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一章 呪われた額の痣
第十八話
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緋花が黒蝶の紅を盗んだという罪は、真珠殿の侍女ひとりのみが確認しただけで、衣に元々入っていたかどうかを立証することはできず、罪には問われなかった。紅玉から黒蝶へ贈られたという紅は無事黒蝶の元へ戻り、紅玉の命により緋花が私物として後宮へ持ってきた化粧箱と中身の化粧道具は全て緋花の手元へ戻った。
後宮中、緋花が側室となる話で持ちきりだ。芍薬が亡くなって数十年という長い年月、紅玉は誰も愛していない。このままでは世継ぎがひとりも誕生しないと、誰もが悩んでいたところの緋の刻印の出現に後宮がざわついた。だが、このざわつきは決して良いものではなかった。緋の刻印が施されている者をそのままにはしておかないだろうが、正式に緋花がどういう立場になるのかを誰にも伝えられていないのは訳がある。緋の刻印はあれど、緋花が人であることが大きな問題であるようだった。
紅玉は緋花につける侍女を三人選んでいた。一人目は玉代。緋花と同じ立場として後宮へやって来た玉代なら、緋花の心に寄り添うことができると選ばれた。二人目は給仕場の凪。緋花とは気軽に話せる間柄というのと、食事に毒などを入れられないよう監視役も兼ねている。そして、三人目は元々芍薬の侍女で亡くなったあと紅玉が身の回りの世話を任せていた侍女――桃だ。桃が侍女頭を命じられていた。
「我々が緋花様のお世話をさせていただきます。よろしくお願い申し上げます」
桃を筆頭に、玉代と凪も深々と頭を下げた。
「あ、あの、そういうのはやめてください」
緋花は誰かに頭を下げられるという経験がないため、とても居心地が悪かった。凪は友達として接してきたし、玉代は頼れる上司だ。
「そう言われましても、これが礼儀というものですので」
桃はそう答える。
「私が侍女頭をさせていただきます。いつでも、何なりとお申し付けください」
緋花はもぞもぞと身体を揺らし、頬を掻いた。
緋花は芍薬がいた翡翠舎へ引っ越した。これまでは数時間うとうとする程度の睡眠で、一日中黒蝶の元で忙しなく働いていた。それがない生活は緋花にとって退屈だ。真珠殿の侍女たちから嫌がらせを受けることはなくなり心穏やかに暮らせるだろうが、緋花は黒蝶に化粧を施していたときのことが忘れられなかった。
「私はこれから一体、何をすればよいのでしょうか」
「なんでも、したいことをなさってください」
「したいことって……」
桃からの答えに、緋花は化粧をすることくらいしか頭に思い浮かばなかった。
「黒蝶様に化粧を施すことは、私にとって仕事でしたがとても楽しかったのです」
「それならば、緋花に任せたい者がいる」
話を聞いていた紅玉が部屋へやってきた。
紅玉様、と全員が頭を下げる。
紅玉は毎日、少しでも時間があれば翡翠舎へ足を運んでいた。片時も離れたくないようだ。
「私に、どなたかの化粧を任せていただけるのですか?」
「いつでも私の隣にいてもらいたいが、それほどまでに仕事がしたいというのなら――石榴の化粧を任せたい」
「石榴……様?」
誰なのかわっていない緋花に、凪が小声で「紅玉様の妹君です」と言った。
「え? 紅玉様の妹君なのですか?」
「そうだ。引っ込み思案であまり表には出たがらない。仲良くなるきっかけにもなるだろうから、緋花に任せたいのだ」
「私なんかでよければ、もちろんです」
笑顔であっさり引き受ける緋花の手を、紅玉が握る。またピリリと身体が痺れた。緋花は顔を真っ赤にして、三人の侍女の方を見ると全員がさっと視線を逸らした。
「正式に緋花を妻に迎え入れたいが、そのために解決しなければならないことが山積みだ」
「つ、妻ですか? ですが、黒蝶様がいらっしゃるではないですか」
正妃として迎えられるのはひとりのはず、と緋花は混乱する。
「側室など私の気持ちが許せない。私が愛する者はひとりだけ、緋花だけだと言ったはずだ」
緋花は自分を想ってくれる紅玉に対して、複雑な心境だった。黒蝶はどうなってしまうのか、そもそも自分が芍薬の生まれ変わりだから愛されているだけなのではないか。緋花としての自分は、紅玉と不釣り合いすぎるのではないか。考えれば考えるほど、素直に喜ぶことができなかった。
「浮かない顔をして、どうした」
「私は……」
しかし、紅玉を前に素直な気持ちをぶちまけることはできなかった。
自分が一体誰なのか。緋花なのか、芍薬なのか、わからなくなってしまいそうで怖かった。それでもゆっくりとじんわりと、緋花の心には紅玉への淡い想いが募っていった。粉のような雪が少しずつ積もり重なっていくように。
