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十二 永久に
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(とわに)
「丸、あの草、珍しい」
一齢用の若芽(ヤマグワの先端の柔らかい葉)を刈ってきた帰り道である。
男手のほとんどは、新しく建つ蚕小屋の最後の仕上げをしていた。
丸津(秦丸津)にも、その白い特徴的な草花の名前が分からない。
立ち止まった二人に気付き、道案内の熊左が戻ってきた。
木立の間から沼地が見えた。そこに水芭蕉が群生して、白い花を咲かせている。
よく見ると、朝陽に照らされて、水面から湯気が立っている。
「あの白き草は」
「ありゃ、水芭蕉」
「ミズバショウ」
分からないのは無理もない。
都では見かけない草花である。
あと三日で立夏(旧暦四月十日)である。
陽気が良い日が数日続いていた。
雪がほとんど積もらないことが幸いして、母屋も、蚕用の高床の小屋も、築造には手間取らなかった。
杉ノ目の城主の命で、村人も大勢手伝った。
都から持ってきた蚕の卵を孵化させる準備に入っていた。
蚕小屋は、夜は雨戸を閉め、昼は和紙貼りの障子戸で太陽の暖かさを出来る限り取り込む。
それでも、その障子と蚕を置く蚕棚の間は広く取られ、日光を直接当てない構造である。
小予(錦代)と丸津は年齢が近く、話がよく合う。
傍目には、兄妹とも、姉弟とも見える。
「戻った頃には、呼び出し桑をあげられるかの」
再び歩み始め、小予が丸津に尋ねた。
「佐小様(小手姫)は掃き立ての名人ゆえ、ご心配は要りませぬ」
呼び出し桑とは、孵化した蚕に最初にあげる桑のこと。
掃き立ては、間接的な陽光に当て、羽箒で蚕の卵を掃いて、孵りを良くする作業。
「刻み(桑の若芽を細かく刻む作業)は、兄様らがやっておりますので、慌てずともよろしいでしょう」
丸津が逸る小予を慮って言った。
小予が急くもの無理はない。
堂平での、最初の春蚕の飼育であった。
都とは、気候も環境も違うため、すべてが上手くいくはずもないが、幸先は良いほうがいい。
春蚕さえ上手く行けば、その後は問題ないはずであった。
小手姫は、堂平であれば、年三回は、繭が取れるだろうと踏んでいた。
春蚕、夏蚕、そして秋蚕と。
秋蚕については、夏蚕の状況と気候によって、掃き立て次期を見極めることになっている。
さて、こうして、堂平での最初の蚕が飼育されていった。
収繭までの間、何度も杉ノ目の城主が直々に見学に来たり、技術の伝授のための若い者らが、作業に動員されるなどして、堂平の賑わいぶりは、ある種、祭りのようであった。
それでも、気の休まらない日々が過ぎていった。
四月七日、掃き立て、呼び出し桑から本給桑へ。
四月九日、酉の刻(午後五時)、止め桑。
四月十日、辰の刻(午前七時)、蚕が眠っていることを確認して、拡座(蚕座を二つに分割)。酉の刻、起蚕。二齢目に入る。桑の葉を大きめに刻んで与える。
四月十三日、巳の刻過ぎ(午前九時半頃)、眠中拡座。
四月十四日、申の刻頃(午後三時半頃)、起蚕。三齢に入る。室温を少し下げるため、風窓をわずかに開ける。刻まずに給桑。葉の表を上にして、まんべんなく蚕座に並べていく。
四月十五日、夕刻、止め桑。
四月十六日、酉の刻、起蚕。いよいよ四齢に入った。更に室温を上げるために、風窓を開ける。桑は枝ごと給桑。
この後、朝昼晩の給桑を続ける。
四月二十一日、夕刻、止め桑。
