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七 大和を逃れて
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(やまとをのがれて)
大和の盆地を上りきり、高原に出ると、泊瀬道は緩やかな下りになる。
下りきれば、視界が一気に開け、道も平坦になっていく。
萩が一面に咲いている場所を、今は歩いていた。
現在の宇陀市、萩原(榛原萩原)の辺りであろうか。
「あっ」
藁沓の縄紐が切れた。
「いかがした」
糠手子が振り返って、小手姫に問いかける。
錦代が歩み寄って、しゃがんだ。
縄紐は、何かで切断されたように、ぷっつりと切れていた。
小手姫の脳裏には、その瞬間、すぐに皇子(泊瀬部皇子)のことが思い浮かんだのである。
いや、声が聞こえたような。
実は、すでに、半刻(約一時間)ほど前から、何やら胸がざわついていたのである。
小手姫は沓を見下ろしたまま、身動きしなくなった。
錦代が小手姫の顔を心配そうに見上げている。
「大事はない。紐なら替えがあろう」
糠手子は、小手姫の胸の内を察し、それを打ち消すように言った。
小手姫は、大伴糠手子の実の娘である。
秦忍勝がすぐに、背負袋から、縄紐を出して、付け替え始めている。
「そうではないのです」
「何だというのだ」
「いいえ」
小手姫は口をつぐむ。
間もなく縄紐は結び直され、歩みが再開されたが、すぐにまた小手姫は立ち止まってしまった。
「やはり、わたくしは戻ります」
「何を言うのだ」
「きっと、皇子の身に何かあったのでございます」
同じことを考えていた、糠手子であった。
しかし、何かあったとしても、今から引き返したところで、詮無きことであることは、誰の目にも明らかであった。
それでも、どう、そのことを娘に伝えればいいか、糠手子には俄に思いつかない。
ただ、否定したところで、逆効果である。
「たとえ、そうだとしても、何ができようか」
不器用にも、追い打ちをかけただけになった。
「うっ」
小手姫は、堰を切ったように嗚咽の声を漏らした。
糠手子は、娘の肩に手を回して、背中を撫でる。
「よいよい、泣くが良い」
幼い頃でも、そのように泣いた娘を見たことがない、と糠手子は、振り返っていた。
元来、父親譲りの、気丈で明るい娘である。
その娘が、これほどまでに打ちひしがれているのは、自らが不甲斐ないせいであると、まるで責められているようである。
為す術無く、時を待つしかなかった。
同じ日の卯の初刻(午前五時頃)の頃。
敏達天皇十二年(五八五年)、長月(九月)は二十一日。
羅城門(現・京都市南区唐橋羅城門町)に、白装束の僧らが集まって来た。
総勢、三十名。
その中には、人知れず蜂岡皇子の姿があった。
すでに、剃髪され、他の者と遜色なく、一見して皇子とは、誰も分からない。
全員が揃ったことが確認されると、五名ほどの小隊に分かれて、それぞれが、事前の話し合い通りの方面に歩みを始めた。
西方に一隊。これは山陰道(古道)に向かう。
南に二隊。それらは、後に山陽道(古道)、南海道(古道)に分かれる手はずだ。
東方に三隊。それらは、山科の追分にて、一隊が北、北陸に向かう予定。
残りの二隊はそのまま東に進む。
その東進の二隊の中に、蜂岡皇子が含まれていた。
庶民には、これらは、何かの祭祀に関わる者たちと写ったかも知れない。
身分が高い人らが目にしたなら、あるいは山岳に向かう修行僧と見たかも知れない。
どちらでも良かった。
皇子と秦の臣民らには。
この企図するところは、撹乱であった。
後になって、蜂岡皇子が、この僧隊に混じって都を離れたことが分かったとしても、どの隊に属したか、検証できなくするための。
はたして、巳の刻に入って(午前九時頃)、東方へ向かう二隊が、逢坂の峠に差し掛かっていた。
