上 下
45 / 72

45

しおりを挟む


* * *


 目覚ましが鳴る。わさびが私の顔をぺろんと舐めた。「うぇっ」と思い、飛び起きる。
 しっぽを振って、満足そうな顔をしていた。
 きょうも暑い。梅雨が明けてから、いよいよ地球はおかしくなったんじゃないか、というくらいの暑さに感じる。これでは、外に出ただけで溶ける。
 ずいぶんと、長い夢を見ていたような気がした。まだ翔も一緒にいて、真一も美佳も、毎日顔を合わせて、どうでもいい話をして、それで毎日が過ぎていく。今もまだ、あんな日々がふと、返って来るような錯覚に陥る。もう二度と、あんな日はやってこないのに。

「きょうは海ですよ、わさびさん」

 ワン、と一回吠えた。今のは「わかってる、だから起こした」か「さっさとご飯を寄こせ」のどちらだろう。
 海なんて、ずいぶん久しぶりだった。引き出しの奥に眠っていた水着を引っ張り出して、日焼け止めとタオルとサンダルを鞄に詰め込む。水着は服の下に着て、着替えを代わりに用意した。

「家の前にいるから、早く降りて来い」

 美佳から電話がかかって来た。

「今行きますよ」

 よし、行くぞとわさびに話しかけると、飛びかかりそうなくらい勢いよく走り出した。

「おは……よう」

 真一が運転手で、助手席には美佳。後部座席に、なぜか大智さん。

「大智さん、泳ぐの得意なんだって」

 泳ぐのが得な人なんて、世の中にごまんといる。なのに大智さんをチョイスして連れて来たのか。魂胆はミエミエだ。

「おはよう、谷口さん」
「おはようございます」

 わさびは大智さんと私の間に座った。私を守ってくれているようにも思える。さすが彼氏だ。

「忘れ物はない?」

 真一がくるりと振り返り、私たちに訊ねる。

「忘れたって大丈夫だから、さっさと出してよ、車」

美佳が隣で急き立てた。

「了解」

 素直に従い、車が動く。

「早く行かないと、人いっぱいなんだから」
「わかったわかった。安全に、飛ばしますよ」

 美佳のご機嫌を取りつつ、運転する真一。おなじみの光景だ。

「谷口さん、海好き?」
「ええ、まぁ。それなりに」
「あたしたち、学生のときは必ず毎年海に行ってたんですよ。でも夏芽、あんまり泳ぐのが得意じゃないから、きょうは大智さんにレッスンしてもらったら?」
「大丈夫、ここに犬かきのお手本がいるから」
「犬かきなんて、人間の泳ぎ方じゃないでしょ」

 美佳に笑われる。

「なんて名前?」
「わさびです」

 わさびはよしよしと頭を撫でられ、次第に心を許していき、喉をソフトタッチで撫でられてもうたまらん、という顔をしている。この浮気者が。

「僕も好きなんだよね、犬。特に、黒柴のこの眉毛が」

 私の愛しい二つのちょんちょん眉毛を、大智さんが撫でる。そこは私しか触れないはずなのにっ!

「わさび、懐いてるじゃん。動物好きな人って、動物にはわかるんだよね」
「その点、美佳は嫌われてるけどね」
「いいの、あたしは。犬は毛だらけになるし、好きじゃないの」

 キッパリ美佳に嫌いと宣言されたわさび。でも、少しも落ち込んだ様子はない。

「きょう行く海、チョコレート味のかき氷があるって知ってた?」

 真一が突然話題を切り替えた。

「チョコレート味のかき氷? 何それ、美味しいの?」

 そんなもの、聞いたことがない。

「それが、マジでチョコレートの味するの。知ってた? かき氷のシロップって、実はみんな同じ味らしいよ。色がついてるから、グレープ味とかいちご味とかレモン味って思い込んで、脳が錯覚するんだって」