四月二十二日、申の刻(午後四時)、起蚕。室温を更に下げるために、障子戸を開ける。脱皮を確認し、桑付け(起蚕後、初めての給桑)。
四月二十三日、巳の刻頃、拡座。
その後、五日間、朝昼晩の給桑。
「佐小様、無事に五齢に入りました」
「そうか、よいよい」
小満の三日後の未の刻(十三時)過ぎに、丸津が母屋にやってきて、小手姫に報告した。
四月二十九日。
掃き立てから、二十二日後のことである。
小手姫は、蚕小屋に向かった。
そして、蚕座を見て回る。
「はい、良いですね。遅蚕も少ないようじゃ」
「はい、この分ですと、明日の午の刻(十二時)過ぎから、上蔟に入れるかと存じます」
「そうですか。新しい行程ですので、村の人にも手伝ってもらいましょう」
はたして、この二日後の五月二日、未の刻(十三時)過ぎには、ほぼすべての蚕が繭となった。
最初の春蚕は、予想以上の成功に終わったのである。
その夜、母屋の囲炉裏を、糠手子、小手姫、蜂岡皇子、錦代の四人が囲んでいる。
「母様、無事に上蔟が済み、本当によろしゅうございました」
「皆のお陰じゃ、有り難いことよ」
都を逃れて、まだ一年も経っていなかった。
このように首尾よく運ぶことを誰が予想したであろうか。
逃亡の旅は、確かに過酷であった。
しかし、その後にこのように順調に運ぶことは、はじめは想像すらできなかった。
「本当に、皆、無事で何より」
糠手子が言うのに、小手姫がかぶせた。
「さようです。これで、私も安心して、皇子を出羽へ送り出すことが叶います」
それは、誰もが触れずに、避けて来たことであった。
「私たちは、どうするのです」
錦代が尋ねた。
「私たちは、ここに残ります」
それは、すでに、糠手子と小手姫の間で話されていたことであった。
小手姫は、自らが皇子の背中を押さなければ、このまま時が過ぎていきましょう、と。
「皇子よ。そろそろ行く時です。そなたが生きる道に。終始、不甲斐ない母であった。許してくだされ」
錦代が堪えきれずに、泣き出した。
糠手子は囲炉裏の火を凝視している。
そして、皇子が口を開いた。
「そのようなことは、決してございません。こうして私があることができるのは、母様、そして」
小手姫は、優しい目で、皇子を微笑みながら見ている。
しかし、その笑みとは裏腹に、涙が頬を濡らしていた。
「そして、父様のお陰なのです」
泊瀬部皇子の訃報は、堂平に到着した、二日後に尾張からの密使が報じた。
「私は嬉しい」
小手姫は返した。
「嬉しく思うぞ。皇子が、ご自分の歩まれる道を見出され、そして、そこに向かって進もうとしている。この旅立ちを、皆で迎えられたことを」
皇子は立っていき、小手姫の手を取り、両の手でしっかりと握った。
錦代も小手姫に寄り添い、泣き笑う。
糠手子がふと立ち上がり、外に出ていった。
母子の別れに水を差してはいけまいと思ったのであろう。
しばらくして戻ってきた糠手子は、秦の者らを連れてきた。
「酒を持ってきました」
それは、秦の者らが仕込んできた、桑酒(桑の実の酒)であった。
別れの宴は、明け方まで続いた。
それから五日後、収繭が行われ、無事に済んだ。
繭の毛羽とりは、小手姫が村人らに教えながら、総出で行われた。
そして、その翌日、五月八日、辰の刻(午前七時)頃、蜂岡皇子と同行の、秦犬山、秦坂田、秦奥久丹、秦石田は、蝦夷の国に向けて旅立った。
都追慈(山躑躅)が、朱赤色の花を咲かせていた。
大仰な見送りであった。
それでも、誰がこれが今生の別れであるような素振りを見せようか。
都と堂平に比べれば、堂平と出羽は遥かに近い。
双方で行き来できる距離なのだ。
