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上がり症の僕は帽子を被る

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「あ。」
 棚に引っかかり、被っていた帽子が脱げて落ちた。視界がクリアになり、目の前の人と視線が交わる。目を見開いたように見えたその人からすぐに顔を逸らし、落ちた帽子を慌てて拾い被り直す。顔を上げられないまま、何とか預かっていた物を手渡し、奥へとすぐさま引っ込んだ。
「…最悪だ。」
 ずるずると閉めた扉に背を預けて、赤くなっているであろう頬に手を当てて俯いた。


―――ここは魔術付与店。

 従業員は5人。武器や生活用品などに魔術付与を行う店だ。
 魔術付与は魔力を持つ者しかできず、それを生業とする上では資格が必要となる。資格を持つ僕は持ち込まれた物に希望する魔術を付与することができる。
「すみません、これをお願いしたいのですが。」
 やって来たであろう客の声が聞こえ、僕は手を止めた。こそっと扉を開けてその客の姿を盗み見る。そこには騎士の服に身を包んだ一人の男性。
「あぁ、守護の付与ですね。」
 従業員のラビルがそう言いながらブローチを受け取っていた。僕はそれを見た後、そっと扉を閉めて机に戻る。
……格好良い。
 その人は騎士団の副団長でヴァン・クリストフ様という。物腰柔らかく、涼し気な目元で誰にでも優しい。貴族出身だからか、品があってどこか他の人とは違う雰囲気を持っている。
……僕は密かにヴァン様に憧れている。
 きっと、ヴァン様は忘れているだろう。僕は小さい時に人攫いにあったことがある。その時に助けてくれたのがヴァン様だった。他にも捕まっていた子もいたし、その中の一人なんて覚えてやしないだろうが。
……僕は、鮮明に覚えている。
 怖い大人を薙ぎ倒していく様も、掛けてくれた優しい言葉も、そっと抱き締めてくれた暖かい腕も。その時はまだ騎士の一人であったが、再会というか遠目で見かけて助けてくれた人だと気付いた時には、すでに副団長にまでのし上がっていた。遠い存在で、話し掛けることなんてできず。ただ、そっと。見かけることができたらその日はずっと幸せでいられるぐらいの、秘めた思いだ。
……まぁそもそも、僕は家と職場の往復ばかりでなかなか外に出ないから、会うことなんてほとんどないのだが。
「おい、おーい。リュン。これ、副団長様からの依頼品だ。守護の付与を頼む。」
 回想にふけっていると、いつの間にかラビルがいて声を掛けられた。
「あ、うん。分かった。」
 慌てて受け取り、依頼用紙に書き込んでいく。
「1週間後にまた取りに来るってさ。リュン、相変わらず外に出てないな?いい加減、その帽子買い替えろって。」
「ま、まだ被れるもん…。」
「でも綻んでいるし、でかすぎるだろ?いくら顔を隠したいっていってもさぁ。だいたい、お前の家とここまで徒歩5分もねーだろ。」
「買い物行く時いるし…。これが一番ちゃんと顔隠れるし…。」
 そう言うと、ため息をついて苦笑したラビルは、僕の頭をがしがしと撫でてきた。
「買い物ぐらい付き合ってやるから、いい加減ちょっとは知り合い作れよ?」
 そう言って、部屋を出て行ったラビルとは長い付き合いだ。資格を取る学校で同級生だった彼は、いつも僕を気に掛けてくれていたばかりか、就職先も紹介してくれて同僚になったのだ。そんな中、他の従業員とも何とか親交を深められ、こんな僕をみんな受け入れてくれた。
……僕はもうこの職場以外で働くことができない気がしている。
 そうして、僕は職場と家の往復で生きているのだ。

