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第1部:I と蛇
#15
しおりを挟む寛貴の言葉に、由伊たちは皆関心して「たしかに」と頷いた。
「かといって律くんたちの性格じゃ、俺らの家に来たいだなんていえないだろうしなぁ」
そうつぶやき由伊は思案する。
どうするのが最善なのだろうか。
何が、自分達も彼も幸せになれる道なのだろうか。
結局家族会議は纏まらないまま全員の眠気がピークになり、お開きとなった。
由伊もゆっくり律が眠る自分の部屋に向かう。
「……律くん」
律の寝顔を見つめ愛おしくその名を呼んだ。
勿論起きはしない。
律を包み込むように抱きしめて、由伊も目を瞑った。
幸せになりたい。
自分の幸せは彼に好きになってもらうこと。
……そう思っていたけれど、彼が幸せなことが自分の幸せだと今では断言できる。
律くんの笑顔が見たい、
律くんに「幸せ」と言ってもらいたい、
律くんがしたいことを優先にさせてあげたい─……
律くん、律くん、律くん……
律くんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
……嗚呼、愛おしい俺の想い人。
君を悪夢から救いたい、永遠に。
*
もぞもぞと布団が動いた感覚に由伊は目を覚ました。
「律くん?」
勝手に閉じ込めた腕の中に居たはずの律は、気づけば布団の中に潜り込んで丸まっていた。
その行動の意味が分からず、頭にハテナを浮かべながら由伊は努めて優しく声をかけた。
「律くん?どうしたの?苦しくない?そんな奥行ったら……」
手を伸ばしさらさらの頭を撫でてあげると、律は遠慮がちに由伊の手を握ってきた。
嬉しくて引き出そうと握り返して、少しの違和感に由伊は気づく。
「律くん?手、濡れてない?」
手汗かな?と思ったけどそれにしては重たいような、粘っこい質量のある液体のような気がする。
それに心なしか鉄くさい……?
まさか、と思い布団を剥ぐと律は左腕を隠し蹲っていた。
由伊の手を握る彼の右手の爪にはかきやぶったような皮膚や血が残り滲んでいる。
恐らく、リスカ痕の上から掻きむしって流血してしまったのだろう。
肩が上下し息も荒い。
顔色も真っ青で、脂汗をかいている。
開いた傷口からぽたぽたと鮮血がシーツに垂れる。
「……っごめ、ごめんなさ……!」
怒られると思ったのか、ぼろぼろ涙を零しながら律は由伊の手を震えながら握り、謝っている。
由伊は吃驚はしたが怒ってはいない。
とりあえず自分のTシャツを脱ぎ、血が垂れる左腕を抑えてあげ優しく微笑み律を抱きしめた。
律の喉がひゅーひゅーと鳴る。
喘息の症状が出ているらしい。
.......と、由伊は冷静に考え、ひとまず腕の中の震えるこの子を落ち着かせることに集中した。
「律くん、怖い夢でも見た?」
クスクスとわざと笑ってあげると、律はケホケホと咳込んで不安げに由伊を見上げた。
「…………わかんない……」
ぽそりと咳の合間に呟いた。
ぼんやりと宙を見つめる律の瞳は何も映さず生気すら感じられない。
このまま死にます、と言われても何らおかしくないような闇を感じ、今ここで対応を間違えたら一生彼はそこから出られないような怖さを感じてゾクリと背筋が震えた。
努めて冷静に、間違えぬよう、律の額にキスを落とす。
「な……ッ!?」
由伊からのキスに吃驚した律は、顔を真っ赤にし瞳に光を取り戻していく。
「律くんがかわいい顔してたからキスしちゃった」
テヘと笑うと律からはもう不安の匂いはなくなり、安心したような表情になりムゥと頬を膨らませて由伊に背を預けた。
「お、血止まってきたね。よかった~」
にっこり言うと、律はぼーっと自分の腕を他人事のように見ている。
「痛くない?お風呂入って消毒しようか」
昨日律はお風呂に入れる前に寝てしまったから、律からは少し潮の匂いがしていた。
なるべく早く入らないと、肌が荒れてしまうなと由伊は微かな潮の香りを嗅ぎながら頭の片隅で思った。
「……うん。家、帰る」
「え?」
自分が考えていた事と真逆の答えを呟かれ、由伊は目を見開いた。ぽつりとつぶやく律の顔を覗き込む。
「なに?」
キョトンとする律に由伊はちょっと焦りながら、言う。
「お風呂くらい貸すよ?律くんのお父さんもここで入っていくだろうし」
律の父親の事は現状どうなっているのかなて知らないし、まずまず彼が起きてるのかも知らない。
けれど、説得するつもりで由伊はそういう他なかった。
こんな状況で、家に帰りたがるとは微塵も思って居なかったから、焦りが滲む。
「でも、ご家族に悪いから」
頑なに遠慮する律に、由伊は必死に食い下がった。
今、律くんを一人にしたくない。
こんな不安定な状態で、一人になんてしたくない。
そんな思いでただ、「待って」と口にすれば律はそれでも首を横に振り続けた。
「由伊、俺はこれ以上皆に迷惑かけたくない……。ごめん」
それは、何に対しての謝罪なんだ。
俺は何に謝られたんだ。
このまま律くんの遠慮を尊重していいのか。
この遠慮は、律くんの我慢なんじゃないのか。
いやこの考えは俺に都合よすぎるのでは……、
何故、俺たちは結局こうなってしまうのだろう。
自分の意思を尊重しても、彼の意思を尊重しても、どうしたって一緒にはなれない。
.......それならばいっその事、彼の事だけを考えよう。
彼がどうすれば自分の言葉に頷くのか。
律を家に帰すことは最悪の選択だ。それが嫌で、文崇は由伊の家に行けと伝えたのに。
それを由伊が勝手に許してしまったら、文崇の思いも、律の安全も全てが狂ってしまう。
だったら、無理矢理にでも頷かせ自分のそばに置いておく事が良作だろう。
由伊自身、自分がどこまで守れるかなんて分からない。
けれど、全力で守る事に他ならない。
.......例えそれが、彼を傷つけるかもしれなくても、自分が苦しくなるかもしれなくても、今はただそばに居てくれなければいけないんだ。
彼のこの先の幸せのために、今彼に怯え嫌われても、今の由伊には関係ない。関係ないことにするしかない。
好きになってもらうなんて、今はもうどうでもいい。
彼が自分意外と幸せになるのも受け入れよう。
全ては律くんの幸せのために、今由伊は自分の心の痛みなど無視して彼に怒りのまなざしを向けた。
「……っ」
律は由伊の雰囲気が怒りに変わった事に気づき、ドクドクと心臓が苦しくなる。
「律くん。今一人になって平気なの?そんなに腕の傷深くさせるほど不安だったんじゃないの。なんで俺らから距離を取ろうとするの。なんで傍にいさせてくれないの。なんで頼ってくれないの」
淡々と紡がれる言葉たちに、律はただ茫然とする。
「俺は律くんのこと世界で一番大好きだけど、だから家に来いって言ってんじゃないよ。ここにいたほうが何かあったとき安ですぐ助けられるから言ってるんだ。下心でここにいろって言ってるわけじゃない。それとも……」
由伊が怒っている。
眉を寄せ、怒りをあらわにしている。
なんで由伊は怒ったんだ。
迷惑をかけたくないって気持ちは、良い気持ちではないのか?
悪ではないはずなのになんで怒るの、なんでダメなの。
「俺に、襲われると思った?」
「え……?」
思いもよらなかった由伊のセリフに律は驚いて由伊を見上げた。
「ゆい……」
見上げた先には、怒りで染まっていたはずの由伊は何処か、悲しみに満ちていた。
「俺はそこら辺の犯罪者と同じに見えるかな。律くんが好きで好きでたまらなくて、確かにエッチなことしたいって思うよ、思うけど、律くんが怖がる以上やらないしできないよ。俺は律くんの体が欲しいわけじゃない。性欲を満たすだけならそこら辺の女に股をひらかせればいい」
由伊は表情を消し静かに喋る。
由伊を怒らせたということは自分は由伊に謝らなくちゃいけない。
けれど、なんでこんなに怒っているのか律にはわからない。
分からないまま謝ってもまた由伊が怒るかもしれない。
でもここで理解して反省しなきゃ、由伊に嫌われて─……嫌われる。
由伊に嫌われたら、もう一緒に旅行行けない、学校で話せない、女の子に取られてしまう、もう抱きしめてもらえない、キスもしてもらえない、甘やかしてもらえない、由伊の腕の中に居られない、笑顔を向けられなくなる、由伊の傍に居れない……
ぶわぁっと感情の波が押し寄せてきて俺はひくっと喉が鳴り、そのままぼろぼろと涙を溢した。
「うぇえええええぇッやだよぉおおおぉッ」
「え!?律くん!?」
律は幼い時以来初めて声を上げて泣いた。
いやだいやだいやだ!!