恋などしたことがない緋花は、初めて抱く想いにも困惑していた。
「なんでも、ございません」
上手く伝える自信がなくて、緋花は口を閉じた。
後宮中、緋花が側室となる話で持ちきりだ。芍薬が亡くなって数十年という長い年月、紅玉は誰も愛していない。このままでは世継ぎがひとりも誕生しないと、誰もが悩んでいたところの緋の刻印の出現に後宮がざわついた。だが、このざわつきは決して良いものではなかった。緋の刻印が施されている者をそのままにはしておかないだろうが、正式に緋花がどういう立場になるのかを誰にも伝えられていないのは訳がある。緋の刻印はあれど、緋花が人であることが大きな問題であるようだった。
紅玉は緋花につける侍女を三人選んでいた。一人目は玉代。緋花と同じ立場として後宮へやって来た玉代なら、緋花の心に寄り添うことができると選ばれた。二人目は給仕場の凪。緋花とは気軽に話せる間柄というのと、食事に毒などを入れられないよう監視役も兼ねている。そして、三人目は元々芍薬の侍女で亡くなったあと紅玉が身の回りの世話を任せていた侍女――桃だ。桃が侍女頭を命じられていた。
「我々が緋花様のお世話をさせていただきます。よろしくお願い申し上げます」
桃を筆頭に、玉代と凪も深々と頭を下げた。
「あ、あの、そういうのはやめてください」
緋花は誰かに頭を下げられるという経験がないため、とても居心地が悪かった。凪は友達として接してきたし、玉代は頼れる上司だ。
「そう言われましても、これが礼儀というものですので」
桃はそう答える。
「私が侍女頭をさせていただきます。いつでも、何なりとお申し付けください」
緋花はもぞもぞと身体を揺らし、頬を掻いた。
緋花は芍薬がいた翡翠舎へ引っ越した。これまでは数時間うとうとする程度の睡眠で、一日中黒蝶の元で忙しなく働いていた。それがない生活は緋花にとって退屈だ。真珠殿の侍女たちから嫌がらせを受けることはなくなり心穏やかに暮らせるだろうが、緋花は黒蝶に化粧を施していたときのことが忘れられなかった。
「私はこれから一体、何をすればよいのでしょうか」
「なんでも、したいことをなさってください」
「したいことって……」
桃からの答えに、緋花は化粧をすることくらいしか頭に思い浮かばなかった。
「黒蝶様に化粧を施すことは、私にとって仕事でしたがとても楽しかったのです」
「それならば、緋花に任せたい者がいる」
話を聞いていた紅玉が部屋へやってきた。
紅玉様、と全員が頭を下げる。
紅玉は毎日、少しでも時間があれば翡翠舎へ足を運んでいた。片時も離れたくないようだ。
「私に、どなたかの化粧を任せていただけるのですか?」
「いつでも私の隣にいてもらいたいが、それほどまでに仕事がしたいというのなら――石榴の化粧を任せたい」
「石榴……様?」
誰なのかわっていない緋花に、凪が小声で「紅玉様の妹君です」と言った。
「え? 紅玉様の妹君なのですか?」
「そうだ。引っ込み思案であまり表には出たがらない。仲良くなるきっかけにもなるだろうから、緋花に任せたいのだ」
「私なんかでよければ、もちろんです」
笑顔であっさり引き受ける緋花の手を、紅玉が握る。またピリリと身体が痺れた。緋花は顔を真っ赤にして、三人の侍女の方を見ると全員がさっと視線を逸らした。
「正式に緋花を妻に迎え入れたいが、そのために解決しなければならないことが山積みだ」
「つ、妻ですか? ですが、黒蝶様がいらっしゃるではないですか」
正妃として迎えられるのはひとりのはず、と緋花は混乱する。
「側室など私の気持ちが許せない。私が愛する者はひとりだけ、緋花だけだと言ったはずだ」
緋花は自分を想ってくれる紅玉に対して、複雑な心境だった。黒蝶はどうなってしまうのか、そもそも自分が芍薬の生まれ変わりだから愛されているだけなのではないか。緋花としての自分は、紅玉と不釣り合いすぎるのではないか。考えれば考えるほど、素直に喜ぶことができなかった。
「浮かない顔をして、どうした」
「私は……」
しかし、紅玉を前に素直な気持ちをぶちまけることはできなかった。
自分が一体誰なのか。緋花なのか、芍薬なのか、わからなくなってしまいそうで怖かった。それでもゆっくりとじんわりと、緋花の心には紅玉への淡い想いが募っていった。粉のような雪が少しずつ積もり重なっていくように。
恋などしたことがない緋花は、初めて抱く想いにも困惑していた。
「なんでも、ございません」
上手く伝える自信がなくて、緋花は口を閉じた。
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