峠道には陽の光が射し始め、凛と張り詰めた空気を温めて始めている。
紅葉した木々が彩る山の斜面が美しい。
しかし、そのような風情を感じることもなく、僧たちは歩みを緩めること無く進んでいった。
逢坂の峠は、かつて神功皇后の軍と忍熊王軍が最終決戦をしたとされる場所である。
皇后軍の大将、武内宿禰と忍熊王がばったり出くわしたことから、その名が逢坂山となったとも云われている。
武内宿禰とは、日本書紀の上では、大和の有力豪族の祖と言われている人物。
他方の忍熊王は、仁徳天皇の二代前、第十四代仲哀天皇の皇子とされる人物である。
逢坂は、その二者が逢った坂である。
一方で逆に、逢坂山は、万葉集の歌枕では、「別れ」を意味する。
「逢う坂」を、「別れ」に掛けるのが、和歌の感性である。
そのまさに「別れ」の坂を、蜂岡皇子(蜂子皇子)は、越えていくのであった。
遂に、都を離れる坂で、皇子は後ろを振り返りはしなかった。
もはや、皇子は、その先にある事のみを想っていた。
俗世には未練がない、出家した身である。
すなわち、皇位継承の権利が、完全に無くなったのである。
それでも、用意周到に逃亡計画を図ったのは、母と妹のためであり、また、確実に朝廷との関わりを断ち切るためであった。
それに、山背姫のことも。
姫には未来がある。
隊は、一気に峠を越え、山背国から近江国へ入り、一路下り坂を進んでいった。
間もなく、大津辺りの南を回り込むように、進路をとった。
左方に、淡海(現、琵琶湖)を眺める道である。
ここは、後に、天智天皇が飛鳥から遷都して、わずか五年間であったが、近江大津宮(志賀の都)を置いた場所である。
一行はそこから半刻(約一時間)歩き、淡海の出口、勢多(現、瀬田)川に掛かる橋を渡ったところで、ようやく休みを取った。
ちょうど午の刻(昼十二時ころ)頃であった。
その辺りは、後に近江国府が置かれた場所である。
ここで、一行は休憩をとった。
間もなく、草津の追分で、二手に分かれることもある。
秦森勝が、焚き火に鉄器にかけ、干した餅を炊き戻した。
早朝から、餉(ほし米)しか口にしていない者たちには、それは嬉しかった。
これから日暮れまでの道中である。
「皇子様、ご無事をお祈りしております」
森勝が声を掛ける。
自らには行き先は無く、ここまで、皇子を送ってきただけに過ぎない。
根性の別れであった。
皇子は、懐から半紙に包んだ御髪を渡した。
「これを、山背姫に渡してほしい」
いわば、形見である。
「しかと、お受けいたしました」
この別れの後、蜂岡皇子の一行は、岡田(滋賀県湖南市三雲)辺りまで、その日の内に進み、野営した。
「やはり、鹿高(現・三重県名張市安部田鹿高 )までは難しいか」
大伴糠手子は、秦忍勝に声を掛けた。
「それでは、この辺りで、雨風が凌げそうなところを探して参ります」
泊瀬道は、再び緩やかは下り坂に入ったところで、日が暮れかけてきたのであった。
十月(旧暦)までには、まだ十日近くあるが、それでも、日が落ちれば寒くなった。
雪が降る前に、大和の高原を越え、まずは尾張を目指している。
余裕はあるが、何しろ、小手姫や錦代には、初めての旅路である。
無理はできなかった。
寅の刻(午前三時頃)に倉梯を出立すれば、鹿高までは、歩き通しでおよそ三刻(約六時間)。途中休んでも、夕刻までにはたどり着けるかと踏んでいた。
一行は、糠手子、秦忍勝、秦養、秦丸津、秦田山、そして小手姫、錦代であった。
もっとも、糠手子は、今は秦峯能と名乗っていたし、小手姫は佐小、錦代は小予ということになっている。
「あの薄の奥辺りがよろしいかと存じます」
丸津が戻ってきて、峯能に伝えた。
秦の者たちは皆、開拓の技術者であった。
野営などは、お手の物である。
四半刻掛けて塒を整え、食事を作り上げる。
夕食は、餉と干しワカメを鉄器で炊いたものである。