由伊に嫌われるのは嫌だ!!
離れたくない!!誰かにとられたくない!!
……ずっといっしょにいたい、のに。
「り、律くん!?ごめん怖かった!?ごめん、ごめんね!!」
わんわん声を上げて泣く律くんに驚き、由伊はさっきの覚悟も忘れて思わず抱きしめてしまった。
ひぐひぐと泣き続ける律くん。
強く当たったら泣いてしまうかも、と懸念はしていたがまさかこんなに声を上げて泣くとは思わなくて、由伊は酷く焦る。
律の泣き声が聞こえたのか、家族が次々と「なんだどうした」と部屋を覗きにくる。
由伊はみんなに「しー」とアイコンタクトとジェスチャーで伝え出て行ってもらう。
前も俺が怒りを見せたら泣いてしまった。
それが何だかんだトラウマで怒りは見せないように笑ってきたつもりだったけど、さっきは嫌われる覚悟で怒った。
頼ってほしいと伝えたかった、君の味方だよ、一人じゃないよ、と。
たったそれだけのことをどうして相手を泣かせなきゃ伝わらないんだろう。
俺じゃやっぱり駄目なんだろうな。
橘みたいにうまくやれない。
こんな時橘みたいなやつになら、律くん安心して笑うのだろうな。
自分では駄目だと、彼の涙がその証拠だ。
苦しい。
ぎゅうと律を抱きしめると、少しだけ落ち着いた律は由伊の肩口に顔を埋めてすんすん泣いている。
由伊は半ば諦めた気持ちで、静かに「ごめんね」と伝えた。
ああ、嫌われちゃったな……。
覚悟したつもりだったが全然出来てない。
律のためを思ってやった自分の行動が伝わらない。
律への気持ちが伝わらない。
なんでだろう。
こんなにも大好きなのに。
抱きしめて落ち込んで胸の苦しさに耐えていると、律はずびずび鼻を啜りながらぽつりと呟いた。
「……なんで、……ゆい、おこってるの……」
弱々しい声に言葉が詰まる。
ここで彼のため、とか言えるわけない。
俺ら、もう必要最低限喋らないほうがうまくいくんじゃないか。
それってつまり関わらないってことだよな。
「……いや、なんだろう……ごめん」
何を返したらいいかわからず、謝ってしまう。
すると律がもぞもぞと動き由伊から体を離した。
……ああ、離れていくよな。
そりゃそうだ、こんな人間と一緒に居たくないよな。
父親のところに行って帰るんだろうな。
引き留める権利は由伊にはない。
黙って見送るしかない。
俯いて律が部屋から出ていくのを待った。
どうせ最後になるなら押し倒して無理やりヤッってもいいんじゃね?
どうせ嫌われたんだから体くらい─……
「ん」
ふわりとミルクのような甘い匂いがする。
汗ばんだ手で両頬を包まれ、驚いているうちにふにゃりと柔らかいものが唇に当たった。
「え?え?」
あまりにも突然なことに目を丸くして、咄嗟に律を見る。
「ッ、俺は……由伊に嫌われたくない……由伊がほかの女の子のとこいくのもやだ……由伊が抱きしめる相手も俺だけがいい!キスも、笑顔も、優しさも、怖いけど……怒ってくれるのも、俺にだけがいい!!でも、でも……っ由伊が嫌いなら、も、もう……甘えたり……っしません……」
ぼろぼろ涙を溢しながら由伊から目をそらさずに、律はそう言った。
現実なんだと認識した瞬間、体の血がマグマのように沸騰し駆け巡っているような感覚を覚えた。
この子は今、俺に何と言った?
俺に嫌われたくない?
女のところに行ってほしくない?
抱きしめるのも、キスも、笑顔も、優しさも、……この醜いだけの怒りも、全部自分のものがいいと、この子は泣きながらそう言った……?
そこまで言っておいて、どうしてキミは俺の一番欲しい言葉をくれないの……
そこまでわかっていて、それでも俺を好いてはくれないの……
そんなの、苦しくて苦しくて、苦痛だ……。
「ゆ、由伊!?え、え、ご、ごめんさい、由伊、ごめんなさい!泣かないで……っ、ごめん、ごめっ」
驚いた律はまた涙を溢しながら由伊の涙を必死に拭う。
自分だって泣きながら、由伊の涙だけを拭う。
ねぇ、律くん。
俺たちは、運命の赤い糸では結ばれていないのかもね。
俺は律くんに繋がっていると思ってたんだけど、そうじゃないのかな。
待ちたいと思っていた。
待っているつもりだった。
こんな状況になっても、たった二文字が律くんから聞けないのは、きっと『そう』ではないから。
あー、気づきたくないことを気づいてしまう。
それでも律くんを嫌いになれない俺は、天性の馬鹿なんだろうな。
「由伊……?ち、ちゅー……やだった……?ごめんね……ごめんね……」
由伊の流れる涙を拭いつつ、律は的外れなことを言いながら、謝る。
由伊はそんな必死な律にふふ、と笑いかけた。
「ううん。嫌じゃないよ。嬉しくて涙が出ちゃった。もっとしてくれないの?」
「え!?な!!心配してるのに……っ!!」
律は顔が真っ赤になる。
そうこれでいいんだ、気をそらさせて自分の気持ちになんて気づかなくていい。
俺はもう律くんを困らせない。
鈍感な律くんはきっと気づかないよ、俺が言語化しなければいい話。
「ほ、本当にそれだけ……?」
不安げに眉を下げ覗き込んでくる律くんに、俺はにっこり笑った。
「うん、本当だよ。律くんの気持ち嬉しかったよ。俺の全部は律くんのものだよ。律くんがしたいようにしてくれるのが俺の一番の幸せだから」
「そ、そうなの……?」
理解してないような顔をする。
当然だろう。
今キミの目の前の男は、
『君のために人生をささげる』
って宣言したんだ。
たとえ、己が辛くても傷ついても、律くんのために生きる。
利用されても本望。
律くんが望まないことはしたくない。
律くんが、俺からの『好き』を望んでいないのなら、もう押し付けることはできない。
自己犠牲に陶酔しているわけではない。
胸が締め付けるように痛く、吐き気がする。
でもそれ以上に、律くんの不幸の方が苦しくて痛いんだ。
「律くん、今日は俺のわがまま聞いてほしいな。このまま家に泊まっていってほしい」
「え、でも……」
律くんは困惑の表情を浮かべる。
「律くんは悪くないよ、俺のわがままなんだから堂々としてくれていいよ。みんなにあえなそうだったらこのままここに居ていいし、それに律くんとお話したいんだ」
由伊の言葉に難しい顔をして悩む律。
「お話……?迷惑じゃない……?」
それは俺に?家族に?
そんなこと聞けない。意地悪だ。
「うん。迷惑なんかじゃないよ」
きっぱりとそういうと、律は笑った。
「じゃあ、泊まりたい……な」
その笑顔は本心なのかな。
俺の押しに負けたのかな。
もう、わかんないや。
由伊のご厚意で律はまた今日も泊まらせて貰う事になってしまった。
昼に起きてからはずっと由伊の部屋でゆっくりさせてもらって、夕方にご家族に顔を出してお邪魔させてもらうご挨拶をした。
文崇、熱が出てしまったらしくそのまま貴志の部屋で寝ているようだった。
親子揃って、迷惑をかけてしまった、と律は陰鬱とした気分になる。
「律くん、ご飯どうする?お腹減ってる?」
由伊に声をかけられ、ハッと顔を上げてそういえばどうしようか、と考える。
京子が作ってくれてるなら食べるし、まだ作って無いのなら迷惑なので遠慮したい。
「律くん?」
顔を覗き込まれ、ビックリする。
律は慌てて首を横に振ってしまった。
「きょ、今日も、なんて迷惑だから遠慮しとく……!!」
あ、しまった。
……またこうやって、迷惑だとか言うと由伊怒るよな……
そう思い直し、由伊の母さんが作ってくれてるなら、って言おうとした。
すると、
「そっか、分かったよ」
「……?」
由伊はニッコリと笑って、アッサリ返事をした。
……あれ?
「じゃあお風呂入ってきなよ、沸いたって母さん言ってたよ」
「……あ、……」
「なに?」
律は頭の中が混乱しつつ由伊を見上げる。
由伊に怒った様子は無く、ずっといつもみたいにニコニコしている。
なんだ?何がこんなに違和感なんだ?
「どうしたの?」
心配そうに見られ、律はまた慌てて
「い、いちばん最後でいいよ……!」と返した。
由伊は一瞬眉を寄せたけれど、俺の左腕を指さす。
「いいよ、って言いたいところだけど今日は先入って。それの手当しないと化膿しちゃうから」
お風呂に入る時間まで簡易的に処置を施してもらっている左手首を見て、「……そ、そうだよね……じゃあ」と返事をした。
チラリと見上げると、「うん、行ってらっしゃい。全部脱衣場に用意してあるから」と言ってそこに立っている。
律は思わず固まり、由伊を見上げた。
「どうしたの?行かないの?」
「……いや……」
なんて言えばいいんだ?
