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一章 呪われた額の痣
第十二話
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この鬼の後宮には世継ぎがいない。皇后である黒蝶は子をなしておらず、側室もひとりしかいない。緋花がここへやって来る少し前に側室として紫苑という娘が迎えられていた。
緋花が鬼の国へ来てから一月ほどが経った。しかし、帝の紅玉が黒蝶の元を訪れた日は一度もなかった。なぜだろう、と緋花は一日一日が過ぎる度思ってしまう。こんなにも黒蝶様は美しい方なのに、と。
「ここじゃ、有名な話なの」
緋花は日が昇った頃に、隠れて凪と話をするのが日課になっていた。それが今一番の楽しみと言ってもいい。日光が当たらないようしっかり部屋の戸を閉めて、ひそひそと噂話に花を咲かせる。
「でも、正妃様なのに?」
「紅玉様には、どうしても忘れられない方がいたの。その方が亡くなられてから、誰ひとりとして愛さないって宣言したんだって」
へぇ、と緋花は驚いた。
「でも、それじゃあ黒蝶様が可愛そうだわ」
「お飾りだって、みんな知ってる。それに、芍薬様は誰かに殺されたの」
芍薬様? と緋花は訊ねた。
「紅玉様の愛した方よ」
「殺されたって、一体誰に?」
「それがまだわからないから、緋花も気を付けた方がいいよ」
「どうして?」
「殺したのは、黒蝶様じゃないかって散々噂されたから」
ぞくり、と緋花の背筋が凍った。
黒蝶は毎日美しく着飾っていた。赤や青や金や銀の色とりどりな着物をきて、しっかり化粧を施し、長い銀髪を丁寧に結い、簪を挿す。緋花には誰かを待っているように見えた。
「黒蝶様。これはまた、いつにもましてお美しいですね」
男がひとり、真珠殿へやって来た。緋花はまだ見たことがない顔だった。一体誰か。
「青玉様」
黒蝶が軽く会釈をし、侍女たちが次々に深々と頭を下げた。
「この娘が噂の新しい化粧師ですか?」
「はい」
青玉の頭にも黒くて長い角が生えていた。髪は青く、瞳は茶色だ。話し方や表情がにこやかでとても愛想の良い鬼だった。
「本日はなぜこちらへ?」
黒蝶が訊ねる。
「黒蝶様がきっと気に入られるだろうものをお持ちしました」
「まあ、揚羽蝶ですね」
竹で編んだ小さな虫かごに蝶が一羽入っていた。
「でも、この中では狭いでしょうね」
黒蝶はそう言って眉を下げる。
「真珠殿の庭先に放しましょう。きっと蝶も気に入って、庭に住んでくれるはずです」
「それは名案だわ」
黒蝶は虫かごを手に持つと、庭の方へ歩いていった。戸を開けると、蝶はすぐに庭へ飛んでいく。真珠殿の庭にはたくさんの紫陽花が咲いていた。
「この庭に住んでくれると良いのだけれど……」
そう言った黒蝶の表情は、いつもより哀しげに見えた。
あとから凪に訊いたが、青玉は紅玉の弟であった。黒蝶と青玉は同じ年で、幼い頃から仲が良かったのだという。紅玉は上皇と上皇后の第一子であったが、青玉は側室との子。このまま紅玉に子ができない場合、青玉が皇太子となり後を継ぐことになる。他にも紅玉には妹の石榴がいた。
黒蝶は紅玉を毎日待ち、紅玉は死んだ芍薬を忘れることができず、緋花にはふたりが可哀想で仕方がなかった。
「このままでは黒蝶様の御心が壊れてしまうでしょう。どうにかしなければ」
と侍女頭の鈴音が言い、他の侍女たちも頷く。緋花にはどうするべきなのかわからず、ただ黙ったまま話を訊いていた。黒蝶の美しさをより引き立てるような化粧を施す以外、緋花には思いつかなかった。
「千日紅を摘んでくるというのはいかがでしょうか」
侍女のひとりが言った。
「紅玉様と言えば、千日紅です。紅玉様から千日紅を贈られたように見せかければ、黒蝶様も喜ばれるのではないでしょうか」
「騙すというのか黒蝶様を。なんてことを言うのだ」
鈴音が提案した侍女を叱る。
「ですが、花ひとつで黒蝶様の御心も変わるかと。待つだけではなく、直接会いに行かれるきっかけにもなるのではないでしょうか」
確かに、黒蝶はいつも真珠殿で静かに紅玉がやって来るのを待つばかりだ。別に正妃なのだから、直接紅玉の元へ行くことはできる。
「それは確かに……。でも、一体誰が千日紅を――緋花、」
美鈴は集まる侍女たちをぐるりと見回し、緋花に目を止めた。
「お前に頼みたい」
「わ、私ですか?」
「日中に取りに行ってくれないか」