「峯能様、この分ですと、尾張には、あと十日あまりでございましょう」
忍勝は、手製の地図を広げて、峯能に報告した。
「ふむ、そのようでよろしかろう」
「いずれにしましても、最初の四日をしのぎましたら、志摩になります。そこで、道は平坦になりますゆえ、格段に楽になりましょう」
糠手子は、出立が決まった直後、念のため、尾張の氏族、多々見に内々に文を送っていた。
尾張氏族は、継体大王と深く関わっていた。その時からの縁である。
多々見は、継体の威光を我が氏族の立身に悪用している、蘇我を良く思っていなかった。
そのため、都の動向を注視しており、糠手子とも文のやり取りを欠かしていなかったのだ。
よって、この度の糠手子からの文を、多々見は穏やか成らざる心持ちで受け取ったに違いない。
「詳しいことは、尾張に到着した後」とし、糠手子は当泊願いの旨だけをしたためた。
皆は、そこで合流する手はずでする。
泊瀬道から志摩道に抜け、東海道(古道)を進む糠手子の一行と、蜂岡から一端木津川まで南下して、そこから東海道を行く蜂岡皇子の隊とが。
尾張の後は、東山道(古道)に進路を変え、北上し、陸奥を抜け、小野から出羽に進路を取り、蝦夷の国に入る、という道のりが、計画の全容である。
問題は、やはり出羽。
このまま進めば、どのみち、雪が降った後の出羽道となるからだ。
しかし、いま、一月後のことを案じるのは無用である。
いずれにしても、この旅路は、再び都に戻ることの無い旅路であるからだ。
行った先々で、その時々の判断をし、策を講ずるしかないのである。
そのための、秦の人員であった。
食事ができるまでの間、小手姫と錦代は笹薮の方に行った。
用をたす場所を見に行ったのだ。
「チイイ、チュリリ、チュリリ」
しゃがむと、鳥の声らしきが聞こえてきた。
何という鳥か分からないし、見えないが、声からして、小さき、可愛らしい鳥であることが察せられる。
小手姫は思いがけず、微笑んだ。
そして、都を離れたことを改めて想った。
大和の盆地を上りきり、高原に出ると、泊瀬道は緩やかな下りになる。
下りきれば、視界が一気に開け、道も平坦になっていく。
萩が一面に咲いている場所を、今は歩いていた。
現在の宇陀市、萩原(榛原萩原)の辺りであろうか。
「あっ」
藁沓の縄紐が切れた。
「いかがした」
糠手子が振り返って、小手姫に問いかける。
錦代が歩み寄って、しゃがんだ。
縄紐は、何かで切断されたように、ぷっつりと切れていた。
小手姫の脳裏には、その瞬間、すぐに皇子(泊瀬部皇子)のことが思い浮かんだのである。
いや、声が聞こえたような。
実は、すでに、半刻(約一時間)ほど前から、何やら胸がざわついていたのである。
小手姫は沓を見下ろしたまま、身動きしなくなった。
錦代が小手姫の顔を心配そうに見上げている。
「大事はない。紐なら替えがあろう」
糠手子は、小手姫の胸の内を察し、それを打ち消すように言った。
小手姫は、大伴糠手子の実の娘である。
秦忍勝がすぐに、背負袋から、縄紐を出して、付け替え始めている。
「そうではないのです」
「何だというのだ」
「いいえ」
小手姫は口をつぐむ。
間もなく縄紐は結び直され、歩みが再開されたが、すぐにまた小手姫は立ち止まってしまった。
「やはり、わたくしは戻ります」
「何を言うのだ」
「きっと、皇子の身に何かあったのでございます」
同じことを考えていた、糠手子であった。
しかし、何かあったとしても、今から引き返したところで、詮無きことであることは、誰の目にも明らかであった。
それでも、どう、そのことを娘に伝えればいいか、糠手子には俄に思いつかない。
ただ、否定したところで、逆効果である。
「たとえ、そうだとしても、何ができようか」
不器用にも、追い打ちをかけただけになった。
「うっ」
小手姫は、堰を切ったように嗚咽の声を漏らした。
糠手子は、娘の肩に手を回して、背中を撫でる。