分からない、分からないんだけど.......、
「……ゆ、由伊は……下に、……用事とか、ないの?」
遠回しな言い方をしてしまった。
ただ、違和感の正体が何だか分からない。
具体的に気づいたわけじゃないんだけど、ただ由伊はいつもこういう時は、……
「え?無いよ?」
「…………そ、っか」
前までは俺と一緒に来てくれてたのに。
「はぁ……」
自分の重く深いため息が浴室に響いた。
じんわりと浸かると、汗や潮が流れていって気持ちがいい。
気を失ったあと、ベッドに寝かせてくれる前に由伊が体を拭いてくれてたらしくて不快感は無かったけれど、やっぱりお風呂に入るのとではサッパリ感が違う。
バシャバシャと適当に遊びながら、ボーッと考えた。
……由伊、変かも。
いや、分かんない。
優しい表情は変わらないし、すぐ心配してくれる所も変わらない。
気が利く所も、……。
ただ、なんで自分がいつもの由伊じゃない、と思うのかが分からない。
何を見てそう思ったのだろう。
さっき、着いて来なかったのは本当に用事がないからで、俺だって一人でお風呂場くらい聞けるし行ける。
……そりゃあ、家族の皆さんに一人で会うのはまだ少し恐怖というか……今はもう、緊張感だけかな……それくらいはあるけれど、言ってしまえばそれぐらいだ。
確実に少しずつだけど、由伊のご両親だけは怖いと思わなくなった。
ただ、嫌われるのは怖いから、甘えられないし迷惑はかけられないし、お荷物にはなりたくないから……頼れと言われても厳しいんだけど……。
……俺だってもう少し堂々と行きたい。
誰に嫌われようと構わないって、去るもの追わずの橘のスタイルは凄く憧れている。
どうしてあんなに格好よく堂々としてられるのか、前聞いた事がある。
そしたら、
─……『俺は俺が嫌いやから、それと同じくまた他人も俺の事嫌いな奴がおっても、せやろなぁ、としか思わへんくなっただけ』
と笑いながら言っていた。
……そんなの俺だって、同じな筈なのに。
律だって、自分が嫌いなのだ。
とてつもなく、嫌いで自信なんか無い。
自分が優しくされるのも、好きになってもらうのも、褒めて貰えたり、心配してもらえたり、そういう情を向けられるのが不思議だし、……苦痛と思ってしまう。
素直に受け取れない自分に嫌気がさして、そのループ。
自分は自分が嫌いなのに、なんで貴方は俺を好きなんですか?
って、感じ悪いよね……。
好いてくれてるのに、ポジティブに自分の事を見てくれているのに……そんな有難い気持ちに答えられない。
だから、由伊みたいに真っ直ぐ気持ちを伝えてこられると正直困ってしまう。
嬉しいのに、恥ずかしいというか、その恥ずかしいと思う理由も、『自分が他人にいい所だけ見せてこんな事言われてる』みたいな、客観的に見てしまってどうしたらいいか分からない。
でもこんなの、分かってくれる人と居ない人が同じ数いる訳じゃないからやっぱり理解されないのは分かってる。
……はぁーあ、由伊は俺の何処を好きになってくれたんだろう……。
っていうか、一目惚れって本当なのかな?
そんなの、あるのかな……。
一目惚れは、『運命』なのかな。
好きな人が出来たことが無いから、好きが分からない。
好きってなんなんだろう。
由伊は、エッチしたいって意味での好きを伝えてくれる。
……俺は、それに答えてもいいのだろうか。
……というか、答えられるのかな。
由伊がずっと待っててくれてるのは知ってる。
待たせているのも自覚している。
けれど、中途半端に答えは出せない。
一度由伊を裏切って傷つけている分、同じ事なんか出来ない。
OK出して、やっぱりダメでした……なんてしたくない。
由伊とは離れたくない、女の子の所に行って欲しくない、他の人に笑顔を見せて欲しくない、全部俺のがいいって言ったのは嘘なんかじゃない。
由伊が俺に想ってくれてたように、俺だって段々同じ気持ちを持ったんだ。
……全部、嘘じゃない。
でも俺にはたった一つだけ、由伊と同じ気持ちになれないモノがあるんだ。
……俺は、由伊を"受け入れることができない"。
「あ、上がったんだ。じゃあ俺も入ってこよー。その前に律くんの腕の手当だけさせてね。片手じゃ出来ないでしょ」
ベッドに背もたれて、本を読んでいた由伊は顔をパッとあげてニッコリ笑ってくれた。
その笑顔にホッとして、律も「ありがとう」と笑い返す。
由伊は救急セットを用意してくれていたらしく、手際よく始めてくれる。
「お風呂しみなかった?」
「うーん、ちょっとだけしみた」
そんな短い会話をぽつぽつしていると、あっという間に手首に包帯が綺麗に巻かれた。
「じゃあ、そこのドライヤー使っていいから髪ちゃんと乾かしなね」
「え、あ、……ありがとう」
由伊はまた優しく笑って部屋から出て行った。
部屋に一人ポツンと取り残された俺は、暫くドライヤーを見つめ思考する。
……あれ?やっぱりなんか?
……いやでも、これは普通だよな……。
風呂に入るから部屋から出ていく、普通のことだ。
……何がこんなに引っかかるんだ?
何だかもう面倒くさくなって、言われた通りドライヤーを借りてグワーッと髪をバサバサに乾かした。
乾かし終わって疲れて、由伊のベッドにうつ伏せで寝ていると由伊がガチャリと音を立てて戻ってきた。
パッと振り返って、「……おかえり!」と言うと由伊は少し固まって目を逸らして「うん、ただいま」と返してくれた。
「起きてたんだ。寝たかと思った」
「……え?でも由伊話あるって言ったじゃん」
俺はちゃんと覚えてるよ。
「……ああ、覚えてたんだ」
由伊は何故か興味無さそうに笑った
……何、その変な顔……初めて見る……
どういう感情の顔なの?
今由伊は何を思ったの?
由伊は既に下で髪を乾かしていたようで、サラサラと髪を靡かせて律と少し離れた所に座った。
不思議に思い、律が床に降りて由伊の目の前に行って座ると少し眉を寄せて「……別に降りなくても平気だよ?」と言ってきた。
その表情に、ドクリ、と心臓が嫌な音を立てたけど律は平静を装って笑う。
「話すなら、近い方が……話しやすい……かと思って……」
どんどん尻すぼみになっていくと、由伊は「そう」と笑顔もなく呟いた。
「話っていうのはね、」
いきなり本題に入るようで、慌てて背筋を伸ばす。
……何を言われるんだろう。
ドキドキと嫌に緊張していると、由伊は真剣に律の目を見て口を開いた。
「俺、律くんのお家の方に住もうと思う」
………………ん?
「……え?……え!?」
いきなりの話題に何が何だか分からず大声を上げてしまった。
え!?でも待って!?うちに住むって言った!?
「な、なんで!?どうして!?」
俺は焦って前のめりになって由伊に問うと、「しー、下で律くんのお父さん寝てるよ」と言われ、ばっと口を抑えた。
「……理由としては、やっぱり律くん達が物理的に危ないと知ったから。けど君たち親子は俺たちに遠慮してここには住めないんでしょう?だったら、直近で動けるのが俺か寛貴しか居ないから、来させるのがダメなら行こうって事になった」
え?物理的に危ないってどういう事?
「待って由伊、俺分かんない。なんで俺たちが危ないの?」
首を傾げて問うと、由伊は少し言いづらそうに顔を顰めながら言う。
「……詳細は聞いてないけど、……律くんを事件に巻き込んだ人物が、……律くんのお父さんに接触してきたらしい」
「…………は?」
………………接触してきた?
父さんに?
『あの人』が?
なんで?どうして?なんで?なんで?なんで?
刑務所に居るんじゃなかったの。
一生出てこないんじゃなかったの。
なんで今更出てくるの。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうし─……
「律くん!!!!!」
「ヒュッ……ッ」
肩を揺さぶられ、真っ白だった頭に、耳鳴りがしていた耳に、由伊の声が響きハッと顔を上げた。
「律くん、落ち着いて。大丈夫だから。今いるわけじゃない」
そうだけど、そうだけど、
父さんは既に会っている、あの人と接触している?
なんで言ってくれなかった?なんで黙ってた?
なんでどうして?
どうして?
「律くんのお父さんは、誰にも言わず黙ってたんだよ。昨日寛貴にだけ打ち明けたらしい。結局、大人の力がなきゃどうにも出来ないからって、昼間寛貴が俺らに教えてくれたんだ」
なんで黙ってたの、なんで俺には言わなかったの?
なんで
「律くんを怖がらせたくなかったから、言えなかったんだよ」
こわい……?
