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第五章 池谷邑子は恋をしない

第七話

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「もしもし?」

 杏子の声だ。

「あの……うまく言えないんだけど」
「……なにが?」

 しばらく、考える。言葉がうまく出て来ない。喉で引っかかる。

「私、考えたの。三窪くんみたいな人が、この先の人生であと何人現れるだろうかって」
「……それで?」
「たぶん、いないと思う。そんな人」
「だから? 恭介がいい人だから、付き合うって言いたいの?」
「違う。そうじゃなくって……」

 うまく、言えない。三窪は確かにいい人だ。だけど、それが理由じゃない。いつだって私を見てくれていた。私を気にかけてくれて、何度も想いを伝えてくれた。一緒にいると、楽しかった。だから余計に、怖くなった。なにかが、始まってしまうことが。素直に自分の気持ちと向き合うことが。

「恭介は、お姉ちゃんにはもったいない。恭介はいつだって本気だけど、お姉ちゃんは恋になんて興味がないでしょ。受け止める気もなかったじゃん」

 そうだ。杏子の言う通りだ。最初は揶揄われているのかとも思ったし、本気じゃないとも思っていた。でも、今は違う。ようやく、私も気づいた。自分自身の気持ちにも、ようやく向き合えるような気がする。今更もう遅いのかもしれないけれど。

「お姉ちゃんはいっつも逃げてる。恭介がどんな人か、本当にわかってるの?」

 三窪がどんな人なのか、私はまだまだ全然知らない。だから、これから知っていきたい。もっとちゃんと、自分の言葉で話がしたい。恋人にならなくたっていい。話がしたい。
 
 ――もし、いつか恋したい相手が現れたら、猫神様に相手がどんなに大切な人なのか、話さなきゃいけないんだって。そうしたら猫神様が〈恋心〉を返してくれる。

 そうだ。思い出した。あのとき後輩が言っていた言葉が、ポンと頭の中に出て来た。

「恭介がどんな人か知ろうとしなかったお姉ちゃんに、恭介を好きになる資格なんてないよ」
「……うん。そうかもしれない。でも、もう遅いかもしれないけど、やり直したいの。初めから、やり直したい」

 杏子の言葉が止んだ。長い沈黙で、耳が痛い。
 杏子とこんなふうに話すのは初めてだった。いつも誰にでも自分について話さない。話したって、どうしようもない。誰も私を知りたいとなんて思わない、そう思っていた。だから私は話さないし、他人にも興味がなかった。知る必要なんてないと思っていた。

「三谷くんってさ」
「……三谷?」
「うん。三谷くん、いい人だよね」
「なに、突然」
「この前ばったり会ったんだ。それで、人の気持ちは差し出されたら必ず受け取らなきゃいけない決まりはないけど、もっと心を開いた方がいいって言われたんだよね」

 杏子はなにも答えなかった。だからそのまま続けた。

「恋って、難しいね」
「お姉ちゃんに、恋なんてわからないでしょ」

 そうだね、と私はひとり虚しく笑った。

「三谷くん、三窪くんみたいに諦めないんだって」
「諦めない? なんのこと?」
「諦めたくない人がいるって、言ってた」

 人の気持ちは、難しい。受け取ってあげたくても、受け取れないときがある。受けっ取っ手もらいたくても、受け取ってもらえないときがある。誰かを想うって、難しいけれど、すごく素敵だ。バカみたいに傷ついても、バカみたいに辛い目に遭っても。人はやっぱり、何度だって恋をするんだ。

「私、行くところがあるから」
「え? 今から?」
「うん、また後で電話する」

 電話を切って、部屋を出た。パジャマみたいな格好で、上着だけ暖かいものを羽織った。
 行く場所は、決まっている。――野良神社だ。

 外に出ると、ふっと吐いた息が白い。きょうも寒い。いつ、春はやって来るのだろう。空には厚い雲が覆っていて、星はひとつも見えない。
 最初は歩いていたけれど、野良神社に近づくにつれ、だんだん歩くスピードが速くなる。吐く息を見つめていると、恋に破れた日を思い出した。
 猫神様が本当にいるとは思っていないけれど、確かあの日、白い猫に会った。あの猫が、猫神様だったりして。そんなはず、ないか。
 私はあの日〈恋心〉を捨てた。恋が苦しくて、辛くて。失恋の痛みに耐えられなかった。
 だけど、今なら耐えられる。きっと、大丈夫。もう一度恋ができたなら、私は強くなれる気がした。

 走って走って、白い息で視界がぼやけた。
 ふと、眩しい明かりが目の前に現れる。
 バイクだ、と思うと同時にバイクが私に突っ込んできた。
 びっくりするくらい遠くに、身体が飛んでいった。ゆっくりゆっくり景色が見える。空でも飛んでいるみたいだ。
 
「だ、大丈夫かっ?!」

 地面に横たわったまま、神社を見る。もうあと少しで、野良神社だったのに。
 痛い、と思う暇もなかった。ただ、空から白いものが振ってきて私の瞼に落ちて来た。視界がどんどん狭くなる。

 あれは、雪だ。

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