――――――――

「おーい、リュン。俺そろそろ飯食いに行くけど、お前どうする?何か買ってきてやろうか?」
 ある日、ラビルが声を掛けてきた。
「うーん。じゃあサンドイッチをお願い。」
 僕は持ち込まれた物に魔術付与を行いながらそう答えた。いつも、僕が一人になる時には店のドアに「休憩中」の札を掛けていくのが決まりになっていたのだが……。ラビルが出る時に札を掛け忘れたらしく、店のドアが開く音が聞こえてきた。どうやら、客が来てしまったらしい。扉の向こうから、僅かに店員を探す声が聞こえた。
……必然的に僕が相手をするしかない。
 僕は恐る恐る、そっと扉を開いてすぐにパタンと閉めた。
……な、何で。
 そこにいたのは、まさかのヴァン様だった。僕は慌てて帽子を取り、深く被ると、そっと扉を開けて何とか声を掛けた。
「預けていた物を取りに来ました。本当は昨日に取りに来るはずだったのですが、急遽仕事が入ってしまいまして。遅くなってすみません。」
 そう言われ、確かに受け取りは昨日になっていたと思い出しながら、頷いて奥へと取りに行った。
……はぁ、緊張する。
 僕は極度のあがり症で、慣れていない人との会話なんて全く成り立たない。顔もすぐに赤くなってしまい、目を合わせて話すなんて以ての外だ。この仕事は資格さえ取れれば働き口はあるし、職場の人に慣れてさえしまえば大丈夫なため働くことができている。
……だからこんな状態の僕は、客の相手をすることに不得手で、不安しかない。しかも、よりにもよって騎士団の副団長様。憧れのヴァン様ときた。そんな人と1対1で話すなんて僕倒れたらどうしよう……。
 ドキドキと鳴り止まない心臓を抑える手段は持ち得ないため、とにかく早く渡して帰ってもらおうと渡す物を手に取った。扉の向こうで待っているであろうヴァン様と対峙する前に、3回ほど深呼吸をする。そして、意を決して扉を開け、歩みを進めたその時に、それは起こり、冒頭へと戻る。