「……律くんがそうやって、パニックにならないように、キミのお父さんは黙って─……」
「キミって呼ばないで!!!!!」
「律くん……?」
ドクドク嫌な音がする。
大嫌いな音だ。
伸びてくる手が……アイツと重なる
「あの人と同じ呼び方しないでッ!!!!!」
バシンッと自分が振り払った音と鋭い痛みで、我にかえる。
ハッとした時にはもう、由伊の手は赤くなっていて俺はサーッと血の気が引く。
「ぁ、ご、ごめんなさごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ」
「律くん!!」
名前を呼ばれ、ハァハァと荒く息をする。
「ねぇ、落ち着いて。大丈夫だから、ここには居ないの。俺しか居ない。だから、お願いだから俺の話、聞いて?」
ああ、ダメだ。
また由伊を困らせてる。
困らせちゃいけない。
迷惑をかけてはいけない。
父さんを守らなきゃ。
俺が今度は、父さんを─……
「俺たちは、律くんとお父さんを絶対守るから。だから、遠慮とか迷惑とか一旦今は置いといて、俺らを頼って欲しい」
絶対、守る?なんで?
どうして赤の他人の由伊達が俺らを守ってくれるの。
赤の他人なのに。
「意味分かんないよ。皆には迷惑をかけすぎた。今だってこうやって迷惑かけてる。昨日、命を救ってもらっただけで充分なのに、俺らはこれ以上何を頼ればいいの?」
こんなこと、由伊に言う事じゃない。
頭のどこかでは分かってるんだ。
冷静な自分もいる。
なのに、口をついて出てくる。
こんな可愛くない言葉。
「……心配だからでしょ。友達だから、助けるんだよ」
……友達……心配……
「じゃあ、これが橘だったとしでも、由伊は同じ事するんだ?」
……え?何で俺こんなこと言ったの?
こんなの今関係ないじゃん……
ほら、由伊だって驚いてる……何言ってんだよ俺……
「……律くんどうしたの?友達だと思う奴になら、できる事はするよ」
「俺じゃなくてもするんだ」
「何言ってんの、……律くん」
由伊の声が低くなった。
心做しか、顔も険しくなっている気がする。
……怒ってる、……そりゃそうだ、俺……おれなんで……こんなことばっか……
「……混乱してるんでしょ?いきなり、こんな話されて……ねぇ、律くん。今はだいじょ─……」
「……由伊」
言ってはいけない
言ってしまうのはダメだ
黙れ、黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ
「何が大丈夫なの?」
守るって言ってくれたのに。
「なんの根拠も無い大丈夫なんて、意味ないよ」
ここまで面倒見てくれたのに。
「どうして平気だと思えるの?」
俺にそんな事言える権利無いのに。
「大人が居なきゃ、子供なんて何にも出来ないんだよ」
由伊を、傷つけるのと同時に、由伊の家族まで否定してる事になるこのセリフ達は、吐き出してはいけない。
「子供なんて、大人には勝てないんだよ」
「……律くん」
「殴られても、縛られても、黙ってるしかない。だって勝てないんだから」
そう。
再び『あの人』が俺らの前に現れたら、その時は本当の、
おわり
なんだ。
「……どうしたって、何からも勝てないんだよ」
ずっとそう考えていた。
出てくる可能性だって考えてた。
出て来たらどう戦えばいいのか、強くなれば勝てるのか。
……結局どうしたって俺は、自分と恐怖には勝てなかった。
あの日の恐怖には、勝てなかった。
一分でも一秒でも、考える度に記憶の中のアイツに負け続ける日々を毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日繰り返した。
馬鹿ほど太陽が昇って、馬鹿ほど月が沈んで、そんで今日まで来て結局コレ。
これが俺の『運命』なんだな。
「俺はさ、あの人に縛られるのが『運命』なんだよ。だからこの業(かるま)に父さんも皆も巻き込まない」
「待って、律くん。それを運命って呼ぶのはちがう」
「俺は、もう誰も頼れない。父さんも由伊達も、誰も。頼りたいとも思えない」
真っ直ぐに由伊を見つめそう断言すると、由伊の瞳が暗くなり表情が消えた。
「……なんで、頼れないの?」
抑揚のない声で、聞いてくる由伊に律は躊躇わずに返した。
「皆、俺の大切な人だから」
そう返すと、由伊はハッとした顔をして「はは」と乾いたように笑った。
「……そっか。……"みんな"か」
「うん、皆。だから、由伊も俺の家には来なくていい。というかむしろ、不躾なお願いになってしまうんだけど、逆に父さんを預かって欲しい……です」
律がそう言うと、由伊は少し無表情のままボーッとしていたけれど、不意にニッコリ笑顔に戻った。
ホッとして、返事を待っているとニッコリ口を開いた。
「嫌に決まってるでしょ」
「…………え?」
……え?
……いやって、……言われた……?
「律くんさあ、逆になんでOKされると思ったの?さっきまで散々俺たちの事否定しておいて、最後のチャンスまであげたのに、断ったのそっちでしょ?」
由伊は頬杖をついて馬鹿にしたように笑った。
「俺たちは、律くんのお父さんに頼まれたからっていうのも無くはないけど、本気で律くんの心配をしてた。ずっとずっと、母さんも親父も、真だってあんな態度だけど人並みに感情はあるし、寛貴だって心配してたから俺らに大事な話をしてくれたんだよ」
「……そ、れは……、迷惑だとおもったから……」
「迷惑?ああ、そうかもね。他人のお世話なんて迷惑この上ないよ。ハッキリ言えばそんなの無く平和に居たかったよ」
……由伊を、怒らせた。
……本当の本当に、怒らせてしまった。
「人の善意を、迷惑だとおもったからって突っぱね続けんのって、一周まわってすげー失礼だよ」
由伊の目から、敵意しか感じない。
なんで、なんで、迷惑だと思ったから、迷惑かけたくなかったから……
ていうか、
「やっぱり迷惑だと思ってたんじゃん!!だから俺、俺は……っ!!」
「遠慮してたんでしょ?知ってるよ。律くんがそいつが原因で俺の両親に必要以上に怯えてたのも知ってる。俺らの要望を素直に聞けなかったのも、迷惑かけたくない、嫌われたくない、負担になりたくない、知ってるよ!!」
「……ッ」
ダンッと、机を叩かれ、ビクッと肩が跳ねた。
こんなに、おこった、ゆい、……はじめてで、こわい
こわくて、いきが、とまる
「……けどその遠慮は同時に、頼られてないんだって、心の距離と比例してくる」
「……そ、んなこと……」
「無い?無いって言い切れる?」
ギッと睨まれ何も言えなくなる。
「ほら言えないんじゃん。だから要するに、俺がどれだけ好きでも好きで好きで堪らなくても、俺が好きな分、律くんはどんどん距離を置きたくなるんでしょ」
「そ、それはちがう!!」
「なんで?何が違うの?実際俺はそれをされてるんだよ?何かあっても頼ってくれない、心配しても甘えてくれない、……過去の話をしろって言うわけじゃない。けど俺は、律くんを信用してたつもりだよ。でも律くんは、結局"その他大勢"と"俺"は同じ部類なんでしょ」
「だから違うって!!由伊の事は信用してるし、今だってしんじて……っ」
「どこが?信じてたらあんなセリフ出てこないでしょ。"俺の言葉に信憑性がない"なんてニュアンスのセリフ、言えるわけない」
……ッ
ああ嫌だこんなの嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
「俺が昼間、涙を流した理由、知らないでしょ。あの時律くん、自分の事しか考えてなかったもんね」
嫌だ嫌われる嫌だ嫌だ嫌だ
「い゛ッ」
ドンッと床に倒され、手首を縫い付けられる。
思わず見上げ、目を見開く。
「今だってそう。自分の事しか考えてない。結局律くんてさ、考える、考える言うけど、考えてないでしょ。俺との関係も、皆のことも。自分が何とかしようとするけど、それだけの力が備わってないから、結局こうやって周りがしてあげるしか無いんだよ」
「ごめ、ごめんなさ……っ」
「何がゴメンなの?何が悪いと思ったの?嫌われたくないからでしょ?味方が一人減るのが怖いんでしょ?律くんにとってただそれだけなんだよね」
「ち、がぃ……ま、す……っ」
「はは、なんで敬語?なんで泣いてんの?俺はね、怒ってるんだよ。泣かれても無駄。むしろ、泣けば解決すると思ってんの、
すっげーうざい」
「…………」
泣いてはダメだ泣いてはいけない
これ以上涙を流したら、由伊に、由伊に、
「俺、今の律くんマジで嫌い」
……きらわれた
上手く息ができない
嫌われたくなかったのに、嫌われたくなかったのに、嫌われたくないきらわれ、
泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな
「あれ?泣いてんの我慢してんの?我慢出来たんだーえらいねー」
頭を撫でられる、うれしくない
こわい、
こんなの、ゆいじゃない
……ゆいじゃない?
