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 雨の日は胸の辺りがじくじく痛む。熟れた無花果に傷がついたように、傷口が柔らかく膿んでいる。そんな気がして、伸びたシャツの襟元から中を覗いた。
 ない。何もない。
 胸もなければ、傷もない。
 傷のない胸元を強く搔きむしり、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。扉を開け放ったまま口付ける。
 うまい。
 休日の昼間はこれに限る。
 まだまだ梅雨は明けそうにないですね、とテレビの中の人が言う。
 乱暴に扉を閉めて、そのままソファに深く座り込んだ。目の前の木目調のテーブルに置かれた手紙を睨みつけながら、また一口飲む。封筒は汚れひとつない、まっさらな白だ。金色の縁取りが豪華で、小さなリボンの模様もある。
 手紙を見たせいか、一口目のうまさは消えていた。
 親友美佳からの結婚式の招待状だった。
 まさかあの美佳が結婚するとは。世の中、なんでもありだな。
 私は缶ビールを手に持ったままソファの上でひっくり返る。ふと視線の片隅に、昨晩脱ぎっぱなしにした服が私の抜け殻のように落ちているのが見えた。まるで蝉の抜け殻だ。

「あーあ」

 思わずひとりでに声が出る。
 恋愛は人生のすべて、とは言えない。やりがいのある仕事。没頭できる趣味。いざというときに頼りになる親友の存在。それらがあれば恋なんてしなくても、人生は充実していると言える。
 だけどあいにく、私の仕事はただの事務員でこの仕事に何のやりがいも感じられない。特別入れ込むほどの趣味もない。結婚なんてしないと言った親友美佳は、あっさり結婚。ふたりで老後は一緒に助け合おうとまで誓い合っていたというのに。
 友達は次々に結婚していき、妊娠し、母になっていく。結婚年齢が上がったなんて、結婚適齢期の男女を焦らせるための嘘だとしか思えない。「結婚します(はあと)」の報告を受けるたび、独身宣言を貫き通せ! と言いたいのをぐっと堪え「おめでとう(はあと)」と返す。
 結婚してゆく友達はみな、聞いてもいないのに「結婚するなんて夢にも思っていなかった」と口をそろえて言う。私になんて言ってほしいのか。「あれだけ結婚しないって言っていたのに結婚しちゃうくらいだから、運命の人なんだね(はあと)」と言ってほしいのだろうか。そんなこと、言うわけないだろ。
 ふぅ、と短い息を漏らすも、ここ一週間振り続けている雨音にかき消された。梅雨が来たんだなぁ、としみじみ思う。
 二十五歳で一人暮らしをしてここに引っ越し、早三年。家族や周囲の友達には絶対やめろと反対されたが、反対を押し切り彼を家に招き入れた。

「わさびー」

 私の呼びかけに寝室からしっぽを振って出て来たのは、わさび(オス・3歳・黒柴犬)。
 私の恋の相手は、わさびでいい。子孫は残せないが私は彼を愛している。それはもう、心の底から。
 頭を撫でて、耳の後ろをちょっと強めに掻いてあげると、首を傾げた。気持ちよさそうだ。
 わさびとなら、ケンカはしないし、浮気される心配もないし、毎日一緒に散歩に行ける。いいじゃないか。最高の相棒だ。これぞ、人生の伴侶だ。浮気だの不倫だの、芸能人や政界の人間が叩かれているのを見て思う。有名人だからこそ格好のネタにされるが、一般人の世界ではゴロゴロ転がっている話なのではないか、と。いつか浮気されやしないか。そもそもひとりの人間をずっと変わらず愛し続けられるのか。相手がわさびなら、どんな不安や悩みも無意味だ。

「そうだよね?」

 答えるはずがないのに、問いかけるとまた首を傾げた。
 私が歩けば、わさびも一緒についてくる。これがたまらなく愛おしい。あと、このちょんちょんっとふたつある丸い眉毛が、私を狂わせる。目が合うだけで撫でまわしたくなってしまう。
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