―――――

「すみませんね、うちの者が。」
 数分後、扉の向こうから、戻って来たであろうラビンの声がする。僕は扉から離れて、机に突っ伏した。
「うぅー……。」
 しばらくすると、ラビンが入ってきたのが分かった。
「おーい、悪かったな。札掛けるの忘れてたの思い出してすぐに戻って来たんだけど、まさかあの間に客来るとは思わなくてさぁ。」
 苦笑しながら、僕の頭に手を乗せたラビンが謝ってきた。
「うぅ、ヴァン様、何か言ってた…?」
 そもそも、僕の我儘のための札だし、仕事であるなら対応するのが当たり前であって、ラビンに謝られることはないのだ。情けない自分の姿に落ち込みつつラビンに聞くと、
「あー…何か色々聞かれたけど濁しておいた。」
 ちょっと困ったように言われて余計に落ち込んだ。
……絶対、何だこいつって思われた。客の対応もまともにできない変なやつだって、絶対思われた…。
 僕だったらそう思う。顔も見せずに出てきて話しもしない、帽子が脱げて逃げるように客を置いて閉じこもるやつなんて。ズーンと落ち込む僕に、ラビンが焦ったように慰めてくれるけど僕の耳には届かず、その出来事を忘れるように依頼品をひたすら捌いていったのだった。
……日が落ちてきた頃。他の従業員たちは皆仕事を終えて、僕に声を掛けて帰って行った。僕は、ひたすら仕事をこなして、そろそろ帰ろうと、重い腰を上げて帰り支度を始める。
……はぁ、帽子さえ脱げなかったら……。
 手に取った自分の帽子を見て、昼間の出来事を嫌でも思い出してため息が出た。それを深く被ると、店の扉を開け、鍵を取り出す。カチャっと金属音が鳴ったのを確認し、歩き出そうとした時。
「こんばんは。リュン君?って呼んでいいのかな。」
 聞き覚えのある声が僕の名前を呼ぶのが聞こえて、身体が固まった。
「あぁ、すみません。驚かせてしまいましたね。騎士団に所属しています、ヴァン・クリストフといいます。」
 僕は、ギギギと固まっている首を動かして、そこにいるであろうヴァン様本人の方へと顔を向けた。
「えっと…。あの…。こ、こんばんは…。」
 絞り出すように何とか声を出した。僕は全身が心臓になったんじゃないかと思うぐらいのドクンドクンと早く脈打つ音を聞きながら、ぎゅっと帽子を両手で掴んだ。
「昼間会ったのですが、覚えていますか?ここの店は付与が丁寧で長持ちすると評判でして。以前も利用させてもらったことがあるんです。」
 そのまま話し掛けられてしまい、僕はどんどん顔が熱くなっていくのを感じた。言葉が出なくて、あわあわと口だけ動く。
「私のことはヴァンと呼んでください。リュン君、これから夕食ですか?」
「あ、あ、家に……。すぐ、そこなので……。」
 問われたことに何とか返し、俯く。
「せっかくなので、一緒にいかがですか?良い店があるんです。個室があるのでゆっくりできますよ。行きましょう。」
……え、え、え?
 そっと背中に回された手に優しく押されたかと思うと、足を進められる。
「あの、僕、家に……。」
「その店の肉料理が絶品で。他にも色々とありますよ。」
 強引なはずなのに、背中に触れている手も、口調も話し方も優しくて、そのまま流されてしまう。
「さ、こちらです。リュン君はいつからあの店に?」
「うぁ、あ、えっと、3年……。」
「3年ですか。何度か店には訪れていたのですが、すれ違っていたのですね。」
……な、何?どういう状況?
 僕は促されるまま歩いて、店に着いたかと思うと、中へと案内され席についていた。帽子は脱ぐことができず、目深に被ったまま。
「何が好きですか?適当に注文しましたが、食べたい物があれば言って下さいね。」
「え、あ、えっと、何でも……。」
「リュン君は、一人で住んでいるのですか?恋人は?」
 矢継ぎ早に色々と聞いてくるヴァン様。個室で、何故か隣に座ると運ばれてきた料理を皿に取り分けてくれる。でも僕はこの状況についていくことができず、固まったままで返事もろくにできない。
「リュン君、帽子。取っていいですか?」
 そう言われた時、反射的に帽子を握りしめ、立ち上がろうとしてガタッと机に脚をぶつけてしまった。
「すみません。冗談です。そのままで食べられそうですか?」
 僕の失礼な態度にも優しく宥めるように背中に手を当てられ、そこが熱を持ったように熱くなるのが分かった。
「ご、ごめんなさい……。」
 触れられている状況に、僕はますます固まって、料理にも手を付けられない。
「リュン君、あーん。」
「へっ?……んっ!?」
 反射的に顔を上げ、口を開けた時に、スプーンですくった料理を入れられ、咄嗟に口を押さえて顔を後ろにのけ反らせる。
「……っ!」
 その拍子に、帽子がまたしても脱げて落ちてしまった。慌てて立ち上がろうとして、姿勢を崩してしまい、身体が傾く。
「おっと。大丈夫ですか?」
 腕を掴まれて引き寄せられたかと思うと、そのままヴァン様の胸に抱き留められてしまった。顔を上げた時の近すぎる距離に、僕は思考が停止する。
「あ、あ、あ……。」
 僕は全身が熱くなるのを感じながら、あわあわと口を開けては閉じる。もうすでにキャパオーバーだ。言葉は出てこないし、目頭が熱くなってくるし、動けないし、もうただただ固まるしかない。
「……リュン君。そんな顔して、誘ってます?」
 なぜかそのまま背中に腕を回されて、さらに引き寄せられ、頬に手を当てられる。
……さ、誘ってる……っ!?
 あわあわと口を動かしながらも、近い距離にいるヴァン様に頭はもうショート寸前の僕。顔は火が出ているような熱さだし、それに伴って目は回ってきてしまった。
「リュン君?大丈……!?」
 そしてそのまま気を失ってしまったのだった。