普段と違うからって、否定していいのか?
だめだ、なにも、あたまがまわらない
「え、ちょっと息はしてよ。泣くなって言っただけじゃん。馬鹿じゃねぇの」
ぺちぺちと頬を叩かれるけど、喉が開かない。
ビクビク、と体が痙攣し始める。
息がしたいのに、するな、と心が命令する
喉がつまって、自分で開こうとしない。
「おい、息しろって!!」
焦った由伊の声が聞こえるけど、どうしようもない
俺だって息したい、でも、むりだ
「チッ」
ゆいにきらわれた、おれなんて、いきるかちない
「……んっ……ッ」
鼻をつままれ、上を向かされて強く、唇に由伊の唇が押し当てられ思い切り息を吹き込まれる。
「ヒュッゲホッゲホッゲホッ!!!」
肺に酸素がいきなり入ってきて、思い切りむせ込んだ。
いきなりの事に呼吸の仕方を忘れてしまう。
「ヒュッ……ヒュッヒュッ……ヒュッヒューッ」
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい
「……ッおい、息吐け。吸うな」
荒い口調の由伊に、背中を大きく強く撫でられ、必死に言われた通りにするけど、出来ない。
ああ、いやだ
できなきゃおこられる
なぐられるかもしれない
うまくいかないと、しばられるかも
いやちがう、このひとは、あのひとじゃなくて、
このひとは、
このひとは……
「…………ッゆ、いぃ……ッ」
手を伸ばして、縋る。
目の前の、大好きな人
居て欲しい、そばに、離れないで、ほしい
でも、もういえない
いまさら、言えないんだ
「はぁ……」
深いため息と共に、すっぽり由伊の香りに包まれる。
「俺に合わせて呼吸して」
由伊が深く、しっかり呼吸をしてくれて、由伊の体や音に合わせて律も、慎重に呼吸をした。
「……ハァッ……ケホッ……」
やっと落ち着いて来て、律はまだ心臓がドクドク鳴るのが嫌でぎゅうっと強く抱きついた。
……もう最後なんだ
これは、俺が落ち着かないから仕方なくしてくれただけ
明日も明後日もしてくれない。
キスも、さっきのが最後なんだ。
キスじゃないけどね、さっきの
でも俺が悪いんだ
全部由伊に甘えたから、俺が、自分のことしか考えなかったから、由伊を傷つけ続けてたの気づかなかったか
きらわれた
なのに、由伊はまた俺を助けてくれた
嫌いな俺を、したくないはずの人工呼吸までして助けてくれた
嫌いな俺を、抱きしめてくれた
なんて優しい人なんだろう
……なんで俺、この人を傷つけたんだろう
「……落ち着いた?」
ゆっくりと聞かれ、律は惜しくなりつつもコクリと頷いて、「……ごめんなさい」と謝った。
それに対して、いつもなら「そんなことない」とか「温かいもの飲む?」とか聞いてくれてたのに、由伊はもう何も返事をしてくれなかった。
顔を見れずに俯く。
この空気やだ……帰ろうかな……
「……とりあえず、律くんの家には行くから」
重たい空気を打ち破ったのは、由伊でまたそんな事を言われた。
律は、焦って「えっ……」と反応する。
すると由伊は心底嫌そうな顔して「なに?」と言った。
……そんな顔されたら、なんて言えばいいかわかんない……
「……迷惑なら、……こなくて、へいき……」
口に出してからハッとして、口を抑えた。
……おれ、おれまたなにいって、おれ、
「あっそう」
「ち、ちがいまのは、ちがくて、ちがうのその、ちが……っ」
パニックになり、由伊に手を伸ばして慌てて言うと、バシンッと手を払われた。
「……ッ」
冷たい目が見下ろす。
「……マジで、いい加減にしろよ」
自分が悪いどう考えても、俺しか悪くない
「……ご、め……ッ」
泣いちゃダメだ!!!!!
泣いたらまたおこられる、
めんどくさいってため息はかれる
だめだ、こらえろ、息もしろ、生きて、呼吸して、めいわくかけるな、
だめ
「……頼るより、そうやって我慢する方が好きなんだ。ドマゾじゃん」
心無いことを言われ、体が震える。
「それとも、虐められたくてわざとそうやってんの?」
「あーあ、そんなに変態だったんだ」
嘲笑われ、バキンッと心が折れる音がした。
ボロボロに壊れきった心の破片が、内蔵にドクドク突き刺さり血液を垂れ流す。
じわりじわりと漏れた血液は、四肢に広がり痺れてくる。
脳内が麻痺し、感情のパネルには『恐怖』しか残っていない。
律は耐えきれず、耳を塞いで額を床に擦り付けた。
「……ッ……おねが、ぃ……しま、す……ッ……そ、れいじょ、………………ぃわな、で……くだ、……さ……ッ」
「……」
耳を抑え、震えながら土下座をし由伊が動くのを待った。
何時間だろうか。
いやきっと、現実では数秒だと思うが、体感はそれはそれは長かった。
このまま、死んだ方がラクだと思うくらい重くて冷たい空間。
「……いいよ。もう俺からは何も言わない。その代わり、律くんはこの家に住むこと。分かった?」
……これは、分かったと言わないといけないんじゃないか。
それを言わないと、またおこられる、おこられて、ためいきつかれて、そんでまた、また、
さらに、きらわれるんだよね
「ねえ、聞いてんの?」
意を決して、頭を床に着けたまま口を開いた。
「…………わ、か……た」
由伊の家に帰る、由伊の家で息をする、由伊と生きる、そうすれば、これ以上きらわれない?
「……じゃ、決まりね」
いうこときけば、またわらってくれる?
やさしくしてくれる?
すき、って抱き締めてくれる?
「……明日、母さん達に報告する。今日はもう寝るよ」
「…………うん」
「あと、母さん達の前で元気無い顔なんかすんなよ。余計な心配かけるから」
「……わか、た」
「じゃ、おやすみ。電気は自分で消して」
「………………うん」
ばさり、と自分の布団をかけ律に背を向けて眠ってしまう由伊。その背中を呆然と眺めて、律は静かに泣いた。
俺のせいだ、俺のせいで由伊がこっち見てくれない
でんき、けすのこわい、でも由伊はねた、ねちゃった
いつもなら、抱き締めて眠るまで起きててくれるのに
電気も由伊が消してくれるのに
暗いの怖いから、俺が動けなくならないように、
でもこれは、俺がお願いした事じゃない
由伊が全部、俺を見て察して考えてくれてたんだ。
由伊はいつも俺の事を考えて、俺優先で居てくれたのに、俺は……なんで……
「……ひっ……ぐすっ……ひぐっ……」
バレちゃダメだ……でも廊下に出るのもダメだ。
誰かに気づかれたら心配かけてしまう
止めろ、止めろ、止めろ
グッと唇を噛み、上を向いた。
大丈夫、大丈夫
泣くな
笑え
泣いたって、由伊はもう、好きになってはくれない。
*
翌朝、結局眠れずに由伊が起きるより早く部屋から出て、顔を洗いに行った。
涙は止めたけど、全然眠れるわけなくて冷水で顔を冷やした。
「はぁ……」
「ちょっと、終わったなら退いて」
「ひっ、あ、ご、ごめ……っ」
真後ろから声をかけられて、律はビックリして水を撒き散らしてしまった。
慌てて近くのタオルで拭きながら、真を見た。
「……お、おはよ……真ちゃん、はやいね」
気まずく思いながらも、挨拶をしてみると……やっぱり返事は返って来なかった。
諦めて戻ろうと背を向けた時、「あのさ」と強めの声に引き留められた。
「挨拶すんなら、そんな辛気臭い顔しないでくれる?朝から気分悪い」
「……っ、そ、……そうだよね……ごめん、……なさい」
これ以上ここに居られる自信がなくて、無理矢理口角を上げてへらり、と笑い駆け足でその場を去った。
……すこしだけ、父さんのいる所を覗いてもいいかな。
なんて思ったけれど、その部屋には由伊のお父さんもいるので、起こしたら大変だからやめにした。
まだ早朝だし、明るいから、外でも行こうかな……
そう思って、由伊の部屋に戻りこっそり着替えてまた一階に戻り玄関に腰掛けた。
すると、
「あら?律くん、おでかけ?」
のんびり優しい声がまた真後ろから聞こえてきて、ビクリと、震えた。
「……お、おこして、……ごめ、なさい!!」
慌てて頭を下げて、謝る。
どうしよう、起こしちゃった、怒ってるよな、うるさかったよな、他人の家でこんなはやく、こんな─……
「あら?起こされたのはアラームによ~?私はいつもこの時間に起きて皆の朝ごはん作ってるのよ、気にする事なんかないわ」
京子は穏やかにわらって、頭を撫でてくれた。
その優しさに、不意に由伊が重なってじわっと目頭が熱くなったけれど、俺はそんなの全部無視して口角を上げ目じりを下げた。
「……おはようございます」
「ええ、おはよう。それよりどこか行くのかしら?」
「……あ、いえ、お散歩と……仏壇に線香をあげに行こうかと……」
しどろもどろで答えると、京子は「あら!私もいっていいかしら?」とパッと顔を明るくする。
「え……え?でも、ただのお散歩とちょっと家に帰るだけ……ですよ?」
「だけ、なんかじゃないわ。私が、律くんのお母様にお会いしたいのよ」
慈愛に満ちた笑顔で言われて、また泣きそうになった。
けれど、もう段々慣れてきた笑顔の作り方。
顔に貼っつけて、「……ありがとうございます」と言えた。
「でも、皆の朝ごはんを作らなきゃだから少し待っててもらえるかしら?ごめんなさいね」
申し訳無さそうに謝られて慌てて首を横に振る。
「そ、そんな事ないです!もしよろしければ、お手伝いしても……いいですか?」
遠慮がちにそう訪ねると、京子はぱあっと顔を明るくして「あら本当!?嬉しいわ!」と言ってやさしく手を握ってくれた。
「ささ、じゃあこちらに来て」
るんるんな京子が何だか可愛らしくて微笑む。
「律くん、よく笑うようになったわね」
ふと、そんな事を言われてドキリと胸がなる。
「……笑顔の方が、良いなと思ったので」
それとなく、答えを濁した。
突っ込まれたら困ると思っていると、京子はそれ以上追求はして来ず、「そうかもね」とニッコリ笑ってくれた。
京子と家族と俺たち分の朝食の準備をし、皆が起きてくる前に律たちは二人で先に食べ家を出た。
「律くんと二人って初めてね!嬉しいわ!」
お散歩しつつ、由伊のお母さんに耳を傾ける。
「……あの、色々迷惑をかけてすみませんでした」
不意に立ち止まって面と向かって頭を下げると、京子は「ふふ、真面目ねぇ」なんて笑う。
「律くんは、そうやって生真面目に何でも何でも気にしてきてしまったのね」
何でも気にして?