「よいよい、泣くが良い」
幼い頃でも、そのように泣いた娘を見たことがない、と糠手子は、振り返っていた。
元来、父親譲りの、気丈で明るい娘である。
その娘が、これほどまでに打ちひしがれているのは、自らが不甲斐ないせいであると、まるで責められているようである。
為す術無く、時を待つしかなかった。
同じ日の卯の初刻(午前五時頃)の頃。
敏達天皇十二年(五八五年)、長月(九月)は二十一日。
羅城門(現・京都市南区唐橋羅城門町)に、白装束の僧らが集まって来た。
総勢、三十名。
その中には、人知れず蜂岡皇子の姿があった。
すでに、剃髪され、他の者と遜色なく、一見して皇子とは、誰も分からない。
全員が揃ったことが確認されると、五名ほどの小隊に分かれて、それぞれが、事前の話し合い通りの方面に歩みを始めた。
西方に一隊。これは山陰道(古道)に向かう。
南に二隊。それらは、後に山陽道(古道)、南海道(古道)に分かれる手はずだ。
東方に三隊。それらは、山科の追分にて、一隊が北、北陸に向かう予定。
残りの二隊はそのまま東に進む。
その東進の二隊の中に、蜂岡皇子が含まれていた。
庶民には、これらは、何かの祭祀に関わる者たちと写ったかも知れない。
身分が高い人らが目にしたなら、あるいは山岳に向かう修行僧と見たかも知れない。
どちらでも良かった。
皇子と秦の臣民らには。
この企図するところは、撹乱であった。
後になって、蜂岡皇子が、この僧隊に混じって都を離れたことが分かったとしても、どの隊に属したか、検証できなくするための。
はたして、巳の刻に入って(午前九時頃)、東方へ向かう二隊が、逢坂の峠に差し掛かっていた。
峠道には陽の光が射し始め、凛と張り詰めた空気を温めて始めている。
紅葉した木々が彩る山の斜面が美しい。
しかし、そのような風情を感じることもなく、僧たちは歩みを緩めること無く進んでいった。
逢坂の峠は、かつて神功皇后の軍と忍熊王軍が最終決戦をしたとされる場所である。
皇后軍の大将、武内宿禰と忍熊王がばったり出くわしたことから、その名が逢坂山となったとも云われている。
武内宿禰とは、日本書紀の上では、大和の有力豪族の祖と言われている人物。
他方の忍熊王は、仁徳天皇の二代前、第十四代仲哀天皇の皇子とされる人物である。
逢坂は、その二者が逢った坂である。
一方で逆に、逢坂山は、万葉集の歌枕では、「別れ」を意味する。
「逢う坂」を、「別れ」に掛けるのが、和歌の感性である。
そのまさに「別れ」の坂を、蜂岡皇子(蜂子皇子)は、越えていくのであった。
遂に、都を離れる坂で、皇子は後ろを振り返りはしなかった。
もはや、皇子は、その先にある事のみを想っていた。
俗世には未練がない、出家した身である。
すなわち、皇位継承の権利が、完全に無くなったのである。
それでも、用意周到に逃亡計画を図ったのは、母と妹のためであり、また、確実に朝廷との関わりを断ち切るためであった。
それに、山背姫のことも。
姫には未来がある。
隊は、一気に峠を越え、山背国から近江国へ入り、一路下り坂を進んでいった。
間もなく、大津辺りの南を回り込むように、進路をとった。
左方に、淡海(現、琵琶湖)を眺める道である。
ここは、後に、天智天皇が飛鳥から遷都して、わずか五年間であったが、近江大津宮(志賀の都)を置いた場所である。
一行はそこから半刻(約一時間)歩き、淡海の出口、勢多(現、瀬田)川に掛かる橋を渡ったところで、ようやく休みを取った。
ちょうど午の刻(昼十二時ころ)頃であった。
その辺りは、後に近江国府が置かれた場所である。
ここで、一行は休憩をとった。
間もなく、草津の追分で、二手に分かれることもある。
秦森勝が、焚き火に鉄器にかけ、干した餅を炊き戻した。
早朝から、餉(ほし米)しか口にしていない者たちには、それは嬉しかった。
これから日暮れまでの道中である。