―――――――

……はっ!
 僕は目を覚ますや否や飛び起きた。
「……あれ、夢?」
 僕は鮮明に覚えている記憶を巡らせ、いつもの自分のベッドの上できょろきょろと辺りを見渡した。
「なんだ、夢か。あー良かった。」
 きっと、仕事のし過ぎで疲れていたんだろう。ヴァン様と食事するなんて、そんなことあったはずがない。僕は一人納得し、ほっと息をついた。ベッドから下りると、顔を洗いに部屋を出る。今日も仕事のため、朝の準備を済ませる。そして、玄関の横に置いている机から鍵を取ろうと手を伸ばした時、一枚の紙が目に入った。
……っ!?
 そこに書かれている文章を見て血の気が引いていく。
『昨日は混乱させてしまい申し訳ありません。またお伺いします。ヴァン・クリストフ』
 美しい字で書かれたそれは、見間違いでなければヴァン様から僕へと当てた置手紙だった。僕はその内容に、昨日のことは夢ではなかったのだと突き付けられ、ふらふらとおぼつかない足取りで家を出た。
「……家、家まで、ヴァン様が送ってくれた……?」
 気絶した僕をわざわざ家まで運んでくれたのだろう。その光景を想像すると恥ずかしさで死にそうになる。ぶつぶつと言いながら店につき、魔術付与を行う部屋に閉じ籠る。
「リュン、おはよう。どうした?」
 来て早々、一心不乱に魔術付与を行っていく僕を見て、ラビンが声を掛けてきた。
「……ラビン、僕はもう駄目かもしれない。」
「なんだなんだ、どうした。元気出せって。ほら、これやるから。」
 そう言って、渡してきたのは新しい帽子。
「え、どうしたのこれ?」
驚いてそう聞くと、
「何言ってんだ、今日お前誕生日だろ?どうせ新しいの買う気ないだろうと思って買って来た。」
……あ、今日僕の誕生日か。
 納得して、有難く頂戴する。被ってみると、すっぽりと頭が隠れ、つばの部分で顔半分は見えない仕様になっていた。これなら、街に出掛ける時も被れる。
「お、似合ってるじゃねーか。」
 笑って、帽子越しに頭を撫でられる。
「ふふ、ありがと。」
 嬉しくて僕も笑ってお礼を言った。気分が上がったところで、仕事を再開。昼になった時、ラビンが外へと出て行った。カラン、と音が聞こえたため、札を掛けて行ってくれたのだろう。僕も一休みして、身体を伸ばしていた時。
―――カランカラン。
 扉が開く音がして、しばらく何の声も音も聞こえないことが分かり身を強張らせた。客であるなら、何かしら店員を呼ぶ声が聞こえるはずだ。ラビンは札を掛けていっただろうし、帰ってくるには早すぎる。
……お客さんなら、問題はない。もし違って、強盗であれば…危険だ。
 僕はドクンドクンと嫌な心臓の音を聞きながら、そっと護身用のブレスレットを握り締め、扉に近付き、向こう音を聞こうと様子を伺う。
―――コンコン
 目の前の扉から、呼び出しの音が鳴り響いた時、僕は緊張状態だったためビクッと飛び跳ね、横の棚に身体を打ち付けてしまった。
――――ガラガラガッシャン!!
 大きな音が鳴ってしまい、慌てて落ちた物を拾おうとした時、その扉が開かれた。
「……リュン君?大きな音がしましたが、大丈夫ですか?」
 そこにいたのは、昨日盛大に迷惑を掛けたであろう僕の悩みの種である張本人のヴァン様だった。
「すみません、驚かせてしまったんですね。従業員の方と来る途中にすれ違いまして。リュン君は留守番していると聞いたものですから。」
……ラビン。何てことを言ってくれたんだ。
 僕は力が抜けて、その場でへたり込んでしまいそうになった時、力強い腕で腰を抱かれて何とか立ち直す。
「怖がらせてしまいましたか?リュン君、元気そうで安心しました。」
 何故か抱き寄せられるように身体を近付けられ、顔を覗き込むようにそう言われ、僕はボンッと音が鳴ったのではないかと思うぐらい、顔が瞬時に熱くなるのを感じた。
「う、あ、あの、昨日は……。」
「あぁ、昨日はすみませんでした。今日、早朝に呼び出されてしまい付き添えず。リュン君、今日の予定は?直帰ですか?終わるのは昨日と同じぐらいですか?」
 矢継ぎ早にそう言われ、僕はぽかんとヴァン様の顔を見返す。すると、
「副団長!時間ですよ!」
 扉を勢いよく開けて店に入って来た騎士がそう叫び、僕はびくっと身体を揺らした。
「……チッ。はぁ、リュン君すみません。驚かせましたね。仕事が終わったらまた伺います。」
 一瞬、目が鋭くなった気がしたが、すぐに優しく微笑みかけられ、するっと頬を撫でられると颯爽と店から出て行った。
「何だったんだ……。」
 あまりの怒涛の数分間に、僕は呆然と立ったままだった。

