上 下
13 / 22
一章 呪われた額の痣

第十二話

しおりを挟む
 この鬼の後宮には世継ぎがいない。皇后である黒蝶は子をなしておらず、側室もひとりしかいない。緋花がここへやって来る少し前に側室として紫苑という娘が迎えられていた。
 緋花が鬼の国へ来てから一月ほどが経った。しかし、帝の紅玉が黒蝶の元を訪れた日は一度もなかった。なぜだろう、と緋花は一日一日が過ぎる度思ってしまう。こんなにも黒蝶様は美しい方なのに、と。

「ここじゃ、有名な話なの」

 緋花は日が昇った頃に、隠れて凪と話をするのが日課になっていた。それが今一番の楽しみと言ってもいい。日光が当たらないようしっかり部屋の戸を閉めて、ひそひそと噂話に花を咲かせる。

「でも、正妃様なのに?」
「紅玉様には、どうしても忘れられない方がいたの。その方が亡くなられてから、誰ひとりとして愛さないって宣言したんだって」

 へぇ、と緋花は驚いた。

「でも、それじゃあ黒蝶様が可愛そうだわ」
「お飾りだって、みんな知ってる。それに、芍薬様は誰かに殺されたの」

 芍薬様? と緋花は訊ねた。

「紅玉様の愛した方よ」
「殺されたって、一体誰に?」
「それがまだわからないから、緋花も気を付けた方がいいよ」
「どうして?」
「殺したのは、黒蝶様じゃないかって散々噂されたから」

 ぞくり、と緋花の背筋が凍った。

 黒蝶は毎日美しく着飾っていた。赤や青や金や銀の色とりどりな着物をきて、しっかり化粧を施し、長い銀髪を丁寧に結い、簪を挿す。緋花には誰かを待っているように見えた。

「黒蝶様。これはまた、いつにもましてお美しいですね」

 男がひとり、真珠殿へやって来た。緋花はまだ見たことがない顔だった。一体誰か。

青玉せいぎょく様」

 黒蝶が軽く会釈をし、侍女たちが次々に深々と頭を下げた。

「この娘が噂の新しい化粧師ですか?」
「はい」

 青玉の頭にも黒くて長い角が生えていた。髪は青く、瞳は茶色だ。話し方や表情がにこやかでとても愛想の良い鬼だった。

「本日はなぜこちらへ?」

 黒蝶が訊ねる。

「黒蝶様がきっと気に入られるだろうものをお持ちしました」
「まあ、揚羽蝶ですね」

 竹で編んだ小さな虫かごに蝶が一羽入っていた。

「でも、この中では狭いでしょうね」

 黒蝶はそう言って眉を下げる。

「真珠殿の庭先に放しましょう。きっと蝶も気に入って、庭に住んでくれるはずです」
「それは名案だわ」

 黒蝶は虫かごを手に持つと、庭の方へ歩いていった。戸を開けると、蝶はすぐに庭へ飛んでいく。真珠殿の庭にはたくさんの紫陽花が咲いていた。

「この庭に住んでくれると良いのだけれど……」

 そう言った黒蝶の表情は、いつもより哀しげに見えた。


 あとから凪に訊いたが、青玉は紅玉の弟であった。黒蝶と青玉は同じ年で、幼い頃から仲が良かったのだという。紅玉は上皇と上皇后の第一子であったが、青玉は側室との子。このまま紅玉に子ができない場合、青玉が皇太子となり後を継ぐことになる。他にも紅玉には妹の石榴がいた。
 黒蝶は紅玉を毎日待ち、紅玉は死んだ芍薬を忘れることができず、緋花にはふたりが可哀想で仕方がなかった。

「このままでは黒蝶様の御心が壊れてしまうでしょう。どうにかしなければ」

 と侍女頭の鈴音が言い、他の侍女たちも頷く。緋花にはどうするべきなのかわからず、ただ黙ったまま話を訊いていた。黒蝶の美しさをより引き立てるような化粧を施す以外、緋花には思いつかなかった。

「千日紅を摘んでくるというのはいかがでしょうか」

 侍女のひとりが言った。

「紅玉様と言えば、千日紅です。紅玉様から千日紅を贈られたように見せかければ、黒蝶様も喜ばれるのではないでしょうか」
「騙すというのか黒蝶様を。なんてことを言うのだ」

 鈴音が提案した侍女を叱る。

「ですが、花ひとつで黒蝶様の御心も変わるかと。待つだけではなく、直接会いに行かれるきっかけにもなるのではないでしょうか」

 確かに、黒蝶はいつも真珠殿で静かに紅玉がやって来るのを待つばかりだ。別に正妃なのだから、直接紅玉の元へ行くことはできる。

「それは確かに……。でも、一体誰が千日紅を――緋花、」

 美鈴は集まる侍女たちをぐるりと見回し、緋花に目を止めた。

「お前に頼みたい」
「わ、私ですか?」
「日中に取りに行ってくれないか」
「……はい、承知いたしました。それで、千日紅はどちらにあるのでしょうか?」

 緋花の問いに、侍女たちは皆クスクスと笑った。

「千日紅があるのはただひとつ――金剛殿の庭だ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王宮侍女は穴に落ちる

斑猫
恋愛
婚約破棄されたうえ養家を追い出された アニエスは王宮で運良く職を得る。 呪われた王女と呼ばれるエリザベ―ト付き の侍女として。 忙しく働く毎日にやりがいを感じていた。 ところが、ある日ちょっとした諍いから 突き飛ばされて怪しい穴に落ちてしまう。 ちょっと、とぼけた主人公が足フェチな 俺様系騎士団長にいじめ……いや、溺愛され るお話です。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

僕は君を思うと吐き気がする

月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

処理中です...