しかしこれが、小手姫と蜂岡皇子の、永久の別れとなった。
「丸、あの草、珍しい」
一齢用の若芽(ヤマグワの先端の柔らかい葉)を刈ってきた帰り道である。
男手のほとんどは、新しく建つ蚕小屋の最後の仕上げをしていた。
丸津(秦丸津)にも、その白い特徴的な草花の名前が分からない。
立ち止まった二人に気付き、道案内の熊左が戻ってきた。
木立の間から沼地が見えた。そこに水芭蕉が群生して、白い花を咲かせている。
よく見ると、朝陽に照らされて、水面から湯気が立っている。
「あの白き草は」
「ありゃ、水芭蕉」
「ミズバショウ」
分からないのは無理もない。
都では見かけない草花である。
あと三日で立夏(旧暦四月十日)である。
陽気が良い日が数日続いていた。
雪がほとんど積もらないことが幸いして、母屋も、蚕用の高床の小屋も、築造には手間取らなかった。
杉ノ目の城主の命で、村人も大勢手伝った。
都から持ってきた蚕の卵を孵化させる準備に入っていた。
蚕小屋は、夜は雨戸を閉め、昼は和紙貼りの障子戸で太陽の暖かさを出来る限り取り込む。
それでも、その障子と蚕を置く蚕棚の間は広く取られ、日光を直接当てない構造である。
小予(錦代)と丸津は年齢が近く、話がよく合う。
傍目には、兄妹とも、姉弟とも見える。
「戻った頃には、呼び出し桑をあげられるかの」
再び歩み始め、小予が丸津に尋ねた。
「佐小様(小手姫)は掃き立ての名人ゆえ、ご心配は要りませぬ」
呼び出し桑とは、孵化した蚕に最初にあげる桑のこと。
掃き立ては、間接的な陽光に当て、羽箒で蚕の卵を掃いて、孵りを良くする作業。
「刻み(桑の若芽を細かく刻む作業)は、兄様らがやっておりますので、慌てずともよろしいでしょう」
丸津が逸る小予を慮って言った。
小予が急くもの無理はない。
堂平での、最初の春蚕の飼育であった。
都とは、気候も環境も違うため、すべてが上手くいくはずもないが、幸先は良いほうがいい。
春蚕さえ上手く行けば、その後は問題ないはずであった。
小手姫は、堂平であれば、年三回は、繭が取れるだろうと踏んでいた。
春蚕、夏蚕、そして秋蚕と。
秋蚕については、夏蚕の状況と気候によって、掃き立て次期を見極めることになっている。
さて、こうして、堂平での最初の蚕が飼育されていった。
収繭までの間、何度も杉ノ目の城主が直々に見学に来たり、技術の伝授のための若い者らが、作業に動員されるなどして、堂平の賑わいぶりは、ある種、祭りのようであった。
それでも、気の休まらない日々が過ぎていった。
四月七日、掃き立て、呼び出し桑から本給桑へ。
四月九日、酉の刻(午後五時)、止め桑。
四月十日、辰の刻(午前七時)、蚕が眠っていることを確認して、拡座(蚕座を二つに分割)。酉の刻、起蚕。二齢目に入る。桑の葉を大きめに刻んで与える。
四月十三日、巳の刻過ぎ(午前九時半頃)、眠中拡座。
四月十四日、申の刻頃(午後三時半頃)、起蚕。三齢に入る。室温を少し下げるため、風窓をわずかに開ける。刻まずに給桑。葉の表を上にして、まんべんなく蚕座に並べていく。
四月十五日、夕刻、止め桑。
四月十六日、酉の刻、起蚕。いよいよ四齢に入った。更に室温を上げるために、風窓を開ける。桑は枝ごと給桑。
この後、朝昼晩の給桑を続ける。
四月二十一日、夕刻、止め桑。
四月二十二日、申の刻(午後四時)、起蚕。室温を更に下げるために、障子戸を開ける。脱皮を確認し、桑付け(起蚕後、初めての給桑)。
四月二十三日、巳の刻頃、拡座。
その後、五日間、朝昼晩の給桑。
「佐小様、無事に五齢に入りました」