―――それから。

「リュン君、これサイズを間違えて買ってしまいまして。良かったらもらってくれませんか?」
「美味しい店を見つけたんです。もう仕事は終わりですよね?行きましょうか。」
「この帽子、新しいですよね。似合ってます。…へぇ、あの男性店員からの貰い物。…私もプレゼントしてもいいですか?」
 何度も何度もヴァン様と会うことになり、流されるまま一緒に行ったり物を貰ってしまったりと日々が過ぎて行った。
……どうしよう僕。
 どんどんヴァン様に対する気持ちが膨らんでいってしまっていた。そもそも好意を抱いている相手が優しくしてくれて、エスコートしてくれて、プレゼントくれて、ってされたら誰だってどんどん好きになっちゃうよ。
……今日は来れないって言ってたなぁ。
 思い出して、少し寂しくなりため息が出る。どんどん欲張りになっていってる気がする。明日は来てくれるのかな、と考えながら、いつものように店を閉めて家に帰ろうとした時、突然呼び止められた。
「リュン殿で間違いないですね?少々、お時間よろしいでしょうか。」
「……え。」
 赤髪の騎士服に身を包んだ男性が立っており、威圧を感じる話し方に僕は身を強張らせる。
「え、あ、あの、何……。」
 敵意のようなものを感じ、両手で帽子を掴み、目を合わせられないまま何とか声を発した。
「副団長に付き纏うのは止めていただきたい。ただでさえご多忙なのです。あの方の優しさにつけ込んで、恥ずかしくないのですか?それに、婚約者のウラン様も不安に思っておいでです。これは忠告です。次、あの方に付き纏うなら容赦しませんよ。」
 低い声で有無を言わせない様子に、僕は身体が震えた。下を向いたまま、何も言わない僕に対し、その人は時間の無駄だとばかりに、ふんっと鼻を鳴らし、踵を返して歩いて行ってしまった。僕はしばらくその場所から動けず、呆然と立ちすくんでいた。 そして、ふらふらと足を動かして自分の家へと進む。ドアを開け、玄関に力が抜けたように座り込む。
……こ、怖かった。
 真っすぐに敵意を向けられた恐怖に身体を抱き締めて俯く。そして言われた言葉を思い返す。付き纏っている?婚約者?言われたことを何とか思い返すも、何の話だと、頭が痛くなる。ただ、分かったのはあの人は僕のことが嫌いで、もうヴァン様に近付くなと警告してきたということ。しばらくボーっと玄関に座り込んでいたが、ゆっくり立ち上がり帽子を脱いだ。
……どっちにしろ、婚約者いたんだ。
 ヴァン様が僕のことを好きだとか、そんな勘違いはしていない。どちらかというと、放っておけないといったところだろうし。でも、それでも淡い恋心を抱いていた身としては複雑な訳で…。何も考えたくなくて、その日はシャワーだけ済ませるとすぐにベッドに向かったのだった。
 次の日、よく眠れなくて寝不足のまま仕事場に出向いた僕。ラビンにはもしヴァン様が来ても僕は休みだと言ってくれと話した。まぁ、そのせいで根掘り葉掘り聞かれ、何があったのか話さなきゃいけなくて時間がかかってしまったけれど。それからしばらく、ヴァン様とは会わない日々が続いた。 ラビンは何も言ってこないから、実際にヴァン様が店に来ているかは分からない。仕事終わりも会わないように早上がりさせてもらったり、シフトを交代してもらったりしていた。でもやっぱり店の扉が開く度に気になっちゃって、その都度はっとして仕事に集中するように頑張っていた。
 気にするなら、直接会って聞けばいいだけなんだけど……。もしそれで肯定されたらやっぱり落ち込むし、傷付くのは目に見えてるし……。せめて、ちゃんと祝福の言葉を言えるようになるまでは、と逃げ腰になっている僕。