 急にうんちくを語り出したので、美佳が「知ってるし」と言った。美佳が「知ってるし」と言うときは、大抵知らない。

「僕も一度だけ食べたことあるよ。確かに、美味しいよね。懐かしいなぁ、もうずいぶん小さい頃だったから。翔も一緒に、よく行った海だったんだよね」
「翔も海好きだったから。俺もよく翔の家族と一緒に連れてってもらった」
「昔は、お互い家族連れでよく行ったよね」

 昔話に、花が咲いているようだ。私はそんなこと全く知らなかった。確かに、翔と真一は小学生の頃からの親友だと言っていた。
 翔は、どんな子どもだったんだろう。私が出会ったときだって、十分子どもみたいなものだったけれど。でも、きっと小学生のときの翔と、中学生のときの翔と、高校生のときの翔は、ちょっとずつ違うはず。そんな姿を知っているのは、真一や大智さんしかいない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

もう一度『初めまして』から始めよう

シェリンカ
ライト文芸
『黄昏刻の夢うてな』ep.0 WAKANA 母の再婚を機に、長年会っていなかった父と暮らすと決めた和奏(わかな) しかし芸術家で田舎暮らしの父は、かなり変わった人物で…… 新しい生活に不安を覚えていたところ、とある『不思議な場所』の話を聞く 興味本位に向かった場所で、『椿(つばき)』という同い年の少女と出会い、ようやくその土地での暮らしに慣れ始めるが、実は彼女は…… ごく平凡を自負する少女――和奏が、自分自身と家族を見つめ直す、少し不思議な成長物語

雨が乾くまで

日々曖昧
ライト文芸
 元小学校教師のフリーター吉名楓はある大雨の夜、家の近くの公園でずぶ濡れの少年、立木雪に出会う。  雪の欠けてしまった記憶を取り戻す為に二人は共同生活を始めるが、その日々の中で楓は自分自身の過去とも対峙することになる。

たとえ空がくずれおちても

狼子 由
ライト文芸
社会人の遥花(はるか)は、ある日、高校2年生の頃に戻ってしまった。 現在の同僚であり、かつては同級生だった梨菜に降りかかるいじめと向き合いながら、遥花は自分自身の姿も見詰め直していく。 名作映画と祖母の面影を背景に、仕事も恋も人間関係もうまくいかない遥花が、高校時代をやり直しながら再び成長していくお話。 ※表紙絵はSNC*さん(@MamakiraSnc)にお願いして描いていただきました。 ※作中で名作映画のあらすじなどを簡単に説明しますので、未視聴の方にはネタバレになる箇所もあります。

月の女神と夜の女王

海獺屋ぼの
ライト文芸
北関東のとある地方都市に住む双子の姉妹の物語。 妹の月姫(ルナ)は父親が経営するコンビニでアルバイトしながら高校に通っていた。彼女は双子の姉に対する強いコンプレックスがあり、それを払拭することがどうしてもできなかった。あるとき、月姫(ルナ)はある兄妹と出会うのだが……。 姉の裏月(ヘカテー)は実家を飛び出してバンド活動に明け暮れていた。クセの強いバンドメンバー、クリスチャンの友人、退学した高校の悪友。そんな個性が強すぎる面々と絡んでいく。ある日彼女のバンド活動にも転機が訪れた……。 月姫(ルナ)と裏月(ヘカテー)の姉妹の物語が各章ごとに交錯し、ある結末へと向かう。

浴槽海のウミカ

ベアりんぐ
ライト文芸
「私とこの世界は、君の深層心理の投影なんだよ〜!」  過去の影響により精神的な捻くれを抱えながらも、20という節目の歳を迎えた大学生の絵馬 青人は、コンビニ夜勤での疲れからか、眠るように湯船へと沈んでしまう。目が覚めるとそこには、見覚えのない部屋と少女が……。  少女のある能力によって、青人の運命は大きく動いてゆく……! ※こちら小説家になろう、カクヨムでも掲載しています。

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

処理中です...