を開けると、滞在期間中には十分の食料が入っていた。
冷蔵庫の上のデジタルの置き時計が、午後三時十二分を表示していた。
今日は、現場偵察は無理である。
お湯を沸かす間に、エルナはトイレに入った。
案の定、水洗ではない。
上の棚に大人用の紙おむつが在った。
抜かり無い。
エルナは早速紙おむつに履き替えた。
水洗トイレが無い環境ではいつもこうである。
汚物は持ち帰って、しかるべき安全な場所で処分する決まりだ。
お湯が沸き、紅茶ができると、エルナはフランスパンを切って、ブルーベリージャムを塗り、ぱくついた。
それを持って、テーブルに歩いていき、鍵を拾い上げると、部屋の中を物色した。
間もなくクローゼットの手提げ金庫を開け、長封筒に入った書類を出して、テーブルに置き、紅茶を取りに行く。
封筒の中身は、いくつかの写真と地図が二枚、それからワープロ書きのスケジュールと指示書。
指定日は、三日後の土曜日。
時間は、午後五時から七時の間。
待機開始時刻は、午後一時。
エルナは時間をかけ、ファイルを読み込んだ。
そして四時半を過ぎた頃、彼女は書類を金庫に格納し、玄関の南京錠を閉めると、バードウォッチングをする外国人を装い、散歩に出かけた。
隣の別荘までは、数百メートルか、あるいは一キロくらいあろうか。
いずれにしても、カモフラージュのためにアサインされた、エルナと似た年格好の人物を含む旅行者が何組か居るはずであった。
念のため、それを確認するのだ。
二日間、朝の内に散策して、エルナは、ドイツ人の家族と、英国人のカップルに会った。
午後からは、山小屋の点検である。
方角の確認。
視界のチェック。
待機スペースのセット。
そして、「道具」の点検。
そこまでで、エルナの任務の七割は終了した。
三日後の朝、エルナは、サンドウィッチを多めに作り、カメラマンの装いで、山小屋に向かった。
山小屋に着いたら、あとはルーティンである。
待機するための、エルナなりの万全を整え、待機に入る。
実は、待つことだけはハードワークである。
タイミングを逸することを避けるために、どうしても余裕をもって待機に入るように設定されているからだ。
本当は、「無」になるべきなのだが、その間、エルナはどうしても何かを考えてしまう。
(あと、二年で、ユリアンは五歳になる。
最初の真実の告知をしなければならない。
上手くできるだろうか。
そして、あの子は、どういう人間に育つのだろうか。
その後、第二の真実の告知をするのだろうか。しないのだろうか。
父は、どうしていたか。)
陽が落ちかけてきた。
彼らは別荘に到着したようだ。
エルナが滞在している別荘よりも格段に新しく、立派な二階建てのログ。
広いバルコニーがある。
そこで、二人は夕食を摂る。
エルナには知らされていないが、この二人は翌日、ゴルフコンペに参加する。
男の実年齢は、五十二歳。有名な起業家。妻子あり。日本国籍。
女のほうは、二十八歳。元モデル。結婚歴なし。日本国籍。
二人に婚姻関係はない。
ゴルフコンペには、利害関係がある者たちが参加し、当国の政界の人間もいる。
本部に依頼した人間の目的は、その政界の人物へのダメージである。
資金的なダメージ。
人脈的ダメージ。
暗黙の脅迫。
明日になれば大騒ぎになるだろうが、表沙汰にできるわけがない。してはいけない。
だから、表沙汰にはならないのだ。
本部は、そういう仕事しか受けない。
二人の夕食の準備は楽しそうだった。
音が聞こえなくても、スコープ越しに、その雰囲気が十分に伝わってくる。
しばらく、姿が見えない時間があったが、その間、愛を交したのだろう。
多少の時間の幅はあっても、二人の行動パターンは、事前情報ファイル通りである。
ゆえに、エルナは慌てることも、気をもむこともない。
今ようやく、二人は食事の皿を外のテーブルに並べ始めた。
日暮れにはまだ少しあるが、バルコニーに照明も灯った。
都会での二人とは違う、静かな夕べの始まりである。
シャンパンが開けられる。
エルナは、ライフルを構え直した。
再びキスを交わす二人。
テーブルに座り直し、乾杯。
下す時は、エルナが決める。
深呼吸の後、七秒数える。
二人同時の場合の、養父、デニスの作法だ。
一
二
三 トゥシュー
四
五
六 トゥシュー
七 完了
そして、三秒、目を閉じる。
これも、デニスの教えである。
“Requiem Aeternam Dona Eis Domine”
やはり、ブダァが最初に気づき、耳を動かした。
そして、間もなく、玄関の呼び鈴が鳴り、クリスタが立って行き、扉を開ける。
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