……はぁ。
 でも考えれば考えるほど、ヴァン様と会っていた日々が夢のようで、思い出す度に手が止まってしまう。そして今日も何事もなく仕事が終わり、帰路につく。とぼとぼと家に入ろうとした時に、突然後ろから背中を押される。
……えっ!
 驚愕している内に、玄関に入ると腕を引かれ、閉められた扉に背を付ける形でその人に見下ろされる。あまりの早業に成す術もなく、目が合ったその人に息を飲んだ。
「お久しぶりです。手荒な真似をしてすみません。でもそろそろ限界なんです。」
 そう言い、僕の肩に顔を埋める形で抱き締められた。
「ヴ、ヴァン、様……。んっ……。」
 首にすりっと顔を擦り付けられ、くすぐったくて思わず声が漏れた。
「なぜ、会ってくれないのですか?何かしました?避けられているのは分かってるんです。でも、理由が分からなくて。お願いです、嫌なところは直します。俺のこと、嫌いになりましたか…?」
「え、あ、え…あ、の、僕…。」
 矢継ぎ早に言われたことを飲み込むのに時間がかかっている僕に、ヴァン様の腕の力が強くなり、身体が密着する。
「……それとも、誰か好きな人でもできました?」
 低くなったヴァン様の声に、僕は身体が強張る。
「あぁ、怖がらせたいわけじゃないんです。すみません。」
 背中に手を滑らせて、後頭部に差し込まれたかと思うと、顔を上げたヴァン様と目を合わせられる。息を飲んだ僕に、目を細めた。顔がどんどん熱くなる僕は、あわあわと口を動かすが言葉が出てこない。そんな僕を見て少し表情を緩めたヴァン様は、すりっと鼻を摺り寄せてきた。思わず息を止めた僕に、ふっと笑って額に唇を落とされる。もうショート寸前の僕は力が入らず、膝が折れそうになった時にぐっと腰を力強く支えられ、そのまま抱き上げられた。
「えっ……!?」
 そのまま、勝手知ったるようにずんずんと奥の部屋に向かって行き、降ろされたのはベッドの上。そのまま寝かされたかと思うと、ヴァン様が覆い被さるようにして乗り上げてきた。
僕は、この状況にはっとし慌てて起き上がろうとすると、肩を手で押されて再びシーツに縫い付けられる。
「あ、あの……。僕、駄目です、婚約者が……。」
「婚約者?あぁ、そういうことですか。誰です?俺と会っていた時はそんな人いませんでしたよね?」
 笑っていない目で見下ろされて、肩が揺れたが、僕は何とか言葉を紡いだ。
「え、あ、ヴ、ヴァン様、の、婚約者…。」
「……はい?俺の婚約者?何の話です?」
 呆気に取られたようなヴァン様の表情と口調に、僕は少し首を傾げた。
「あの、婚約者の方が、いるんですよね…?」
 落ち着いてきた僕がそう問い掛けると、ヴァン様も首を傾げた。
「いませんけど。…誰がそんなことを言ったんです?もしかしたら勘違いしているのかも知れませんね。訂正しておかないと、その相手にも失礼ですからね。誰に、そう聞いたんですか?」
 綺麗に微笑んだヴァン様に、僕はホッとして、
「ま、前に、騎士の人が、えっと、赤い髪の。ウラン、様?って人が不安に思ってる、って…。」
 思い出しながらわたわたと説明した。
「……赤髪、あいつか。余計なことを。」
 ヴァン様の一瞬鋭く光った目と呟かれた言葉には気付かず、
「あと、ヴァン様は、忙しいから、あまり、えっと……。」
 何とか言われたことを説明していくが、何と言っていいか分からず詰まる。
「もういいです、分かりました。そいつは何か勘違いしているようです。私に婚約者はいませんよ。…よく、言っておきますので。」
 そう言ってもらって、僕は安心して力が抜けた。