……どういう意味だろう。
「私の律くんの事が好きって気持ちは、息子として愛せるって意味だから、信用出来るようになった時に、信じて本当だったって納得してくれれば良いわ」
信用できる時に……
「……できるんでしょうか、俺に」
ふと、口に出てしまった。
人を信用するビジョンが沸かない。
もう充分、由伊や、ご家族を、信頼していたのに。
そのつもりだったんだけど。
「……律くんがまずしなきゃいけないのは、自分を肯定して受け入れることと、自分を信じてあげることなんじゃない?自分を信じられないのに他人を信じられるわけないじゃない」
ケラケラと言って退ける京子に、律はポカンとする。
「そ、そうなんですか?」
思わず先を歩く京子に駆け寄り、聞くと京子は頷いた。
「そうよ?結局ね、世界で信用出来るのは自分しか居ないの。上手く生きれる人は、人に意見を聞けども最後は必ず自分を信じて前に進める人なの」
……縁遠い、世界の話。
「変われるのは強さだけど、変われるためには自分を知り、自分を信じて、確立しなきゃブレて人に流されて、そのままアウト」
「……」
「ただね、上手く生きるのも大切かもしれないんだけど、結局大切なのは、自分が大切だと思う人をちゃんと大切に出来ているか、だと思うわ。結局、人はひとりじゃ生きられないの。私も、律くんも、ね?」
じわじわと京子さんの言葉が心にしみていく。
もう律の心は形を生していないけど、それでも、生きてていいんだよって肯定されたような気がして、嬉しかった。
「あらここよね?律くんのお家」
話しているうちにいつの間にか着いていたようで、鍵を開けて久しぶりの家に入る。
「お邪魔します」
家の中で女の人の声がするのが新鮮で、ワクワクする。
律たちは真っ直ぐ仏壇に向かい、順番に手を合わせた。
母には、帰った事だけを、報告した。
あの日、由伊や真ちゃんに止められて、本当によかったのかな。
あのまま沈んで灰の空気を全部抜いたら、母さんと会えたのにね。
俺まだ、しぶとく生きてるんだ。
おかしいね。
「素敵な方ね」
額縁の中で笑う母の写真を見て、京子は目を細めた。
「律くんに似て、聡明で真っ直ぐで可愛らしい方」
「…………母さんは……いつも、真っ直ぐで、ただしくて、あったかくて、……やさしくて、強い……人です」
「律くんには、そんな素敵なお母様の血が流れていて、今しっかり生きている。……健気に毎日を頑張っているわ」
……俺の中には、……母さんの血が……
そうか……俺の中には、大好きな父さんの血も母さんの血も……流れてるんだよな。
大好きな母さんが遺してくれた、自分。
「……ふふ、少し愛おしく思えた?」
京子に微笑まれ、律はワンテンポ遅れたけれど泣かずに笑えた。
「……っ、……はい……!!」
気づきもしなかった、こんな当たり前のこと。
『あの人』と同じ血だと思っていたのに、父さんや母さんの血が当たり前に濃く入っていることも、この細胞も母さんや父さんに守られて愛されて出来上がったものなのに、何でこんなこと忘れてたんだろう。
馬鹿だな、俺。
悲観することに一生懸命になって、大事なことに何一つ気づけていないんだな。
「ふう、いっぱい買っちゃったわ!ごめんねぇ、持たせちゃって」
「いえ良いんです!母さんに挨拶までしてくださって、こんなんじゃ足りないくらいもっと、感謝してるんです」
笑って言えば、由伊の母さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「ニコニコ笑って、可愛いわねぇ」
「本当だ、ニコニコ笑ってる。可愛いなぁ」
「わっ!?
本日三度目の真後ろからの声に、律はビックリして思わず京子の方へ逃げてしまった。
そんな律に二人は、「猫みたい」とクスクス笑う。
律はカアッと顔が熱くなりながらも、「お、おはようございます……!」と頭を下げた。
「うんうんおはよう。律くん京子の手伝いしてくれたのか?ありがとなぁ」
「あ、い、いえ……したくてしたので、お礼なんて……」
「ニコニコのありがとう、が聞きたいなぁ~」
孝にニヤニヤ笑われて、あまりの羞恥に全身が熱くなるのを感じながら、「……ぁ、ぁぅ、……りがと……ございます……」と途切れ途切れに返せた。
「はは!上出来だ!」
豪快に笑って頭をくしゃくしゃ撫でられる。そんな律を見て京子もまたクスクスと笑った。
「さ、買ってきたもの仕舞うからアナタは皆とご飯食べてよ。食器片付かないでしょ」
怒られた孝は渋々俺から離れ、牛乳を手にしてダイニングテーブルに戻った。
そこはもう、由伊も起きていて、真もバッチリ服装メイク決めて、寛貴は半分寝ながら食べていた。
……父さん、まだ起きれないのかな。
律は心配になり、こっそり文崇が寝ているであろう孝の部屋へ向かおうとする
しかし、気づかれた孝に「まだ寝てるから、静かにしてあげてな」と言われ、こくりと頷いた。
……父さん、休みの日でも早起きなのに。
不安が膨らみ、ゆっくりドアを開けると文崇は布団にくるまって眠っていた。
こっそり近づくと寝息が聞こえる。
……よかった……生きてる……
まだ熱がありそうで、ゼェゼェと苦しそうだった。
……父さん、こんなになるまで抱え込んでたんだ……俺がちゃんと気づけばよかった……
「……ごめん……父さん」
ぽつりと呟いて手を握った。
すると、もぞりと布団が動きくるりと文崇がこちらを向いた。
「……ん……り、……つ……?」
「父さん?大丈夫?辛いとこない?ご飯は?お粥食べる?」
薄ら目を開けた文崇は、くしゃりと笑って手を握り返してくれた。
「だいじょーぶ、……だよ、……りつは?……たべた?ごめんなぁ……せっかく、いっしょに……いれるのに……よわくて……」
こんな時でも俺の心配をして、謝る文崇に、律は自分が情けなくて仕方が無い。
ぎゅっと強く手を握って、真っ直ぐ見つめた。
「父さんは、弱くなんかない。世界一カッコイイ。大好きだよ」
そう伝えると、聞こえたのか文崇はへにゃりと嬉しそうに笑って、口を開く代わりに律の手を握り返してくれた。
力が入らないのか、弱々しく、だけれどしっかりと手を握ってくれた。
「…………俺、強くなるから。父さんを、守るから」
口だけじゃない。
本当に、強くなる。
由伊に言われたこと全部、図星だと思ったから何も返せなかった。
発作しか起こせない自分に嫌気がさす。
被害者ヅラして、変わろうとしない自分が嫌だ。
俺の中には、母さんと父さんの血が半分ずつ流れている。
負けるはずがない。
母さんも父さんも強くて、優しい。
俺も、2人みたいになれるはずなんだ。
なろうとしなかった
戦うだ何だ宣って、結局やらなきゃただの嘘。
嘘も、やれば嘘じゃなくなる。
決めた。
俺は、父さんを守る。
そして由伊に、言わなきゃいけないことがある。
……由伊の事が『好き』だと伝えなきゃならないんだ。
*
お昼ご飯を食べた後、由伊の声かけで食卓に由伊家と律が集まった。
文崇はまだ眠っている。
「皆に報告なんだけど、律くんと律くんのお父さん今日からここに住むことになったから」
「あら!ようやく決心してくれたの!?嬉しいわぁ」
京子はニコニコして律の手を握ってくれる。
「はい……。あの、重ね重ね親子共々ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げるとご両親は「こちらこそ」と笑って頷いてくれた。
「部屋割りは?どうする?陽貴の部屋がいい?まぁ余り部屋って言っても客間しかないんだけど」
京子の言葉に由伊が答えた。
「律くんは俺の部屋でいいんじゃない?客間は宮村さんが使ったほうが仕事して帰ってきてゆっくりできるんじゃないかな」
その案に律も遠慮がちに「そ、そうだとありがたいです。俺、眠れれば屋根裏とか押し入れとかで平気なので」と言うと、ご両親はケラケラ笑った。
「じゃあ、律くんは陽貴と同じ部屋ね」