「皇子様、ご無事をお祈りしております」
森勝が声を掛ける。
自らには行き先は無く、ここまで、皇子を送ってきただけに過ぎない。
根性の別れであった。
皇子は、懐から半紙に包んだ御髪を渡した。
「これを、山背姫に渡してほしい」
いわば、形見である。
「しかと、お受けいたしました」
この別れの後、蜂岡皇子の一行は、岡田(滋賀県湖南市三雲)辺りまで、その日の内に進み、野営した。
「やはり、鹿高(現・三重県名張市安部田鹿高 )までは難しいか」
大伴糠手子は、秦忍勝に声を掛けた。
「それでは、この辺りで、雨風が凌げそうなところを探して参ります」
泊瀬道は、再び緩やかは下り坂に入ったところで、日が暮れかけてきたのであった。
十月(旧暦)までには、まだ十日近くあるが、それでも、日が落ちれば寒くなった。
雪が降る前に、大和の高原を越え、まずは尾張を目指している。
余裕はあるが、何しろ、小手姫や錦代には、初めての旅路である。
無理はできなかった。
寅の刻(午前三時頃)に倉梯を出立すれば、鹿高までは、歩き通しでおよそ三刻(約六時間)。途中休んでも、夕刻までにはたどり着けるかと踏んでいた。
一行は、糠手子、秦忍勝、秦養、秦丸津、秦田山、そして小手姫、錦代であった。
もっとも、糠手子は、今は秦峯能と名乗っていたし、小手姫は佐小、錦代は小予ということになっている。
「あの薄の奥辺りがよろしいかと存じます」
丸津が戻ってきて、峯能に伝えた。
秦の者たちは皆、開拓の技術者であった。
野営などは、お手の物である。
四半刻掛けて塒を整え、食事を作り上げる。
夕食は、餉と干しワカメを鉄器で炊いたものである。
「峯能様、この分ですと、尾張には、あと十日あまりでございましょう」
忍勝は、手製の地図を広げて、峯能に報告した。
「ふむ、そのようでよろしかろう」
「いずれにしましても、最初の四日をしのぎましたら、志摩になります。そこで、道は平坦になりますゆえ、格段に楽になりましょう」
糠手子は、出立が決まった直後、念のため、尾張の氏族、多々見に内々に文を送っていた。
尾張氏族は、継体大王と深く関わっていた。その時からの縁である。
多々見は、継体の威光を我が氏族の立身に悪用している、蘇我を良く思っていなかった。
そのため、都の動向を注視しており、糠手子とも文のやり取りを欠かしていなかったのだ。
よって、この度の糠手子からの文を、多々見は穏やか成らざる心持ちで受け取ったに違いない。
「詳しいことは、尾張に到着した後」とし、糠手子は当泊願いの旨だけをしたためた。
皆は、そこで合流する手はずでする。
泊瀬道から志摩道に抜け、東海道(古道)を進む糠手子の一行と、蜂岡から一端木津川まで南下して、そこから東海道を行く蜂岡皇子の隊とが。
尾張の後は、東山道(古道)に進路を変え、北上し、陸奥を抜け、小野から出羽に進路を取り、蝦夷の国に入る、という道のりが、計画の全容である。
問題は、やはり出羽。
このまま進めば、どのみち、雪が降った後の出羽道となるからだ。
しかし、いま、一月後のことを案じるのは無用である。
いずれにしても、この旅路は、再び都に戻ることの無い旅路であるからだ。
行った先々で、その時々の判断をし、策を講ずるしかないのである。
そのための、秦の人員であった。
食事ができるまでの間、小手姫と錦代は笹薮の方に行った。
用をたす場所を見に行ったのだ。
「チイイ、チュリリ、チュリリ」
しゃがむと、鳥の声らしきが聞こえてきた。
何という鳥か分からないし、見えないが、声からして、小さき、可愛らしい鳥であることが察せられる。
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そして、都を離れたことを改めて想った。
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