……なんだ、勘違いだったのか。婚約者はいないんだ。
「あの、ヴァン様は俺って言うんですか?」
 安心したら、どうでもいいことが気になって聞いた。
「……いえ、ちょっと私も焦りまして。普段は俺とは言いませんよ。それよりリュン君、私、傷付いたんですけど。理由も教えてもらえず避けられて。これでも仲良くなったと思っていたのに。」
「えっ。」
「私のこと、嫌いじゃないでしょう?」
 そう続けて言われて僕は真っ赤になった。
「う、あ……。」
「ふふ。むしろ、押せばいけるなと思っていたのに、いきなり避けられたら私だって焦りますよ。」
 続けられる言葉にどんどん顔は熱くなる。
……バレバレだったんだ、僕の気持ち。
 もうその時点で恥ずかしすぎて今すぐどこかに閉じ籠りたくて仕方がなくなる。
「リュン君、私のこと好きでしょう?こんな反応されて、そうじゃないなんて言われても納得できませんよ。」
 そう意地悪く微笑まれ、僕は両手で顔を覆った。
「ぅ、は、はい、好きです…。」
 言い逃れることも言い訳することもできず、肯定するしか言葉が出ない僕。
「可愛い。私も好きですよ。」
 そう返してきたヴァン様に、僕は恐る恐る手をずらして、そっと見返す。
「私、も?」
「えぇ、私も君が好きです。初めはあの時の子だと分かって近況を知りたいと思っただけなんですけどね。あまりにも可愛い反応ばかりするものだから、どうしてやろうかと思いましたよ。」
そう言いながら、チュッと顔を覆っている手に唇を落とされ、ぴゃっと身体を揺らした。
「リュン君、手、退けて?」
 優しく言われ、言われるがままそっと手を下ろすと、そのまま口付けられる。
「……っ……!」
「リュン君、鼻で息して。」
 少し唇を離した時にそう言われ、啄む様にキスを贈られる。そんな、初心者に高度なことを求めないで欲しいです……。そうこうしている内に、どんどん息が苦しくなってくるし、身体は熱くなってくるし、顔は熱を集めすぎてくらくらしてくる。
「ふふ、大丈夫ですか?」
 離された唇に、何とか息を整える僕を見て可笑しそうに言われる。
「はっ、はっ……っ、だい、じょうぶ、です。」
 もう恥ずかし過ぎる。経験もないし、こういう状況になったこともないから初心者丸出しだし、もういっぱいいっぱいだ。そもそも、憧れの人とまさかの両想いになって、息をつく暇もなく次へ次へと展開されていくし、もうキャパオーバーもいいところだ。
「はぁ……。す、みませ、僕、もっと練習、しときます……。」
 あまりにも情けない自分の状況に、イメージトレーニングをしっかり頑張ろうと、回らない頭で考えていると、
「……練習?誰とするつもりです?私とすればいいでしょう。もう私たちは恋人ですよね?」
 何故か目を鋭くしたヴァン様にそう言われ、僕は恋人という響きにちょっと照れる。
「こ、恋人…。」
 そう呟く僕に、片眉を上げたヴァン様は、
「リュン君?言っておきますが、私は浮気は許容できませんし、そうなれば君を監禁して相手は潰しますよ。」
何とも物騒なことを言ってきたが、僕は浮かれている上にあまり話をちゃんと聞けてなくて、
「あ、あの、僕、初めてで、その……。」
 とにかく、今の自分はいっぱいいっぱいなのだと伝えようとした。
「……全部、初めて?キスも、その先も?」
 ゆっくりとそう聞かれ、赤くなりながらも頷いた。
「リュン君。触れられるのも、触れるのも、私だけにして下さいね。これからも、ずっと。今は、もう少し我慢しますが、いずれ全て貰います。」
 再度、降ってきた唇を受け止めるのに必死で、僕は言われたことを覚えられず、されるがまま流されるのだった。