「そうか、よいよい」
小満の三日後の未の刻(十三時)過ぎに、丸津が母屋にやってきて、小手姫に報告した。
四月二十九日。
掃き立てから、二十二日後のことである。
小手姫は、蚕小屋に向かった。
そして、蚕座を見て回る。
「はい、良いですね。遅蚕も少ないようじゃ」
「はい、この分ですと、明日の午の刻(十二時)過ぎから、上蔟に入れるかと存じます」
「そうですか。新しい行程ですので、村の人にも手伝ってもらいましょう」
はたして、この二日後の五月二日、未の刻(十三時)過ぎには、ほぼすべての蚕が繭となった。
最初の春蚕は、予想以上の成功に終わったのである。
その夜、母屋の囲炉裏を、糠手子、小手姫、蜂岡皇子、錦代の四人が囲んでいる。
「母様、無事に上蔟が済み、本当によろしゅうございました」
「皆のお陰じゃ、有り難いことよ」
都を逃れて、まだ一年も経っていなかった。
このように首尾よく運ぶことを誰が予想したであろうか。
逃亡の旅は、確かに過酷であった。
しかし、その後にこのように順調に運ぶことは、はじめは想像すらできなかった。
「本当に、皆、無事で何より」
糠手子が言うのに、小手姫がかぶせた。
「さようです。これで、私も安心して、皇子を出羽へ送り出すことが叶います」
それは、誰もが触れずに、避けて来たことであった。
「私たちは、どうするのです」
錦代が尋ねた。
「私たちは、ここに残ります」
それは、すでに、糠手子と小手姫の間で話されていたことであった。
小手姫は、自らが皇子の背中を押さなければ、このまま時が過ぎていきましょう、と。
「皇子よ。そろそろ行く時です。そなたが生きる道に。終始、不甲斐ない母であった。許してくだされ」
錦代が堪えきれずに、泣き出した。
糠手子は囲炉裏の火を凝視している。
そして、皇子が口を開いた。
「そのようなことは、決してございません。こうして私があることができるのは、母様、そして」
小手姫は、優しい目で、皇子を微笑みながら見ている。
しかし、その笑みとは裏腹に、涙が頬を濡らしていた。
「そして、父様のお陰なのです」
泊瀬部皇子の訃報は、堂平に到着した、二日後に尾張からの密使が報じた。
「私は嬉しい」
小手姫は返した。
「嬉しく思うぞ。皇子が、ご自分の歩まれる道を見出され、そして、そこに向かって進もうとしている。この旅立ちを、皆で迎えられたことを」
皇子は立っていき、小手姫の手を取り、両の手でしっかりと握った。
錦代も小手姫に寄り添い、泣き笑う。
糠手子がふと立ち上がり、外に出ていった。
母子の別れに水を差してはいけまいと思ったのであろう。
しばらくして戻ってきた糠手子は、秦の者らを連れてきた。
「酒を持ってきました」
それは、秦の者らが仕込んできた、桑酒(桑の実の酒)であった。
別れの宴は、明け方まで続いた。
それから五日後、収繭が行われ、無事に済んだ。
繭の毛羽とりは、小手姫が村人らに教えながら、総出で行われた。
そして、その翌日、五月八日、辰の刻(午前七時)頃、蜂岡皇子と同行の、秦犬山、秦坂田、秦奥久丹、秦石田は、蝦夷の国に向けて旅立った。
都追慈(山躑躅)が、朱赤色の花を咲かせていた。
大仰な見送りであった。
それでも、誰がこれが今生の別れであるような素振りを見せようか。
都と堂平に比べれば、堂平と出羽は遥かに近い。
双方で行き来できる距離なのだ。
しかしこれが、小手姫と蜂岡皇子の、永久の別れとなった。
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