「……はい、承知いたしました。それで、千日紅はどちらにあるのでしょうか?」
緋花の問いに、侍女たちは皆クスクスと笑った。
「千日紅があるのはただひとつ――金剛殿の庭だ」
緋花が鬼の国へ来てから一月ほどが経った。しかし、帝の紅玉が黒蝶の元を訪れた日は一度もなかった。なぜだろう、と緋花は一日一日が過ぎる度思ってしまう。こんなにも黒蝶様は美しい方なのに、と。
「ここじゃ、有名な話なの」
緋花は日が昇った頃に、隠れて凪と話をするのが日課になっていた。それが今一番の楽しみと言ってもいい。日光が当たらないようしっかり部屋の戸を閉めて、ひそひそと噂話に花を咲かせる。
「でも、正妃様なのに?」
「紅玉様には、どうしても忘れられない方がいたの。その方が亡くなられてから、誰ひとりとして愛さないって宣言したんだって」
へぇ、と緋花は驚いた。
「でも、それじゃあ黒蝶様が可愛そうだわ」
「お飾りだって、みんな知ってる。それに、芍薬様は誰かに殺されたの」
芍薬様? と緋花は訊ねた。
「紅玉様の愛した方よ」
「殺されたって、一体誰に?」
「それがまだわからないから、緋花も気を付けた方がいいよ」
「どうして?」
「殺したのは、黒蝶様じゃないかって散々噂されたから」
ぞくり、と緋花の背筋が凍った。
黒蝶は毎日美しく着飾っていた。赤や青や金や銀の色とりどりな着物をきて、しっかり化粧を施し、長い銀髪を丁寧に結い、簪を挿す。緋花には誰かを待っているように見えた。
「黒蝶様。これはまた、いつにもましてお美しいですね」
男がひとり、真珠殿へやって来た。緋花はまだ見たことがない顔だった。一体誰か。
「青玉様」
黒蝶が軽く会釈をし、侍女たちが次々に深々と頭を下げた。
「この娘が噂の新しい化粧師ですか?」
「はい」
青玉の頭にも黒くて長い角が生えていた。髪は青く、瞳は茶色だ。話し方や表情がにこやかでとても愛想の良い鬼だった。
「本日はなぜこちらへ?」
黒蝶が訊ねる。
「黒蝶様がきっと気に入られるだろうものをお持ちしました」
「まあ、揚羽蝶ですね」
竹で編んだ小さな虫かごに蝶が一羽入っていた。
「でも、この中では狭いでしょうね」
黒蝶はそう言って眉を下げる。
「真珠殿の庭先に放しましょう。きっと蝶も気に入って、庭に住んでくれるはずです」
「それは名案だわ」
黒蝶は虫かごを手に持つと、庭の方へ歩いていった。戸を開けると、蝶はすぐに庭へ飛んでいく。真珠殿の庭にはたくさんの紫陽花が咲いていた。
「この庭に住んでくれると良いのだけれど……」
そう言った黒蝶の表情は、いつもより哀しげに見えた。
あとから凪に訊いたが、青玉は紅玉の弟であった。黒蝶と青玉は同じ年で、幼い頃から仲が良かったのだという。紅玉は上皇と上皇后の第一子であったが、青玉は側室との子。このまま紅玉に子ができない場合、青玉が皇太子となり後を継ぐことになる。他にも紅玉には妹の石榴がいた。
黒蝶は紅玉を毎日待ち、紅玉は死んだ芍薬を忘れることができず、緋花にはふたりが可哀想で仕方がなかった。
「このままでは黒蝶様の御心が壊れてしまうでしょう。どうにかしなければ」
と侍女頭の鈴音が言い、他の侍女たちも頷く。緋花にはどうするべきなのかわからず、ただ黙ったまま話を訊いていた。黒蝶の美しさをより引き立てるような化粧を施す以外、緋花には思いつかなかった。
「千日紅を摘んでくるというのはいかがでしょうか」
侍女のひとりが言った。
「紅玉様と言えば、千日紅です。紅玉様から千日紅を贈られたように見せかければ、黒蝶様も喜ばれるのではないでしょうか」
「騙すというのか黒蝶様を。なんてことを言うのだ」
鈴音が提案した侍女を叱る。
「ですが、花ひとつで黒蝶様の御心も変わるかと。待つだけではなく、直接会いに行かれるきっかけにもなるのではないでしょうか」
確かに、黒蝶はいつも真珠殿で静かに紅玉がやって来るのを待つばかりだ。別に正妃なのだから、直接紅玉の元へ行くことはできる。
「それは確かに……。でも、一体誰が千日紅を――緋花、」
美鈴は集まる侍女たちをぐるりと見回し、緋花に目を止めた。
「お前に頼みたい」
「わ、私ですか?」
「日中に取りに行ってくれないか」
「……はい、承知いたしました。それで、千日紅はどちらにあるのでしょうか?」
緋花の問いに、侍女たちは皆クスクスと笑った。
「千日紅があるのはただひとつ――金剛殿の庭だ」
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