―――――――


「申し訳ありませんでした!!!!」
 ヴァン様と恋人になった後、例の勘違いをしていたという赤髪の騎士の人が店に来たかと思うと、その場で土下座をして謝罪の言葉を叫んだ。僕を指名していると言われて恐る恐る出た途端、いきなり謝罪され呆気に取られた僕は、その騎士の腫れあがった顔に目がいき、ぎょっとする。
「ぅ、あ、あの、その、顔…。」
 以前の感じた威圧感もないその人に、帽子を深く被ったまま恐る恐るそう聞くと、
「い、いえ、これはその、私の自業自得であり、気にすることでは。本当に、申し訳ありませんでした!」
 再度そう謝られるも、僕は何のことだと内心首を傾げる。しかし、聞けない。あわあわとどうしようと口をパクパクさせるだけだ。
「リュンを困らせるな。もういいでしょう、さっさと戻りなさい。」
 いつの間にか来ていたヴァン様が、冷たく感じる口調でそう言い放つと、赤髪の騎士は顔を青くしながらパッと立ち上がり、もう一度深く頭を下げると店を出て行った。
「え、あ、あの、何…?」
 一体何事だったのかとヴァン様に聞くと、
「あぁ。以前、リュンに失礼なことをした騎士ですよ。勘違いを正した後、君に謝りたいと言ってきたのでその機会をあげただけです。」
 僕の帽子をスッと取って、頭にチュッとキスを落とされる。それに顔を熱くしながらも、首を傾げた。
「あの時は、怖かったけど、勘違いしてたなら、仕方ないですよ…?」
勘違いは誰にでもあることだ。わざわざ謝られずとも、勘違いだったとヴァン様が説明してくれたのならそれで十分なのに。そう思い、そう言うと、
「…怖かった?怖かったんですか。そうですか。…もう少し教育が必要ですね。」
 にっこり笑ったヴァン様がそう言い、内容は理解できなかったが美しいその笑みに何も考えられなくなり、相変わらずわたわたと顔を隠すのだった。

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藍沢真啓/庚あき
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俺──ルシアン・イベリスは学園の卒業パーティで起こった、妹ルシアが我が国の王子で婚約者で友人でもあるジュリアンから断罪される光景を見て思い出す。 (あ、これ乙女ゲームの悪役令嬢断罪シーンだ)と。 ちなみに、普通だったら攻略対象の立ち位置にあるべき筈なのに、予算の関係かモブ兄の俺。 しかし、うちの可愛い妹は、ゲームとは別の展開をして、会場から立ち去るのを追いかけようとしたら、攻略対象の一人で親友のリュカ・チューベローズに引き止められ、そして……。 気づけば、親友にでろっでろに溺愛されてしまったモブ兄の運命は── 異世界転生ラブラブコメディです。 ご都合主義な展開が多いので、苦手な方はお気を付けください。

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