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第七章 猫神様と恋心

第一話

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 きのうの夜、鈴からひとつ〈恋心〉が抜けて行った。

 公子が逝った。きっと今頃、夫に会っているだろう。ずっと、会いたがっていたし、別れてから積もり積もった話があるだろう。
 人間っていう生き物は、弱い。柔らかい皮膚と、頭皮に生えた髪の毛。爪は鋭くないし、役にも立たない。なのに、一丁前に誰かを守ろうとする。公子も、恭介も。ほんと、バカだ。

「本当に、ありがとうございました」

 恭介は、公子の長女恵美からお礼を言われていた。公子が倒れているのを発見したのは、オレなのに。オレに感謝してくれよ。
 いつも通り、公子が猫にエサをやり神社のゴミを集めていたとき、突然胸を押さえて苦しみ出し、倒れた。こういうとき、猫っていうのはなんにもできない。神様だけど、病気を治すことはできないし、寿命を伸ばすこともできないし、猫の手じゃ救急車だって呼べない。猫の手も借りたいと言った奴は誰だ。なんの役にも立たないぞ。
 だから、恭介に助けを求めた。
 恭介は、邑子が事故に遭ってからずっと、入院している病院の前を毎日うろつくのが日課になっていた。家族でも恋人でもないから、病室には入れない。杏子から邑子の状態について聞いたようだが、恭介は最近ずっとふさぎ込んでいた。フラれたときとは比べものにもならない落ち込み方だった。邑子が恭介と知り合う前の記憶しか持っていないなんて、神様もずいぶんひどいことをするもんだ。

 ……って、オレが神様か。

 公子が倒れたと恭介に知らせると、すぐに救急車を呼び、公子に付き添ってくれた。恭介が大学で学んだ救命救急の知識が役立ったらしい。
 たまたま運ばれた先の病院は、邑子が入院しているところと同じだった。

「あの、こんなことを言うのはあれなんですが……」

 恵美は一枚の写真を恭介に渡した。なんだろう。

「父と母の若い頃なんですが、三窪さんがちょっと父に似ていて」

 恭介は写真を見ながら「ほんとだ、俺だ」と間抜けな声を出していた。
 恵美や彰子や隆司の顔を久しぶりに見た。孫たちも、俺が覚えている頃よりずっと大きくなっている。本当に人の人生は短い。
 恭介は、病院の外にあるベンチに座った。2月の終わり。こんな寒い季節に外のベンチに座る人なんていない。ぽつん、と座っている様子がまた寂しげでかわいそうだった。
 オレも恭介の隣に座って、分厚い雲が広がる空を見上げた。雪でも振りそうだ。

「なに、落ち込んでんだよ。お前が暗いと気持ち悪いだろ」

 でも、恭介はぼんやりしている。

「なにかあったのか?」
「……邑子さん、記憶喪失になっちゃったみたいで」
「だから、どうした」
「記憶喪失っていうのは、記憶がなくなって……」
「言葉の意味は知ってる。バカにすんな」

 恭介は眉間に皺をよせ「じゃあ、なんですか?」と訊ねる。本当に、間抜けな奴だ。

「一時的に記憶を失くしただけだろ? 確かに、色々忘れてるみたいだったけど」
「え? 邑子さんに会ったんですか?」
「まぁな。夢の中で」
「……どういうことですか、それ」

 恭介が冷ややかな目でオレを見る。

「なんだ、その目は」

 邑子をあっちの世界から現実に引き戻したのは、オレなのに。まったく。もう少しであっちの住民になっちまうところだったのに。記憶がちょっとなくなったからって、なんだ。

「じゃ、記憶喪失になったから邑子を諦めるのか? 忘れたんだから、ゼロから再スタートできるだろ。お前がこれまでやって来た数々の失敗をなかったことにできるんだから、ラッキーじゃないか」

 オレの言葉に「はぁ」と大きなため息をつきやがった。ため息つくと幸せ逃げるぞ、というとわざと大きく吸い込んでいた。

「俺……今回ばっかりはもう、無理なのかなって思ってて」

 いつになく弱々しい。大切な人の記憶から消えたことが辛いのだろう。恭介の気持ちはわからないでもない。

「どうして人は願うんでしょうか。叶わないかもしれないのに」

 恭介はいつもより真面目腐った表情で、ぽつんとひとりごとのようにつぶやいた。

「願いは必ず叶うとは言えない。おとぎ話のようにめでたしめでたし、っていう結末も現実ではそう滅多にない。でも、諦めたら最後。願いは絶対に叶わないぞ」
「そんなことは、わかってますけど……」
「諦めないからといって、願いは必ず叶うとも言えない。たとえ、お前が邑子を必死に追いかけ、一生想い続けたとしても、その想いが結局届かないこともある」

 恭介は「俺、励まされてるんでしょうか?」と首を傾げている。

「大抵の人間はな、一度失敗すると怖がって再挑戦を諦めるんだ」

 大抵の人間は、すぐに簡単に諦めてしまう。正直、願いなんて持たない方が楽だ。限界に挑戦する必要もないし、頑張る必要もない。
 でも諦めてしまえば、願いが叶う可能性はゼロだ。限りなくゼロに近い、ではない。全くその可能性がなくなってしまう。
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