人の家にお世話になるだけで精一杯なんだ。
寝れる場所があるだけでありがたい。
律は京子のセリフに頷いた。
「ねぇ」
ぴしりとイラついた声がし、ドキリと動悸がした。
「あたしたちには何の許可もないわけ」
真が怒って由伊を見ている。
その様子に由伊も無表情のまま「なんの許可?結局こうするしかないんだから許可出してくれなそうな相手にわざわざ言わないでしょ」と冷たく言い放つ。
由伊、家族にも冷たくなってる……。
俺が怒らせちゃったからだよな……。
嫌いな相手のために部屋に、家においてくれるだけで申し訳ないのに、俺は口に出せない。
気に食わないからって締め出されても、仕方がないんだ。
「あのさ、そういう言い方はなくね。真は一言言えよって言ってるだけだろ。出ていけって言ったわけじゃない」
寛貴が由伊に厳しい目を向けた。
京子と貴志は黙ったまま子供達の話を聞いていた。
「追い出してもかまわないけど」
「真」
真のセリフに孝はようやく口を出した。
「とにかく、決まったことだから。安全になるまでここに居てもらう。何かあってからじゃ遅いだろ」
「……はぁ、うざ」
ガタンと音を立てて自分の部屋に行ってしまう真。
「ごめんなさいね、律くん。あなたは悪くないのよ。あの子反抗期だから……」
京子に申し訳なく謝られ、律は必死に首を横に振った。
「……いや、俺が悪いんです!……俺が強くなればいい話なので……。真ちゃんの気持ちは最もだと俺も思います。……自分の安心できるはずだった場所を赤の他人に踏み荒らされたら、ふざけんなって思いますよ……」
そう答えて笑うと、由伊の両親は吃驚した顔をして律を見た。
「……律くん、なんかあった?」
「へ」
いきなり京子に確信をつかれて律は流石にびっくりする。
何かあったって、お宅の息子さんに嫌われました、なんて言えるわけない。
「……何もないです……。どうしてですか?」
そう聞くと、両親は顔を見合わせて言った。
「あなた……、そんなにハッキリ自分の気持ちを伝えられてたかしら……。あと、私たちと目合わせてくれるようになったのね」
そういうのってこんな早く気づかれるものなんだ……。
正直、未だに皆と話すのに慣れたわけではない。
今だって手汗が尋常じゃないし、心臓だってバクバクしているし目は常にそらしたくてたまらない。
けど、それを繰り返していたら何も変わらないんだ。
目を覚ました父さんが安心できるように、由伊に変わった姿を見てもらえるように。
全ては大切な人のために決めたこと。
変わらなきゃいけないから。
「自分も、向き合いたいと思ったんです。人と……」
明確に言えるわけではないけど、こうやってまず身近な大人から慣れていこう。
怖くてたまらない。
逃げ出したくてたまらない。
でもそれじゃだめだから。
強くならなきゃいけないから。
「そうなの……。無理、しなくていいんだからね」
京子の顔はあまり嬉しそうではなく、律は不思議に思うけれど気にせず笑顔を作り「はい」と答えた。
大丈夫。
強くなるんだから、大丈夫。
これ以上、優しくしてくれる人に甘えるな。
人は一人で生きていけないのかもしれないけれど、一人で生きていける力は必要なんだ
守ってもらうだけじゃだめだから。
あの後、由伊たちと談笑をしてお夕飯を食べた。
今はお風呂を借りて脱衣所で体を拭いている。
左手首はまだ傷がふさがらなくてしみるけど、服を着て由伊にもらった救急セットで自分で巻いた。
「それくらいやってあげる」と由伊に言われたけれど、「自分でやりたい」と無理に言うと変な顔をしたけど黙って渡してくれた。
やっと一人になった安堵感でつい、ため息を吐いてしゃがみ込んだ。
「……疲れた」
ぽそりと落としてしまった言葉を必死で拾い上げるように、息を再び吸い込み止める。
なに弱音吐いてんだ。
まだ一日目だぞ。
これから先は長いんだ。
由伊は俺をここに置いておくのは俺たちが安全だと認識できるまで、と言っていた。
けれど、そんな不確定にずっといられるわけがない。
安全を確かめるまで……
『あの人』が動きだす前に、こちらから動かないと。
弱ってる時間はない。
もしかしたら、今から俺がやろうとしていることは由伊と一生居られなくなることなのかもしれない。
もしかしたら、父さんともう会えなくなるのかもしれない。
それでもいい。
それで、好きな人に迷惑が掛からず、父さんが無理をせず、安心して過ごせるようになれるのなら俺は恐怖半分嬉しさも半分なんだ。
「わ!まだ入って……って出てるならさっさと部屋行ってよ!」
ずかずか入ってきた真に怒られ律はハッと立ち上がり笑顔を作る。
「……何急に笑いだしてんの?きも」
……こう、思春期の女の子ってなんでこう殺傷能力が高いのだろうか。
ずきりと胸の痛みを認識しながらも、なんとか苦笑し「ごめんね」と謝れた。
今までだったら、俯いて逃げてトイレで戻してたくらいなのに今の律はそこまでではなかった。
なんでだろう。
人からの敵意は今だって怖いと思うのに、あの時ほど心が動揺しなくなった。
……由伊に嫌いと言われた以上に、怖いものが俺にはなかったのかもしれない。
いつの間にか一番恐れていたことが起きて、酷く心が揺れて、そしたら他人への恐怖なんかちっぽけだったんだなって思った。
だから由伊の両親とも話せた。
目も合わせられた。
由伊はすごいな。
律にいろんなことを教えて気づかせてくれる。
「……あたしはあんたのこと、大っ嫌いだから」
真にハッキリと告げられ、その冷たい表情があの時の由伊と重なって、律は思わず目頭が熱くなる。
けれど、笑った。
笑えた。
「うん、ごめんね」
好きな人に嫌われて笑えるようになるなんて、なんて皮肉な話なのだろう。
どうせ笑えるのなら、好きな人と、大切な人と、笑いあいたかった。
*
朝、早くに目を覚ました。
隣で相変わらず律に背を向けて眠る由伊を見つめて小声で声をかけた。
「……おはよ」
時々、キスしてしまいたくなるけど、もしその瞬間起きたらと考えるともっと嫌われそうなので今はやめた。
ゆっくり布団から出て服に着替え、そっと玄関を出る
由伊の家に来て早三日が経った。
明日はいよいよ大晦日。
文崇は年末一杯まで仕事の休みを取ったようで、ようやく昨日熱が下がり起きてみんなと話していた。
文崇は、寛貴にも真にも好かれていて、みんなと楽しそうに話している。
相変わらず文崇はサングラスとマスクをしてくれている。
「もう大丈夫だよ」と伝えようとしたんだけど、何故か孝に止められ「そのことはまだ話題にしないほうがいい」と言われた。
もしかしたら、また病み上がりだからかもしれないと律もその話をするのはやめた。
冷え込む外を一人で歩きながらはぁ、と息を吐く。
白い息で遊んでいると、自分の家に着いた
「ただいまー」
なんとなく、母に聞かせるつもりで毎回帰るたびに声はかけている。
玄関を開けて靴を脱ぐのに下に目をやると、知らない靴がある。
……一瞬で分かった。
どくどくと嫌な鼓動が鳴り、汗が噴き出してくる。
律はゆっくり、お香の香りがする仏間に向かった。
俺は昨日の朝っきり線香は上げに来ていない。
今、この香りが強くするってことは……
「……おう、すけ……さん」
ぽそりと呟くと、仏壇に手を合わせ目をつむっていた男は律を振り返ってにっこり笑った。
「律!」
立ち上がり、ぎゅっと抱きしめられた。
「……っ」
ああ、あの嫌いなにおいだ。
心臓がおかしくなりそうなくらい悲鳴をあげていた。
こんな早まるなんて、思わなかった。
「久しぶりだねぇ、元気だったかぁ?随分大きくなって……ああ、段々フミくんに似てきたねぇ」
にこにこと気味悪い笑みを浮かべて笑う、文崇の双子の兄……央祐さん。
俺を誘拐監禁強姦した、犯人。
「あれ?俺の調べだと、律はPTSDがひどくて人と関われなくなってるはずだったんだけど、知らない人のにおいがするなぁ。っていうか、案外取り乱したりしないんだねぇ。びっくり」
