仙吉の猫

鈴木 了馬

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仙吉の猫

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「あら、仙さん、こんな時分から珍しい」
 夕暮れ近かった。
「仕事よ、神田久右衛門町のお得意までね。どうしても今日中に、寸法を測っておきたくてさ」
「繁盛は良いことだね。気をつけて」
「ありがとうさんよ」
 井戸端を通り過ぎた仙吉に、長屋の女房の一人が労いの言葉を掛けた。
「仙さんにも、また良い人が現れるといいんだろうけどねえ」
 いねが、そう皆に水を向けるが、軽口を返す者は無い。
 仙吉の女房みつが亡くなって、もう、五年になる。
 あんなに好き合っていた、夫婦の鏡のような二人だったことを、忘れた者など、この長屋には居なかった。
 皆、みつの死を悲しんだものだった。
 そして、残された仙吉の心をおもんぱからない者も居ない。
 だから、余計な口出しもしない。
 しないが気に掛かる。掛かるが、何もできない。だって、あんなに仲の良かった夫婦だったのだから、後妻の縁談など、持ち込めるはずがなかった。
 それでも、であった。
 みつが亡くなって、変わったことと言えば、仙吉が大工をやめ、指物師になったことと、一年前頃から、仙吉が猫を飼いだしたことくらいだった。
 真面目で腕の良い大工だった仙吉は、棟梁にも可愛がられていた。
 みつが死んでも、真面目な仕事ぶりは変わらなかったが、仕事場での口数が圧倒的に少なくなった。
 見かねた棟梁が指物師の道を勧めた。
 よく知った指物師の親方が隠居を望んでいて、後継ぎがなく困っていたのだった。
 それなら、仙吉の細工の上手さを活かせるし、今の仙吉の気性にも合っていると、棟梁は考えたのである。
 それに、仙吉ももうすぐ四十になる、と。
 力仕事も徐々にできなくなるし、かと言って、独立して大工をかかえる親方という気質でもない、とも棟梁は気遣ったのである。
 棟梁の読みは正しかった。
 まだ、指物師を始めて、一年足らずだが、良いお得意を、二つほど任されるほどになっていた。
 仕事の上では順調。ただ一人住まいだけが心配。
 傍目には、そう見える。
 しかし、仙吉の内心は、全く違っていた。
 元より、後をめとるなどということは考えたこともない。
 それは、みつの事が忘れられねえ、などという話ではなかった。
「俺はな、残りの命は、みつの供養に充てる、と心に決めたんだよ。そうしないと、俺だって死んでも成仏なんてできやしねえ、そう思ってんのさ。わかるか、サブ」
「にゃあ」
「俺は寂しくなんてねえさ、サブ。おめえが居るもんよお」
 サビ猫の「サブ」。
 みつの三回忌が過ぎた頃、神田石坂(現、男坂)の下あたりの道横にうずくまっていたのを拾ってきたのだった。
 脇腹に切り傷があって、そこにウジがたかっていた。
 仙吉は、猫を長屋に連れて帰ると、オトギリソウを煎じた湯を冷まして、サラシに含ませ、猫の傷にあてて看病した。
 一月ほど、そうしているとすっかり猫は元気を取り戻し、そのまま、仙吉が飼っている、というわけである。
 自分が喰うより先に、猫の餌を用意して与え、どこか遠出をして留守をした時は、猫にお土産を買って帰ってくるという可愛がりようだった。
「まったく、仙さんらしいねえ。あたいだって、たまにはお土産を買ってきてほしいわさ」
「おやおや、そんな事、あんた、旦那に聞こえたらえらいこったよ」
 そんな噂話が絶えないくらい、仙吉の猫の愛玩ぶりは有名だった。
 そんな暮らしが続き、時は過ぎ、仙吉は四十二になった。
 厄年であった。
 その夏のある日、仙吉は大事な得意の仕事で失敗をした。
 黄蘗きはだの小箱箪笥の引き出しの修繕でだった。
 失敗、と言っても、不出来だったとか、そういうことではなかった。
 そもそもの寸法の測り間違い。
 これまでの仙吉には、ありえない失態である。
 すぐに作り直して、事なきを得たが、仙吉には、内心大きな痛手だった。
 思い当たるフシがあったのだ。
 半年ほど前からか、目が霞むのである。
 効き目であるはずの、右目だった。
 歳のせいもあろうが、眼病は様々な要因がからむこともある。
 栄養状態や、内蔵疾患、生活環境など。
 目に効く、という薬草を、長屋の女房たちが分けてくれたが、ほとんど、効かないようで、霞みの度合いは、だんだんひどくなっているようであった。
 その事が、その失敗で、完全に露見したわけで、かと言って、良い医者のあてもなく、途方に暮れるしかないのであった。
 そんなある夜、何やら悪い夢にうなされて、仙吉がふと目を覚ますと、サブが枕元に居て、仙吉の顔を覗き込んでいた。
「なんだ、サブか。俺、変な夢を見たようだな。起きた途端に忘れちまったがよ。それで俺、唸り声でも上げたかい。驚かせて悪かったなあ」
 仙吉は、一言詫びを言って再び寝なおそうと、目を閉じた。
 ところが、サブは仙吉の横を離れる様子もない。
「どうしたい、サブ。お前もまた寝な」
 そうして、再び、仙吉が目を閉じると、サブが仙吉の顔に、自分の顔を近付け、仙吉の瞼を舐め始めた。
 ひんやりと、なめらかで、快い感覚だった。
 仙吉は、目を閉じたまま、サブに声を掛けた。
「サブ、ありがとよお。おめえは、良いやつだなあ。ちゃんと、分かってたのかい。ありがとよ」

 サブが、夜な夜な、仙吉の瞼を舐めるようになって、半月ほど経った。
 気がつけば、仙吉の右目は完治したようであった。
「サブよ、おめえのお陰だよ。ありがとうよ。ほんと恩に着るぜ」
「にゃあ」
 仙吉は、サブを抱き上げ、頬を寄せて喜んだ。
「悪かったよ、長い間。今夜からは、おめえもぐっすり寝ておくんなよ。ありがとうよ、ほんとによ。おめえは、俺の命の恩人だ。ああそうだともよ、目は職人の命だからよ」
 仙吉は、サブを前に抱え、頭を下げ、感謝の気持ちを表した。
 その時、ふと、仙吉は気付いたのである。
「おめえ、その目は、どうしたい」
 見れば、サブの右目、眼球の表面全体が白く濁っている。
「おめえ、まさか」
 そのまさかであった。
 サブの右目は、もはや使い物にはならなくなっていた。
 それどころか、よく見ると、左目の方も白っぽくなり始めているのだった。
 その夜、仙吉の目を、もはや舐めることがなくなったサブは、それでも、サブの枕元に横になってぐっすり眠っていたが、逆に仙吉は朝方まで眠ることができなかった。
 涙が、止まらない。
 おまえは、俺の身代わりになって、それで、自分の目が見えなくなちまったのか。
 一晩中、サブのこれまでのことを思い返し、泣き通しだった。
 そしてついに泣きつかれて、仙吉は、空が白んできた頃、迂闊にも眠りに落ちた。
 ほんの四半刻(約三十分)くらいだったろう。
 「しまったあ」
 仙吉は、ある予感に、飛び起きた。
 やはり、サブが居なくなっていた。
 仙吉は、長屋を飛び出した。
 井戸端には、すでに女房たちが集まっている。
 「どうしたの、仙さん、そんなに慌てて」
 「サブ、見なかったか」
 「いや、誰か見たかい」
 皆、かぶりを横にふる。
 仙吉は駆け出した。
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