ぺらぺらと好き勝手喋っている。
「なんでここにいるんですか」
「やだなぁ、なんで敬語~?昔はおうくんって呼んでくれてたじゃん」
「いいから答えて」
冷たく言い放つと、央祐さんはスッと目を細めて律の胸倉を掴んだ。
「フミくん、どこへやったの。ここ最近、会社も休んでるよねぇ。会社で会えないから家まで来たのにフミくん帰ってこないんだよねぇ。おまけにフミくんの荷物一個もないね。なんで?」
全て漁られていたことに悪寒を感じながらも、目をそらさずに答えた。
「教えない」
ハッキリ告げると央祐さんの表情がみるみる険しくなり、ダンッと床にたたきつけられた。
「い゛……!!」
息が吸えなくなり、目に涙が浮かぶ。
「ああいいねぇ、その顔懐かしいなあ。なあまた気持ちいこと、しようかぁ」
ニタニタと気持ちの悪い顔で頬を撫でられ、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
「成長した律は、フミくんにそっくりでかわいいねぇ。声も変わったんだねぇ。高校生のフミくんにそっくり」
フミくん、フミくんって相変わらずド変態だ。
「あの時もそうやって、怖くて怖くて逃げだしたくて堪らないのに、フミくんの名前出したらそうやって睨み上げて大人しくなったよねぇ。そんなにパパが大事?」
「……ヤるならヤれよ」
答えずにそういうと、央祐はスンッとつまらなそうな顔をして離れた。
「俺、そういうの好きじゃないんだよなぁ。怖くて逃げ惑うあの顔が好きだったのに、なんで変わっちゃったの?もしかしてビッチになっちゃった?」
呆れたように言われ、律は何も答えずににらみ続けた。
「で、フミくんは?どこ?」
また話題が戻ってしまう。
でも教えるわけにはいかない。
どうしよう……
「由伊 陽貴くんてイケメンだよねぇ」
「……は?」
想いもよらぬ名前が飛び出してきて、律はびくりと体を震わした。
なんで、なんでこの人が由伊を知ってる
「今はなぁんでも調べられちゃうよねぇ。金さえ積めばなぁんでも」
やばい、このままじゃ由伊の家族まで何をされるか分からない。
どくどくと一層激しくなる、鼓動が激しくなるのと比例して呼吸も浅くなっていく。
「はぁっ、ひゅっ」
「お、いいねぇ。ハハッ、顔真っ青。吐く?吐く?」
楽しそうに覗き込まれて思わず央祐を蹴り飛ばした。
けど、威力なんてたかが知れており、いとも簡単に足をつかまれてしまう。
「なぁに?死にたいの?」
不思議そうな顔で言われて、ぞくりと体が震える。
手も震えが止まらない。
でも、ここで逃げたらこいつは父さんに会いに行ってしまう。
それと同時に、由伊の家族にまで手を出されてしまう。
駄目だ。
皆の顔が頭に浮かび、律は深い息を一つ吐いた。
「……父さんに、会ってどうするの」
律の質問に、央祐はにったり笑って、「えぇ?」と頬を赤く染めた。
「シたいことなんていっぱいあるよ?何年閉じ込められてたと思ってんの?会えなかった分、たぁくさん愛をそそぎたいなぁ。あの時はフミくんにしたいことを手っ取り早く子供相手にヤッたけど、俺別にそういう性癖じゃないからさぁ。まあ律はフミくんに似てるし、この薄くて白い体が半分フミくんで出来てると思ったら、ちょーっと激しくヤっちゃったけどねぇ」
あの日の光景が断片的に脳内に流れる。
どくりと心臓が大きく鳴り、反射的にばしゃりと嘔吐してしまった。
「う゛ぇっ、ゲホッお゛ぇ」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い
逃げたい
不意に前髪を掴まれ、無理やり上を向かされた。
「その顔、だぁいすき」
「……っん」
くちゅりと、舌が入ってきてズボンの中に手を入れられ、律のモノを撫でられる。
ゆすいでいない口を、嘔吐物を味わうかのように隅々まで舐めまわし吸われた。
ぢゅっと舌を強く吸われると、びくびくっと腰が震え涙の膜が張る。
段々自分の先端が濡れていくのを感じ、央祐が手を動かすたびにくちゅくちゅと水音が聞こえ始める。
「んっ……っ、ふ、」
咥内をかき混ぜられ、亀頭を攻められ呆気なく普段自慰をしない律は吐精した。
「ふふ、濃いねぇ。抜いてないんだぁ?」
自分の精液がついたてを無理やり口に入れられ、舐めさせられる。
吐き出したいし、抗議したいのに射精で体力が奪われ目で訴えることしかできない。
「相変わらず体力ないねぇ。鍛えなきゃだめよ~」
「ん゛んっ」
喉の奥に指を突っ込まれ、苦しくてもがく。
胃液が吐き出しているのに仰向けにされているせいで、戻ってきてしまう。息ができない
「ん゛ぇッ、お゛ぇ」
胃がひっくり返りそうなくらい気持ちが悪い。
ぽたぽたと涙があふれ、嗚咽する。
ゆっくり指を引き抜かれ、思い切り胃液を吐き出した。
あまりの苦しさに、倒れこみひゅうひゅうと喘息になった。
「あー、まだ治ってないんだぁ。かわいいねぇ」
ちゅう、と額に吸い付かれる。
もう嫌だ、逃げたい
逃げ出したい
怖い、ここにいたくない
由伊に会いたい
守られたい
抱きしめほしい、大丈夫、て言ってほしい
苦しい
「ねぇ律。一個、俺と約束してくれたらフミくんにも由伊って子にも手出さないであげるよ」
思わぬセリフに、律はゆっくり顔を上げる。
「俺、律の事、フミくんの次に大好きだからさ。律が、“一生”俺のものになるって約束して皆と縁を切ったら、もう他の人間なんて目に入れないよ。一生律だけ見ててあげる」
それはやっぱり、自分はもう由伊にも父さんにも会えないってことなんだよな。
分かってはいた。
むしろ、こうなるように仕向けようとしていたのは自分の方だ。
けどもう少し、先になるはずだった。
だから時間をかけて、由伊や父さんに変わった姿見せて恩返しして、好きだって伝えて、それで、……
そうしてから、居なくなろうと思っていた。
念のため、父さんの私物は全部由伊の家に置かせてもらってよかった。
あーあ。
全部パーだなぁ。
でも俺には、こう答えるしかできない。
「……わかった」
このセリフしか言えるわけないじゃないか。
「聞き分けがよくて好きだなぁ」
ちゅ、触れるだけのキスをされ律は「でも」と続けた。
「……俺も、一生央祐さんだけを見るから……だから、少し時間が欲しい。……今年だけ、皆にちゃんとご挨拶……したい。……必ず、央祐さんのところに、もどるから……お願い……」
央祐の手を握り、見上げた。
せめて今年だけは。
そのあとはもうなんでもいい。
そうだ、この人と死んでしまえばいい。
そうすれば、俺もこの人も約束は守られるし、父さんも由伊たちも苦しまない。
ちゃんとありがとう、を伝えたい。
「ちゃんと戻ってくる?」
央祐さんは小さな子供ような目で律を見た。
「うん。だから、待っててほしい」
しっかり見つめ返して伝えると、央祐は瞳から光をなくし律に顔を近づけた。
「……戻ってこなかったら全員殺してもいいの?お前も」
ああ、逃げられない。
逃げ場所を、つぶされてしまう。
「……俺だけにして。俺だけが、アナタに殺されたい。そうすれば俺は一生あなただけのものだ」
なんとなくわかってるんだ。
央祐が望む言葉は。
昔、父さんと央祐さんが『愛しあっていた』ころに、父さんから言われたかったことを言えばいい。
この人はずっと囚われている。
昔の己と、歪んだ愛に飲み込まれた……哀しい人。
「うん。律だけ」
にっこり安心したように笑う央祐に、律もにっこり笑った。
「ありがとう」
世が皮肉で堪らない。
どうしようもなく、時の流れは残酷で救われない。
どうせ終わる日常に、憧れも期待も捨てよう。
俺の運命の赤い糸は、由伊と繋がっていたかったな。
どうせ死ぬのなら、由伊に殺されたかったな。
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